袁紹 - (2007/03/19 (月) 01:14:16) の編集履歴(バックアップ)
袁紹
- 姓
- 袁
- 名
- 紹
- 字
- 本初
- 誕生年
- ?
- 死亡年
- 202年
- 出身地
- 予州汝南郡汝陽県
年表
年 | 所在 | 立場 | 出典 | 備考 |
? | 洛陽 | 郎となる | 魏書・袁紹伝 | 魏書・袁紹伝の沮授?の進言によればこのとき20歳か? |
? | エン州東郡濮陽県 | 濮陽県長となる | 魏書・袁紹伝 | |
? | 母の喪に6年間服す。 | 魏書・袁紹伝 | ||
? | 洛陽 | 招聘に応ぜず、張邈?、許攸?、何(禺頁)?、曹操ら少数の友人のみと交友を結ぶ。 | 魏書・袁紹伝 | |
? | 洛陽 | 何進の掾となる。 | 魏書・袁紹伝 | |
? | 洛陽 | 侍御史となる。 | 魏書・袁紹伝 | |
188 | 洛陽 | 中軍校尉となる。 | 魏書・袁紹伝 | いわゆる西園八校尉。後漢書には188年のこととある。 |
189 | 洛陽 | 仮節・司隷校尉となり宦官討伐を行う。が、何進は殺される。 | 魏書・袁紹伝 | 後漢書には司隷校尉就任は189年のこととある。 |
189 | 冀州勃海郡 | 董卓?を避けて冀州に逃亡する。勃海太守・[亢β]郷侯となる | 魏書・袁紹伝 | |
190 | 冀州勃海郡 | 1月、挙兵。諸侯との連合が成立し、車騎将軍となる。親族が董卓に皆殺しにされる。 | 魏書・武帝紀 | |
190 | 司隷河内郡孟津県 | 王匡、曹操らと河内に駐屯。 | 魏書・武帝紀 | |
? | 韓馥?と共に劉虞?に使者を送り皇帝即位を求めるが断られる。 | 魏書・袁紹伝 | このあたり時期の前後関係が不明確 | |
? | エン州陳留郡延津県 | 延津に駐屯。 | 魏書・袁紹伝 | |
? | 司隷河南尹梁県陽城 | 予州刺史に任命した周昂?に袁術?、孫堅の陣を攻撃させ、公孫越を戦死させる。 | 魏書・公孫(王賛)伝 | 袁術寄りの記述と袁紹寄りの記述が散在していてわかりにくい、、 |
? | 冀州 | 安平を公孫(王賛)?に追われた韓馥から冀州牧の地位を得る。 | 魏書・袁紹伝 | |
? | 冀州清河郡広川県 | 界橋で公孫(王賛)を撃破。 | 魏書・袁紹伝 | 魏書・公孫(王賛)によれば袁紹軍は広川に陣を敷いた。 |
? | 冀州 | 龍湊で公孫(王賛)を再び撃破。 | 後漢書・袁紹伝 | |
193 | 冀州 | 皇帝(劉協?)の使者趙岐?に従って公孫(王賛)と和睦。 | 魏書・袁紹伝 | この事跡、三国志では黒山討伐の後の記述だが、後漢書では前の記述となっている。 |
193 | 冀州魏郡[業β]県 | 3月、魏郡が黒山の于毒?と結んで反乱、太守の栗成?が死亡。斥丘を守る。 | 魏書・袁紹伝 | 後漢書には193年3月とある。 |
193 | 司隷河内郡朝歌県鹿場山蒼厳谷 | 6月、于毒、冀州牧の壺寿?を斬る。 | 魏書・袁紹伝 | 同じく年月は後漢書から。 |
冀州常山国 | 黒山の張燕?を呂布と共に破る。 | 魏書・袁紹伝、呂布伝 | ||
195 | 右将軍となる。 | 後漢書・袁紹伝 | ||
195? | 袁譚を青州刺史、袁煕を幽州刺史、高幹を并州刺史に任命。 | 後漢書・袁紹伝 | 魏書・袁紹伝では易京を落した後に息子達を外に出したように書かれているが実際は袁譚はもっと早くに曹操から青州刺史に任命されている。 | |
195 | 幽州漁陽郡[シ路]県 | 麹義?、劉和?、鮮于輔?らに公孫[王賛]の漁陽太守鄒丹?を討たせ、公孫[王賛]を易京に追い詰める。 | 魏書・公孫(王賛)伝 | 後漢書・公孫[王賛]伝によれば烏丸の峭王(蘇僕延?)と共に195年公孫[王賛]を破ったとある。 |
196 | 9月、太尉・[業β]侯となるが太尉は辞退。 | 魏書・袁紹伝 | 曹操の下となることを恥じたためと武帝紀にある。 | |
196 | 10月、大将軍となる。 | 魏書・袁紹伝 | 後漢書には197年にやっと任命を受け入れたとある。 | |
196 | 麹義軍は兵糧が尽きて撤退。 | 後漢書・公孫[王賛]伝 | ||
199 | 張燕の援軍を撃退し、易京を落して河北を平定。 | 後漢書・袁紹伝 |