◆
──これは、ダメだ。
安理の心を支配したのは、そんな諦観。
仰向けになった体を起こす気力もなく、ゆっくりと首を動かす。
瓦礫に紛れて、囚人服の残骸が見えた。
ボロボロのそれを身に纏う神父は、ぴくりとも動かない。
広がる血溜まりが服をみるみる内に赤く染めあげ、絶望を加速させる。
右を見れば、細長いなにかが投げ出されていた。
それが千切れ飛んだ神父の右足であると気付いた時、猛烈な吐き気を覚えた。
重い動作で前を向く。
正直、見たくなどなかった。
目を逸らしていれば、どれほど幸せだっただろう。
「FUSHUUUU…………!」
3メートルを越える巌のような肉体。
黒曜石じみた皮膚。全ての生物を凌駕する筋肉。
低い唸りと共に吐き出される吐息は、肉食獣のそれとは比べ物にならないほどの恐怖を本能へと与える。
虚ろな視線に生気は感じられず、ただ冷徹に安理へと死の命運を示しだす。
巨体に似つかわしくない熟練の兵士のような足取りが、一歩、また一歩と安理へ近づく。
そこにいたのは、〝死〟だった。
◆
放送が始まったのは、エントランスホールを出る直前のことだった。
ノイズ混じりの音声が響いた瞬間、安理は静かに息を呑む。
これから行われる数分間の放送で、イグナシオの安否がはっきりするのだ。
『まずは、刑罰が執行された者たちの報告からだ。これよりその名を読み上げる』
前置きもほどほどに、この6時間に死亡した参加者の読み上げが始まる。
イグナシオは無事なのか否か、その答えは次の瞬間に突きつけられた。
『イグナシオ・"デザーストレ"・フレスノ』
「──っ、……」
開口一番、その名がエントランスに響く。
途端に膝から力が抜け落ち、体を支えていられなくなった。
────死んだ。
フレスノさんが、死んだ。
自分を守る為に、自分を逃す為に。
どんな言い訳をしても覆らない事実が、安理の胸を突き刺す。
覚悟はしていたのに、脳が真っ白になる。
続く死者の名前が頭に入らないくらい、安理は打ちのめされていた。
後悔と不安が連鎖し、もはや奥底まで染み付いた自己嫌悪が顔を出す。
「フレスノ、……さん…………っ」
あの時激情に支配されていなければ。
冷静な思考でいれば、バルタザールの罠に陥ることなどなかった。
己の力を過信し、恐怖の大王を相手に無謀な突撃をすることなどなかった。
あの場で済ませたはずの自責を呼び起こし、未熟な心を守ろうとする。
蹲る安理は、これから先のことを考えられるほど割り切れていない。
『セレナ・ラグルス、ハヤト=ミナセ──』
安理を支えるでもなく、夜上は再び十字を切って黙祷を捧げる。
セレナとハヤトの名が連なっていることから、二人はそう間を置かずに亡くなったのだろう。
試練に打ち破れたのか、はたまた彼らが選んだ道の末なのか。
後者であることを願って、夜上は息ひとつ洩らさずに祈りを終える。
『──大金卸 樹魂、エルビス・エルブランデス──』
「え、っ?」
次いで、二の矢が安理を撃ち抜いた。
大金卸樹魂──あの漢女が死んだ?
自分の知る限り最も死とは無縁にある最強の存在が、誰に殺されたというのか。
聞き間違えたと、本気で思った。
まるで殺されるイメージが湧かないのに、そんな人でさえこんなに早く命を落としてしまう。
追うべき師のように思っていた二人の背中を同時に見失って、呼吸のやり方さえ忘れる。
ローズの時もそうだった。なぜ自分が生き残ったのだと、行き着く先は結局それ。
真実を追い求めたいと宣誓したのに。
自らの意思で選び取ったはずなのに、重くのしかかる責任が再び壁となって立ちはだかる。
「そん、な……っ……」
進めない。
このままじゃ、進めない。
せめて、せめて立ち上がらないと。
無理やりに足に力を入れようとしてるのに、まるで言うことを聞かない。
「安理君」
そんな時、夜上の静謐な声が鼓膜を揺らす。
「この放送をよく聞いておいた方がいい」
何を言っているんだ。
神父なのに死者を悼む時間すら与えてくれないのか、と。
怒りすら湧くほど冷静な声色はしかし、水が詰まったような安理の耳に鮮明さを取り戻させる。
『── そこで、我々は1名の『補助要員』を追加することにした』
「補助、っ……え?」
補助要員。
一度目の放送とは明らかに違う。異様な雰囲気を纏ったヴァイスマンの声色から、聞き慣れぬ言葉が聞こえる。
大切な人の死亡を告げられたばかりで頭が回らないはずなのに、生存本能というのは不思議なもので、自然と耳が傾けられた。
「…………」
被検体:O(オーク)。
黒い首輪、400ptの恩赦ポイント。
ポイントの分配獲得が可能。
矢継ぎ早に繰り出される情報の数々へ、安理は狼狽し夜上は眉間に皺を寄せる。
まるで不吉な黒い風が過ぎ去ったかのような、苦い不穏さが胸奥から湧き上がる。
それが杞憂でないことは、次の瞬間に告げられた。
『オークは、この放送の終了と同時に、ブラックペンタゴンの正面出入口である──エントランスホールより出現する』
ブラックペンタゴン、エントランスホール。
その言葉が耳に入った瞬間、安理は全身の血の気が引いた。
狙い撃ちされたかのように出来すぎたタイミング。
もしかしたら自分は、取り返しのつかない過ちを犯してしまったのかもしれない。
爆ぜる思考に追い討ちをかけるように、禁止エリアが読み上げられる。
ブラックペンタゴン、今まさに自分たちがいる場所が6時間後に鉄の棺桶となる。
理不尽な仕打ちとも言える宣告は、安理に頭痛と耳鳴りをもたらした。
「──理君、……安理君」
傍らで神父の呼び声が聞こえる。
気を取られていたのは数秒か、数十秒か。
いつの間にかヴァイスマンは締め括りの言葉を述べ、次なる機械音声が神父の言葉と重なった。
『警告します』
「試練の時です、安理君」
『これより ブラックペンタゴン エントランスホールに 『被験体:O』が 転送されます』
「君がどんな道を歩もうと、神(わたし)は否定しない」
『周囲の人間は 転送に巻き込まれぬよう ご注意ください』
「覚悟を決めなさい、迷える子羊よ」
◾︎
爆撃でもされたのかと思った。
眩い閃光が視界を潰し、突き抜ける衝撃が身体を押し上げる。
真っ白に染まる思考は微睡みに似ていて、現実に目覚めるのに要した時間は如何ほどか。
反射的に顔を覆っていた腕を恐る恐る退かせば、これまた反射的に瞳孔が開かれる。
たちのぼる煙塵は、目隠しとしてあまりにも心もとない。
それが晴れるのを待たずして、巨大で異質な影が二人の目に映っていたから。
動揺する安理に反して、夜上は険しい顔つきで煙の奥に在る〝なにか〟を睨む。
決して感情を悟らせない神父にしては珍しく、その表情は人間らしさに満ちていた。
「────FUSHUUUU……」
聞こえてきたのは送風機のような息衝き。
次いで、地鳴りによく似た唸り声が安理の肌をビリビリと振動させた。
「しんっ、……さ……」
呂律が回らない。
膝が震えてまともに機能しない。
助けを求めようと神父へ伸ばされた腕は、先から根元まで総毛立っている。
煙が晴れた。
いよいよ、非情な現実が突きつけられる。
シルエットから見て取れた異常性に一切反さない、どころか想像を越えた暴力的な容姿。
大金卸のような圧とも、バルタザールのような殺意とも違う。
ただただ無慈悲な〝死〟が、そこにあった。
「GURUUUU……」
視線がかち合う。
虚ろな瞳孔からは生気を感じられず、精巧な彫像のようだった。
それが作り物であるという願望は、膨張する筋肉と蠢く血管によって否定される。
時間が止まったかのような数瞬。
怪物だけが首を動かし、標的を見定めた。
◆
──破壊対象補足。
対象名:北鈴 安理
状態:疲弊、動揺による身体硬直
危険度判定:D
対象名:夜上 神一郎
状態:警戒体勢
危険度判定:C
殲滅可能確率:98.8%
◆
最初に動いたのは夜上だった。
奴の視線が自身に留まったことに気がついた神父は、即座に回避行動へ移る。
先手を取られた被検体:Oは狙いを変えるわけでもなく、当初の予定通りクラウチングスタートの姿勢を取った。
こっちへ向かってくる。
いち早く察知し、誰よりも先に行動に移した神父の〝目〟は脅威的と言える。
それは彼に出来る最適解にして、最大限の抵抗だった。
瞬間、閃光が迸る。
弾丸と化したオークはブラックペンタゴンの床を踏み抜いて、破片を散弾の如く撒き散らしながら猛進。
コンマ一秒も掛からずにトップスピードと化したそれは、もはや物理法則を無視しているように思えた。
衝撃で吹き飛ぶ安理。
飛来した破片が右腕に当たったことで、回転しながら床へと叩き付けられる。
暗転した視界が再び戻った時、絶望が頭を染め上げた。
「…………え」
夜上神一郎が、宙を舞う。
安理の傍へ飛んできた物が、彼の右足だと理解した瞬間に背筋が凍りついた。
電車の人身事故現場を、安理は実際に見たことがない。
けれどもし目の前で起こったのならこういう光景なのだろうなと、場違いな感想を抱いた。
オークは壁に激突する寸前でぴたりと止まる。
それから遅れて、夜上の身体がべしゃりと床へ落ちた。
全身の力が抜けたかのようにだらんと投げ出された四肢は、やはり一つ欠けている。
ぴくりとも動かない神父の姿を、安理は怯えた瞳で見つめていた。
「あ、……っ、あ…………」
夜上は、無敵だと思っていた。
どんな逆境を前にしても、持ち前の冷静さで表情ひとつ変えず飄々と生き延びてしまいそうな、そんな頼もしさがあった。
けれど今繰り広げられる凄惨な光景は、夜上も一人の人間なのだと突き付けてくる。
夜上は、自分が狙われていると知るや回避行動に移った。
彼のセレナ・ラグルスにも迫る危機察知能力は、超力飛び交う激しい戦渦の中であろうと華麗に潜り抜けるだろう。
そんな彼が何故、地に伏しているのか。
答えはあまりに単純。
彼の肉体は、オークの攻撃を避けられるように出来ていなかったからだ。
「FUSHUUUU…………!」
いや、正確に言えば今のは攻撃ですらない。
被検体からすれば、単なる直線運動でしかなかった。
その暴力的な移動の余波が、今こうして安理に起き上がることすら許さない。
生物という枠組みを越えて、もはや災害の領域だった。
天災に対して人間が全くの無力であるように、力の差という言葉を用いるのさえ馬鹿馬鹿しく感じる壁が聳えている。
あまりの理不尽さに、思わず笑ってしまう。
ヴァイスマンは相当自分のことが嫌いらしい。
誰かに導かれるままだった自分が、意を決して選び取った道に用意された罠。
まるで見計らったかのように投下された被検体:Oは、言うなればデウス・エクス・マキナ。
人間同士の殺し合いを嘲笑うかのように降臨した機械仕掛けの神は、瞬く間に刑務の趣旨を塗り替えた。
これはないだろう。
いくらなんでもこれはないだろう。
北鈴 安理は間違っていたと、無慈悲な答え合わせをするにしても。
こんな形で突き付けてくれなくてもいいじゃないか。
ずんずんと近付く被検体を恨めしく見上げる安理は、恐怖という感情が麻痺していた。
「っ、ざける……な…………!」
涙が滲む。
死への恐怖ではなく、己への不甲斐なさで。
悪趣味な嗜好を見せつけるアビスへの怒りで。
固く握り締めたつもりの拳は、腕の痛みからろくに握力を発揮しない。
駄々っ子のように何度も床を叩きつけ、懸命に身体を起き上がらせる。
「いい、加減、……に……しろよ……っ!」
浮かぶのは、大金卸の姿。
性別の垣根を越え、威風堂々とした彼女がこの場にいれば、有無を言わずに立ち向かうだろう。
例え万に一つも勝ち目がなくとも、理不尽な厄災へ戦いを挑むはずだ。
どうせ終わるのなら。
泡沫の夢で終わろうとも、勇敢でありたい。
心の隅に巣食う自己実現欲が歪な方向へと伸びて、安理を蛮勇へと走らせる。
「う、っ……ああぁぁぁぁ──ッ!!」
痛みを無視して立ち上がり、吼える。
涙の滲む瞳で力いっぱい睥睨し、全身に冷気を纏う。
そうして龍形態へ変身しようとして、ある違和感に気がついた。
「……え?」
怪物が、止まっている。
壁しかない虚空へと視線を釘付けて。
まるで安理のことなど眼中にないかのように、一点を見つめて動かない。
異常な光景を前に、安理の怒りを困惑が呑み込んだ。
死が遠ざかったことにより、無謀な戦いへ挑む士気がぐんと下がってしまった。
水を打ったかのように熱の冷めた脳は、無意識に状況の把握へ努める。
──警戒している?
オークは、威嚇するような唸り声を洩らして〝なにか〟を見つめていた。
そうして、半身を引いて両腕を構える。
明らかな臨戦態勢。
理性のない怪物とは思えぬほど研ぎ澄まされた構えが、なにもない空間へと向けられている。
たった30m程度の移動で夜上と安理を戦闘不能へと追い込んだ怪物が、警戒を顕にして構えている。
この生物兵器にそうまでさせる存在が、ここにいるというのか。
安理は我を忘れて、思わず被検体の目線を追う。
やはり、何も見えない。
けれどオークはじり、と摺り足でにじり寄る。
緊迫した空気は、怪物の疾走と共に爆発した。
「BUROOOOOOO──ッ!!」
大木を思わせる剛腕が振りかぶられる。
塵も残さぬ勢いで放たれたそれは、まるでなにかに〝受け流された〟ように大きく軌道を逸らされた。
刹那、怪物の巨躯がひとりでに吹き飛ぶ。
大型トラックと正面衝突をしたかのようなインパクトが、素肌を通じて
それを受け止めるにはエントランスの壁は役者不足だったようで、大きなクレーターを生成し粉塵が巨体を覆い隠した。
数秒の沈黙。
安理は未だ混乱から抜け出せずにいた。
──なにが、起きている?
現実味のない事象が度重なり、安理はこれが夢なのではないかと思った。
だがそれも、右腕の鈍い痛みが否定している。
逃げ道を塞がれた安理は、いよいよこれが現実(リアル)であるのだと思い知る。
「FUSHUUUUU──!」
がらりと瓦礫を押し退け、巨体が再び立ち上がる。
アドレナリンの切れた安理は思わず後退り、本能的な恐怖で縮こまった。
その時に洩れた短い悲鳴が、皮肉にも安理自身に生きたいという欲望を取り戻させた。
今度こそ自分が狙われるかと。
そんな安理の警戒は肩透かしに終わり、再び怪物はなにもない空間へ飛び掛かる。
突き、袈裟、払い、拳打、掌打、肘打、脚撃、果てには頭突き。
回避も兼ねた螺旋運動を織り交ぜた流麗な動きは、まるで高度なパントマイムのよう。
もしかしたら、透明化の超力を持った何者かがこの怪物と互角の戦いを演じているのではないか。
そうでなければ説明がつかないほどの激戦が、目の前で繰り広げられている。
「……っ、あ…………!」
思わず見入ってしまいそうになるが、神父の身体が視界の端に入り、慌てて駆け寄る。
仰向けへと体勢を変えさせて、心臓へと耳を当てる。
微かだが、鼓動が聞こえた。
バッと顔を上げた安理は、無残にも膝下から千切れ飛んだ夜上の右足へ視線を向ける。
一瞬止血のために凍らせようとも考えた。
しかし安理の超力は精密性に欠けていて、正確なコントロールが出来ない。
過度に冷却してしまえば、たちまち凍傷という形で牙を剥くことになる。
仕方がなく安理は自身の囚人服を使い、簡単な止血を施した。
被検体:Oを見やる。
怪物の攻撃は未だ眼前の〝敵〟に向けられており、どうやら他者へ意識を向ける余裕もないらしい。
なにがおきているかなどまるで分からないが、このチャンスを逃す訳にはいかない。
夜上を抱えようとして、針を刺されたような鋭い痛みが右腕に襲いかかった。
「っ……!」
この状態で人一人抱えて移動するなど、現実的ではない。
能力水準の上がった新人類の肉体といえど、安理の身体能力は下から数えた方が早い方だ。
龍の形態になれば神父のことも抱えていけるだろうが、それは出来ない。
氷龍が纏う冷気は人を殺めてしまう。
自分が初めて殺した〝彼〟のように。
「どう、……すれば……!」
安理は二の足を踏む。
この事態を解決する方法が、見つけ出せない。
折角降り掛かった幸運も、自分ではモノに出来ない。
極度の緊張と動転が心拍数を底上げし、意味もなく嘔吐く。
つくづく己の不甲斐なさを突きつけられて、鈍い頭痛を覚えた。
────いや、この頭痛は。
「ぐ、っ──! ──ぁ、っ!?」
苦悶の声が洩れる。
突如、脳に熱した鉛を流されたような灼熱の痛みが襲いかかった。
両手で頭を抱え蹲り、白目を剥き、口端から泡を吹き出す。
数秒と意識を保つことも出来ず、瞬く間に視界が真っ黒に染まった。
◆
最終更新:2025年09月18日 20:10