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『超力の変化とその軌跡について』
2037年6月21日 初版1刷発行
2030年の開闢の日を経て人類が新たに獲得した力、通称超力(ネオス)。
我々人類がこの力を発見してから歴史が浅く、未知なる部分が多い。
年齢や環境による発現超力の傾向の違いや、鍛錬や感情の起伏による複雑化、出力向上など、我々に与えられた課題は未だ尽きそうにない。
ロシアの研究施設にて、超力の〝進化〟が発見されたのは読者諸君の記憶にも新しいだろう。
詳細な記録は省くが、5kgの物を動かせる程度であった念動力の持ち主が、部屋全体を捻じ曲げるといった、飛躍的なまでの出力向上を見せたのだ。
進化の条件は未だ解析されていないが、この一件以降各国でも同様の報告が上げられている。
超力の進化は、たしかに素晴らしい。
自身の超力にコンプレックスを抱く者にとっては、魅力的に映るだろう。
だが私が着目したのは、進化とはまた異なる方向性だった。
それが、超力の〝変化〟である。
超力の性質は一般的に、成人までに決まると言われている。
成年を越えて発現した人間は、発現した時点で超力の性質は定められている。
火を生み出す超力が、水を生み出す超力に変化したりはしないということだ。
しかし、ここからが超力の面白いところである。
██県の██小学校にて、非常に興味深い事例が見られた。
獣人系の超力を持った教師が6年間担任を務めたクラスで、40人の生徒のうち実に16人が獣人化の超力に変化したのだ。
変化の見受けられた生徒達は、いずれも元の超力は獣人化とは異なるものであったという。
更に、アメリカの██州にて起きた雪崩に巻き込まれた男児が、大地を媒体に錬金を行う超力を持った男性に救助された。
救助から数日後、男児の超力は彼と同様の性質を持ったものに変化したという。
以上のことから、幼少期から青年期にかけて強い影響を受けた際、超力の性質が変化すると考えられる。
一般的には両親の超力や職業、意向に影響されて緩やかに変貌を遂げていくことが多いだろう。
特にネイティブ世代は空想の世界に影響されやすく、与える知識や刺激により第三者からの手である程度は超力の変化をコントロール出来てしまう。
それの最たる例が、近年話題の〝ヒーローブーム〟だろう。
特撮番組を子供に見せることで、正義の変身能力に目覚めさせたい。
そういった親の願いから爆発的に広まった件だが、SNSを見ていると度が過ぎた教育が散見される。
過度な強要はかえってストレスとなり、思わぬ形で子供の超力を歪ませてしまう恐れがある。
超力と子供を天秤に掛け、その重りが前者に傾いていることは決して健全とは呼べないだろう。
私が思うに、超力変化のトリガーは〝憧れ〟である。
こうなりたいという強い願いこそが、超力に影響を及ぼすのだと思う。
子を持つ親であるならば、我が子に憧れられるように努めるべきだろう。
かく言う私も、一人の娘を持つ。
しがない昆虫学者でしかない私が、彼女に与えられることなど少ないだろう。
それでも彼女の親として胸を張れるよう、努力するつもりである。
超力は未だ謎が多く、時には人を助ける力にも、危険を及ぼす凶器にもなる。
これから先の時代を築いていくのは大人ではなく、開闢の日以前を知らない子供達である。
この世界が優しい超力で溢れることを、切に願う。
著 宮本 誠一郎
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記憶が流れ込む。
鼻腔を突く濃密な鉄と血の匂い。
静寂の中でさざ波の音がやけに鮮明に聞こえて、ここが夜の港であることに気がついた。
ちかちかと、明滅する灯りだけが闇を払う。
目を凝らしてみれば、視界の中心にいる影は男のものらしい。
一つに縛った金髪は所々が赤く濡れていて、顔立ちは安理のものよりも幼い。
歳は15才ほどだろうか、巨大な三本の爪に引き裂かれたような傷跡が腹部に刻まれていて、夥しい量の血を流していた。
「ごめん、っ……! ごめん、ロイド……! アタシっ、アタシ……ッ!」
聞こえてきたのは、幼い少女の声。
いや、聞こえてきたのではない。
安理の口から、その声が聞こえてきた。
そこでようやく、安理は身体の自由が利かないことに気が付いた。
まるで誰かの記憶をVRで追体験するかのように、精巧な映像を見せられている。
けれど噎せ返るような血の匂いも、手に付着した生温い液体も、現実のそれとしか思えない。
困惑する安理をよそに、記憶は紡がれてゆく。
「その力は使うなって言ったろ? ローズ」
力なく壁に寄りかかる瀕死の少年が発した言葉。
それを聞いて安理は、この記憶が誰のものなのか確信した。
──これは、スプリング・ローズの記憶だ。
「ごめん……! アタシっ……ロイドを、守ろうとして……それで、……!」
泣きじゃくるような高い声色。
それは安理の知るローズのものよりもずっと幼く、儚い。
どれほど昔の記憶なのだろうかと、考えた瞬間に朧げながら脳を整理させるかのように情報が流れ込んだ。
──これは、ローズが5才の頃の光景である。
麻薬の取引現場に選ばれたこの港湾にて、アイアンハートの奇襲に遭ったのが事の発端。
当時のリーダーであったロイドという少年、それにローズを加えた少人数での取引だったため、劣勢は免れなかった。
「いいかい、ローズ。トぶのはヤクを打った時だけで充分さ。こんなクソみたいな世界だ。どうせ夢を見るならハッピーな方がいい」
──そうだろ?
と、ニヒルな笑みを浮かべる少年。
弧を描く口元はぎこちなく震え、顎下まで血に染まっていた。
ローズはそれに何も答えられず、ふるふると首を振って視界を揺らす。
「アタシが、弱いから……」
そうして、紡がれた言葉。
安理の知るローズとは別人のように弱々しく、か細い声色だった。
「アタシが、力を使いこなせないから……っ!」
ローズの超力は、獣への変身能力。
人間とは比にならぬ膂力の人狼へ姿を変える任意発動型の異能である。
暴力にまみれたストリートの世界を生き抜くために、生きるために。
強くならなくちゃいけないという強迫観念が変革をもたらした、悲しき超力だ。
まるでその願望を誇示するかのように、彼女の超力は強力だった。
元々両親から突き放される要因となった暴威が、更なる強さを求め続けた末、過剰なまでに研ぎ澄まされた力の結晶。
そうして膨れ上がった力はおよそ幼子に扱いきれるものではなく、代償として狼の姿でいる間は理性を保てなかった。
目に映るもの全てを敵と認識し、荒れ狂う暴風の如く凶爪を掻き立てる。
そうして残るのは、春に咲く薔薇だけ。
真っ赤に塗れた一輪の薔薇は、他の花が咲く事を許さない。
アイアンハートの精鋭を纏めて骸に変え、イースターズのリーダーでさえ手に余る脅威的な暴力。
けれどローズはその超力を強いだなんて、一度たりとも思ったことはなかった。
自分の意思で振るえぬ力など、〝理想の自分〟とはまるで違ったから。
だからこうして、家族を喪う羽目になる。
「なあ、ローズ」
ロイドの腕が伸び、抱き寄せられる。
血の感触など気にならないくらい心地いい温もりが、ローズの身体を通じて安理に伝わった。
「いい加減、自分を愛してやれよ」
その言葉は溶け残った砂糖のように、安理の胸に張り付いて離れなかった。
「キミ自身を好きになりゃ、胸張って生きれるさ」
ああ、そうか。
ローズは、最初から強くなんてなかった。
理不尽に虐げられ、望まぬ超力に振り回されて。
その先に、自分の知るスプリング・ローズがあるのだ。
「わかった、わかったっ……から……」
視界が滲む。
震えた声は、力強さなど微塵もない。
少年の体へ縋る姿は、ストリートの残酷さを物語る。
最初から零れ落ちた命は、いつどこで潰えようが世界は知ったこっちゃない。
「死なないでっ、くれよ……ロイド…………」
けれどこうして、死を嘆く者がいる限り。
彼女たちはきっと、孤独ではないのだろう。
世界にノイズが走る。
やがて砂嵐は視界を呑み込んで、ローズの追憶は唐突に終わりを告げた。
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「っ、はぁ……! はぁ……ッ!」
目に飛び込んできたのは、無機質な床。
少し視線を左にやれば、夜上の姿があった。
生と死の境目にある彼を見て、これが現実なのだと理解する。
今のは、なんだ。
手に残る生々しい血の感触も、鼻腔の奥に巣食う鉄の匂いも、張り裂けそうな悲しみも。
まるで〝今〟体験したかのような名残があって、状況がつかめなかった。
頬に伝う涙を拭い、ハッと顔を上げる。
あれからどれほど経った。あの怪物はどこに。
捉えたのはやはり、虚空へ向けて戦い続けるオークの姿。
意識を失っていた時間はそう長くはないらしく、ひとまず安堵する。
「さっきの、は……」
その先を口にするよりも先に、再び頭痛が襲いかかる。
一度目の時と比べたら幾分かマシではあるが、麻酔を打たれたように意識が朦朧とする。
狭まる視界が最後に捉えたのは、まるでなにかに殴られたように後ずさり、まるでなにかに蹴られたように顎を上げるオークの姿だった。
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記憶が流れ込む。
そこは深い、深い森にある施設のようだった。
どうやらこの記憶の持ち主はうつ伏せに倒れているらしく、地面が近い。
しかしそんなことを気にしていられるのはほんの一瞬で、すぐに凄まじい激痛が安理に襲いかかった。
意識が飛びかけるほどの痛みだ。
まるで全身の骨が砕けたかのような、感じたことのないダメージが記憶の持ち主を通じてフィードバックする。
痛みに耐えることに必死で、視界に入る情報を正しく認識できなかった。
「────鍛え直してこい」
だからそれを認識した瞬間、心底ギョッとした。
冗談抜きで心臓が止まるのではないかと思った。
だって今目の前にいるのは、あの被検体:Oと瓜二つの人物なのだから。
地獄のような痛みと衝撃を経ても、気絶さえ許されないらしい。
悶絶する安理をよそに、流れる景色は遠慮なく進んでゆく。
「無論だ」
と、低い女の声が響く。
特徴的なその声を聞いて、安理はこの記憶の持ち主が誰なのかを理解する。
同時に、この全身を蝕む痛みに対して納得を覚えた。
──これは、大金卸 樹魂の記憶だ。
目の前にいるのは、たしかに被検体:Oと縁のある人物なのだろう。
岩肌のような四角い顔に、鍛え上げられた鋼のような肉体。
刈り込まれた髪に、濁り一つない瞳。
よく見ればその男は被検体とはまるで異なる、静かで理性的な強さを滲ませていた。
「いつか必ず、貴殿を打ち倒しに来よう」
ぐぐ、と身体が持ち上がる。
指一本も動かせぬほどの痛みの中で、無理やりに起き上がってみせたのだ。
驚愕したのは安理だけではなく、目の前の四角い男も同様。
僅かに目を見開いて、刃物のように研ぎ澄まされた視線で応えていた。
「それまで、待っていてくれぬか」
今にも膝を折りたくなる激痛の中、樹魂は震え一つ見せず言い退ける。
豪胆とも愚行とも取れる漢女の姿を見て、男は目を凝らさなければ分からないほど微かに笑った。
「その任務、引き受けよう」
それを言い残して、男は去っていく。
彼が背中を向けたと同時、樹魂の身体は力なく崩れ落ちて、地に伏せる。
まるで恋焦がれる漢女のように遠ざかる背中を見送り、視界が涙で滲んでゆく。
その涙の意図は、安理には分からない。
けれどここまでの短いやり取りを見て、安理はなんとなく察した。
樹魂は、ずっと前から強かった。
ずっと前から、強すぎたのだ。
悲劇的なまでの強さを得た彼女が初めて、自分を完膚無きまで打ち倒す存在と出会えた。
そんな存在にいつかまた挑めるという未来は、なによりの希望だったのだ。
それはきっと、孤独の埋め合わせなのかもしれない。
自分と対等な存在がいなくなるというのは、上手くイメージができない。
けれど想像したら、ひどく空虚で恐ろしい。
彼女はきっと無意識に、緩やかな死を意識していたのだろう。
それでも、唯一といえる生き甲斐があるとすれば。
この男と再び拳を交えること──だったはずだ。
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目が覚める。
今度こそ、動揺はない。
むしろ幻のように全身の痛みが消え去ったことに、胸を撫で下ろす余裕さえあった。
これは、夢なんかじゃない。
ローズの記憶も、樹魂の記憶も、偽りではない真実なのだ。
視線を前へ戻す。
被検体:Oはひたすらに、見えない何かへ災害じみた攻撃を続けている。
今ようやく、誰があの怪物と戦っているのかわかった。
安理は夜上のように特別な『目』を持っているわけではない。
けれど、彼にしか見えないものがそこにあった。
怪物の攻撃に合わせて、豊かな三つ編みが揺れる。
樹皮を剥いだ丸太のような筋肉が、美しいまでの武を描く。
荘厳なる横顔は、どこか幼子のような無邪気さが見られる。
透明だったそれは確かな輪郭を持ち、この瞬間をもって闘いが完成した。
「大金卸、さん」
名を呼ぶ。
幻影は応えない。
拳を振るい、脚を振るい、四角い顔のオークとの死闘に興じている。
かくいうオークもまた、それに応える。
27年前に与えられた任務を全うするかのように。
冷徹な生物兵器としてではなく、一人の戦士として迎え撃つ。
「BUROOOOOOOO────ッ!」
二人の武神は、戦い続ける。
競い合うように、高め合うように。
がむしゃらに武を振るい続ける。
オークの拳を漢女が受け流し、カウンターの一閃が胸を打つ。
実体のない拳が触れた箇所は当然、外傷も痛みも伴わない。
そのはずなのに、被検体:Oの巨体はたしかに数歩分後退した。
追撃を仕掛ける漢女へ、フェイントを織り交ぜた足払いを決めるオーク。
重心をずらされた樹魂は転倒の勢いを利用し、逆立ちの態勢へと移りカポエイラのような足技を放つ。
怪物はそれを両腕で防御するも、二撃目の蹴り上げが腕を跳ね上げさせた。
晒された隙を狙い、漢女は順立ちへ戻る。
オークの反撃と漢女の追撃は同時だった。
空中で拳と拳がぶつかり合い、互いに構えを取る。
伝う衝撃も、響く轟音も、きっと安理だけにしか感じられないのだろう。
続く拳の応酬に打ち込む互いの姿は、澱み一つ見られなかった。
「────すっ、ご……」
思わず洩れた一言が、その闘いの壮絶さを如実に物語る。
突き詰めればそれは、色々な原因があるのだろう。
初の実戦投入で不完全な被検体が、エラーを起こしたのかもしれない。
安理から感じられた樹魂の匂いが、細胞に刻まれた〝任務〟を思い出させたのかもしれない。
はたまた樹魂の幽霊がそこにいて、犬猫を越えた鋭すぎる第六感が彼女を捉えたのかもしれない。
けれど、そんな理由を考えるのは無粋。
今目の前で起きていることこそが、現実。
『ぜぇぇぇぇりゃァァァアアアアアッ!!』
耳を澄ませば、そんな咆哮さえ聞こえてくる。
その一喝は奇しくも、安理に我を取り戻させることとなった。
大金卸は今、戦ってくれている。
因縁の対決に没頭しているだけなのかもしれない。
けれど結果的に、蛮勇に走る安理を食い止めて命を救う形となった。
アビスが切り札として用意した怪物を、たった一人で受け持っているのだ。
もしかしたら、それは。
生前では成し遂げられなかった、〝護るための拳〟なのかもしれない。
幾百幾千という子供達が誤った道へ進むことを止められなかったから。
北鈴 安理という青年が、正しき道へ進めるように導いているのかもしれない。
樹魂の詳しい過去は知らない。
けれどこのまま立ち止まっていれば、彼女の戦いを無駄にしてしまうと確信した。
戒めを込めて、自身の頬を叩く。
そうして倒れ込む夜上と向かい合い、静かに息を呑んだ。
──やるべき事をやれ、安理。
頭をよぎるのは、ローズの記憶。
幼い頃の彼女は、自分の境遇と似通っていた。
望まぬ力で大切な人を殺めてしまい、人生を滅茶苦茶にされた超力の被害者である。
けれど、決定的に違うことがある。
ローズは超力を受け入れ、自分なりに形を変えて、誇りへと昇華させたのだ。
言葉にするだけならば簡単だが、その過程がどれほど苦難に満ちていたのか、計り知れない。
「自分を、認める……」
噛み締めるように、そう呟く。
震える両手を見下ろして、辿ってきた道のりを思い返す。
〝もう一人の自分〟が常に付いて回るという、精神的負担の大きい亜人変身型の超力。
ひいてはそれが異性への変身となれば余計に、自己肯定感など彼方へ消えていった。
けれど、様々な出会いを経た。
様々な生き方を知り、様々な記憶を見た。
ここが下のない底だとしても、地上では絶対に見付けられなかった景色だ。
────理想の自分とは。
何度も考えたし、何度も答えを出した。
それでも自信を持ってこれだとは言えないし、出した答えに自信なく待ったをかけていた。
新人類としては、いつか向き合わなければいけない問題。
スプリング・ローズが10にも満たない歳で乗り越えた、人生の分岐点。
それを決断するとしたら、今この瞬間を置いて他にない。
「わかってるさ」
言われなくてもわかってる。
このアビスで貰った言葉を整理して、思考を巡らせる。
夜上神父は、自分の異能は変質を遂げると言った。
先程見た記憶の追体験は、きっとそれの予兆なのだろう。
被検体:Oの出現がトリガーとなって、不安定だった安理の精神への影響はピークを迎えた。
ローズは、人狼の姿に誇りを持っていた。
ならば自分も氷龍に誇りを持てるかと言われたら、ちがう。
いくら綺麗で神秘的な姿をしていても、愛する人を死なせてしまった力を理想だとは思えない。
ローズが誇りとしていたのは、味方を巻き込む理性のない獣ではなく、敵を駆逐できる人狼の姿なのだから。
ならば、理想の自分とは。
氷龍というわかりやすい答えを蹴ってまで、何を目指すのか。
答えは、意外と早く見つかった。
これまで散々悩み抜いたのにと、笑ってしまうほど呆気なく。
ローズは教えてくれた。
自分を認めた先にある可能性を。
大金卸は教えてくれた。
肉体だけではなく精神の強さを。
夜上は教えてくれた。
自分が見ようとしなかった心の形を。
イグナシオは教えてくれた。
弱き人の力となり、信念を貫く生き方を。
「胸を張れよ、安理」
その言葉を皮切りに、安理の肉体は変貌を迎える。
北鈴 安理の超力は、この瞬間をもって出来上がった。
◾︎
両腕はパキパキと音を立てて白い鱗が生え揃い、人外の象徴へ。
けれど人間の面影が残る五本の指からは、優しい青色の爪が伸びる。
エルフのように尖った耳と、頭髪を分けて顔を出す二本の青白い角。
木星のような穏やかさを帯びた瞳は、凛とした気高さを奥に眠らせる。
細く靱やかな尾は本来纏っていた氷柱の棘を捨て、伸縮性に長けたロープのよう。
全身に纏う冷気は生物に害を成すことを嫌うかのように、そよ風を彷彿とさせる心地良さを秘めていた。
完全な龍でもなく、人でもない。
どちらの姿も安理なのだと認めた果てに見つけ出した答え。
それこそが、常時発動型の竜人化だった。
「これが、……本当のボク……」
正直、感動で胸が打ち震えている。
長く付き合ってきた悩みを克服したのだから、達成感に酔いしれたい。
けれど生憎と、感慨に耽っている時間はない。
身体能力向上の恩恵は大きく、負傷した腕でも神父の身体を抱えることができた。
人を傷つけない冷気は夜上を優しく包み込み、出力を調整して右足の断面を冷却する。
弱い人の助けになりたいという願望を体現したこの力は、最適解を導き出した。
オークはまだ大金卸と戦っている。
今ならば気付かれずにブラックペンタゴンを出られるだろう。
そこまで考えたところで、安理はまた判断に迫られた。
──本当に、ここを出るべきなのか?
正気とは思えない迷い。
6時間後に禁止エリアとなる上に、未知なる怪物や危険人物が蔓延るブラックペンタゴン。
生き残ることが目的であれば居座る理由はなく、危険な状態にある神父を連れているのならば尚更。
けれど、安理の足は素直に出口へ向かえない。
このままここを抜けてしまえば、何も果たせないからだ。
イグナシオの思いを受け取り、誇れる自分になれるためにと決断した安理自身に嘘をついてしまう。
あの時神父と交わした言葉は嘘じゃない。
真実を追い求めたいという意思は、変わらない。
折角選びとった道から命惜しさに逃げ出したら、きっと胸の奥で残り続けるだろう。
けれど同時に思う。
もしも自分一人だったのなら、奥へ進んだだろう。
だが今腕の中で眠る夜上神父を巻き込んで、自分のエゴを貫くべきなのかと。
だから、その葛藤は深い。
人を助けたいという気持ちと、真実を追い求めたいという矛盾した衝動の狭間で心が揺れ動く。
「っ……!」
そんな彼の悩みに呼応するように、再び頭痛が起こる。
記憶の追体験、それの予兆であると悟ったのは、新たなる超力に慣れ始めた証だろうか。
この力は、なにを自分に見せたいのか。
微睡みを受け入れるように、瞳を閉じた。
◆
記憶が流れ込む。
それは、真新しい教会のようだった。
澄んだチャイムの音が鳴り響き、手入れのされた庭で子供達が集う。
記憶の持ち主は、そんな子供たちを少し背の高い視界で見下ろしていた。
「神(わたし)へ、祈りを」
それは、異様と言える。
子供達は一斉に片膝立ちとなり、口々に祈りを捧げる。
状況から見て、これが夜上の記憶であることは疑う余地もない。
けれどこれは神父の行いというよりも、彼自身が崇拝される対象であるかのようだった。
「荒廃した世にて人間(ヒト)を導くのは、天におわす全能の父ではない」
宗教の自由が認められている日本で育った安理は、祈りの文化などない。
けれど一般的には、神を讃える言葉が羅列されるということくらいは分かる。
ならば今神父が口にするそれは、祈りなどではないのだろう。
「神とは、縋るものではない」
否定、否定、否定。
腐る程読み漁った聖書には、一切書かれていなかった冒涜の詩。
祈りという行為自体を一蹴するかのような、現実主義者の自我。
「神とは、見つけ出すもの」
それもここまで悪意なく、自信に満ちた声色で言い放つのであれば。
この言葉は確かに、無垢な子供を導くには充分なのだろう。
「神(じぶん)は常に、自らの中にある」
長く続いた祈りの締め括りの言葉。
5秒間の沈黙を終え、子供達は一斉に立ち上がり無邪気に教会の中へ入っていく。
全員が入るのを見届けてから、神父はゆっくりとした足取りで自らも門をくぐった。
カツカツと廊下を歩む音が聞こえる。
孤児院を兼ねているのか、中は礼拝堂だけではなく幾つかの部屋が用意されているようだった。
あの子供達は、本当に身寄りのない孤児なのだろうか。
もしかしたら夜上自身がここに導いたのではないのかと、不穏な予感が胸をよぎる。
そんな安理の思案をよそに、神父は自室の扉を開けた。
小さく簡素な部屋に、ぽつんと置かれた姿見。
それに視線を向けたことで、記憶の中の神父と『目』が合った。
「あなたは今、苦境に立たされているようだ」
思わず、心臓が跳ね上がる。
鏡の中の自分を見つめながら、夜上は全てを見透かしたように言った。
まるで、記憶を覗き見る〝誰か〟へ向けられているように。
「悩むのは人間(ヒト)の特権であると同時に、弱さでもある。皆が即座に決断が出来るのであれば、世の宗教という文化は淘汰されているだろう」
神を名乗る不遜な男。
アビスに堕ちた時点で神聖さなど欠片もないはずなのに、導き手として確かな力を発揮する。
安理もまた、彼に導かれた一人だった。
「ですが、一度見つけた答えを手放そうとするのは悩みではない。それは神(じぶん)への否定だ」
だからこそ。
そんな胡散臭い言葉を、すんなりと呑み込んで。
抱えていた葛藤は、霞のように消え去った。
「神(わたし)は、あなたの選択を見ていますよ」
世界にノイズが走る。
歪む鏡の中で、神父が微笑んでいるように見えた。
◆
目覚めた安理に、もう迷いはなかった。
神父を抱えたまま竜人は疾走する。
出口ではなく、南西ブロックへ続く扉へ。
「BUROOOOOOOッ!!」
背後で怪物の鳴き声が聞こえる。
追ってくる様子はない。
心中で大金卸へ感謝を述べながら、肩から扉へ飛び込んだ。
自身を迎え入れる空間を、周囲の景色など気に留めずひた走る。
階段へ向かっているのかどうかなんて、判断がつかない。
とにかくあの怪物から逃れ、同じくここに閉じ込められた人と出会うために。
未だ放送でしか情報を得ていない参加者へ、被検体:Oがいかに危険な存在なのかを、伝えなければならない。
「はっ、はっ……! はぁ……!」
息を切らして走る中で、安理は思考する。
うるさいくらい高鳴る鼓動は、身体に反して脳に冷静さを取り戻させて。
この記憶の追体験は、なぜ目覚めたのかと考える。
真実を追い求めたい。
その願望が、この超力を生み出したのだとしたら。
それは間違いなく、イグナシオに憧れたからなのだろう。
イグナシオが〝過去を再現〟する異能ならば。
安理が目覚めたのは、〝過去に共感〟する異能。
似ているようでありながら本質の異なる利便性に富んだ力は、どちらも真実を求める探偵として適正と言える。
「ありがとう……」
自然と、漏らしたのは感謝の言葉。
もしも彼らとの出会いがなければ、自分は被検体:Oに殺されていただろう。
そうでなくとも、ずっと殻に閉じ篭って自分を認められなかったはずだ。
イグナシオ、ローズ、大金卸、夜上。
誰一人として欠けることの許されない出会いの上で、この命は成り立っている。
北鈴 安理は胸を張って、生きていると言える。
「ありがとう……!」
この命は、この信念は。
出会ってきた皆が灯してきた炎。
この火を消してはならない。
風に消えてしまいそうなほど頼りなかったそれは、数多の灯火を得て、闇夜を払うほどに育ったから。
「本当っ、に……! ありがとう……!」
滲んだ涙は、氷の結晶となって零れ落ちる。
照明を帯びてキラキラと輝くそれは、まるで宝石のようで。
煌めきが頬に落ちた神父は、どこか満足そうに口元を歪めた。
【E-4/ブラックペンタゴン1F・南西ブロック・???/一日目・日中】
【北鈴 安理】
[状態]:上半身インナー姿、右腕に打撲、疲労(大)、気疲れ(大)、脳への負担
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本:自分の罪滅ぼしになる行動がしたい。自分なりに、調査を進め弱い人を助ける探偵として動きたい。
0.ブラックペンタゴン内の他の受刑囚と接触し、被検体:Oの情報を伝える。
1.自分の意思で、この刑務作業の真実を知りたい。
2.バルタザールがまだ破壊の限りを尽くすようなら、被害をできるだけ抑えたい。
3.本当に恩赦が必要な人間がいるなら、最後に殺されてポイントを渡してもいい。けれど、今はもう少し考えたい。
※イグナシオの過去、大金卸とのあらましについて断片的に知りました。少なくとも回想で書かれた全てを聞いているわけではありません。
まだ聞いていない部分について、今後間違った妄想や考察をする可能性もあります。
※超力が変化し、常時発動型の竜人となりました。
氷龍と比べ冷気の攻撃性能が著しく落ちる代わりに、安定した身体能力の向上を獲得しました。
※他人の記憶を追体験する力を得ました。
追体験出来るのは自身と直接会話をした事がある人物に限られます。
記憶の中では五感全てが再現されるため脳への負担が大きく、無茶な使用は精神の崩壊に繋がります。
また、記憶の持ち主が死亡する場面まで追体験を続けた場合、安理自身も廃人となります。
【夜上 神一郎】
[状態]:意識不明、右足欠損(応急処置済み)、安理に抱きかかえられている
[道具]:デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本:救われるべき者に救いを。救われざるべき者に死を。
0.気絶中。
1.同行する安理を最大の観察対象として、彼の「審判」に集中する。
2.なるべく多くの人と対話し審判を下す。
3.できれば恩赦を受けて、もう一度娑婆で審判を下したい。
4.あの巡礼者に試練は与えられ、あれは神の試練となりました。乗り越えられるかは試練を受けたもの次第ですね。誰であろうと。
5.“鉄の騎士”は、いずれ裁く。
6.バルタザールの動向に興味。いずれ対話し審判を下したい。
※刑務官からの懺悔を聞く機会もあり色々と便宜を図ってもらっているようです。
ポケットガンの他にも何か持ち込めているかもしれません。
◆
記憶が流れ込む。
視界に飛び込んできたのは、重厚な扉。
配管の並ぶ無機質な壁は、どこか見覚えがある。
自分は、この景色を知っている。
扉がゆっくりと開かれる。
そこに立っていたのは、安理だった。
陰鬱な表情を隠すように、黒いマスクをつけて視線を泳がせる。
線の細い身体は猫背気味で、ひどく頼りない。
両手はそわそわと落ち着かずに揺れていて、防衛本能からか自分を抱きしめるように腕を組む。
間違いなく、自分だ。
そしてこの自分を見ている人物の正体に、安理はすぐに気がついた。
「──イグナシオ・フレスノ。しがない探偵をやってました」
答え合わせをするように、記憶の主が名乗る。
もう二度と聞けないと思っていた声に、胸が裂けそうだった。
「超力は自分の前方に過去の土地の様子を再現して再生する能力です。探偵活動用ですね」
よろしくお願いします、と。
未だ警戒を解かない男を落ち着かせるような、優しい声色が響く。
それを聞いた青髪の男は、視線を首輪へと下げながら恐る恐る応える。
「北鈴……安理です。超力は……その。氷を扱う龍に変化します」
超力の話をする彼は、どこか辛そうだった。
悩みを露呈するかのように言葉がつっかえて、視線から逃げるように顔を俯かせている。
それがたった12時間前の自分なのだと思うと、不思議な気分だった。
これは、出会いの記憶。
自分が目指した人との邂逅の瞬間。
ここから全てが始まったのだ。
記憶の中の自分は、酷く脆い。
けれどそれは、羽化を待つ蛹だ。
羽を広げるその瞬間まで、お前は幾つもの苦労を味わうだろう。
何度も投げ出したくなるし、何度も自分を嫌いになるはずだ。
けれど決して逃げちゃダメだ。
歩き続けた先で、きっと変われるから。
頑張った自分を、ほんの少しだけ好きになれるから。
────進め、安理。
◆
「FUSHUUUU……!」
エントランスホールの中心にて、片膝をついた異形が吐息を溶かす。
その周辺は地獄という言葉がよく似合う惨状が広がっており、まるで絨毯爆撃でも受けたかのよう。
荒れた床と散らばる瓦礫、あちこちに出来たクレーター。
その激闘の跡地を見て、原因がこの怪物の一人相撲によるものだと思い至る者はこの世にいないだろう。
──大金卸 樹魂との対決。
因縁を果たすべく打ち込んだその死闘は、決着がつく前に水を差され、唐突に終わりを迎えた。
どちらかが倒れるよりも先に。
どちらかの拳が相手を穿つ前に。
オークの〝暴走〟は、ぴたりと止んでしまったのだ。
後に残ったのは、みすみす標的を取り逃したという結果だけ。
初実戦はこれ以上ないほどの大失敗と言えるだろう。
許されざる失態を噛み締めているのか、はたまた先の勝負を惜しんでいるのか。
オークが立ち上がる仕草は、ひどく緩慢だった。
巡り合わせとは、不可思議なもの。
もしも途中で暴走が止まらなかったら。
もしも樹魂が実体を持っていたら。
──狩られていたのは、自分かもしれない。
もはや考えても無駄なことだが、被検体に戦慄を抱かせるには充分な杞憂だった。
感情を押し殺す生物兵器はしかし、思考回路が遮断されているわけではない。
ブラックペンタゴン・エントランスホール内の受刑囚を皆殺しにするという任務を失敗した。
この事実を、怪物は重く受け止める。
刹那、オークの身体が消えた。
否、圧倒的な質量が丸ごと消えたかと錯覚するほどのスピードで移動したのだ。
散らばる瓦礫に触れさえせず、疾走の後に低く跳躍。
宙に投げ出された巨体は鈍重さを感じられぬ動きで、アクロバティックな空中回転蹴りを放つ。
──その軌道にあった黒い蝿は、跡形もなく消滅した。
エンダ・Y・カクレヤマの視察はこれで断念させられる。
超力の干渉を予感したオークは、周囲に警戒を張り巡らせた。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚。
全てをフル活用して、敵が居ないことを確認。
そうしてオークの視線は、放り出された肉塊に留まった。
「GURUUUUU……!」
それは、夜上 神一郎の右足だった。
無造作に落ちたそれをオークは片手で拾い上げ、顔を近づける。
人間では再現不可能なほど、大きく口が開く。
やがて新鮮な肉へ、鋭い歯が突き立てられた。
肉を咀嚼する音は、二口目で骨を砕く音へ変わる。
まるで上質なTボーンステーキかのようにかぶりつき、味わい、嚥下する。
それを平らげるのに、一分も掛からなかった。
「BUROOOOOOOO────ッ!!」
食事を終えたオークは喚声を上げる。
ブラックペンタゴン全体に響くほどの悪魔の呼び声。
奈落でも一際異端なそれを体現するかのように、この世の暴威を詰め込んだかのようなオークの筋肉は先程よりも膨れ上がり、力を増した。
──餓鬼・改 (ハンガー・オウガー・ネクスト)。
人を喰らうことで力を増す異能。
かつて人類最強と謳われた男のクローンが持つには、あまりにも皮肉な超力。
衝動とも欲求とも違う、ただ任務を全うするには力が必要だと判断したから食人を行った。
オークからすればそれは、合理的な思考の末に到着した必要過程にすぎない。
どこまでも冷静に、正気を保ったまま食人という禁忌を犯してみせた。
彼はもうとっくに、人ではない。
【E-5/ブラックペンタゴン南・エントランスホール/一日目・日中】
【被検体:O(オーク)】
[状態]:健康
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本:受刑囚の殲滅。
1.エントランスホール内に来る標的を破壊する。
※夜上の右足を捕食したことで身体能力が強化されました。
現在12倍まで倍率を引き上げる事が可能です。
最終更新:2025年09月23日 09:48