/Chambers-Memory 6

 ――どうして、こんな事になってしまったのだろう。

 死を前にした人間は得てして原因を知りたがる。
 なぜ、どうして、何をもって道は絶たれ、それを防ぐ分岐は何処にあったのか。
 どうしようもない詰みに直面したときにこそ、人は無意味な"もしも"に救いを求める。

 王星宇(ワン・シンユ)もまた、そうであった。
 もはや逃れられぬ死を前に、男はこれまでの足跡を振り返る。

 凋落の始まり、呼延光の謀殺は幇会にとって避け得ぬリスクであった。
 彼は今に至っても、その決定を誤りだったとは思っていない。
 幇会は可能な限り手を尽くした。四人の弟子を始末した経緯すら、当時は必要な犠牲だったと割り切っている。

 しかし幇会の備えを超えて、呼延光という存在は強すぎた。
 ある時を堺に、毎年一人、また一人と消えていく幹部たち。下手人が誰であるか、きっと皆、分かっていた。
 10年前に死んだはずの男は黄泉路から舞い戻り、鋼鉄の執念をもって復讐を開始したのだ。

 そして、遂に決定的な事件が起こる。
 幇会の重鎮が一同に介した祝賀会、その会場となった客船に呼延光が単身で奇襲をかけた惨劇の夜。
 王星宇もまた、他の幹部と共に鉄の拳に貫かれ、一度は死の淵を彷徨った。

 今日、この瞬間まで生き長らえることができたのは、あの日、奇跡的に心臓が再動したこと、そして誰も知らぬ逃げ道を知っていたことに起因する。 
 重症を負いながらも大連港から沖へ流され1週間。
 獣化の超力がもたらした凄まじい往生際の悪さでもって、彼はその島にたどり着いた。

 そこは地図から消された国だった。
 幇会上層部でも一握りの者しか知らぬ、四人の弟子を送った流刑地であり、悍ましき処刑場"だった"場所。
 十年程前までは銀の魔神が統べていたとされる、今は廃墟しか残っていない無人島。
 そこであれば呼延光にも見つからず傷を癒やし、再起を図れる筈であった。

 王星宇以外、今や誰も用のない、遺棄された場所の筈であった。
 詳細座標を知っていた幹部はみな死に絶えた。
 魔神の国が滅びた今、GPAもとうに打ち捨てた、忘れ去られた島。

「――な、ぜ」

 そこに、なぜ、敵が潜んでいたというのか。
 理不尽な結末。不可解な因果に答えは与えられぬまま。
 かつて四人の罪なき者を流した浜辺で、王星宇は臓を潰され、息絶えようとしている。

「良い。真良き、立会であった」

 嗄れた声が降ってくる。
 倒れ伏した王星宇を見下ろす影。
 怪しく蠢く輪郭は、細身でありながら壮健な老武士の形をしていた。

「……なんだ……お前は?」

 困惑の渦中、最期の瞬間、王星宇はそれを問うた。
 行き合ってしまった怪物。
 それは如何なる因果によって、己を殺すのか。
 返された答えは、端的に。

「剛田宗十郎」

 まるで知らぬ、故なき名を。
 なんとも理不尽な事実を告げていた。

「さて、良き武人よ。共に往こうか」

 そうして、王星宇は理解した。
 つまり、それは、そういうモノだったのだ。

「貴様は――儂らの"家族"になるのだ」

 答えは得られない。此処が彼の終点だった。
 運命に故などない。
 ただ、別の道など、分岐など最初から、どこにも有りはしなかったのだと。





 01:07:24

 <ブラックペンタゴン 北東ブロック外側・機械室エリア>


 エンダ・Y・カクレヤマと只野仁成は、機械室にてじっと機をうかがっていた。
 爆弾魔と剣豪によって荒らされた室内では未だにあちこちから蒸気が吹き出し、付着した水と汗の混じり合った雫が、互いの頬を伝っていく。

 ひとまず、策は成った。
 二人は確かな手応えを感じている。
 通路の奥から聞こえてくる爆音と衝撃こそが証明だった。

 ギャル・ギュネス・ギョローレンと征十郎・H・クラークが、エルビス・エルブランデスと交戦を開始した。
 剣豪と爆弾魔、そしてチャンピオン。
 黒靄の欺瞞に誘導され、目下最大の脅威だった3者が潰し合っている。

「……先行させた蝿が戦闘を検知してる。幸い、こっちに誘導する様子はないみたいだ。あくまで今のところは、だけど」
「そうか……なら……良かった」

 どうやら二人を残し、連絡通路で始まったらしき戦闘。
 その最大の懸念は、ギャル達がエルビスを目視した瞬間、機械室に取って返すパターンが有り得たことだ。
 彼らはエンダと仁成が未だに機械室に留まっている可能性に思い至っただろう。
 もし戻ってこられたら今度こそ退路はない。

 そのうえで可能性は低いと踏んではいた。
 合理的に考えれば、エルビスを機械室に誘導すれば、位置関係的に今度は爆弾魔と剣豪の側が挟撃に合う。
 それでなくても、機械室が袋小路であることを、他でもない入口を潰した張本人たる彼らは理解している。

 それでも、今に至るまで懸念を払拭することは出来なかった。
 相手は生粋の享楽主義者にして破滅主義者、合理だけで行動を推し量ることは出来ない。

「今は、力を抜いていいよ、仁成。どうせここも、そう長くは留まって居られない。見張りは私がやっておくから」
「ありがとう。だけど、君こそもう力を抑えていいんだ。その超力だって、体力を消費するんだろう?」
「……でも、警戒の目は置いておかないと」
「どうせ退路はないんだ。近づかれたら戦うしかない。だったら、体力の回復に努めるべきだろう」
「………………それも、そうだね」 

 長い逡巡のあと、漸くエンダは身体の力を抜いて座り込んだ。
 仁成もまた寄り添うように、機械室の床に腰を下ろす。

 もちろん、完全に危機を脱したわけでは無い。
 依然、状況は鉄火場の真隣であり、機械室の北側出口が塞がれている以上、彼らはいずれ南側から連絡通路に出る必要がある。
 その時までに敵の全てが去っているというのは、あまりに楽観的であろう。
 それでも第一回放送以降、恐ろしきチャンピオンに追われ続けていた彼らにとって、漸く得られた束の間の休息であった。

「お互い、笑えるくらいボロボロだな」
「まったくだ。これじゃ神様の威厳もまるでないね」

 服の汚れを手で払いながら、やれやれと自嘲するように嘯くエンダ。
 不満げに口元を曲げた少女を、仁成はどこか微笑ましい目で見つめていた。

 ――仮にたとえるなら……妹みたいな。

 先ほど自覚したその目線を、悟らせないように背けようとしたとき。

「そうだ、今のうちに、話しておきたいことがある」

 改めて、仁成を正面から見つめるエンダの瞳。
 出会った当初は底知れぬ、息を呑むほどに美しく、同時に冷たく感じた光を、今の仁成は全く違う印象をもって受け止めている。

 それはエンダに訪れた変化なのだろうか。
 それとも、仁成の見方が変わったのだろうか。

 いずれ、仁成にとって彼女はもう、正体不明の少女でも、隔絶した神でもない。
 互いの秘密が少しずつ減り、互いの夢を明かしあった今、きっと変化は、どちらの側にも。

「この場所と、私の超力について」
「……いいのか?」

 目的の半分以上が明かされて、それでもまだエンダは謎多き存在だった。
 中でも、彼女が自身を『脱出の為の鬼札』と呼んだ理由は伏せられたまま。
 仁成と出会った当初、『ヴァイスマンの眼があるから話せない』と、彼女は語っていたが。

「構わないさ。実はもう、さっき口にしてしまったからね」
「そうか……あのときだな……すまない、僕が」
「いいよ、もう。そういうのは言いっこ無しだ。命を救われたのは、お互い様なんだから」

 仁成の意識が混濁している間に起こったことだが、彼も薄っすらとそれを憶えている。
 エルビスとの戦闘の最中、危機に瀕した仁成を救うべく、エンダは口にしてしまった。

『この孤島はね、超力によって作られた世界なんだよ』

『わたしは―――――この世界に干渉できる』

 異世界構築機構(システムB)。
 まず前半の時点で、仁成は自分の耳を疑った。
 更には、世界そのものに干渉し得るエンダの超力。
 途方もない前提条件に続けて、途方もない切り札が開示されたのだ。


 今立っている地面すら、超力によって作り出されたものだと言うなら。
 此処は決して檻の外などではなく、むしろ牢獄よりも完璧に閉ざされた深淵の底の底。
 エンダはそこから脱出するための、鍵となりえるだろうか。

「しかし……実際に、そんな事がありえるのか? いくら君が超力を無効化できるからって、世界そのものをどうにかするというのは……」
「納得できない?」
「率直に言うと」
「まあ、そうだね。確かに、単純な無効化能力だけじゃ太刀打ちできない。重要なのは"無効"じゃなくて"干渉"できるかどうか、さ」
「"干渉"……?」
「そう、超力の根本に干渉し、改変する。この芸当が可能な奴は、囚人であれば私と……私の知る限りあと一人くらいしかいなかった」
「凄いな」
「これでも神様だからね。讃えていいよ。……ふん……エルビスのやつには、子供じみた計画だ、なんて言われてしまったけど」
「しかしそれが、今や看守長にも知られてしまっている、と」
「……ああ」

 刑務官は未だ絶対的な優位性を確保している。
 こと、ヴァイスマンの眼に死角はない。アビスの囚人は全員例外なくタグ付けを受けている。
『支配願望(グローセ・ヘルシャー)』の支配から逃れられる者は、この牢獄には一人もいない筈だった。
 一方で、本気で看守長を出し抜いて脱出を目指すなら、その攻略は絶対に要求される。なんとも理不尽な二律背反である。
 しかし、その支配すらエンダはすり抜けていたかもしれないのだ。

「『葉を隠すなら森の中』……昔、人としてのエンダが読んでいた推理小説に、そういう台詞があったね」

 ならば、彼女に与えられた真の優位性とは、唯一と言っていい"例外"になり得た事かも知れない。
 タグ付けが人間の少女としてのエンダ・Y・カクレヤマに対して行われていたとしたら。
 土地神として肉体に降りた"今のエンダ"は、ヴァイスマンの視野外に居るのではないか。

「だから多分、奴は私の超力について、完全には把握出来ていなかった可能性が高い」

 葉を隠すなら森の中、ならば能力を隠すなら――?

「まあ、それも……さっきまでの話」

 なんて、手痛い。
 仁成は素直にそう思うと同時、強烈な責任感と悔しさが込み上げる。
 エンダは伏せていたカードを公開せざるを得なかった。
 自分のせいで、彼女は貴重なアドバンテージを手放してしまったのだ。

「だから……そんな顔しないでくれよ。さっきも言ったろう。君のせいじゃない。
 それに私の超力と叛意が知られたところで、それで完全に勝ち目が消えたわけじゃないんだ」

 エンダは、諦めるつもりは無いようだった。
 鬼札は晒されてしまった。
 しかし未だにタグ付けが為されていないなら、これから新たに打ち出す一手まで読み取ることは出来ない。
 だったら―― 

「まだ何か……明かしていない切り札があるんだな」
「え? いや、もうないよ」
「……ないのか」
「ああ、だから……ほら、これから一緒に考えるんだよ、仁成」

 言ってニヒルに笑ってみせた少女に、仁成は少し毒気を抜かれ。
 肩の力を抜いて、「そうだな」と答えた。

「でも僕が一緒に考えて、それで君の作戦に思い至ってしまったら、結局は僕の思考を通じてバレてしまうんじゃないか?」
「たしかに……じゃあ私が思いつくよう手助けをして、その上で君は思いつかないでくれ」
「難しい要望だな……」

 しかしその時、再び脳裏に僅かな疑念が走り抜ける。

 ――ほんとうに、有り得るのか。

 今更エンダを疑っているわけでは無い。
 ただ、単純に思っただけだ。

 ――本当に、そんな都合の良いことが偶然起こったのか。

 エンダの言葉が真実なら、脱出の為に必要な要素は分かっているだけでも3つある。

 知識(この世界のシステムを把握していること)。
 能力(システムそのものに干渉する力を有すること)。
 隠匿(ヴァイスマンの監視を逃れる手段をもつこと)。

 どれ一つとっても容易ではない条件を、たった一人の囚人が全て備えていた。
 そんな都合の良いことが、本当に――?

「仁成?」
「いや……」
「どうした、気になることがあるなら言えばいい」

 険しい表情になっていたのだろうか。
 目ざとい少女が、じっとこちらを覗き込んでくる。


 エンダの事は信頼している。
 しかし、せっかく秘密を開示してくれた彼女に、この場で懸念を口にするのが憚られ。
 仁成は代わりに、前に薄っすら思ったことを口にした。

「エンダ、でいいのか?」
「……?」
「君の呼び名だよ」

 エンダは人間として生きた少女の名であり、カクレヤマの土地神としての名は別にあるのではないか。
 図書室にいたとき、ふと、そんな事を思ったのだ。
 対して少女は「なあんだ、そんなことか」と一息ついて。

「これからも、エンダでいいよ。私はエンダの夢を叶える。それまでは、私はエンダとして生きるから」
「そうか、じゃあ、改めてよろしく、エンダ」
「ああ、それでいい。よろしくだ、仁成。……それに、ヒトであった頃の名前なんて、とうに忘れてしまったからね」
「……?」

 締めくくりかけた会話の中に、僅かな違和感が混じっている。

「……ヒトであった頃?」
「そうか、そこまでは言ってなかったか」

 エンダは一瞬だけ逡巡し、まあいいか、と呟いた。
 ヴァイスマンに聞かれるリスクを考慮し、影響ないと判断したのだろう。

「カクレヤマの土地神は人神(ヒトガミ)なんだ。人の死後、功績を讃えて神として祀る」
「なぜだか、あまり良い感じがしない」
「察しが良いね。そう、讃えて祀るなんて聞こえはいいけど、殆どのケースは祟りを恐れ、鎮めるためだ」
「つまり君は……」
「人々を祟り殺すと思われた負の存在、あるいはそれを鎮めるために送られた贄……ってところか」

 再び、あの寂寥感が仁成の胸を締め付ける。

「私にも人間としての生があったことは何となく憶えている。
 だけど、それがどんなものだったのかはもう分からないし、名前すら思い出せない。
 きっと幸福ではなかったんだろうけど、誰かに対する恨みなんて持てないよ、だって気が遠くなるほど昔の話だ」

 それは、どれほどの孤独だったろう。

「信仰……人の憎悪、無念、欲望、そういう物を受け止めるのが神様になった私の役割だった」

 彼女自身が望んだことなど、きっと一度もなかったろうに。
 個我を顧みられる事なく、救いを求める人々に、一方的に役を押し付けられ、降りることもできない。

 彼女自身は、死後の救いすら得られない。
 なぜなら神に死はないから。永遠の孤独の中で、恨みも擦り切れるほどに在り続けた。
 そんな神様は、ある時、一人の少女に出会った。

「エンダが私を見つけてくれたんだ。彼女だけが、私の側にいてくれた。
 『神様がいれば寂しくない』なんて、あの子は言っていたけれど。
 本当は……本当は私が……わたしこそが……」

 カクレヤマの土地神は善神ではない。厄災を鎮めるために祀られた悪神である。
 曰く、その地は呪われている。
 神の祟りか、あるいはかのヤマオリとの繋がりが齎した影響か。

 開闢以後、カクレヤマの地では"特異な超力"が頻繁に発現しているという。
 エンダの神降ろしもその一つ。
 異質なる地質の根本に、土地神の影響が関わっていたとしたら。


 エンダの人生を奪ったのは己だと、土地神は言った。
 仁成はその言葉の本当の意味を知る。
 全ての出発点が神の出現にあるとすれば、根本の間違いは――

「私は生まれて来るべきではなかった」

『―――君はね、生まれて来るべきではなかったんだ』

 ヤマオリ・カルトの教祖、並木旅人はエンダという少女を捕え、傀儡巫女として祀り上げた。
 かつて、男は少女にこう語った。

『世界は間違っているんだよ。間違いは消し去らねばならない』

 ヤマオリ・カルトはその発生から間違っている。
 偽りの信仰によって人を拐い、殺め、不幸を振りまく。

『エンダ。君だってそうだ。君の好きな神様だってそうだ。始まりから間違えている』

 カクレヤマの土地神はその根本から間違っている。
 現にカルトにおいて、超力を狂わせ、誤った信仰を集めるための道具となっている。

 並木旅人。世界各地で不幸をばら撒き、不幸を収穫するマッチポンプ。
 普遍的でありながら狂気的という矛盾を内包した人でなし。
 土地神は怒りに震えながらも、一言も反論することが出来なかった。

『間違いから生まれたモノは、間違いしか生まない。根本を絶たなきゃいけないんだ』

 それは土地神自身が、ずっと思っていた負い目でもあったからだ。
 出生の経緯からして、己は間違っている。
 己さえいなければ、エンダが不幸になることはなかった、カルトが急速に広まることはなかった。
 こんなに多くの人間が攫われ、殺されることはなかった。
 自分さえ、自分さえ、生まれてこなければ―――

『くすくす……いいえ、旅人さん。私はそんなふうに思いません』

 なのに、少女は、神を孤独から拾い上げてくれた、ちっぽけな少女は、あの日、いつもの笑顔で言い切ったのだ。

『たとえ間違いから生まれたモノであっても、良い人はいます。善い神様だっています。
 わたしは、神様に出会って、変わりました。
 人は変われるんです。だから良いじゃないですか、始まりから間違っていたって――』

 その一言を、神は今でも憶えている。
 どれほどの時が経っても、忘れることはないだろう。

『正しく生きようと願うことが、無価値である筈がない』

 彼女の願いは、きっとそれを体現するものだった。
 間違いから生まれたヤマオリ・カルト。
 不幸を振りまくカルト集団を、誰もが安らげる優しい止まり木へと、『神様の家』へと変えるために。
 そして神様の家は、文字通り『神様(ひとがみ)が帰るための家(いばしょ)』でもあったのだ。
 たとえ、間違いから生まれたものであっても、生きて良い、変わって良いのだと。

『わたしたちが一緒なら、きっとできる。そうでしょう、神様』

 言ってくれた、優しいあの子の願いが。

「こんなところで……死んでいいわけがないんだ……」

 だから、エンダは、"エンダ"として、残された夢を果たすと誓ったのだ。







 /Chambers-Memory 5


 ――どうして、こんな事になってしまったのだろう。

 分岐を前にした人間は得てして原因を知りたがる。
 サリヤ・K・レストマンもまた、そうであった。
 もはや逃れられぬ運命を前に、女はこれまでの足跡を振り返る。

 極東の島国、カクレヤマの土地までフィールドワークにやってきたのは、ある特異な超力者を見つける為だった。
 思えば、それが全ての始まり。
 結果として、事態は彼女の想定を超え、描いていた図画は崩壊した。

 それは、けたたましく蝉の鳴く、夏の夜だった。
 闇の中で、一発の銃声が轟いた。

 街灯の少ない田舎、人通りの少ない高架下の河原に、女の死体が浮かんでいる。
 見開かれたオッドアイは既に何も映していない。
 ウェーブがかった薄紫の髪の毛が、水面に広がって揺れている。
 その死体の傍には、一人の少年が佇んでいた。

 希薄化する意識の中で、サリヤはぼんやりと、少年と出会った時のことを思い出している。
 あの時であれば、まだ後戻りは出来たのだろうか。
 大切な誰かの下へ、帰ることが許されたのだろうか。

「―――誰か、そこにいるの?」

 サリヤは彼を見つけた。

「ぼ、僕が……わ、わ、分かるんですか?」

 見つけてしまったのだ。

「あなたは誰?」

 唐突で、理不尽で、益体もない。

「ぼ、僕は……僕は、本条……本条清彦」

 つまり、それは、そういうモノだった。

「あなた……僕の家族になってくれませんか?」

 運命に故などない。
 ただ、別の道など、分岐など最初から、どこにも有りはしなかったのだ。









 00:58:55

 <ブラックペンタゴン 北東・南東ブロック連絡通路>


 真っ白い閃光が空間を横一文字に断割する。
 刀身の通過に伴い、弾かれた黒鉄の束が四方に散って壁に突き刺さった。

 慣性に任せて2回転。
 一周して戻ってきた斬撃が先程とは違う軌道で襲いかかる。
 盾にするべくかき集め束ねた黒のヴェールを引き剥がし、巻き上げられた髪束の表面に凄まじい残痕を刻み込んだ。

「鉄を切り裂く剣……ですか、凄まじいですね」

 防御を破られ、たたらを踏みながら後ろに下がる亡国の王子――エネリット・サンス・ハルトナ。
 追撃する剣豪――征十郎・H・クラークは鼻を鳴らしながら更に一歩を踏み込んだ。

「つまらん欺瞞だ。それが鉄如きの硬度なら、貴様は初撃で死んでいる」

 跳ね上がる剣尖が降りかかる鉄の雨(かみ)を切り払う。
 続けて、エネリットの無防備な首筋に、返す刀で喰らいつかんとした刹那。

「加えて目も良いようですね。エルビスさん、お願いします」
「――――――シィッ!」
「―――っ」

 横合いから割り込んだチャンピオンの拳によって、征十郎は大きく後方に弾き飛ばされていた。
 一瞬のやり取り。
 びぃん、と。刀身を震わせる振動が、剣豪の掌に伝わる。

 先の一合。常人では何が起こったのか全く分からなかったであろう。
 エルビスの拳が征十郎の頭蓋を砕きに行ったと見せて、狙いの本質は刀にあった。
 チャンピオンは侍の剣速を見た上で、拳に対する敵の防御が間に合うと踏み、あえて拳に剣を触れさせたのだ。

 征十郎が安易にも誘いに乗り、エルビスの腕を絶つ軌道で切先を合わせていれば、今頃刀身は中程で砕けていただろう。
 それは精密にして絶妙な、パンチの軌道変化。急旋回させた裏拳を刀身の側面に直撃させる超絶技巧。
 実現したエルビスの腕は正しく達人のそれであり、しかし更に対応してみせた征十郎の剣技も負けてはいない。
 手首から伝える僅かな力伝達によって、刀身の腹でエルビス拳が齎した衝撃を受け流し、そのまま全身で後ろに飛ぶことで武器破壊を防いだのだ。

 彼我の距離は7メートル。
 闘士の間合いでも、剣豪の間合いでもない―――それは否。

 チャンピオンが出し抜けに腕を振りかぶる。
 虚空に突き出された拳から放たれる衝撃波。
 内藤四葉、只野仁成との連戦によって新たに掴んだ百歩真拳、その連射。

 闘士が、剣士の間合いの外から攻撃する。
 そんな、在り得ざる現象を、

「―――カァァァァッ!」

 征十郎は実に単純明快な手段で迎撃してみせた。
 即ち、斬る。
 飛来する不可視の衝撃拳を、目にもと止まらぬ剣戟で斬り伏せていく。

「じれった~い♪ じ~れったい~♪」

 しかし防ぐことは出来ても、反撃に移ることはままならない。
 このままでは征十郎の体力は削られ続ける一方であり、ならばその間隙を埋めるものとは、

「いくつにみえても~♪ わたしだれでも~♪」

 ぴっ、と。後方から飛来する何かが征十郎の耳元を通過した。
 それは極小の赤い礫であり、戦闘中に差し込まれた横槍。
 砂粒の跳ねるような繊細な攻撃を、エルビスは驚異的な動体視力で見切り、躱した。

 命中しなかった礫は、しかしエルビスの足元の床に当たってペシャリと広がる。
 即ちそれは液体、真っ赤な血液、征十郎の背後から投げ込まれた―――天然の爆弾であった。

「わたしはわたしよ関係ないわ~♪」

 軽快なフィンガースナップと同時、狭い廊下を爆炎が満たした。
 床を起点に吹き上がった火柱を、征十郎は真っ二つに切り払い。
 そして煙の向こうに未だ立つ、男の姿を見た。

 エルビスもまたノーダメージ。
 彼の背後から黒のヴェールが五体を包むようにして展開されている。
 鉄髪のシールドが爆炎の魔の手から守ったのだ。

「間に合って良かったです」

 しゅるりと鉄の髪を回収したエネリットは、エルビスの数歩後ろに控えて立っている。
 先程から、決して前に出ようとはしない。

「どうやらこの陣形が好バランスのようですね。僕が前に出ても邪魔になるだけだ」
「異論はない。オレの超力を活かすにしても適切だ」

 エルビスが前衛、エネリットが後衛。
 常勝無敗の拳王を、鉄の髪の王子は支援する。
 わかりやすく堅実な配置であろう。
 対し、廊下の前方にて向かい合う二人組は全く逆の様相であった。


 居合姿勢で刀を構えた剣豪(サムライ)の隣にて、金髪の爆弾魔(ギャル)がケラケラと笑っている。
 前傾、踏み込みに集中する征十郎の肩に、気安く肘を置いてはダル絡み。

「ど? ど? 征タン? さっきのナイス援護っしょ~」
「下がっていろ、タチアナ」
「え~? なになに~、心配してくれんの~?」
「違う、普通にこっちの身が危険だから言ってる。何が援護だお前、どう見ても私ごと吹き飛ばそうとしていただろうが」
「……ありゃ、バレちった」
「おい」
「まーまー、でも生きてんだからいーじゃんいーじゃん。征タンならたぶん不意の爆炎くらい斬れるっしょ? って思ってたし。これが信頼? ってやつ?」
「あのなあ」

 征十郎は半ば本気で鬱陶しそうに嘆息しながら、軽く肩を押し上げてギャルの肘を払う。

「やはりお前と同じ場所で死合うなど命が幾つあっても足らんと思い知る。
 さっさと何処かに失せるか、機械室の二人組にでも絡んでこい。お前はこいつらを斬ったあと、追いついて改めて斬ってやる」
「ほーい。んでー、私が言うこと、聞くと思う?」
「聞かんだろうな」
「せーかいっ! さっすが征タン分かってるう♪」
「だったら好きにしろ。言っておくが、私はお前ごと斬るつもりで殺るぞ」
「いーよいーよ、私も征タンごと吹っ飛ばすつもりだからさっ☆ 気にしないでいーよ☆」
「……なんでそんなに楽しそうなんだお前は」

 異様な二人組みだった。
 エネリットは警戒を強めながら、彼らの挙動を注視している。

 ギャルについてはディビットから聞いていたが、あの剣豪も大概おかしい。
 なし崩し的に戦闘に移行したものの、チャンピオンに対して全く物怖じしていない。
 それどころか半ば充足感を発しながら斬りつけてくる。

 なによりギャルテロリストと行動を共に出来ているという時点で、一般的な感覚から逸脱していることは想像に難くない。
 危険人物。交渉よりも、首輪に変えてしまった方が適当か。

 エネリットは征十郎をそのように見定めた。
 むしろギャルの方が、事前に聞いていた印象と少し異なって見える。
 その意味までは判断できないまま、にわかに戦闘が再開された。

 衝突する前衛。
 廊下の中央で打交される拳と剣。
 流水の如く滑らかな軌道で伸び上がる切先を、砲弾の如き拳が迎撃する。

 拳士に対する剣士の強みは言うまでもなく間合いの広さ。
 絶妙な距離感で飛来する切先が、エルビスの拳が届かない位置から一方的に斬撃する。

 しかし拳王はこれを理不尽と捉えない。
 長物を抱えた敵との試合など、数え切れぬほど経験してきた。
 己の拳は敵の肉に届かない。ならばこう考えれば良いのだ。武器には届くではないか。

 当たり前の話だが、長物の扱いを前提とした戦闘術理は、武器破壊の前に酷く脆い。
 無手のエルビスを侮り、自慢の武装を一瞬にして腐敗させられ、唖然とした顔面に一撃を入れてKO。
 幾度も通った勝ち筋の一つだ。

 剣技は肉を断たんと振るわれる。
 拳は剣を砕かんと追随する。
 剣は衝撃を流さんと旋回する。

 上手い。エルビスは無言で感心する。
 既に五十を超える打合いが交わされていた。
 しかし、何度刀身を弾いても壊すことができない。
 本来、エルビスの能力をもってすれば、触れた時点で武器破壊は為るというのに。
 拳に向けるものとしては不自然なほどの警戒、力学コントロールによっていなされ続けている。

 八柳新陰流『空蝉』。
 手首の返しを始めとした、微細なる技巧によって攻撃を受け流す防御術理。

「強いな――お前」

 どちらともなく発した言葉だった。
 征十郎はエルビスを剣士と見立てて戦っている。
 無手の闘士に斬りかかる優位を全く認識していない。
 それもその筈、八柳新陰流には無刀の術理すら存在する。
 彼にとっては、戦うものは皆剣士だ。

 達人同士、ミクロを極める絶技の応酬。
 エルビスと征十郎はそれぞれ超抜の技巧によって戦闘を成立させていた。


 このまま続ければどちらが上回るのだろう。
 征十郎の剣がエルビスの肉に届くか、或いはその前にエルビスの拳が征十郎の剣を砕くか。

 いずれの結末も見ることは出来ない。
 これは決闘ではないからだ。

「2秒後、一歩引いてください。エルビスさん」

 絶妙なタイミングで割り込んでくる援護があった。
 スウェイバックで後ろに下がったエルビスの背後、包み込むように左右両サイドから鉄の髪が伸び上がり、征十郎の刀に絡んで隙を生み出そうとする。
 構わず剣を振り切る征十郎。こともなげに斬鉄を為し、エネリットの後方支援を切り払う。
 同時、応じるようにして、征十郎の背後からも快活な声が響いた。

「いくよ~征タン☆ "左"に避けてねっ☆」

 それを聞いた征十郎は、迷わず"右"へと転がって―― 

「あっ、間違えた。やっぱ右だわw」

 直前まで彼がいた場所、左前方の壁に、血の礫が飛散した。
 そしてちょうどその場所は、エルビスの後方にて王子が支援の為に陣取っていた場所であり――

「―――な」

 結果的に、不意を突かれたのはエネリットの側だった。
 間髪入れずにフィンガースナップ&起爆。
 吹き飛ぶ壁の一部と巻き上がる火炎に弾き飛ばされ、王子は反対側の壁に叩きつけられる。

「……おい」

 征十郎は振り返らぬまま、殺意を後方に飛ばしている。

「殺す気か、タチアナ」
「だからそー言ってんじゃんw ウケるw」
「後で必ず斬る」
「やってみなよ。てかさーよく分かったね」
「見え透いている。お前の考えそうなことなど」
「……ふーん、そーなんだ」

 何故か嬉しそうなギャルを無視し、好機を逃さず追撃を加えんと征十郎が一歩踏み出す。
 その直前、エルビスが拳の遠当てを放ち。
 合わせて素早く立ち上がったエネリットが髪を放出し、廊下の視界を遮った。

 衝撃波を払った勢いで素早く飛び出し、鉄の髪を一太刀で斬る。
 しかし目眩ましを裂いたとき、前方に立つエルビスとの距離が、想定よりも開いていた。

 征十郎は警戒を強める。必要以上の後退、それはボクサーの動きとして、酷く不自然であったから。
 『ネオシアン・ボクス』のチャンピオン。
 至宝の両腕とフィジカルのみで並の超力者を遥かに凌ぐ男の力量は、しかし、それだけではない。

 甘ったるく、どこか酸っぱい香りが長い廊下を吹き抜けた。
 彼我の距離は5メートル。
 チャンピオンの凄まじい踏み込みが廊下の床を砕く。
 そして彼の足元から無数の花々(リング)が咲き乱れる。

「来るか―――」

 征十郎はずっとそのタイミングを警戒していた。
 リスクを背負って武器に触れようとしてくる相手の動きから、拳による衝撃以外に確実な武器破壊の手立てがあることは明白。

 そしてなにより、アメリカ育ちの征十郎が知らぬはずもなかった。
 ネオシアンボクス・チャンピオンの代名詞。
 拳と共に恐れられた、花園(リング)形成を。

「―――毒の天竺牡丹!」

 『紫骸(ダリア・ムエルテ)』
 出現範囲はエルビスの前方に限定。
 よって、後方支援に徹するエネリットに害は及ばない。

 長細い連絡通路の廊下において、逃げ場は皆無。
 ある意味、階段前で陣取っていたとき以上に、それは無体な戦法だった。
 狭い空間において花の侵食は目覚ましく、毒の花粉が空間を満たすスピードも早い。

「八柳新陰流―――」

 速攻で対処を行うべく、深く沈めた姿勢のまま、剣士はあえて前に飛び出す。
 逃げたところで逃げ場はない。時間をかけるだけ不利になる。
 よって、敵のリングが完成する前に斬撃する。泡のように展開されていく花の群、その発生源を。

「―――『這い狼』ッ!」

 抜き放つ剣閃。
 増殖する花の茎を一撃で刈散らす。


 そして斬線の延長上には、エルビスの脚があった。
 好機だと認識する。
 チャンピオンの土台を、今ここで―― 

「お前、ちゃんと立てよ」

 その一瞬、征十郎の意識は断絶していた。
 冷徹な罠である。床に這わされていたエネリットの髪が瞬時に硬質化し、剣士の腕を跳ね上げたのだ。
 続けてエルビスの打ち下ろした拳が、僅かに頭を掠める。
 たったそれだけで思考が途切れ、攻撃を中断させられていた。

「――――っ!?」

 戦闘本能に任せ、無意識の状態で身体を持ち上げる。

「な、にが―――」  

 胸部を潰される寸前のところで、打ち込まれた拳を払い流す。
 征十郎の自認では明確に場面が飛んでいた。
 先程まで地面スレスレの低姿勢で前進していた筈なのに、今は直立状態でエルビスの拳を捌いている。

 守勢に徹せざるをえない。
 脳が揺らされた。まだ、きいんと耳が鳴っている。
 視界の端に拳の軌道が見え、なんとか食らいつく。

「驚いた。その状態で剣が使えるのか」 

 今度はエルビスの側が攻める番だった。
 エネリットもまた好機を逃さず、鉄髪の牢獄が征十郎の動きを縛る。

 即席でありながら堅実なタッグであった。
 盤石なるチャンピオンの実力。それを支援する冷静な王子。
 きちんと前衛と後衛を分け、与えられた役割を遵守する。

 対するもう一方は、やはりどこまでも対照的であった。
 剣豪と爆弾魔。つまり、そう、前衛と後衛。
 どちらも役割意識など、最初からまるで持ち合わせていないのであった。
 故にこそ、起こり得る現象がある。

「わ~た~し~、少女A~♪」

 征十郎の後方から再び何かが飛来する。
 それは赤い血飛沫―――ではない。

「あーしったら、落ち着きのないギャルだかんさ~」

 着崩したブレザーを纏う金髪少女。ようするに、ギャル本体。
 空中で錐揉み回転しながら廊下の中央、征十郎とエルビスの中間地点に落ちてくる。
 つまりこのギャル、後衛の役割というものを完全に無視していた。

「やっぱ援護役とか無理☆無理☆
 そろそろ一緒に遊ぼーよ」

 室内のギャルは己が呼気の水蒸気を爆し高速で動く。
 加えて、彼女はいま――

「ちょーど、あったまってきたしっ」

 諸事情により、青春(キラメキ)の真っ只中にいるのだから。
 齎されるパワーは無尽蔵。振り撒かれる少女の汗と爆炎。
 征十郎を仕留めんとしていたエルビスの足が数歩下がる。

「って、あ……れ……?」
「やっと、痺れを切らしましたね」

 しかし、全く同時。
 後方から伸び上がった鉄の髪が、瞬く間にギャルの四肢を拘束していた。

「およよ?」 

 不自然なほど呆気なく、ギャルは捕まっていた。
 爆力は戻ってきていたものの、そもそも動きのキレが段違いに悪い。

「ここまで、です」

 エネリットはあくまで冷静だった。
 ギャルの動きが予測不可能であることも、また予測済み。
 如何なる事態にも対処できるよう、心構えをしていたことが功を奏した。

 根本的に、彼は交戦開始の時点で見切っていたのだ。
 剣豪も爆弾魔も、その疲労は限界に達している。
 多少の休息によって回復したとはいえ、エルビスとエネリットを同時に相手取り、長期戦を行うほどの体力は残されていない。

「エルビスさん……仕留めてください」
「分かった」

 チャンピオンが静かに前に出る。 
 再度、毒の花が咲き乱れ、容赦なく廊下を覆っていく。



 ギャルは拘束によって動けない。
 爆撃を行おうにも、その場で汗や血を起爆しようものなら、征十郎を巻き込んでしまうだろう。

 征十郎もまた、体力の限界であることは見て取れた。
 ギャルをかばいながらの戦闘など望むべくもない。

 思った以上に手こずったが、この場は勝ちだ。エネリットは打撲した肩を擦りながら、それを確信する。
 征十郎が撤退を選んだとしても、少なくとも、ここでギャルの首輪は確保できる。
 そもそも、ギャルと征十郎が疲労困憊の様子だったことを見抜いてこそ、始めた一連の戦闘。

 しかしそこで、一つの違和感に直面した。
 なぜ、エルビスはいま、足を止めたのか。

「エルビスさん……なにか気に」
「下がれ」

 前に出ようとしたエネリットを、エルビスが制する。

「お前……何をしようとしている」

「いや~、はれだょねぇ……」 

 紫骸の花粉が、一帯に充満し始めていた。
 ぴくぴくっと、ギャルの鼻がひくついている。

「こう、ひゃながほおいとさぁ~」

 どう考えても詰みの状況で。
 どうしようもない悪党共は剣呑さを損なわない。

「ひゃ~しったら、はふんひょ~のひゃるだひゃんさぁ~(あーしったら、花粉症のギャルだかんさ~)」 

 エネリットは更に一歩下がった。
 不味い。何が起ころうとしているのか、直感的に理解したのだ。

「ふぇ……ふぇぇ……ふぇ―――」

「八柳新陰流―――」

 大きく口を開けた状態で固まったギャル。
 エルビスはその頭を潰すべく前方に飛び出し。
 エネリットはエルビスと自分自身を守るために鉄の髪を展開。
 そして征十郎は―――

「ぶえっっっっっくしょぉーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーいッッッ!!!!!!」

「―――『抜き風』ッ!」

 そのとき、エネリットは自らの見立てが誤っていたことを認めた。
 味方を巻き込むから躊躇する。
 そのような可愛げのある手合いではなかったのだ。

 狭苦しい空間にて、爆炎と斬撃が荒れ狂う。

 ギャルのくしゃみ。
 廊下に出現した大火球はそもそも征十郎を巻き込んでいる。
 征十郎の剣技。
 鞘走る横一文字の斬撃はそもそもギャルを巻き込んでいる。

 最初から認識が違っていた。
 彼らはこの場所で、ただの一度も共闘などしていない。
 最初からずっと、彼らはずっと、殺し合いのついでに、殺し合っていたに過ぎないのだ。

 吹き上がる熱波が廊下の中央に落とされ、咲き乱れた毒花を焼き払う。
 迸る剣戟が鉄の防壁を断ち切り、エルビスとエネリットに爆風を届かせる。

 充満したエネルギーはうねりを上げて行き場を求め、廊下の最奥、西側の壁までも吹き飛ばした。
 轟音とともに、大穴の開いた壁の向こうに煙が吐き出され、代わりに外気と光が差し込んでくる。

「ああー! 征タン! もぉ~信じらんないんだケド!」

 ヘロヘロの状態で立ち上がったギャルのブレザーは、ぱっくりと胸元まで表面を切り裂かれていた。
 その肌に傷はない。迫る剣閃を爆風に乗ることで躱しきったのだろう。
 傍らで立ち上がった征十郎もまた、ところどころ焦げてはいるが重傷は見られない。
 爆炎を切り裂き、凌ぎ切ったのだろう。

「結構お気にの服だったのにぃ……てかいま私ごと斬り殺そうとしてたよね!?」
「だから、そう言っただろうが」
「こいつ、後でぜってー爆る」
「やってみろ。……しかし、お前、よく躱したものだ」
「ふふん、征タンの考えることなんて、まるっとお見通しだし」
「だから……なんでちょっと嬉しそうなんだ」

 こいつら、どうかしている。
 少し遅れて立ち上がったエネリットはそのように呆れながら、自分の負傷状態を確認していた。



 爆風によって廊下の奥まで吹き飛ばされたようだが、幸い命に関わる怪我は見られない。
 防御が破られた瞬間、咄嗟にもう一枚展開した鉄髪の幕が熱エネルギーを防ぎきってくれたのだろう。
 アビスの母に感謝しながら隣を見ると、既にエルビスが立ち上がり、戦闘態勢を持続していた。
 しかしその方向は、目の前の二人組ではなく。

「エルビス……さん?」

 チャンピオンの目線は、剣豪と爆弾魔から外れている。
 敵も今や体力の限界であろう。すぐに追撃してくる気配はない。
 それでも、戦っている相手から意識を逸らすなど、拳王にあるまじき行為の筈だ。

「おい、あれは……なんだ?」

 ならば、そんな事があり得るとすれば、理由はただ一つ。
 目の前の敵よりも、より大きな脅威が迫っている。

「……っ」

 チャンピオンの視線を追って、思わずエネリットは息を飲んだ。
 廊下の最奥の壁、破られた大穴から、閉鎖されていた廊下に外気と光が入り込んでいる。

 ブラックペンタゴンの内側の壁に開いた穴の向こうが外――つまり中庭になっているようだった。
 そのこと自体は、各所の壁に貼ってあった簡易フロアマップで、容易に想像できていたのだが。

 1階には内窓の類は一切取り付けられていない。
 つまり、彼らは初めて、それを目にすることになる。

「あれは……?」
「んー? なにあれ?」

 征十郎とギャルもまた、遅れてそれを視認する。
 ブラックペンタゴン1階中庭エリア、中央に座するオブジェクト。
 チェスのような台座に浮かぶ、巨大な黒き球体。

「てかなんか、賑やかな事になってんね」

 そして、その時、その場所に至ったのは、彼らだけではなかったのだ。











 /Chambers-Memory 4






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最終更新:2025年08月24日 01:19