熱い
痛い
苦しい
饑い
憎い
穢らわしい
嫌だ
否だ
厭だ
燃えている。
世界が燃えている。
たとえ現実には夜明けを前にして静まりかえっている街角の風景の中にいるとしても
オデットの目に映る世界は劫火の地獄だった。
世界は何時までも劫火に包まれている。
あの時、あの灼熱地獄の中からずっと。
『ありがとよ、オデットさんよぉぉぉ! 俺の踏み台になってくれてさぁぁあああ! そこの人殺しから守ってくれてさぁぁぁあああ!』
何故?
私は彼を守ろうとしたのに
何故彼は私を
「そりゃあ、それが当然の事だからだ」
声が聞こえる。
そしてオデットは死ぬ。劫火の街の中で、何度も、何度も
餓死焼死爆死病死戦死自死事故死溺死轢死圧死撲死中毒死窒息死出血死感電死転落死横死惨死斬死慙死頓死憤死狂死殉死脳死衰弱死即死枯死餓死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
独りで看取られて惜しまれて望まれて望んで選ばれて選ばれなくて侵されて食らわれて静かに騒がしく諦めて抗って次を望み天を望み何も望まず
どんな死でも苦しくない死など無いどんな死でも自分が消える意味のある死など無い
嫌だ
否だ
厭だ
違う
これは私じゃない
死ぬのは死んだのは私じゃない違う違うちがうちがう
「死ぬなんてのは一回きりのお楽しみだと思ってたが、こんな大盤振る舞いで楽しめるなんて
中々いかしたアトラクションじゃねえか。え?」
また声が聞こえる。
声の主はあいつだ。
燃える世界の中、長身痩躯のダークスーツの男が笑っている。
「しかし折角の見せ物を楽しむにはよ、肴が足りねえな」
そう言いつつ、ダークスーツの男は何かを摘み上げる。
それは人間の眼球だった。奇妙な色に虹彩が輝くそれを男は口に放り込むとぐちゃぐちゃと咀嚼する。
「こんなもんじゃまだまだ食い足りねえよ。なぁ?」
あの眼の色、私に話しかけてきた黒ずくめのオッドアイの白い顔の男
の瞳を私がわたしが口に
わたしが?
ぐちゃぐちゃ、ごくり。と嚥下すると、業火の渇きが癒される。
癒される、癒されたのは私。
食べたのも私
じゃあ
私が
今
食べた物は
「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙!!!!!!!!!!!!!!」
思い出した思い出したおもいだあしたあ
熱くて死んで飢えて死んで渇いて死んで苦しくて死にたくなくて
苦しくて食らいたくて飢えて食らいたくて渇いて苦しみをなんとかしたくて食らいたくて
食いたくて死にたくなくて食らいたくて楽しみたくて楽しみたくて楽しいから
楽しい楽しい楽しい楽しい美味しい美味しい美味しい美味しい楽しい美味しいから
あの人をあの男の人をあの人間を人間を嬲って捥いで潰して削って奪って
食らって
「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙」
喉に指を突っ込む。吐く。吐き出す食べたものを全部
食べた物全部
だってそれは
「勿体ないことするんじゃねえよ。
それともアレか、次の飯を賞味する為に腹を空けとこうって寸法か?」
劫火の中、相変らずダークスーツの男は厭らしい笑みを浮かべている。
「あ゙なた」
そうだこいつ
思い出した
こいつが
「あなたが わたしを おかしく したのね
あなたが あんなひどい ひどいこと させたのね わたしを あやつって」
そう言うと、黒い毒のような男は面白そうに笑った。
「おいおい、勘違いするな」
男は楽しげな足取りで近づくと、地に崩れ落ちた私を覗き込んだ。
「やったのは俺だ。やったのはお前だ。それは同じことだ。
何故なら俺はお前なんだからな」
「なに を いう の」
「俺はお前自身だ。何故なら――」
いつの間にか、男の顔は私の目の前にあった。
「俺がお前の本当の姿だからだ」
ふらふらと、さっきまでいた倉庫に戻る。
「おい、新しい獲物がいるぜ」
私の傍らにいるダークスーツの男が言うとおり、そこには見知らぬ人間が一人増えていた。
自然と
私は
笑顔になった
新しい食べ物
新しい玩具
新しい人間
「EgdeDnIw」
「ウィンセント!危ない!」
叫ぶと同時に、バラッドは持っていたせ○とくんのぬいぐるみを全力で鵜院に投げつける。
「うわっ!」
剛速球で投げられたせ○とくんをもろに食らった鵜院は、その場から弾かれて倉庫の床に倒れる。
「EgdeDnIw」
それは火傷の角女の口から奇怪な呪文が漏れる直前の出来事だった。
次の瞬間、バラッドの超人的な動体視力は信じ難い光景を捉えていた。
鵜院の体を弾いた直後の、中空に留まったままのせ○とくんぬいぐるみに
頭からつま先まで、平行して何本もの切れ込みが入る。
まるでハムの塊がスライスされるように空中で輪切りになったぬいぐるみは、バラバラの残骸となって地面に落ちた。
その、ぬいぐるみの背後
一瞬前まで鵜院が立っていたその場所の後ろに磔になっている茜ヶ久保の体にも
頭部から水平に、幾筋もの血の線が走っていた。
「だ
ず
げ
で」
そして、地獄の悪魔が考えた積木崩しのように
輪切りにされた
茜ヶ久保一の体はボトボトと嫌な音を立てて床に散らばった。
鉄棒で突き刺されたままの肩と腿の一部だけを壁に残して。
全ては一秒にも満たない間の惨劇だった。
「なんとか間に合いましたねぇ」
ようやく彼女に追いついてきたピーターの呑気な声が背後から聞こえた。
状況はその通り、間一髪だった。床にへたりこんだままの鵜院の様子を見て、バラッドはとりあえず安堵する。
目の前で起きた出来事に固まっているが、彼自身の体に怪我はないようだ。
彼を追いかけた理由は、自分でも上手く説明できない、言ってみれば殺し屋の勘が働いた所為だった。
本来であれば全ては鵜院自身が決めたこと、彼が死のうがそれは彼自身の責任だし、彼女に彼を助ける義理など無い。
しかし彼女は鵜院の後を追っていた。
自分にこんなお節介な一面があるとは、彼女自身意外だった。
もっとも、本当ならこんな修羅場に突撃する前に鵜院を見つけて止める心算だったのだが……
修羅場――そんな言葉すら生易しい地獄絵図を作り出した女は、新たな闖入者には一瞥くれただけで
一跳躍で今しがた自分が作った地獄の上に移動する。
そして茜ヶ久保だった部品が散らばる上に四つ這いになると、床の血溜まりに顔を埋めた。
ぐちゃぐちゃぐちゃ
胸が悪くなるような音が、女の口元から響く。
(死体を食ってる――)
うどん玉のように零れ落ちた脳を、湯気と臭気の立ち上っているまだ温かい臓物を、
餌にありついた豺狼の如く、女は夢中で咀嚼し、飲み下していた。
血の海の中、山羊の様な角を持つ全身焼け爛れた女が
細切れになった人間の死骸を只管貪り喰っている。
それは殺し屋であるバラッドですら目を背けたくなるような、酸鼻を極めた凄餐だった。
「うええええええええ」
身内の無残な最期に耐え切れなかったのだろう、鵜院が嘔吐するのが目の端に映る。
あのピーターですら、この光景には珍しく顔を顰めていた。
「なんて下品な食べ方を……」
――どうもその理由はズレているようだが。
「ウィンセント」
バラッドは努めて静かな声で、えづいている鵜院に声をかけた。
鵜院が涙に濡れた顔を上げる。
「ユージーはまだ便所にいる。連れて逃げろ」
そう言いつつ、バラッドは死体を喰らい続ける女から瞳を離さない。
敵は『この女一人』だ。この女の近くには『誰もいない』、この倉庫の周りにも。
まだショックから回復していないのか、鵜院が逡巡しているその時、女が腸の一部を咥えたままこちらを振り向いた。
「早くしろッ!」
バラッドの怒号と、弾かれた様に駆け出す鵜院と、食事を止めた女と
全てはほぼ同時だった。
「哈ッ!」
バラッドは既に用意していた苦無――日本のニンジャの武器だ。ピーターに支給されていたのを彼女がブン取った――を
女に向けて投擲する。
彼女の手を離れた苦無は目に留まらぬ速さで、過つことなく女の急所へと向かっていった。
「DlEihs」
しかし苦無は突然女の前に出現した光の盾によって弾かれた。
女は逃げるウィンセントよりバラッドのほうに気が向いたのか、こちらを見て血塗れの顔で笑っている。
(茜ヶ久保を殺したあの攻撃……そして今の防御。
こいつ、超能力者か? それともこういう能力を持った改造人間ってヤツなのか?)
高速で思考を巡らせながらも、バラッドは次の攻撃に動いていた。
「ピーター!」
「はいはい」
既に両手の戒めを解かれていたピーターがMK16を構え、女に向かって連射する。
「吻!」
それに併せてバラッドは円を描くようにして女との距離を縮めると、別方向からもう一本の苦無を投擲した。
二方向からの同時攻撃。
先程の苦無を打ち落とした一方向だけに対応するバリアではこの連携攻撃は防げない。
「ElCriC」
しかし、今度は女を包むように現れたドーム型の光によって
銃弾も苦無も床に弾き落とされるだけの結果に終わった。
(厄介だな……。
それにしてもコイツが攻撃前に唱える言葉、WOと同じようにそれが能力のトリガーになっているのか?
ふん、まるで呪文を唱えて魔法を使う御伽噺の魔法使いだな――)
思考の中で軽口を叩きながらも
現実では、滅多な事では動じないバラッドの頬を一筋の冷や汗が伝っていた。
殺し屋の勘が、最大級で危険信号を告げている。
(だからこそ……コイツは此処で一気に始末する!)
苦無を失ったバラッドが朧切を取り出すと同時に
女の指先がゆらりとバラッドを指した。
「EgdeDnIw」
それは茜ヶ久保を殺害したのと同じ呪文。
大気を操ることによって発生した真空の刃が、バラッドを切り刻まんと殺到する。
それは人の目には見えざる不可避必中の惨殺魔法。
しかし
(視える――――!)
先のピーターによる銃撃とバラッドの立ち回りによって
ただでさえ埃舞う倉庫の中には巻き上げられた土煙が充満している。
その土埃が、大気の僅かな変化をバラッドに可視化させて教えてくれた。
(矢張りカマイタチか。
見えてさえいれば――――!)
見えてさえいれば、対処できる。
「疾!」
朧切を振り下ろす風圧によって、真空刃を打ち消す。
彼女の体を輪切りにしようと迫っていた見えない刃は、虚しく埃の中に溶けて消えた。
己の攻撃を防がれて尚、女は血塗れの歯を剥き出して笑っていた。
しかしその目、先程まではどこか胡乱だった女の目は、今はバラッドを見据えている。
興味を持ったか。
殺したいのか。
私を。
鎌鼬を破った朧切を正眼に構え、バラッドは女と対峙する。
じりじり、と向かい合った、それは数瞬だったが、バラッドには永劫の時のように感じられた。
――そして、機は訪れた。
女が動こうとした。
手を伸ばし、何ごとかを唱えようとする。
その瞬間に、バラッドは女に切っ先を向けて朧切を投げつけた。
「DlEihs」
端から見ればバラッドの行動は自分の唯一の武器を投げ捨てる愚行にしか見えないであろう。
朧切は当たり前のように光の盾に弾かれて宙を舞う。
それがバラッドの狙いだった。
女の注意を、目の前の朧切に集中させること。
その間に、女の背後にはその命を刈取る本命の刃が迫っていた。
それは、最初に弾かれて床に落ちていた二本の苦無だった。
仕掛けは単純である。
苦無には最初から、細く頑丈なテグスが結ばれ、その糸はバラッドの両手と繋がっていた。
使用したテグスは先程イヴァンを探している最中に商店街で手に入れたものだ。
彼女は朧切を手から離した次の一瞬に、両手の糸を繰って苦無を引き寄せる。
そして朧切に集中した女にとって完全に死角になる背後から攻撃する。
バラッドの卓越した熟練の操作がこの魔技を可能にしていた。
最初からこれが狙いだった。
女の作るバリアはいつまでも持続して存在するものではない。
また、バリアを張れば女自身もこちらに対して攻撃が出来なくなる。
故にバリアが張られるのは朧切を弾く一瞬、そのバリアが消えた瞬間を見計らって
攻撃の呪文を唱えられる前に死角から急襲した苦無が女の体を切り裂く。
狙うは首輪の上、首の頚動脈だ。
極細の糸を結んだ刃物を操り、遠距離にいる相手を斃す。
これはバラッドが最も得意とする殺人術の一つだった。
即席作りの凶器だが、バラッドの操作に問題はない。
(お前の喉笛を掻っ切ってやる!)
光の盾が消えた瞬間、死角から二本の刃が女に襲い掛かる。
貰った――――!
女目掛けて殺到する苦無に
バラッドは勝利を確信する。
女の喉が切り裂かれる。
そうなるはずだった。
それは奇妙なダンスのようにも見えた。
体を傾げた女がくるりと舞う。
その間に、二本の苦無は一瞬前まで女の喉が存在していた空間を
虚しく通り抜けた。
「なっ……!?」
バラッドには眼前で起きたことが信じられなかった。
苦無は完全に死角から襲い掛かっていた。その存在を、少なくとも目視するのは不可能だったはずだ。
片方だけを避けたのなら偶然ということも有り得る。
だがこの女は苦無を二本とも避けてみせた。
まるで何処から攻撃が来るのか、最初からわかっていたみたいに――
唖然としながらもバラッドが飛んできた苦無をキャッチし
更に宙を舞う朧切(これにもテグスが結んであった)を回収できたのも
彼女の身体に染み付いた無意識が為せる技だったであろう。
しかし奇妙なダンスを終えた女が再びこちらを向いた時
バラッドの動きは一瞬だけ停止した。
楽しげに笑う異形の女。
その女に重なるように
いや、その女の存在と交ざるように
長身痩躯の男の幻影が彼女には見えた。
バラッドは思わずその男の名を呟く。
その一瞬の空白が、致命的な隙となった。
遠くで爆発音がした直後、何かが倒れるような大きな音が聞こえた。
次いで、人の叫ぶような怒鳴るような声。
「ひっ!」
暗い部屋の中、裏松双葉は自分の耳……正確には入れ替わった
天高星の耳だが……を塞いで、部屋の隅に蹲った。
どれだけの時間そうしていたか。
次に恐る恐る耳から手を離した時、既に彼女が隠れる店の内は再び静寂に包まれていた。
(天高先輩……もしかして天高先輩が襲われたの?)
自分の身が安全だと安心した後、ようやく彼女は
今は彼女自身の体を操っている同行者の安否に思い至った。
(まさか、殺されたんじゃ……!?)
最悪の想像が頭を過ぎる。
血溜まりの中に突っ伏した死体、その顔は……
その死体は、彼女の身体。
「嫌――――!!」
頭を抱えて、彼女は再び床に蹲る。
天高のことも心配だが、それ以上に自分の身体が死んでいるかもしれないという想像
もう永遠に、永久に、元の自分自身の肉体に戻ることが出来ないという想像は彼女に嘗て無いほどの恐怖を齎した。
今まで何度も、いや何時でも心のどこかで常に、こんな厄介な体質の身体なんて無くなってしまえばいいのにと思っていた。
しかし本当に自分の身体が無くなったかもしれない状況に置かれた今
彼女はまるで一条の光もない暗黒の宇宙に身一つで放り出されたような絶望と恐怖を感じていた。
(こんな事になるなら、元の身体に戻っておけばよかった!
恥ずかしがらずに、彼に女の身体に戻る方法を教えればよかった!)
絶望と共に途方もない後悔が彼女の中を駆け巡る。
オブラートに包まず言ってしまえば
彼女の身体が男から女に戻る方法は一度射精することである。
そうすれば肉体は一気に男性から女性へと戻る。
単純な方法だが、初心で内気な双葉は、どうしてもその方法を出会ったばかりの男性に打ち明けることが出来なかった。
だけどこんな事になるなら、ちゃんと伝えておけばよかった。
……いや、まだ手遅れだと決まったわけじゃない。
「……行かなくちゃ」
勇気を振り絞って立ち上がると、そっとドアを開けて隙間から周囲を窺う。
安全を確認すると、双葉はトイレに向かって走る。
同行者と彼女の身体の安否を確かめるために。
天高に会うことが出来たら、今度こそ女に戻る方法を彼に話そう。
(だからお願い……!どうか無事でいて……!お願い……!)
心の中で祈りながら、彼女はトイレのある一階へと階段を駆け下りた。
最終更新:2014年04月25日 16:08