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*袁紹 :姓|袁 :名|紹 :字|本初 :誕生年|? :死亡年|202年 :出身地|予州汝南郡汝陽県 **年表 |年|所在|立場|出典|備考| |?|洛陽|郎となる|魏書・袁紹伝|魏書・袁紹伝の[[沮授]]の進言によればこのとき20歳か?| |?|エン州東郡濮陽県|濮陽県長となる|魏書・袁紹伝|| |?||母の喪に6年間服す。|魏書・袁紹伝|| |?|洛陽|招聘に応ぜず、[[張邈]]、[[許攸]]、[[何(禺頁)]]、[[曹操]]ら少数の友人のみと交友を結ぶ。|魏書・袁紹伝|| |?|洛陽|何進の掾となる。|魏書・袁紹伝|| |?|洛陽|侍御史となる。|魏書・袁紹伝|| |188|洛陽|中軍校尉となる。|魏書・袁紹伝|いわゆる西園八校尉。後漢書には188年のこととある。| |189|洛陽|仮節・司隷校尉となり宦官討伐を行う。が、何進は殺される。|魏書・袁紹伝|後漢書には司隷校尉就任は189年のこととある。| |189|冀州勃海郡|[[董卓]]を避けて冀州に逃亡する。勃海太守・[亢β]郷侯となる|魏書・袁紹伝|| |190|冀州勃海郡|1月、挙兵。諸侯との連合が成立し、車騎将軍となる。親族が董卓に皆殺しにされる。|魏書・武帝紀|| |190|司隷河内郡孟津県|[[王匡]]、曹操らと河内に駐屯。|魏書・武帝紀|| |?||[[韓馥]]と共に[[劉虞]]に使者を送り皇帝即位を求めるが断られる。|魏書・袁紹伝|このあたり時期の前後関係が不明確| |?|エン州陳留郡延津県|延津に駐屯。|魏書・袁紹伝|| |?|司隷河南尹梁県陽城|予州刺史に任命した[[周昂]]に[[袁術]]、[[孫堅]]の陣を攻撃させ、公孫越を戦死させる。|魏書・公孫(王賛)伝|袁術寄りの記述と袁紹寄りの記述が散在していてわかりにくい、、| |?|冀州|安平を[[公孫(王賛)]]に追われた韓馥から冀州牧の地位を得る。|魏書・袁紹伝|| |?|冀州清河郡広川県|界橋で公孫(王賛)を撃破。|魏書・袁紹伝|魏書・公孫(王賛)によれば袁紹軍は広川に陣を敷いた。| |?|冀州|龍湊で公孫(王賛)を再び撃破。|後漢書・袁紹伝|| |193|冀州|皇帝([[劉協]])の使者[[趙岐]]に従って公孫(王賛)と和睦。|魏書・袁紹伝|この事跡、三国志では黒山討伐の後の記述だが、後漢書では前の記述となっている。| |193|冀州魏郡[業β]県|3月、魏郡が黒山の[[于毒]]と結んで反乱、太守の[[栗成]]が死亡。斥丘を守る。|魏書・袁紹伝|後漢書には193年3月とある。| |193|司隷河内郡朝歌県鹿場山蒼厳谷|6月、于毒、冀州牧の[[壺寿]]を斬る。|魏書・袁紹伝|同じく年月は後漢書から。| ||冀州常山国|黒山の張燕を呂布と共に破る。|魏書・袁紹伝、呂布伝|| |?|幽州漁陽郡[シ路]県|[[麹義]]、[[劉和]]、[[鮮于輔]]らに公孫[王賛]の漁陽太守[[鄒丹]]を討たせ、公孫[王賛]を易京に追い詰める。|魏書・公孫(王賛)伝|麹義を袁紹が殺害するのは後漢書では195年の右将軍任命の直前の記述。| |195||右将軍となる。|後漢書・袁紹伝|| |196||9月、太尉・[業β]侯となるが太尉は辞退。|魏書・袁紹伝|曹操の下となることを恥じたためと武帝紀にある。| |196||10月、大将軍となる。|魏書・袁紹伝|後漢書には197年にやっと任命を受け入れたとある。| |199||公孫(王賛)を討って河北を平定。|後漢書・袁紹伝|| **備考 ----
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