白銀帯びる拳が軌跡を描き、一陣の疾風となる。
 矢の如く振り絞られたそれは赤紫の装甲を穿たんと迫り、片腕で捌かれ失敗。
 続く頬を狙った一撃も上体だけのスウェーで躱される。
 驚愕を覚えるまでもない、この程度の実力差は想定内だ。

「退屈なダンスだなァ、葉月りんか」

 もう一度、もう一度と。
 呼吸の暇もなく連撃を放つシャイニング・ホープ。
 幾度も降り注ぐ銀色の雨を、踊るようにやり過ごすブラッドストーク。

「所詮はごっこ遊びかい? お嬢ちゃん」

 希望を冠する戦士の額に汗が滴る。
 洗練された拳打はそのどれもが必殺。只人であれば触れた時点で勝負が決するであろう。
 しかしそれらは掠りこそすれど、一発たりとも当たらない。

 鼻歌交じりに猛攻を凌ぐ怪人、決死の形相で歯噛みする正義のヒーロー。
 素人目──格闘技に疎い紗奈の目から見ても、どちらに天秤が傾いているのかは明らかだった。

「今度はこっちからいこうか」

 りんかの戦闘技能は優れている。
 しかし今振るわれた紅蓮の一閃は、それが拙く見えるほど研ぎ澄まされたものだった。
 一切の無駄な所作を省き、手首のスナップを利かせた殺人拳。
 ただ痛みを与えることだけに特化されたそれは吸い込まれるように水月に突き刺さり、血混じりの唾液を吐かせた。

「か゛────っ!」
「余所見すんなよ」

 蹲るりんかの顔面に膝蹴りが叩き込まれる。
 大きく仰け反ると共に噴き出した鼻血が弧を描く。
 白濁する意識をなんとか持ちこたえ、反撃の鈎突き。結果は言うまでもなく空振りに終わり、喉元へと掌底が叩き込まれた。

 二歩、三歩。
 よろめく身体がから足を踏む。
 そのまま倒れ込もうと支えを失う片足を、もう片方の足で踏みとどまった。

「ま、だ……っ! まだぁッ!」
「おおっと?」

 希望は潰えない。
 儚い灯火であろうと、未だ消えない。
 今にも倒れそうになる身体を意地で叩き起こして、命を削る連撃で邪悪を討たんとする。
 飄々とした声に驚きが混じったような気がしたが、依然戦況に変化はない。

 呑まれかける光。
 仄暗い宵闇にて明滅するランタン。
 蹂躙にも等しい光と闇の摩擦を、少し離れた場所で見届ける者がいた。

「りん、か」

 交尾紗奈は、消え入りそうな声で名を呼ぶ。
 声が震える理由は紗奈自身にも分からない。
 けれどそれは、些末な問題だった。
 現在進行形で紗奈の頭を埋め尽くす、圧倒的なまでの当惑と比べれば。

「…………なんで、そこまで……」

 りんかと紗奈の交流は決して深くはない。
 刑務作業以前からの知り合いというわけでもなく、つい一時間ほど前に初めて名を知った程度の関係。
 当然、自分の命を懸けられるような間柄でもなく。囚人という偏見を抜いても危機に瀕すれば見捨てるのが当たり前だ。

「私たち、友達でもなんでもないのに……」

 紗奈もそれを理解していた。
 どんなに表面上で善人を取り繕ったところで、根本にあるのはいつも自分。
 他人のために心から動ける人間など存在しないと、十年の月日を経て紗奈は思い知った。
 だからこそ正義の戦士に憧れる年齢でありながら一切の希望を捨てて、薄汚い現実と向き合う覚悟をした。
 テレビの中のヒーローは所詮フィクションなのだと、家族に売られたあの日に痛感したから。

 なのに、
 目の前の少女は。
 葉月りんかは、まるでテレビから飛び出したヒーローのようで。
 極寒の嵐に見舞われる紗奈の心に、僅かな陽を灯してくれるような気がした。

「さっきまでの威勢はどうしたァ?」
「ぐっ……! ……まだ、ですッ!」

 紗奈は特撮番組なんてまともに見たことない。
 けれど、正義のヒーローが悪の怪人を討ち倒すという〝お約束〟くらいは分かる。
 例えどんな窮地に至っても、例えどんな困難な壁が待ち受けていても。
 最後には、ヒーローが勝つのだ。

「お前みたいな正義に酔ったガキ、幾らでも見てきたぜ」
「ッ…………それ、っでも……!」

 古臭くてもいい。
 ありきたりでもいい。

 気が付けば、両手を強く握り込んでいた。
 感動を押し売りするチャリティー番組でも、無責任に愛を謳うドラマでも味わえなかった感覚。

「────私は、負けないッ!」

 胸奥を迸る熱いなにかの名称を、紗奈は知らない。
 けれど、いつもこの胸を占めていた刺々しい不快感とは程遠くて。
 初めての感覚に戸惑い、焦燥し、戦慄に身を震わせる。

 受け入れ難い感情の起伏から逃れるのは簡単だ。
 いつものように目を閉じて塞ぎ込んでしまえばいい。
 余計な雑音を一切合切除いて、ぬるま湯のような孤独の世界に浸り切ってしまえばいい。

「……りんか…………!」

 なのに、紗奈は。
 一瞬たりとも、〝ヒーロー〟から目を離せなかった。

◾︎

 ──なぜ倒れない?

 流都の思考に渦巻くノイズ。
 既にりんかの身体は限界のはずだ、と。〝暴力〟の悉くを理解している流都はとっくにその判断を下している。
 今までその見解を間違えたことはない。
 なのに、そんな流都を嘲笑うかのようにりんかは立ち続けていた。

「は、ぁ……はぁッ!」

 息切れ混じりに繰り出される左突き。
 十分に見切れる速度ではあるが、戦闘開始の時点から一切勢いが衰えていない。
 半歩退がり回避、軸足をそのままに回転を活かして鋭い裏拳。
 頬に突き刺さったそれはりんかの脳を揺さぶり、口内を切ったせいで鉄の味が広がった。

 よろける小柄な身体。
 月光を翠で返す草原へ身を投げ出しかけて、持ち堪える。
 幾度目になるか、数えるのも億劫なほど目にした光景にため息を吐いた。

「頑張るねぇ、健気な姿見せれば俺が同情するって思ってんのかい?」
「あなた、なんかの……同情なんて、いりませんッ!」
「ハッ、そんなふらふらで言われても説得力ねぇよ」

 いい加減腕が疲れてきた。
 生ぬるい攻撃をしたつもりはないが、遊びを含んでいたのは否めない。殺意を乗せなければこの娘は倒れないだろう。
 狙うは左の眼球。目にも止まらぬ速度で大地を踏み抜き、突き立てた鋼指による絶技は寸分の狂いなくりんかの左眼を狙い────外れた。


「可哀想なのは、あなたの方だからッ!」


 屈み込むりんかの声が下から響く。
 瞬間、天へと撃ち出された拳が流都の顎を射抜いた。
 金属のように硬質化した皮膚を無視し、急速に揺さぶられる脳は視界をもぐらつかせる。


 流都が一瞬、ほんの一瞬動きを忘れた原因は痛みでも衝撃でもない。
 初めて反撃を受けた事による動揺と、それを可能としたりんかへの驚嘆。
 力を見誤る、どころの話ではない。
 葉月りんかはこの戦闘を経て一切衰えぬだけでなく、己の思考を読み取り先手を打って見せた。

(…………ああ、そうか。勘違いしてたぜ)

 咆哮と共に唸りを上げる拳撃を後退でやり過ごし、流都は二度頭を振るう。
 認識を改めなければならない。
 先刻までの自身は間抜けだったと、流都は己の失態を認めた。

 この女は倒れない。
 どんなに肉体を甚振ったところで、葉月りんかは膝を付かないと断言出来る。

 だからこれは、違う。
 身体能力や戦闘技術が優れていたところで意味はない。
 殺すべきは肉体ではなく心。
 戦意ごとその心を折ってしまえばいい。

「なぁ、葉月りんか。人はなぜ争うのかわかるか?」

 ────そしてそれは、流都の独壇場だった。

「……そんなの、わかりません」
「ああ、そうだろうなァ。特にお前みたいな、悪意に塗れた人間に染められるまま堕ちた〝可哀想な〟人間なら、分からなくて当然だ」

 りんかは流都の狙いが分からない。
 だが、場の流れが変わったことは理解出来た。
 暴力ではなく言葉の応酬。
 自身と初めて対峙した時のような、人を惑わす道化師の一面。
 気を抜いてしまえば意識を絡め取られるような耳触りのいい声色へ、最大限の警戒を滲ませた。

「人は何かに飢えて生きている。どんな善人装っても、結局根幹にあるのは自分なのさ。そんな身勝手で薄汚いエゴを満たすために、人間は戦うんだ」

 世界の全てを知ったような大仰な言葉。
 身振り手振りで繰り出される演説を、りんかは無視することができない。
 圧倒的な戦力差を前にしても顔を潜めていた動揺が、言葉の雨霰を前に一筋の汗となって現れた。

「開闢の日以降、人類は変わった。妄想の中にしかなかった超力(ネオス)という異能を得たせいで、エゴを貫き通す貪欲な者こそが正義となった」

 耳を貸すなと、己の正義が拒絶する。
 しかし心とは裏腹に、鼓膜を揺さぶる言葉を脳が理解しようとしてしまう。

「この世界は、そんな飢えを失くした者から死んでいくのさ」

 覚えがある。
 自身を、そして家族を散々に痛め付けて、辱めてきた組織の連中は常に欲望を曝け出していた。
 飢えた獣のような目はいつまでも記憶にこびりついて離れない。
 そして、奴らは今も尚当然のように生きている。
 身勝手な欲を持たぬ良心的な人々が惨殺される横で、奴らはそれを笑いながら見ていた。

「ちがい、ます」

 だから、その否定に力はない。
 天罰は必ず下ると信じているりんかも、薄々と世界の仕組みを理解してしまっているから。


「違わないさ。現に葉月りんか、お前が今生きてる理屈もそうだろ?」
「え……?」

 矛先を向けられ、身が固まる。
 流都相手に舌戦での勝ち目などなく、主導権を握られたりんかは無抵抗で口演を浴びた。

「〝誰か〟の救いになるため、なんてのは建前だ。常人なら死を選ぶような絶望を味わっても尚お前が生きてるのはな、飢えてるからだよ。お前が抱いている埃まみれの欲望がなんなのか、当ててやろうか?」

 嫌な予感がする。
 鼓動が早まり、悪寒が背筋を走る。

「やめ────」

 伸ばした手をパチンと払われる。
 仮面で隠れているはずの素顔が、不敵な笑みを浮かべているように見えた。

「お前が本当に求めてるのはな、〝赦し〟だよ」

 道化師の一言は。
 どんな刃よりも深く、りんかの心を抉った。

「こんなに頑張ってるんだから許してくれるでしょ? 今こうやって誰かのために尽くしてるんだから、私が殺してしまった人達のことは帳消しにしてよ。……ってなァ」

 ────やめて。
 枯れ果てた喉からは声も出せない。

「ひでぇ話だよなァ。お前にゴミのように殺された奴ら一人一人にも大事な人が居たってのに。今生きてる奴らの為に頑張ってるだとか、そんなこと遺された者からしちゃ知ったことじゃねぇのにさ」

 ────やめて。
 流都を止めようと踏み出した足は崩れ落ちる。

「許されるわけないなんて分かってるんだろ? お前がやってることはな、自分の心を守るための保身だよ。他人の為なんかじゃない、最初から最後まで自分の為なのさ」

 ────やめて。
 ブラッドストークの複眼が紗奈を捉えた。

「交尾紗奈、だったか? 都合の良いモノ見つけたなァ。そいつを連れてる限り、自分は弱者を守る正義のヒーローであり続けられるんだから。そりゃあ手離したくないよなァ?」

 ────やめて!
 軽蔑の視線を向けられるのが怖くて、頭を抱えて塞ぎ込んだ。


 もはや今のりんかは脅威でもなんでもない。
 流都は彼女の過去を熟知している。
 それはすなわち、超力への理解も同意義。
 『希望は永遠に不滅(エターナル・ホープ)』は葉月りんかによって元気づけられた者を強化する超力。
 その対象には、りんか自身も含まれる。

 己への鼓舞を力に変えてきた。
 この超力があるから流都を前にしても倒れずにいられたのだ。

 なのに今、紅の悪魔によって汚い心を丸裸にされて。
 意図して見ようとしなかった自分の嫌な部分を、これでもかと見せつけられて。
 葉月りんかという存在がいかに自分勝手で醜悪であるかを理解してしまった今、彼女の超力は力を失った。


「本当に罪を償いたいんならな、死ぬべきなんだよ。改めて言ってやろう。お前が、今! こうして! 惨めったらしく生き延びてるのは! テメェ自身の欲を満たすためなんだよ!」

 心に突き刺さる凶刃。
 甦る凄惨な悪夢。
 飢えた獣の双眸。
 悲鳴に舌舐りする男達。
 罪なき人々が死にゆく景色。

 そして、それを嗤う自分(りんか)。

 流れ込む負の記憶が動乱を起こす。
 立っていられるはずもなく、膝を折る。
 焦点を失った瞳孔は誰へ向けてでもなく。
 戦意を棄て去った少女は、糸の切れた人形のように沈黙する。

 りんかに反論の意思は無い。
 何故ならば、流都の紡ぐ言葉一つ一つが図星だから。
 違う、そんなことはない。
 そんな〝嘘〟をつけるほど、りんかは悪人になれなかった。



 だからこそ、



「────それの、なにが悪いの?」

 ここで立ち向かうのは、りんかではない。
 邁進を食い止めるのは、りんかではない。

「りんかがどう思っていようと、私がりんかに助けられた事実は変わらない」

 彼女の行動に元気づけられた、確かな光。
 常闇を蠢く野心と比べれば小さな、けれど眩い光。
 不滅の希望に充てられて、深淵の中でも輝きを放つ白鳥の子。

「他人の為だとか、自分の為だとか関係ない。私は今、りんかのおかげで生きている。誰がなんと言おうとその事実は覆らない」

 場を制するはいつしか紗奈へ。
 この場で一番力を持たぬはずの幼子は、誰よりも強く宣告する。
 この場で一番欲を理解している幼子だからこそ、その声に力を持つ。

 なにやら偉そうに説法垂れているが、自分からすれば全くの筋違いなのだと。
 勝手に引き合いに出されているが、そんなこと承知の上なのだと。
 独り舞台を踊る虚しい道化師の姿は、もはや紗奈の眼中にはなく。

「だから、さ」

 呆気に取られるヒーローの目をじっと見据えて、唇を開いた。


「ありがとう、りんか。生きていてくれて」


 生涯で数える程にしか述べたことのない感謝を。
 一度言いそびれてしまった、あの時の礼を。
 流都の演説を踏み台にして、改めて告げる。

「────っ」

 そしてその一言は。
 りんかが今、一番欲しいものだった。

「…………死神。余計な茶々入れんなって言っただろ?」

 流都の声色に不機嫌が滲む。
 己の最も得意とする画策を体良く利用されたのだ。これ以上の屈辱などない。
 紗奈へと警告の意味合いを含んだ睥睨を飛ばし、〝敵〟へと向き直る。

 そこには、〝ヒーロー〟がいた。
 心の壊れた人形ではなく、凛と引き締まった顔立ちの改造人間が。
 両の足で大地を踏み締め、紅血の鴻鳥と対峙する。

「感謝するのは私の方です、紗奈ちゃん」

 奮い立たされるのは、これで二度目だ。
 自分よりも一回り以上小さくて、助けを求めていた幼子が。
 差し伸べてくれた手を、今度こそ離さない。

 りんか、と。
 名を呼ぼうとする紗奈を片腕を広げ制する。
 心配はいらない、もう大丈夫だ。
 優しい微笑みに込められたその言葉を汲み取って、今度こそ紗奈は何も言わず見届ける。

「ハッ、美しい友情だねぇ」

 心を抓む算段を見事なまでに邪魔されて、滾る苛立ちを巧妙に隠しながら軽口を叩く。
 流都の余裕は覆らない。決着が遠のいただけで、己の勝利は揺らぎないのだと確信しているから。
 戦闘態勢に移るりんかへ、両腕を蛇のように靭らせて応える。

「いいぜ、とことん付き合ってやるよ。お前が心の底から絶望するまで、な」

 風を置き去りに放たれる貫手。
 獲物を屠る牙の如く静かに、確実に。
 這い寄る一撃がりんかの喉を貫く寸前。
 まるでそうなることが決まっていたかのように、細腕に捌かれた。


「────は?」

 代わりに、胸を伝播する衝撃。
 甲高い外皮の悲鳴を聴きながら流都の足は一歩後ずさる。
 次に視界に映し出されたのは、拳を突き出すりんかの姿。

 偶然だ、まぐれに過ぎない。
 再度振り抜かれる紅針は打撲痕の目立つ腹部へ。
 以前のりんかであれば反応さえ叶わなかったそれは、右腕〝だけ〟で掴み取られる。

 細く華奢な指に反して万力を思わせる握力。
 みしりと嫌な音が鳴るのを聞いて、反射的に左腕を引いた。

「お前、まさか」
「そのまさか、です」

 流都は確信する。
 今相手しているのは、これまでの葉月りんかではない。

「────ヒーローは声援を浴びて強くなるッ! それが〝お決まり〟でしょう!?」

 一度底深い泥濘へ沈みかけた心は、救い上げられたことで強固さを取り戻して。
 自分は生きていていいのだと、他ならぬ守るべき者に背中を押されたから。
 りんかはこれまで以上に、〝葉月りんか〟を信じることが出来た。

「…………厄介なことになっちまったなァ」

 戯れに付き合ってやるつもりだった。
 この島に混沌を広げるための軽い足慣らしのつもりだった。
 正義を騙る残影を蹂躙し、己の過去と決別するつもりだった。

 けれど、違う。
 これはもうごっこ遊びではない。
 正真正銘、〝正義〟と〝悪〟の戦いだ。

「なぁ、ヒーロー」
「はい」
「本気で、やろうぜ」
「言われなくとも」

 ならば尚更、都合がいい。
 腐敗した心の隅に巣食う未練と、カタをつけるには丁度いい。

 葉月りんかが本当に正義の代行者なのだとしたら。
 やることは変わらない。真正面から栄光を呑み込もう。
 輝かしい理想を喰らい、血に塗れた混沌への布石にしてやろう。
 善も悪も取り払い、我意で倫理をこじ開けよう。

 それこそが己の役回り。
 世に蔓延る悲劇を嘲笑い、憤怒や遺恨を靴にして踊り狂う。
 それが、恵波流都という〝悪〟なのだ。


◾︎



 顔面を狙う蠍の尾のような刺突を捌き、残光描く拳撃にて応える。
 鴻鳥は拳一個分体を捻ってやり過ごし、回避行動と共に後ろ回し蹴り。
 達人の居合を思わせるそれはヒーローの首を飛ばすに至らず、寸前で防がれる。
 肉と肉が打ち合ったとは到底思えぬ音が鳴り響く。空気の振動を肌で感じ取り、紗奈は静かに息を呑んだ。

「はぁ──ッ!」
「っ、……」

 勇猛果敢、猪突猛進。
 止まらぬ白銀の流星群は流都を後手に回らせ、反撃の頻度を極限まで落とさせる。
 大袈裟な回避は次の一手への隙となるだろう。
 故に流都は怒涛の拳打を捌き、いなし、躱し、流し、受ける。

 努めて冷静に、あくまで堅実に。
 りんかの攻撃の癖を見極めながら、反撃の時を待つ。

「────シッ!」
「ぐ、……ぅ!?」

 ようやく訪れたその時。
  顔面を狙い放たれた右腕をかち上げ、鋭い一閃を鼻柱へと叩き込む。
 よろけるりんかの腕を掴み、抉るような打撃を腹部へ執拗に放つ。
 バルタザールに与えられた傷跡に追い討ちを食らい、身震いする程の激痛が襲いかかった。

「──っ、あぁぁッ!」
「が、……!」

 五発目ともなるそれを貰う直前、耐え難い痛みを押し退けて頭突きを見舞う。
 思わぬ反撃は見事なまでに流都の口元へ突き刺さり、仮面の奥で歯にヒビが入るのを感じた。

 堪らず距離を取る流都。
 重い呼吸と共に回復に移るりんか。
 両者は構えを取り、静かに敵と見合う。


 ────戦況は互角。
 膂力と反射神経はりんかが上。
 経験と技術で流都がそれに喰らい付く。

 ならばその膠着を崩すのは。
 これまで蓄積されてきたダメージの差。

「っ、…………!」

 追撃を仕掛けんと踏み出すりんかの肩が、ぐらりと揺れ動く。
 疲弊を訴える両足がはち切れんばかりの痛みを駆け巡らせ、神経に棘を刺す。
 現実感のない震盪に顔を歪めるコンマ数秒、その一瞬にも満たぬ空隙に破壊者は口角を吊り上げた。

「おねんねしな、ヒーロー」

 余力を肉薄に注ぎ込んで、渾身の鉄拳を。
 痛みを与える為ではなく屠る為の一撃。
 踏み込んだ右足から拳へと体重を移動させ、骨をも粉砕せしめる破壊力を以て迫る。

 りんかの上半身に動きは無い。
 当たると確信した直後、異変が起こった。



 不意にりんかの身体が後方へ倒れ込むように仰け反ったかと思えば、ぐるりと背が向けられる。
 その行為の意図を汲み取るよりも早く、流都の側頭部を凄まじい衝撃が撃ち抜いた。

 理解などできるはずもない。
 疑問を抱いた頃には倒れ込み、草原と胸が接地していた。
 目まぐるしく迸る思考を捨て去り、ひとまずは身体を起こそうと地面に手を付いて──ぐしゃりと崩れ落ちる。

「あ、…………ァ?」

 幻術にかけられたような浮遊感。
 視線を上げれば、幾重にも層を作るりんかの身体が映った。

 なんだ、なにが起きた?
 なまじ戦闘センスに長けているが故、結論に至るのにそう時間は要さなかった。


 ────蹴り技。


 この戦闘において、初めて解放された攻撃。
 殴る事しか脳の無いバトルスタイルだと断定した直後、目論見を崩す仕込み刀。
 警戒の外の外、意識の彼方から突如繰り出されたそれは見惚れる程美しく、流都の三半規管を刈り取った。

 耳鳴りがする。
 吐き気が止まらない。
 翼を失った鴻鳥は、無様に藻掻く。
 憎悪を込めた複眼は、どこか物憂げな正義の顔を捉えた。







『やっぱりさ、ヒーローといえばキックだよキック!』
『えぇ、絶対パンチのほうがかっこいいよ~!』

 それは、幼き日の記憶。
 大災害から数えて二年、心優しい家族に囲まれていた幸せの絶頂の日。

 確かその日は、買い物の帰りだったと思う。
 日が沈みかけた夕暮れ時、お姉ちゃんに我儘を言って公園で遊んでいた。
 ベンチで優しげに微笑むお姉ちゃんの顔は、今でもよく覚えている。

『りんかちゃん、しらないのー? ヒーローの〝ひっさつわざ〟はね、キックなんだよ!』
『ひっさつわざ……か、かっこいい……!』

 その時に一度だけ出会った黒髪の女の子。
 一期一会。何の変哲もない日常の切れ端。
 たった一時間にも満たない五年前の記憶を、なぜか鮮明に覚えている。

 その子は二つ年上だった。
 私と同じく特撮番組が大好きで、太陽のように明るい女の子。
 誰かを助けるために奔走するヒーローを、その子は本気で目指していた。

『アタシの方がおねえさんだから! りんかちゃんにもとくべつに教えてあげる!』
『? なにを?』
『ふっふっふっ……ずばり、アタシのひっさつわざ!』

 その子の名前は、思い出せない。
 けれどその時見せてくれた〝必殺技〟は、今でも完璧に再生出来る。

『いくよっ! おりゃーーっ!』
『わぁぁ……!』

 それくらいかっこよくて、美しくて。
 テレビの中でしか見たことなかった光景を、しっかりと目に焼き付けて。
 闇を切り払うような洗練された回し蹴りは、子供ながらに感動を覚えた。

『ふふん、どうだ!』
『う、うぅ……わ、わたしだって!』

 誇らしげな彼女の姿に、少しだけ対抗心を覚えて。
 お父さんから教えてもらったパンチの打ち方を、一生懸命披露した。
 けれどあの子が見せてくれた必殺技と比べたら、ずっとお粗末だった。
 今思えばあの子は、小さい頃から血の滲むような努力をしてきたんだろう。

『あ、りんかちゃん! またね!』
『うん! またね──』

 暗くなった空。
 お互いの家族が迎えに来て、別れの挨拶を交わした。
 もう一度会いたくて、その時はもっと立派になった姿を見せたくて。
 またね、って手を振った。


 ああ、そうだ。
 思い出した。
 無意識に追い求めていた背中は。
 私が憧れた、その子の名前は。


『────美火ちゃん!』







 足技に心得がある訳ではない。
 流都へ放った回し蹴りも、記憶の中にある羽間美火のそれと比べれば付け焼き刃もいいところだ。

 けれど、それでも。
 りんかが記憶する一番強い必殺技は。
 窮地を脱する逆転の糸口となった。

「流都、さん」

 未だ平衡感覚を取り戻せず、片膝をつく〝悪〟の君主。
 彼へと語りかけるりんかの声色は、決して相容れぬ存在へ向けるにはあまりにも優しくて。
 それに含まれる〝憐れみ〟を、流都は目敏く見抜いた。

「私が飢えているものは、さっき仰った通りです」

 葉月りんかはもう迷わない。
 誰かを救うという対象には、己の本心も含まれているから。
 汚いからと見ないふりをされてきたそれと向き合い、受け入れた今のりんかに。
 流都の口八丁は、意味を成さない。

「だから今度は、聞かせてください。流都さんがなにに飢えているのかを」

 立場が入れ替わる。
 かつて投げられた問いはそのまま流都へ。
 意趣返しを食らった道化師は、呆れたように嘲笑う。

「おいおい、さっきも言っただろ? 殴られすぎて記憶が飛んだかァ?」

 お喋りに付き合うのは気まぐれではない。
 不愉快な耳鳴りと揺れる視界を回復させるための時間稼ぎだ。
 何処までも打算に塗れた哀しき男は、りんかの目をじっと見据える。

「俺が飢えてんのは混沌さ。この世界(ほし)を狂乱と破滅が支配しない限り、俺の渇きは満たされない。連鎖する悪意の末、ノストラダムスよろしく終焉を見届けて────」
「もう、やめませんか」

 矢継ぎ早に繰り出される言葉の濁流は、少女の一声に塞き止められる。
 射抜いていた筈の瞳に、逆に射抜かれているような感覚を流都は抱いた。

「自分に嘘つくの、やめませんか」

 その瞳から何を感じたのか。
 悲憤、哀憐、落胆、虚無。そのどれでもなく。
 恵波流都という個の存在を心から気遣うような、憂慮の視線が彼を捉えて離さない。

「あなたが仮面の下でどんな顔をしているのか、私には分かります」

 赤紫色に煌めく仮面の奥底。
 化粧を施す道化師の素顔へ、りんかは語りかける。

「きっと、悲しい顔をしてる。あなたも救いを求める一人なんです!」

 偽善者など腐るほど見てきた。
 けれどここまで清々しく、愚直な者は流都をもってしても史上初と断言出来る。
 己が正しいと信じてやまない世間知らずの青二才が浮かべるような、穢れなき面持ち。

 しかし流都は、りんかの過去を知っている。
 地獄のような三年間を味わっても尚それを言い放つことが、如何に常軌を逸しているか理解している。
 だから流都は、彼女を〝世間知らず〟だなどと嘲笑うことはしなかった。

「…………決めつけはよくねぇなァ、お嬢ちゃん。なら俺はどんな救いを求めてるって言うんだ?」
「流都さんは────」

 ハナから答えなど期待していない。
 腐り落ちた本意を理解すること、ましてやそれが今日初めて出会った少女になど務まるはずもなく。
 的はずれな言い分を肴に、勝利の美酒でも煽ってやろうかと思っていた。


「私に倒されることを、心のどこかで望んでいるんじゃないですか?」


 ──その言葉が来るまでは。


 硬直する身体。
 喉奥で詰まる息。

 数瞬、ほんの数瞬。
 己の領分であるはずの言葉を見失い、ぽつりぽつりと浮かぶ単語を掻き集める。

「笑わせんなよクソガキ。お前に倒されることが救いだって? ……俺は特撮の悪役とは違う。美徳だのなんだのは持ち合わせてないんでね、貪欲に勝ちを啜ることしか頭にないんだよ」
「嘘です! その証拠にあなたは──一度も紗奈ちゃんを狙っていないッ!」

 りんかの抗議の声にハッとしたのは、行く末を見守る紗奈だけではない。
 それを言い当てられた流都自身も、初めて自身の〝過ち〟に気がついた。


 最初から、そうだった。
 りんかの心を折ることが目的なら、真っ先に紗奈を殺めるべきだった。
 当初の圧倒的な実力差であれば彼女を振り切り、紗奈を狙うことなど容易に出来たはずなのに。
 己の無力に打ちひしがれ、絶望に堕ちる〝ヒーロー〟の姿など想像できたはずなのに。

 なぜ、それをしなかった?

「ちょいとしたきまぐれさ。お前の言う正義を真正面から叩き潰してみたくなってな」

 りんかでも、紗奈でもなく。
 自分自身へ言い聞かせるかのような流都の台詞。
 数え切れぬ欺瞞を紡いできた口は、もはや〝真実〟を紡ぐ力などとうに失って。
 戦いを通じて流都の心を感じ取ったりんかは、力強く宣告する。

「流都さんのことは、私が救います」

 慈しむような少女の微笑み。
 渇ききった砂漠に垂れる一滴の雫。
 忌々しく、そして心地好い光輝。
 凝血纏う怪物の脳を、熱が駆け巡った。



『────そうなったら、俺がおやっさんを助けてやるよ』



 セピア色の幻影が視界の端を過ぎる。
 顔も朧げで、声も曖昧。名前だって思い出せない。
 けれどその影は、かつて己が育て上げた若者だと確信する。

 そして、それは。
 過去を懐かしむ感性を持たぬ悪魔にとって、ただの障壁でしかなくて。
 血濡れた赤黒い殺意を溢れさせる手助けとなった。

「流都さ──」
「大人相手に随分な物言いだなァ、お嬢ちゃん」

 ズブリ、とりんかの首筋から音が鳴る。
 針の如き触手の先端が、彼女の血管へと直接猛毒を注ぎ込む。
 血液を汚染される感覚が嫌でも伝わり、急速に命が削られてゆくのを実感した。



「────りんかっ!!」


 紗奈の絶叫が響く。
 無力を承知で駆け出そうとして、りんかの視線がそれを止める。
 その〝瞳〟を見た瞬間、紗奈は戦慄に似た感情を覚えた。

「酔いは醒めたか? なァ、死を目前にするってのはどんな気分だよ」

 ブラッドストーク、破滅を運ぶ鴻鳥。
 その超力から生み出される毒は、対象を確実に死へ誘う。
 それは強化されたりんかでさえ例外ではなく、彼女の寿命は残り僅かとなった。

「さぁ、本性を曝け出せ葉月りんか! 怖いだろ? 死にたくないだろ? 仮面を外すのはお前の方だ! これでもまだ俺を救うだなんて戯言吐けるのか!?」

 人はいつだってそうだ。
 どんな綺麗事を謳う詩人も、死を前にすれば醜悪で身勝手な本性を顕にする。
 流都がこれまで屠ってきた人間も、口汚く罵り泣き喚き命乞いをしてきた。

 死とは、終わり。
 これまで積み重ねてきた全てへの否定。
 途方もない過去が呆気なく無に帰す非情。
 その恐怖を呑み込める人間など、一人とていない。

 さぁ、顔を拝んでやろう。
 恐怖と絶望に歪んだ顔を、嗤ってやろう。
 二度とふざけた御為倒しを吐けないように。
 そうしてりんかの顔を覗き込んで、流都は絶句した。

「………………おま、え」

 その目は、何処までも優しくて。
 その目は、何処までも哀しそうで。
 その目は、何処までも流都を見ていた。

「この姿は、私が知る中で〝 一番強い人の姿〟なんです」

 少しだけ寂しそうに、りんかが言う。
 本来喪った筈の指先で、首元に突き刺さる触手を撫でて。
 すぐにまた、凛とした顔付きに戻る。

「この姿でいる限り、私は諦めない」

 ぐしゃりと、紅色の触手が握り潰される。
 ありえない光景だ。今も想像を絶する痛みが身体中を蝕んでいるはずなのに。
 蒼白の顔面が虚勢を物語っているのに、まるで衰弱を感じられない。

「────ハッ」

 言葉を探りあぐねて、やがて流都は笑いを溢す。
 しかしそれは普段の馬鹿にしたような冷笑ではなく、ましてや嘲笑でもなくて。
 それが感嘆からくるものなのだと呑み込めば、ゆっくりと立ち上がる。

「お嬢ちゃん」
「はい」
「お約束の〝アレ〟だ、分かるだろ?」
「勿論、ですとも」

 ヒーローとヴィランの最低限のやり取り。
 立会人である紗奈は二人の意図を掴めない。
 しかし、他ならぬ〝正義〟と〝悪〟の両名は示し合わせたかのように三歩距離を取った。



 迸る情熱、蘇る情景。
 宿すは光、翳すは闇。
 希望を込めて、絶望を目指して。
 正義と悪は、互いの〝エゴ〟を貫く。


「シャイニング────」
「ブラッド────」


 ヒーローの右脚を、眩い輝きが覆う。
 ヴィランの左手を、紅い靄が喰らう。
 駆け出す〝正義〟へ拳を引いて〝悪〟が迎え撃つ。


「────キーーーーックッ!!!!」
「────ブレイクッ!!!!」


 跳躍、そして急降下。
 重力と加速度を味方に付け、つまらない物理法則を無視し流都を狙い澄ます必殺の飛脚。
 燦然と輝く隕石へ、紅蓮の砲撃が放たれる。

 それは、酷くありふれた展開。
 散々使い古され、見慣れたワンシーン。

 名前のある必殺技など持っていなかった。
 敵と戦うのに技名を叫ぶなど、あまりに非合理だったから。

 だからこれは、即興の演劇。
 テレビで幾度も見た光景の真似事。
 当意即妙、目の前の〝敵〟への信頼の証。

「はぁぁぁぁぁああああッ!!!!」
「お、ォォォ────ッ!!!!」

 必殺の一撃が触れ合う刹那。
 筆舌に尽くし難い衝撃波が大地を揺らし、遅れて轟音が鳴り響く。
 爆撃の中心地から放たれる白と紅の輝きは、彼方の闇まで照らし出して。
 黎明の空を、白夜の如き眩燿が支配した。

「っ…………!」

 次元の違う衝突を前に、紗奈は思わず腕で目を覆った。
 荒れ狂う暴風と閃光が目を開けることを許さない。
 ゆえに紗奈は、祈ることしか出来なかった。

 りんかの勝利を。
 正義が勝つ〝お約束〟を。
 理想などとうに捨てたはずの少女は、心からそれを願った。

NEXT→Evolution Hop[e]

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2025年03月07日 20:46