<戦闘記録> 

 No.A00X-002-XXXX(AG検閲済み)

 <表題>

 エリアC-2における要注視刑務対象者の交戦について。

 <概要>

 刑務開始より3時間と48分経過時点にて、エリアC-2を中心に要注視刑務対象者同士の遭遇、及び戦闘が発生。
 主にフレゼア・フランベルジェ、ジルドレイ・モントランシーの2名を中心に勃発した超力戦。
 大規模破壊行為の応酬は周辺エリアに滞在していた多くの刑務対象者を巻き込み、最終的に総勢7名による乱戦状態へともつれこむ。
(細かな戦闘経過は後述の詳細欄を確認すること)

 結果として、上記の超力戦は長時間に及び継続され、明け方頃、死者■名、重症者■名を出した上で終結した。

 戦闘記録として特筆すべきはやはり、フレゼア、ジルドレイ両名に起こった超力の変革現象にあろう。
 収監当初の時点で計測された破壊規模から要注視対象に指定されていた2名である。
 しかし今回観測された数値はこれまでを更に大きく上回る戦略兵器クラスに達し、個人が所有する武力としては■■■■■に指定される者達に匹敵すると考えられる。

 両名とも、直前にそれぞれ別の刑務対象者に遭遇しており、精神的に強烈な影響を受けることで能力のコントロールを欠きつつも、出力の急上昇を果たしている。
 この現象が特例的なものか。或いは超力の強化に結びつく何らかの法則に従ったものか。今回の戦闘記録だけで特定することは出来ない。
 何れにせよ、■■■級超力2種を用いた交戦を詳細に観測出来たことは、■■■■■の■■■にとって非常に大きな意義があったと断言できよう。
 今後も要注視刑務対象者による戦闘行為については、適宜戦闘経過の記録を行うこととする。

 下記は、戦闘経緯における詳細の羅列。
 時間のある職員は目を通しておくこと。


 記録者:オリガ・ヴァイスマン


(付箋によるメモ書き:この程度の事務作業を私にやらせるな)







 炎の中で悪夢を見る。

 怒りだ。
 私には、怒りしかない。

『おかあさん、おとうさん――』

 腐り果てたスラムの地に希望なんてどこにも見当たらなかった。
 弱い人間に出来ることは自分よりもっと弱い人間から奪うことだけ。
 弱さが弱さを踏み躙り、搾取が搾取を引き寄せて、暴力の行使が正当化され、肯定されていく残虐によって悲劇の連鎖が終わらない。

 父が目の前で逆上した物乞いに惨殺されてから2週間後。
 母が狂乱の内に自らの命を絶って1週間後。
 兄弟たちが飢えて殺し合った3日後。
 家族の後を追おうとした、その日。

『――もう、大丈夫』

 私の濁った瞳を浄化する、あの光に出会った、運命の日。
 私を包みこんだ温み。
 彼女の腕の感触が、今でも私を暖めてくれる。

『大丈夫ですよ、私がいます。ここに、いますから』

 ああ、ジャンヌ。
 私の英雄(ヒーロー)。
 私の光。
 私の、私の――――

(なにをしているのです? フレゼア、立ち止まっている時間などありませんよ)

 ああ、そうだった。
 ごめんなさいジャンヌ、せっかく私を戒めてくれたのに。

 早く、悪を殺さなきゃ。
 もっと、悪いやつをやっつけなくちゃ。
 いままでやってきたように。いままでやってきた以上に。

(そうです、貴女の怒りは正しい)

 頭の中で響き渡る声。
 私の道を肯定するジャンヌの言葉に全身が燃えたぎる。

 そうだ、私はずっと怒っていた。
 こんな世界は間違っている。あんな地獄を許す世界は狂っている。
 正さなきゃいけない。悪を根絶やしにして、浄化しなければならない。

 これまでも、沢山の悪を燃やしてきた。
 人を殺した者を燃やした。事情があったらしいが悪は悪だ。
 盗みを働いた者を燃やした。飢えを凌ぐためだそうだが悪は悪だ。
 ゴミを不法に捨てた者を燃やした。うっかりしていたようだが悪は悪だ。

 けれど燃やしても、燃やしても、悪は消えない。
 私の怒りは収まらない。
 そして遂に世界は、看過できない間違いを犯したのだ。

 ジャンヌを、私を、拒絶した世界なんて、悪だ。
 悪は、燃やさなければならない。

(――行きなさい、フレゼア) 

 きっと、彼女はそう言ってくれる。
 あの日、泣くことしか出来なかった少女は、光を見た。
 私は誰より知っている。誰より憧れた彼女の事を理解している。

『おかあさん、おとうさん――』

 彼女の怒り、彼女の痛み、彼女の、悲哀。
 だけど一つだけ、たった一つだけが、今もわからない。
 わからないままのコトがある。

『――もう大丈夫、大丈夫だからね』

 あの日、どうして彼女は微笑んでいたのだろう。 
 それだけが、今をもってしても分からない。

(――全ての悪を焼き払うのです)

 ほんの僅かに掠めた疑問は、全身を舐める炎が押し流して。

『――どうか、この世界を憎まないで』

 嗚呼、怒りだ。
 今の私には、怒りしかない。




「こっちは……やめておきましょう」


 天に向かってピンと立てたうさ耳の毛が、緊張を訴えるように逆立っている。
 頭上を覆う木々のカーテンは夜の闇をより濃く深め、不安定な足元を一層見えづらくしていた。
 それでも彼らが林地帯の獣道を往くことには明確な理由があった。

「近づいて来てるのか?」

 木の枝を掻き分けながら歩く青年、ハヤト=ミナセは努めて抑えた声で前を歩く同行者に問いかける。

「ええ、さっきよりも。これは……多分ですけど、あまりよくない、そんな気がします」

 対して獣人の少女、セレナ・ラグルスもまた、硬い口調で答える。

「パチパチ……と、薪を火にくべるような……そんな音です」

「……そりゃ、まあ、あの火柱と無関係なわけねえよな」

 手当と休息を終えたハヤトは港湾を出立することにした。
 高高度からの自由落下という苦難に見舞われた彼であったが、セレナの看護によって今はもう痛みが引き、動けるようになった以上、いつまでも横になっているわけにはいかない。
 彼には看守から与えられたハイエナとしての仕事があり、そして復讐という、彼個人の目的がある。

 そして彼の目的を知った上で、セレナは同行を申し出たのであった。
『一人で隠れているよりも、誰かと一緒に行動した方が安全だから』とは本人の弁。

 だが、しかしそれを聞いたハヤトの気は重かった。
 ハヤトの目線では、おそらくセレナは単独行動で24時間生存することに集中した方が安全である。
 であれば、彼女が同行を申し出た理由は明確であり。
 それはおそらく、ハヤトが予想していた彼女の役割。
 ハヤトの役割の補助に使わせるためという看守達の目論見が、見事に作用した証左のように思えたからだ。

 しかし結局、彼はその忌むべき予想を口に出すことも、彼女の手を振り払うことも出来ぬまま。
 二人で一緒に港湾から出た直後、その異常を目にすることになる。

 東の森林地帯の一部が業火に包まれていた。
 絨毯爆撃でも行われたかのように地が抉れ、炎の舌が木々を蹂躙している、まるで地獄のような光景。
 驚異的な超力の気配に尋常ではない危機感を覚えた彼らは、港湾に戻るか南の林地帯に踏み込むかを迫られ、後者を選択して現在に至る。

「クソ、なんでこっち側に来るんだよ……。悪いセレナ、オレのミスだ。やっぱり港湾に戻るべきだった」 
「そんなの結果論ですよ。ハヤトさんが言ったように、港湾だと行き合った時に逃げ場が無かったと思いますし」

 エリアB-3付近にいると思しき危険人物を避けるため、C-3にあるとされる死体の確認は一端断念。
 林地帯に身を隠しながら南下してエリアD-3の死体を目指す、そのプランのもとに動いていたのだが。
 頃合いを見て東側の街道に抜けようとしたとき、セレナの制止がかかった。

 強い気配を纏った者、おそらく件の危険人物が北東方向から徐々に近づいて来ている。
 こちらも並行して動いているから距離は一定を保っているし、今のところ相手が意図的に追ってきているような雰囲気はない。
 接近はおそらく偶発的なものと思われる。
 しかし、セレナの獣人としても突出した聴覚がなければ、その事実に気づくことも出来なかった。

 港湾を出て、否応なく思い知る。自らが危険な場所に身を置いていることを。
 ハヤトの背筋に冷たいものが走り抜けると同時、ちくりと胸を刺す棘を感じた。
 さっそく、セレナは役に立っている。
 ハヤトの仕事を遂行するために、看守たちの目論見通りに。
 そしてその忌むべき実態を、ハヤト本人が自覚していながら、享受している。
 己の目的の為に、この心優しい少女を利用している。

「……東は駄目だな。どんどん森の深みに入っちまうが、しかたない。南下を続けよう」

 胸騒ぎを振り払うように、一度目を閉じて、ハヤトは身体の向きを変えた。
 今は罪悪感に囚われている場合ではない。
 危険から距離を取ることを最優先に考えなければ。

「そうですね。地面の状態が更に悪化します。足元に気をつけてください」

 さく、さく、と。夜の林に、2人分の足音が響く。
 ウサギの少女は自然な動作でハヤトの前を歩く。
 獣人がデフォルトで備える身体能力に加え、パルクール能力の真価は道なき道でこそ発揮される。
 どっぷりと闇に浸かった獣道を進むにおいて、ハヤトにとって、彼女の存在は本当に有り難かった。
 それは実利的な意味でも、精神的な意味でも。だからこそ、彼は考えずにはいられないのだった。

「なあ、お前さっき、自信ねえって言ったよな」
「…………?」
「二人で、どうしようもねえ犯罪者に行きあった時の話だよ」

 恐ろしいものに出会ってしまったとき。
 危機にあったとき、隣の誰かを見捨てるか。
 セレナ・ラグルスは、『自信がない』と言った、そのうえで、『そんなことはしたくない』とも。

 その言葉を聞いて、ハヤトはその実、少しほっとしたのだ。
 自信が無いのは自分だけじゃなかったという事実に、安堵したのだ。
 だから今のうちに、言っておきたかった。

「逃げたきゃ、逃げろよ」

 ぶっきらぼうな言い方になってしまった。
 だけど本心でもあった。逃げてほしいと思った。
 少なくとも、今の時点での気持ち、ではあるが。

「お前の方がオレより動ける。今だって、ホントはオレなんかほっといて、隠れてた方が良いんだ。
 協力してくれて感謝してる。だから何かあった時は、気にせず逃げてくれたって構わない。
 ホントはオレだって、もしもの時にお前を置いて逃げ出さねえ自信なんてねえんだ。だから恨まねえ」

 極限状態で、自分の思考がどう流れるかなんてわからない。
 だからこそ、今の自分の心を伝えることが、この優しい少女に対する誠意であると信じたい。

 ハヤトの言葉を聞いたセレナは少しの間、考え込むように押し黙った。
 ややあって、ゆっくりと発せられた声は相変わらず穏やかで、すこし悲しそうでもあった。

「……ハヤトさんって、優しい人なんですね」 
「なんでそうなる?」
「だって、わたしなんかに気を使ってくれて……」

 夜明けまではまだ時間がある。
 闇の中、乏しい光ではお互いの表情までは見て取れない。
 けれどその声は、確かな寂寥が込められている。

「でも駄目ですね。そんな優しいこと言われたら、ますます逃げにくくなっちゃうじゃないですか」
「いや、そんなつもりじゃ……」
「ふふ……冗談です」

 なにか言うべき言葉を間違えたのだろうか、と思う。
 同時に、『お互い様だよな』とも。これは口には出さないが。
 優しいことを言われたら、逃げられない。

「それに、私は――――」

 意を決したように、何かを告げようとしたセレナの、

「止まってください!」

 しかし、言葉の続きを聞くことは出来なかった。

「……どうした?」 
「これは……いや……だけど……さっきのと……違う……」
「どうしたんだよ、セレナ」

 ぴん、と。
 垂れていたセレナの耳が再び直立するのを、闇の中で薄っすらと感じ取る。

「ぱきぱき……って音、炎……じゃない」

 尋常ではない様子の少女から、ハヤトもまた理解する。
 脅威が近い。しかしそれは道理が通らない。
 一定間隔で接近しつつあった危険人物から、彼らは並行して距離を取っていた。
 セレナの聴覚によって対象との距離を把握し、上手く躱すことが出来ていたはずなのに。

 なぜ、彼女は焦っている。
 なぜ、敵が近づいている。

 後方の脅威に気づかれたのか、信じ難い不運があったのか、あるいは。

「私たちの進行方向に、誰かいます。後ろの人とは別の」

 ハヤトたち自らが、息を潜めていた『もう一つの脅威』に、近づいてしまったのか。


「あ、ああああああ、う、おおおおおおおおお」


 砂利をかき混ぜたような、うめき声が聞こえた。


「雑念が、雑音が交じる。
 なんと、なんということだ、貴女が、貴女が見えない!!
 おおおおおおおおおおおおおおおおおなんという冒涜!!」

 その冷気に、セレナの背中が震え上がる。
 前方、木々の隙間から僅かに見えたその異様。

「ときに、我が黙祷を遮る者は誰、か」

 氷塊であった。
 二十本以上の大樹を纏めて氷漬けにした、巨大な氷の壁。
 その中央にて蹲った、少女のような見た目をした何者か。

「おおおあああううううおおおおああああああ」

 這いつくばって許しを乞うように、青い長髪を無造作に地面へ投げ出している。
 その怪人はつい先程まで機能を停止していた。
 自らを森林のなかで氷に閉じ込め、時間を止めるようにして、身体を固定していたのだ。

 凍てつき、完全な静止を実現したモノに気配はない。
 称えるべきは、それでも察知を成し遂げたセレナの感覚といえる。

「嗚呼、そうか、ジャンヌ。新たな贄を、寄越されたのですね」

 だが現時点でもって、すでに。

「彼らを平らげる。新たなる試練。我が心が実現する苦悶の罰。おお、なんと素晴らしい」

 残念ながら、間に合っていない。

「逃げるぞ……」

 ゆらりと蠢いた怪物の気配に、二人は一歩後ずさる。
 結論は決まっている。今すぐに逃げ出さねばならない。
 まともな会話ができる様子もなければ、目の前に出現した氷の世界を前に、戦う気力すら根こそぎ奪い取られた。
 あれは関わってはならぬ災害であると、本能によって理解したのだ。

「わかってます……逃げないと……だけど……」

 だけど、どこに逃げる。
 彼らは挟まれてしまっていた。
 前方には狂気の氷結世界、しかし後方からは恐ろしい焔が近づいてくる。

 選択の時間は与えられなかった。
 ハヤトは咄嗟に、セレナの腕を掴み、踵を返して駆け出して。

「わわっ……ハヤトさ」
「いいから走れ!」
「ふむ、私のもとに来てくださらないのですか。
 なるほど、なるほど、よろしい。
 ではでは、こちらからお迎えに上がるとしましょうか」

 巨大な氷塊がひび割れて弾ける。
 氷漬けにした大木ごと砕け散り、溜め込んだ冷気を開放する。

 冷たい風が追いかけてくる。もはや一刻の猶予もない。
 闇雲に走り出した二人の背後、青い狂気が駆動する。
 それは十代の少女の見た目を被った、人の歪みの末期症状。

 青藍の狂信。氷結の怪人。
 囚人、ジルドレイ・モントランシー。
 下されし裁定は――死刑。




 氷の内に希望を見る。

 怒りだ。
 私には、怒りだけがある。

『父様、母様、どうして私を作ったのです?』

 生まれつき、心を備えずに生まれた者を、果たして人間と呼んで良いものか。 
 私は失敗作だった。
 凍りついた感性が尊いと思えるものを、遂に見つけることが出来なかった。

『栄えあるモントランシー家の次期当主がアレとはな、恥ずべきことだ』

 人並みの精神性を得られなかったまがい物が、まともな家長として振る舞えるはずもなく。
 家臣達からの誹りが聞こえる。後見人の落胆が見える。人々の失望が伝わってくる。
 残念がるという動作が、不満と呼ばれる感情の発露であると、知識として知ってはいた。

 良い悪いの判断が自分で出来ないから、自分の指標を持てないから、何も決めることが出来ない。
 結果、侮られて、軽んじられて、モントランシーの家名に泥を塗ったと呆れられ。
 しかし、だから何だ。何も思うことはなく。
 そして、そんな状態が良いものではないと、やはり知識としてのみ知っている。

『例えば、そうだな……いいかいジルドレイ、彼女を手本にしなさい。彼女のように気高く振る舞ってみせろ』

 おおよそ感情の機微と呼ばれるものに無縁の人生において、分岐点があったとすれば、きっとあの日。
 夕餉の席にて、英雄、ジャンヌ・ストラスブールを指し、父の告げた一つの方策。
 自らの感情を知って善悪を決めるのではなく。尊き聖女の言葉を絶対なる指標として設定する。
 聖女が掲げる善悪に、間違いがあろうはずもないから。
 ラジオから流れる透明の声音。聖女は悪と対峙し、民に語りかけている。

『私は戦い続けます。あなた方と共に』

 他人の心に擬態して生きることは、存外に上手く行った。
 人間に成れなかった私でも、彼女のおかげで人間のフリをすることが出来た。

『ジャンヌ、貴女は素晴らしい。今日は欧州の片田舎まで出向いて、スラムの子供たちを救っていたんだね』

 善悪を決められない私のかわりに、ジャンヌは全てを決定してくれた。
 私は、知っている。彼女の心が分からなくても、彼女の行いの全てが尊いと知っていたから。

『ジャンヌ、貴女はなんて優しいんだ。今日は仲間と共に国家間の諍いに突入して、戦争を止めたとか』

 ああ、ジャンヌ。
 私の英雄(ヒーロー)。
 私の光。
 私の、私の――――

『ジャンヌ、貴女は美しい。今日は欧州の子どもを誘拐して、惨たらしく殺していたと報じられていたね』

 私は、貴女になろう。

『ジャンヌ、貴女は最高だ。あの虐殺もあの強盗もあの戦争犯罪も、全て貴女の仕業だったなんて』

 貴女という、絶対の指標をこの世界に刻みつけよう。

(―――ジャンヌだと? あのような凡俗が)

 潰れたはずの右目が疼く。
 神を名乗る男によって、瞳に捩じ込まれた残影が何事かを嘯き、その都度に胸が疼く。

(―――神を見ろ。しかと見ろ)

 黙れ。
 黙れ、黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ!

 許せぬ。あの男は私の中のジャンヌを汚し、光を奪い去った。
 私は今日、生まれて初めて、怒りを知ったのだ。

 胸の内側が腐ったように疼く。
 炎の如く駆け昇る感情。怒り。嗚呼、これか、これだったのか?
 貴女の纏いし炎の熱は。

(違うね、そんな情動は普遍的なものに過ぎない)

 脳内に氾濫する神の声。いつかラジオから流れていた彼女の声。

『私は戦い続けます。たとえ、この身が燃え尽きても。心はあなた達と共にいます。だからどうか―――』

 我が旅は、まだ道半ば。
 新たに刻まれた感情は、全身を包む冷気をもってしても抑え切れず。


『――どうか、最後まで、希望を捨てないでいて』


 嗚呼、怒りだ。
 今の私には、怒りだけがある。





 ドブ底に複数の死体が浮いている。
 目立った外傷は見られないが、腐敗の進行によって薄紫色に変色した肌が痛ましい。
 折り重なったそれらは男女の区別もつかない程に崩れ、たかる蛆虫と充満する異臭が、死後数日間に渡って放置されている事実を伝えている。

 積み重なった複数の死体は時間の経過とともに腐りながら混じり合い、もはや個人を特定することは不可能であろう。
 ただ、折れ曲がった腕の細さが、垂れ下がった頭の小ささが、教えてくれる。
 それらが、年端も行かぬ子ども達の飢えて死んだ、そして遺棄された肉の集合体なのだと。

 戦乱、貧困、疫病。
 小国を襲った在り来りな悲劇の名前。
 事切れた子どもの死体を丁重に弔う余裕すら、この国にはもはや無い。

 神に見放された土地。
 地獄のドブ底を、一人の男が覗き込んでいる。
 肩を震わせながら、胸を掻きむしりながら、口汚く罵りながら。

 男は、見ている。
 死体の積み上がったドブの底を、ではなく。

「―――さん」

 こちらを、見ている。

「―――ドさん、聞いていますか?」

 目を擦り、細める。
 あの男は誰なのだろう。
 こちらを睨みながら、何かを訴えるあの男は―――

「アルヴドさん」
「――――っ」

 真横からの呼びかけによって、アルヴド・グーラボーンは我に返った。
 一瞬の妄想。あるいは回想が過ぎ、現実の景色が押し寄せる。
 森の出口はいまや目前に、耳朶を掠める夜の風と同行する男の言葉。

「呆とされおりましたが、大丈夫ですか?」
「あ、ああ……コーイチローか。いや、少し考えてただけだ」

 数歩前を行く夜上神一郎が首だけで振り返りながら、薄く笑った。

「また何か見えましたか?」
「……まあ、な。ちょっと昔を思い出してた」

 あしらうように応答しつつ、アルヴドの思考はいまいち霞がかったように纏まらない。
 刑務開始以来、いや正確には目の前の男と関わって以来、不可思議な事ばかり起こっていた。
 頭の中で響き渡る、自分自身との問答、不意に思い出す過去の情景。
 己の内側で置き去りにされていた罪が形をもって浮かび上がるような感覚。

「それはよい兆候ですね。あなたは神(あなた)との対話を通じ、己の過去(つみ)と向き合い始めた」
「説教臭え。テメエの宗教観で決めつけんじゃねえよ」
「失敬。これは神(わたし)のクセのようなものなのです。故に後に続く言葉も聞き流していただいて結構。
 ただし、いづれ、あなたにも試練が示されるでしょう。その時までに考え続けることを勧めます」

 相変わらず捉えどころのない調子で、日本人の神父は穏やかに話しながら一歩先を進んでいく。

「なあ、アンタは一体何者なんだ?」

 アルヴドはとうとう、その問いを口に出した。
 夜上神一郎、独自の宗教観を持つ神父。アビスにおける数少ない模範囚でありながら、血なまぐさい刑務に参加させられた不幸な人物。
 そんな人物評は、とっくに形を失くしている。

 彼は異様だ。
 精神的に大きく均衡を欠いていたアルヴドを言葉だけで諌め、あまつさえ信頼を得てみせた。
 アルヴドを一瞬で行動不能にするほど強力なネオスを操る敵、狂気に支配された危険な死刑囚(ジルドレイ)を言葉だけで追い返した。

「神(わたし)はただの神父ですよ。大した権力も、超力も持ちません」

 そんな言葉で納得できるはずもない。
 夜上の成した事象は単純な話術だけで片付けられない。
 しかし目に映る彼の情報はやはりどこまでも平凡であり、認識と状況の齟齬に違和感が付きまとって気持ちが悪い。
 あるいは、その認識すら、アルヴドの精神が彼に掌握されている証左なのか。

「神(わたし)などより、今はあなた自身の心を気にされた方が良い。
 よければ、先ほど見たと仰った過去の話を聞かせていただけますか?」
「告解を受けてやろうってか?」
「ええ、あなたがあなたの神と対話する、その一助にやるやもしれません」
「ちっ……だから宗教観が違うってのに。別に構わねえけどよ、道中暇だからな」

 はっきりと分かる事は一つ。
 この男は、酷く変わり者ということだ。
 刑務という異常な空間において、夜上は他の刑務者と全く別の軸で動いているように思える。

「死体の山。俺の故郷の景色だよ。もうとっくに帰り方も分からねえ貧相な国だ。
 今も辛うじて国の体裁を保っちゃいるらしいが、もうありゃ国家なんて機能が働いているとは思えねえ」

 そんな彼だからか、アルヴドは素直に先ほど目にした光景を口にした。
 ドブの底に積まれた死体。27年前の故郷の姿。当たり前のように人が飢えて死んでいく、現存する地獄の景色。
 かつて宗教テロリストであったアルヴドが守ろうとした、あるいは変えようとした現実の姿。

 彼の所属していたテロ組織は、様々な方法で世界にその悲惨的な現実を訴えた。
 自国の無能な指導者を軟禁して、国家転覆を謀ったこともあった。
 隣国の侵略者を自爆テロで暗殺した事もあった。
 全く無関係で平和な国の人々を虐殺した事もあった。
 そしてついに、彼らは極東の高等学校襲撃作戦に至り、アルヴドはアビスに収監された。

 全ては、世界に、そして神に、気づいてもらうためだった。
 悲劇はここにあるぞ。
 救われぬものがあるぞ。
 お前たちが取りこぼしたものが、確かにここにあるんだぞ、と。

 だが、全ては徒労だった。
 一時期は巨大に膨れ上がった宗教テロ組織も、今となっては細々と体制を維持するのが精一杯の有り様だという。
 何人殺しても現実は変わらない。残ったのは積み上げた死体の山だけ。
 世界は、神は、けっきょく最後まで悲劇を黙認した。

 故にアルヴドは、神を憎む。クソと罵り、蔑み見限る。
 夜上に出会うまでは、神の名前を聞くだけで錯乱するほどに、彼にとっての地雷だった。
 なのになぜ、今更それは克服され、こうして過去を振り返るに至ったのか。

「ほう、ほう……なるほど、なるほど」

 アルヴドの言葉を聞いた夜上は指先で顎を擦りながら。
 一人で何かを納得したように頷いている。

「気に食わねえ。勝手に腑に落ちたようにしやがって」
「失敬。しかし、今の話を聞いて、また一つ貴方について理解できましたよ」
「なにが言いてェ?」
「まず1つ目に、貴方の思想ルーツはやはり貴方の故郷にある」

 そしてもう一つ、と彼は2本目の指を立て。

「最終的には貴方次第なのですがね。審判の分岐点はおそらくここです」

 木々のアーチ。
 森の出口に手をかけて、首を傾けながら振り返る男は力を抜くように息を吐き出し。

「貴方は――――おっと、時間が来てしまいましたね」

 緑を抜けて遂に辿りつた街道、その対岸に、それは居た。

「なあおい、コーイチロー。ありゃ一体なんの冗談だ?」
「次の試練ですよ。決まっているでしょう」

 東側の森林地帯が真っ赤に燃えている。
 ごうごうと立ち昇る炎を背にして、一人の女が立っていた。

「足りない……次! 
 ……次の、悪を……探さなければ……ッ!」

 その女の様相は、人間として完全に破綻している。
 まず左腕の肘から先が存在していない。
 幼さの残る顔には痛ましき二つの刀傷が刻まれ、内一つは瞼にまで届き左眼を失明させている。
 しかし彼女の姿を凄絶に歪めているのは、それら痛ましい傷そのものではない。

 傷口の全てから滴る赤。
 それは血ではない、紅蓮の炎だ。
 血液のかわりに全身から大量の炎を撒き散らしながら、夜天の下、女は赫怒に任せて絶叫する。

「燃やし尽くしてやる……ッ! 私たちを否定した世界全部ッ!!」

 左腕の切断面からは火炎放射器の如く火の息が吹き荒れる。
 左目の空洞に眼球代わりに収まった焔は、睨むだけで人を呪い殺さんばかりに鮮烈だった。
 アルヴドはその有り様に言葉を失い、暫し立ち尽くす。
 しかし、そんな時間は、当然長くは続かない。

「――あ―――いた」

 目が合う。

「いた、いた―――!」

 アルヴドと夜上の姿が、燃え盛る焔の眼に捉えられる。

「……おい、どうすんだよ……これ」

 思わず、アルヴドは聞いてしまった。
 答えなんて最初から知っていたのに。

 それでも夜上は律儀に答えてくれる。
 誰の目にも明らかな、当然の回答を。

「そんなの逃げるに決まってるでしょう。不本意ですが森に戻りますよ」

 巨大な火柱が伸び上がって弾ける。
 大木を飲み込む炎の腕、解き放たれた熱気が殺到する。

 熱風が追いかけてくる。もはや一刻の猶予もない。
 踵を返して森林地帯へと走り出した二人の背後、赤き狂気が駆動する。
 それは少女の祈りの成れの果て、人の歪みの末期症状。

 赤熱の狂信。火群の魔女。
 囚人、フレゼア・フランベルジェ。
 下されし裁定は――無期懲役。





 暗い森を駆け抜ける。
 走り出してから、どれほどの時間が経ったのか。
 数十秒か、数分程度か、ハヤトは己の時間間隔が曖昧になっている事実に気がついた。

 きいんと耳が鳴る。
 背後から首筋を撫でる冷気に鳥肌が立つ。
 自分の息が煩い。心臓の音が煩い。そして先程から聞こえるこの――

「ハヤトさん、このままじゃ駄目です! 離してくださいっ!」

 女の声が―――

「―――っ」  

 己の右手が何かを掴んでいる。
 柔らかい毛皮の感触。低下の一途を辿る気温の中で、唯一、掌に伝わる暖かさ。
 同行していたセレナの腕を、無意識に掴んだまま、彼は走り続けていた。
 先程からずっと訴えていた彼女の声を聞かずに。

「このままじゃ、追いつかれちゃいますよっ!」

 ―――どうして?
 と、思う。どうして己は彼女の腕を離せない。
 恐ろしい死刑囚と遭遇し、とっさに彼女の腕を引っ張って逃げ続けた。
 しかしそれは、本当に彼女の為を思ってした行動だったのか。

「あ、お、俺は……」

 まさか恐れているというのか。
 この手を離した瞬間に起こることを。

 彼女一人ならきっと逃げ切れる。
 ハヤトを見捨てて、全力で逃げればきっと、背後に迫る追跡者を振り切ることは容易いだろう。
 逆を言えば、彼女に見捨てられたら、己は絶対に逃げ切れない。
 だから―――

「俺は―――何を――――」

 ぱきぱき。
 氷を割る音が近づいてくる。
 気温は下がる一方だ。

 恐ろしい。ハヤトは認めるしかない。
 己は今、怖いのだ。ストリートギャングとして荒事に慣れていた彼であっても、今この時、背後に迫る未知の災害が恐ろしい。

「ハヤトさんっ! 聞いて下さい!」
「なん―――だよ―――!」

 心中を悟られぬよう、虚勢を張りながらセレナと目を合わせる。
 無駄な抵抗だったのかもしれない。
 おそらく彼女は見抜いている。
 ハヤトの体の震えは、腕を伝って彼女に届いているだろうから。
 だが、彼女は全てを知った上で、こう告げたのだ。

「―――大丈夫、信じてください」

 その声に何故か、腕の力が抜ける。
 するりと、緩んだ掌からセレナの腕が抜け出していく。
 拘束から逃れ、自由に身体を動かせるようなった獣人は、ようやくその本領を発揮する。
 身軽なウサギは呆気なくハヤトを追い越し前方に躍り出る。

「こっちです! ついてきてっ!」

 しかし事態は彼の恐れた通りにはならなかった。
 ハヤトを誘導するように、セレナは三メートル程度前方を一定距離を保って走行する。
 躓きやすい道を避け、彼をナビゲートしているのだ。

「でも、これじゃあ……」

 セレナはハヤトを見捨てなかった。
 しかしハヤトの速度が上がらない以上、結局は二人共追いつかれる。
 遂に冷気は背中届き、肩から水滴が滑り落ちるまでに接近を許してしまった。
 狂気に喚く怪人のうめき声が、すぐ後ろで聞こえた気がした。

「くそッ……駄目だ……もういいオレを……!」

 置いて行けと。
 どうしても言葉にできない。
 先程は伝えられた言葉が、極限状態では、何故か喉を通過しない。

(そっか、オレ……)

「もうちょっとですっ!」

(オレ……何だかんだ言って、死ぬのが怖えんだ)

「いたっ! 目の前ッ! ハヤトさん、前方に気を付けてっ!!」

 再び、セレナの声にはっとする。
 次の瞬間、前方にあった木の裏側から、突然、二人の男が現れた。
 彼らもまたハヤト達と同じように、何かから逃れるように走っていて。
 その内の一人、痩せこけた黒人は既にハヤトの正面に迫っている。

(ま――ずい)

 進路を変えようにも、足を止めようにも、勢いがつきすぎていて間に合わない。
 避けられぬ衝突を前に、目の前の男の表情がにわかに強張るのが見えた。
 苦し紛れに、闇雲な動作で右足を地面に突き立てる。


(これしか――ねえッ!)

 結果、2人分の運動エネルギーを維持したままに正面衝突を果たした両者であったが、発生した現象は道理に合わないものであった。
 ぶつかった瞬間、発生する衝撃は一切現れず、代わりにハヤトの掌が触れていた大木の幹が消し飛び、めきめきと音を立てながら倒れていった。
 数秒、二人は接触したまま静止し、やがて、

「……お、おおおい! テメエどこに目え付けてんだクソッ!」

 ハヤトに掴みかかってくる痩身の男に、彼もまた反論する。

「五月蝿え、お互い様だろ! それにどこも怪我してねえんだからいいだろうがッ!」
「ああッ!? あれで無傷なわけ……」

 痩せた男は怒鳴りながら自分の身体をぺたぺたと触り、そして、次第にその語気を弱めていく。

「……確かに、どこも痛くねえ。どういうカラクリだ?」
「おそらく彼の超力でしょうね」

 そこで、隣に立っていたもう一人、日本人の男が口を挟んだ。

「受けた衝撃を吸収して放出する。そんなところでしょうか?
 発動直前の不可解な動作からして、足が地面に着いていることが発動の条件かもしれません」

「お前ら……なんだ?」 

 瞬時にハヤトの超力を解析してみせた男に、警戒心が膨らんでいく。
 対して男は飄々と肩を竦め、傍らの黒人を指しながら告げた。

「それはこちらのセリフでもあるのですがねえ。
 神(わたし)は夜上、こちらはアルヴド。残念ながらゆっくり自己紹介している場合ではないのですよ。
 それは、あなた方も同様かと思いますが? でしょう? 聡明なウサギのお嬢さん?」

「……セレナ?」

 3者の視線が一箇所に集まる。倒木の傍らに立つ少女に。
 ハヤトとアルヴドは未だに状況に理解が追いついていない。
 現状を正確に理解しているのは、この場では夜上神一郎と、そしてもう一人。

「ごめんなさい……ハヤトさん、わたし……どうしても、この方法しか思いつけなくて……」 

 セレナ・ラグルス。『この状況』を作り上げた。
 いや、正確には、『これから巻き起こる状況』を作り上げた、獣人の少女は理解しているのだ。
 これから、この場に、地獄が出現することを。

 ぱきぱき、と。
 ハヤトの背後から音がする。
 それは氷の世界が広がる音だ。
 迫りくる怪人の足音だ。

 ぱちぱち、と。
 アルヴドの背後から音がする。
 それは炎の世界が広がる音だ。
 迫りくる魔女の足音だ。

「―――追いついた」

 熱気が、走り抜けていく。
 冷気が、吹き抜けていく。

「―――追いついた」

 フレゼア・フランベルジェ。
 ジルドレイ・モントランシー。

 その中央に、哀れな4人の贄を挟んで、炎と氷、2つの災害が此処に邂逅する。
 互いの姿を、視界に入れる。

「――――貴様は」
「――――お前は」

 そして彼らは瞬時に、全くの同時に理解したのだ。
 今、目の前に立つ存在は、何よりも優先して討ち果たすべき、決して相容れぬ宿敵であると。

 一分一秒、刹那の間隙すら、お互いの存在を許容できぬ。
 故に、彼らの狂気はこの一瞬のみ、嵐の前の如くに冷めきって。

「殺す」
「死ね」

 放出される赤熱の大紅蓮。
 吹き荒れる青藍の猛吹雪。

 挟まれていた4人が、弾けるように四方へ退避した直後。
 対峙する怪物達の中央にて、赤と青の殺意が衝突し混じり合い。
 次の瞬間、周囲一帯を更地に変えるほどの水蒸気爆発を引き起こした。




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最終更新:2025年03月23日 23:51