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イタリア、シチリア島東部。
カターニア平原の外れ。

夏の太陽は、空の真上から容赦なく降り注いでいた。

乾いた土の匂い。
遠く霞むエトナ山の稜線。
道の両脇には、低く枝を広げたオレンジの木々が、見渡す限り列をなしている。

濃い緑の葉の奥では、熟れた果実が点々と灯っていた。
強すぎる日差しを浴びたその色は、鮮やかな橙というより、どこか血の気を帯びた赤に近い。

舗装の荒い農道を、一台の古びたトラックが走っていた。
荷台には、収穫用の木箱がいくつも積まれている。
その隙間に、一人の青年が腰を下ろしていた。

年の頃は二十代よりやや若い。十代後半ほどだろう。
旅人らしい簡素な鞄をひとつ抱え、吹きつける熱風に目を細めている。

運転席では、古いラジオがざらついた音でニュースを流していた。

複数都市で発生した暴動。
EU圏内における治安の悪化。
各国政府による非常事態措置の検討。
イタリア本土では、港湾部を中心に武装組織の抗争が激化し、警察と軍の合同部隊が出動した――。

そんな言葉が、ノイズ混じりに聞こえては、エンジン音に紛れて消えていく。

「まったく、物騒でかなわねぇや」

運転手の男が、ハンドルを握ったままぼやいた。

日に焼けた顔に深い皺を刻んだ、中年の男だった。
窓を開け放ち、片肘を外へ突き出したまま、バックミラー越しに荷台の青年を見やる。

「なあ、兄ちゃん。あんた、旅人なんだろ。こんなご時世に、よく一人でふらふらできるな」

青年は少しだけ顔を上げた。

「これでも、荒事には慣れていますので」
「慣れるようなもんじゃねぇと思うがな」

運転手は呆れたように笑った。
それからラジオの音量を少し下げ、声を潜める。

「少し前までは、イタリアもまだ平和なもんだったんだ。観光客だって来てたし、港も市場もそれなりに賑わってた。……知ってるかい? イタリアには、でかいカモッラがいたんだよ」
「カモッラ、ですか」
「ああ。表じゃ誰も口にしねぇが、裏じゃ知らねぇ奴はいないような連中だ。その傘の下にいる限り、妙な揉め事は起きなかった。良いか悪いかは別としてな。秩序ってやつは、時々、まともじゃねぇ連中の手で保たれる」

ゴシップが好きなのだろう。
運転手は噂話を楽しむように鼻を鳴らした。

「ところが、その大物が勢力争いに負けたとか、病院で死にかけてるとか、もう死んだとか、いろんな話が流れてる。それ以来、イタリアもこの調子よ」
「本土の方は、かなり荒れていると聞きました」
「ああ。そろそろ本格的にまずい。ミラノも、ナポリも、ローマも、表じゃ政治家が綺麗事を言ってるが、裏じゃ外国の連中と縄張りの奪い合いだ。誰かが消えて席が空いたなら、自分たちが座りたい。そう考える馬鹿が、山ほどいる」
「お詳しいのですね」

青年がそう言うと、運転手は少しだけ得意げに笑った。
だが、その表情はすぐに沈み、ため息へと変わる。

「ま、本当かどうかは知らねぇよ。俺みたいなオレンジ運びに分かる話じゃない。ただな、噂ってのは、それだけで人を動かすんだ。特に、金と力を持ってる連中はな」

男はラジオに目をやった。
ちょうどそこで、港湾部の封鎖と臨時検問のニュースが流れていた。

「何でも、欧州裏社会の大物が消されたって噂まである。そのせいで、これまで押さえ込まれてた連中が、一斉に顔を出し始めたらしい。影響がこっちまで来るのも、時間の問題だろうよ」
「シチリアは、まだ静かですね」
「まだ、な」

男の声が、わずかに低くなった。

「ここには、ここなりの秩序がある。良いもんか悪いもんかは別としてな。だが、本土が燃えれば、火の粉はいずれ海を越える。まして今は、世界中どこもおかしい。国境も、軍も、警察も、昔ほど当てにならねぇ」

青年は返事をしなかった。
ただ、荷台の縁に手をかけ、流れていくオレンジ畑を見つめていた。

その瞳には、多くのものを見てきた静かな海のような深みがあった。
達観でも、諦観でもない。遠くの景色を知りながら、それでもなお、目の前の世界から視線を逸らさない。
そんな目だった。

やがて道の先に、小さな白い教会の尖塔が見えてきた。
そのさらに奥。オレンジ畑に囲まれるようにして、低い塀に守られた建物がある。

町から離れたこの場所に建っているには、少しばかり立派すぎる施設だった。
白い外壁。整えられた庭。人目を避けるような位置にある、静かな病院。
それを確認して、青年は荷台から運転席へ声をかけた。

「この辺りで下ろしてもらってもよろしいですか」
「ここでいいのかい?」

運転手は意外そうに眉を上げ、トラックの速度を落とした。

「見ての通り、オレンジ畑ばっかりだぞ。あとは小さな教会と、あの病院くらいしかない。町までなら、もう少し乗せてってやれるが」
「ええ。ここで大丈夫です」
「なんだ。知り合いでも入院してるのか?」
「そんなところです」

青年は軽やかに答えた。
運転手はそれ以上、深く聞かなかった。

ブレーキが軋み、トラックが道端にゆっくりと停まる。
青年は荷台から軽やかに降りた。
鞄を肩にかけ、服についた砂埃を払うと、運転席の方へ歩み寄る。

「助かりました。ありがとうございます」
「いいってことよ。こんな暑い中、歩くもんじゃねぇからな」

男はそう言ってから、ふと何かを思い出したように目を瞬かせた。

「ああ、そういや兄ちゃん。肝心なことを聞くのを忘れてた」
「何でしょう」
「あんた、名前は?」

青年は一拍だけ間を置いた。
風が吹き、オレンジの葉が乾いた音を立てる。
その音を聞いてから、青年は静かに答えた。

「ハルです。ハル・スティン」
「ハルか。いい名前だ」

運転手はその名を何度か口の中で転がすようにしてから、助手席に転がっていたオレンジをひとつ手に取った。

「よし。餞別だ。持ってけ」

そう言って、男はオレンジを放る。
ハルはそれを片手で受け止めた。

夏の陽気の中に置かれていたはずの果実から、ひんやりとした冷気が伝わってくる。

「……冷たい」
「おうよ。俺の超力よ!」

運転手はサムズアップしながら笑った。

「いい超力ですね。ありがとうございます」

手にしたオレンジを軽く掲げ、ハルは微かに笑った。
男は応じるように片手を振り、再びアクセルを踏む。

古びたトラックは黒い排ガスを吐きながら、ゆっくりと農道を進んでいった。
ハルはその後ろ姿を、律儀に見えなくなるまで見送った。

やがて、トラックの音が遠ざかる。
オレンジ畑に、蝉の声だけが戻ってきた。

ハルは手の中の果実を見下ろした。

陽を吸って育った果実。
地上の土に根を張り、雨を受け、風に揺られ、季節を越えて実ったもの。

彼は爪を立て、その皮を裂いた。
瑞々しい香りが、熱い空気の中に弾ける。

一房を口に運ぶ。
涼やかな冷たさとともに、甘味と酸味が舌の上に広がった。
それは、地上の太陽を吸って育った果実の味だった。

ハル・スティンは、もう一度だけ病院の方を見る。

シチリアの夏。
オレンジに囲まれた畦道を、ハル・スティンは歩き出す。

ここへ至るまでに、何があったのか。
世界の運命すら左右した、半年前の出来事を振り返ろう。


『刑務作業全工程終了』

あまりにも無機質な機械音声が、大会議室に響き渡った。
だが、その声に応じる者はいない。

巨大モニターの大半は、すでに砂嵐に呑まれている。
復旧しかけた画面にも、映し出されるべき世界の姿はない。砕けた会場の断片と、意味を結ばないノイズだけが、断続的にちらついていた。

誰も口を開かなかった。

成功を見届けるために集った刑務官たちは、今や敗北の証人としてそこに立ち尽くしている。
長机の周囲に並ぶ顔には、困惑、焦燥、そして認めがたい現実への怯えが浮かんでいた。

その中で、ただ一人。
場違いにも、一人の受刑者だけが長机の上に尻もちをついたまま、周囲を見回していた。

エネリット・サンス・ハルトナ。

今回の刑務作業における、唯一の正規帰還者。
彼は数秒ほど、沈黙そのものを味わうように室内を眺めたあと、場違いなほど穏やかな声で言った。

「なるほど。随分とお忙しいようだ」

その瞬間、何人かの刑務官が露骨に顔を強張らせた。
看守長オリガ・ヴァイスマンが、苛立たしげに舌を打つ。
床には、先ほど落としたコーヒーの染みが黒く広がっていた。

計画は失敗した。
問題は山積みである。
一刻も早く、混乱した状況を立て直さねばならない。

だが、ヴァイスマンはいかなる状況にあっても、優先順位を間違えない。

命令に背いたミリル=ケンザキへの詰問や処罰は後回しだ。
ここには、受刑者に聞かせるべきではない言葉が飛び交い、見せるべきではないものも残りすぎている。
まず、この場から余計な耳と目を排除する必要があった。

「マーガレット主任看守」
「はっ」

この混乱の中でも冷静さを保っていた数少ない刑務官。
壁際に控えていたマーガレット・ステインが、一歩前へ出た。

この状況で、エネリットに口八丁の屁理屈を捏ねられてはたまらない。
必要なのは、問答無用で受刑者を連行できる者だった。

「エネリット・サンス・ハルトナを別室へ移せ。今回の刑務作業について、個別に聴取を行う」
「承知しました」

追い出すための名目だった。
だが、生還者である以上、聴取そのものは必要な手続きでもある。

「降りろ。エネリット」
「手荒くしないでくださいよ。大人しく従いますって」

マーガレットはエネリットの傍に立ち、その腕を取って長机から降ろした。
すぐに手錠がかけられるが、エネリットは抵抗しなかった。

そのままマーガレットに引かれ、大会議室の出口へ向かう。
扉をくぐる直前、彼は一度だけ振り返った。

砂嵐に呑まれた巨大モニター。
狼狽する刑務官たち。
冷静さを取り戻そうとしている看守長。
そして、端末の前で立ち尽くすミリル。

そのすべてを焼き付けるように眺めてから、エネリットは小さく呟いた。

「深淵にも、随分と水が差したようで」

扉が閉じた。
受刑者が消えた瞬間、室内の空気が一段重くなる。
部外者の退場を確認し、ヴァイスマンは即座に指示を飛ばした。

「この部屋の通信を制限しろ。外部への報告は、私の許可を通したものだけに限定する。記録班、全ログを保全。AG-1関連の記録は別系統で凍結しろ」

職員たちが一斉に動き出す。
ヴァイスマンは続けた。

「それから、三名の反応を追え」

トビ・トンプソン。
ジョニー・ハイドアウト。
メリリン・“メカーニカ”・ミリアン。

刑務作業の最後に、崩壊する世界から姿を消した三名。

それが本当に脱獄だったのか。
それとも、崩壊した世界に呑まれ、ただ死んだだけなのか。
確認しなければならなかった。

「し、しかし……三名とも首輪は解除されています。直接ビーコンによる追跡は不可能です。現在、AG再起動後の観測網を再構成中で――」
「馬鹿者」

ヴァイスマンの声が、報告を断ち切った。

「首輪の反応だけが追跡手段ではない。アビス内の監視カメラ、外界センサー、温度測定、超力反応、動体反応。利用可能なものは全て使ってアビスの周辺一帯を浚え」
「りょ、了解!」

刑務作業に使用した新世界(システムB)の接続点はこのアビスだ。
現実世界との座標のずれが、どの程度の影響を及ぼすのかは分からない。
だが、崩壊した世界から排出された人間がいるならば、少なくともアビスの周囲に出現する可能性が高い。

職員たちは、人海戦術で情報を浚った。
数十秒。あるいは、数分だったのかもしれない。
その時間は、異様に長く感じられた。

「か、看守長……!」

一人の職員が、青ざめた顔で声を上げる。

「三名のものと思われる動体反応を捕捉しました」
「どこだ」

問われた職員は、一瞬だけ言葉を失った。
だが、ヴァイスマンの視線に射抜かれ、震える声で続ける。

「それが、その……動体反応はアビスの、外です」

沈黙が降りた。
今度の沈黙は、先ほどまでとは違っていた。
それは、アビスからの脱獄を許してしまった、という沈黙ではない。

アビスは、存在すら認められていない秘密刑務所である。
所在地は徹底して秘匿されており、内部に収監された囚人たちにも当然知らされていない。

その実体は、海底千メートルに沈められた海中基地。
地上と繋がる唯一の出入口は、海洋基地へ続く長距離エレベーターのみ。

地の底ならぬ、海の底に築かれた監獄。
これがアビスの真実。

すなわち、アビスの外とは、深海という死の世界だった。

光は届かず、水圧は人体を容易く押し潰す。
温度は低く、酸素はなく、逃げ場もない。
そこに無策で放り出されたのであれば、たとえ超力者であっても生存は望めない。

「三名は、システムBの崩壊に巻き込まれ、アビス外部――すなわち深海へ排出されたものと考えられます」
「生存の可能性は」
「通常であれば、ありません」
「通常であれば?」

ヴァイスマンの声が、わずかに低くなった。
職員は慌てて首を振る。

「いえ。状況を考慮すれば、生存は不可能です。捕捉できた動体反応も、すでに消失しています」
「そうか」

ヴァイスマンは短く答えた。
それから、会議室全体に聞こえる声で告げる。

「では、結論は明白だ。トビ・トンプソン。ジョニー・ハイドアウト。メリリン・“メカーニカ”・ミリアン。
 以上三名は、刑務作業終了直前の会場崩壊に伴い、アビス外部の深海へ排出されたものと推定。当該深度における生存可能性は、限りなくゼロである」

刑務官たちは、誰も口を挟まなかった。
それが事実であるかどうかではない。
アビスが、この事態をどういう事実として処理するのか。
彼らは、その結論を待っていた。

「よって、三名は刑務作業内における死亡として、公式記録を統一する」

脱獄者はいなかった。
深淵から逃げた者はいなかった。
そう決定された。

「……よろしいのですか?」

誰かが、掠れた声で問う。
ヴァイスマンは、そちらを見もしなかった。

「構わん。死に場所が変わっただけだ」

刑務作業の中で死んだのか。
会場崩壊後、外部の深海で死んだのか。

細部は違えど、死亡したという結論は変わらない。
少なくとも、記録上は。

「三名とも死亡。遺体および魂の回収は、システムB崩壊に伴う空間異常により不達。
 システムBの崩壊原因は永遠のアリスの影響。そう記録しろ」
「し、しかし……」

ヴァイスマンの声に、鋭い刃が混じった。

「今必要なのは、敗因の鑑賞会ではない。被害の封じ込めだ。諸君らが今ここで不用意な言葉を残せば、それがそのままアビスの首を絞めることになる」

真実を残すことが、常に正しいとは限らない。
少なくとも、アビスという組織においては。

ヴァイスマンは、改めて断じる。

「三名は刑務作業内で死亡した。それが結論だ。それ以外の報告は認めない」

異議の声は上がらなかった。
大会議室に再び沈黙が落ちる。
だが、それは先ほどのように、ただ立ち尽くすだけの沈黙ではなかった。

職員たちは指示を飲み込み、すぐさま作業へと取り掛かる。
ログの保全。記録の隔離。通信経路の制限。外部報告用の文面作成。
アビスは、敗北の後始末を始めていた。

その輪の中で、ミリル=ケンザキだけが、砂嵐のモニターを見つめていた。

先ほどまで、そこには崩壊する世界が映っていた。
そして彼女は、命じられたものではなく、命じられていないものを転移させた。

世界の行く末を担う機械ではない。
エネリット・サンス・ハルトナと言う一つの命を。

「さて。ミリル刑務官」

ヴァイスマンの声が、静かに落ちた。

一つ面倒を片付けた看守長は、次の問題に取り掛かる。
名を呼ばれ、ミリルは肩を震わせた。

「っ……はい」

だが、すぐに顔を上げる。

「君には話がある。場所を移そうか」
「……了解しました」

彼女は素直に頷いた。
言い訳も弁明もしなかった。
ただ、端末から手を離し、看守長の後に続いて大会議室を出る。

背後では、まだ刑務官たちが慌ただしく動いていた。
巨大モニターは砂嵐を映し続けている。

そこにはもう、管理すべき世界も、記録すべき勝利も残っていない。
深淵を作り、深淵を管理していたはずの者たちは、ようやく理解し始めていた。
自分たちはいつの間にか、深淵の方から覗き返されていたのだと。


アビス特別取調室。

白い壁に囲まれたその部屋には、余計なものがほとんどなかった。
金属製の机が一つ。向かい合う椅子が二つ。
天井の隅には監視カメラが埋め込まれ、壁際では記録用の小型端末が淡い光を灯している。

人間の感情を削ぎ落とすためだけに作られたような、無機質な空間だった。
その部屋で、一人の囚人と一人の刑務官が、机を挟んで向かい合っていた。

刑務官の制服に身を包んでいるのは、大柄な女だった。
陽を受ければ金糸のように輝くブロンドの髪。鍛え上げられた体躯。
凛とした眼差しから漂う、融通の利かないほどの厳格さ。

第三班班長。
鉄の女、マーガレット・ステインである。

その正面に座っているのは、黒いチェスターコートを纏った青年だった。
ミリル=ケンザキによって回収された、今回の刑務作業における唯一の帰還者。
服には崩壊した会場の汚れを残したまま、彼はパイプ椅子に腰を下ろしている。

アビスの申し子。
エネリット・サンス・ハルトナ。

大会議室から厄介払い同然に追い出された二人は、この取調室で聴取を行っていた。
机の下で組まれたエネリットの両手首には、超力を封じるシステムAの手錠が嵌められている。
だが、当の本人は、その拘束を気にした様子もなかった。

あの壮絶な殺し合いから生還したばかりだというのに、彼の表情は妙に落ち着いていた。
生き残った安堵も、復讐を終えた空虚も、世界が裂け、永遠が終わる瞬間を見届けた高揚も。
そのどれもが、深い水底へ沈んだように静まっていた。

対して、目の前に座るマーガレットには、明らかに落ち着きがなかった。
指先が僅かに強張り、視線が何度も机上とエネリットの顔の間を往復している。
先ほどの緊急事態でも動じなかった鉄の女らしからぬ動揺だった。

彼女をここまで揺らしたのは、つい先ほど、この聴取の中でエネリットの口から告げられた言葉である。
マーガレットは、それをまだ正しく受け止めきれていなかった。
やがて、彼女は硬い声で問う。

「本気か……?」

それは確認というより、ほとんど呻きに近かった。
エネリットは、いつも通り何でもないことのように答える。

「ええ。『恩赦』を使ってみようかと」

改めてその言葉を聞かされ、マーガレットは眉間に指を当てた。
自らを落ち着けるように、深く、長く息を吐く。

「……お前は、恩赦など信じていないのではなかったのか」

刑務作業の中で、エネリットは確かにそう言っていた。
恩赦など信じていない。
たとえ制度として本当に存在したとしても、それを取りに行くつもりはない。
少なくとも、マーガレットにはそう見えていた。

「そこに関しては、今も半信半疑ですけどね」

エネリットはあっさり認めた。

「ですが、恩赦を求めたからといって、即座に消されるわけでもないでしょう。
 生き残りの口封じをするつもりなら、申請の有無に関係なく消される。なら、申請を出しておいて損はないかと」

合理的で、打算的。
ひどく彼らしい判断だった。
スタンスで言うなら、彼は最初からそういう人間だった。

「支払いは、これで足りるでしょう?」

そう言って、エネリットはコートの内側から何かを取り出した。
鈍い音を白い部屋に響かせながら、机の上に置かれたそれは、黒い首輪だった。

今回の刑務作業における最高級の成果物。
無期懲役であろうと、恩赦の支払いに足るだけの価値を持つもの。
確かに、制度上はこれで恩赦に届く。

マーガレットは、黒い首輪を見下ろしたまましばらく沈黙した。
それから、低く問う。

「どうしたんだ……いきなり。どういう心変わりだ?」

マーガレットは知っている。
信じる、信じない以前に、エネリットは恩赦そのものに興味を持っていなかった。
刑期短縮にも、出所にも、外の世界にも興味を示さず、どこか冷めた目を向けていた。

アビスこそが自分の世界だと。
それ以外を知らぬまま生き、それ以外を求めぬまま終わるのだと。
かつてのエネリットには、そう断言するような諦観があった。

「少し、心境の変化がありまして」
「心境の変化?」

問い返されると、エネリットは少しだけ目を伏せた。
そして、どこか照れくさそうに言った。

「ええ。世界(さき)を観てみたいと思いまして」

マーガレットは、すぐにはその意味を咀嚼できなかった。
いや。親代わりとして、それを咀嚼するのが怖かったのかもしれない。

「僕は、このアビスで生きてきました。物心つく前からここにいて、ここで育ち、ここで学び、ここで出会い、ここで別れた。僕にとって、世界とはアビスそのものでした」

人工太陽の照らす中庭。
夜を模した偽りの星空。
音程の乱れたハーモニカの音色。
つややかなアップルパイ。

この深淵の底で積み重ねられた、いくつもの記憶。
それらが、エネリットにとっての世界の全てだった。

「スヴィアンさんから教えていただいた叔父上との縁だけが、僕にとってアビス以外の唯一の繋がりでした。
 だから、アビスの外に放り出された時、僕にやるべきことなど、それしかなかったのです」

唯一の寄る辺。唯一の目的。唯一の理由。
世界の全てから放り出され、それを辿るしか他にやることがなかった。
だからこそ、恨みもなく、怒りもなく、何の激情もないまま復讐の道を選んだ。

「だから、それを果たしてしまえば。叔父上を殺してしまえば。そこで何もなくなるのだと、そう思っていました」
「違ったのか」
「ええ。意外にも、何か残るものがあったようで」

マーガレットの問いに、エネリットは小さく笑った。
それは、あまりにも当たり前のことを初めて知ったような笑みだった。

「確立した自己。それを支える経験。そういうものを、僕はあまり持っていませんでした。
 別にそれを不幸だと思ったことはありませんし、それを持っている他人を羨んだこともありません」

エネリットは、自己と他者の間に明確な線を引いている。
その線を越えて、他者そのものを欲しがることはない。
だからこそ彼は、他者の力を操る力を扱うことができたのかもしれない。

「この一日で、色々な人を見ました。沢山の生の煌めきを目の当たりにしました。
 悪人がいました。聖人がいました。手のつけようのない化物も、どうしようもない愚者もいました。
 けれど、彼らは皆、僕にはない何かを持っていました」

死や絶望なら、アビスにもあった。
悲劇も暴力も、奪われる命も、幼い頃から当たり前に見てきた。
だが、あの刑務作業にあったものは、それだけではなかった。

覚悟や信念を背負って前へ進める足。
失っても、折れても、それでも何かを掴もうとする手。
アビスの日常では触れられなかった命の熱が、そこにはあった。

「その熱に当てられたのかもしれません。残された自分の未来をどうするのか。少しだけ、考えてしまったんです」

思い出すのは、一人の剣士。
世界を斬り、災厄を斬り、永遠すら斬り捨てた男の背中だった。

その一撃は、確かに未来を切り開いた。
諦観に満ちていたエネリットの心にも、確かに切れ目を入れた。

「どうやら僕は、まだ何か新しいものを見たいらしい」

しばらく、取調室には換気音だけが低く響いた。
やがて、マーガレットが口を開く。

「……外へ出て、どうするつもりだ?」

エネリットはすぐには答えなかった。
遠くを観るような目で、窓のない白い壁を眺める。

「今のところはこれといった当てはないのですが……そうですね。まずは、空を見たいです」
「空?」
「アビスの人工太陽でも、刑務作業の作り物の夜空でもない。本当の空が、どんなものなのかを見てみたい」

マーガレットは何かを言いかけて、やめた。
喉元まで出かかったものを飲み込み、ゆっくりと視線を落とす。

「……私は」

マーガレットは、告白するように口を開いた。

「私は、お前に夢を見ていた。勝手にな。お前なら、こんな場所にいても、人として何かを掴めるのではないかと思っていた。いや……そう思いたかった」

後悔とも、懺悔ともつかない声だった。
エネリットは黙って聞いていた。

「私は、この刑務作業からお前を逃がそうとした」

女は、少年を地獄から救おうとした。
少年は、女の立場を慮り、それを拒んだ。
あれは、それだけの話だった。

「あの時から、ずっと考えていた。私は、お前のためだと言いながら、結局は自分の夢を守りたかっただけなのではないかと。
 お前をここから出したかった。だが同時に、出ていってほしくなかったのかもしれない。私が見ていた夢の中に、お前を閉じ込めていたかったのかもしれない」

マーガレットが、膝の上で拳を握る。

「マーガレットさん」

エネリットが、彼女の名を呼んだ。

「僕は、あなたの夢が嫌いだったわけではありません。ただ、あなたが僕のために自分を曲げるのは、違うと思っただけです」

規則に厳しい鉄の女。
自らの矜持を曲げることを、何より嫌う人。

その彼女が、自分のためにそれを壊そうとした。
それは、エネリットには受け入れられなかった。

その言葉に、マーガレットは小さく息を詰まらせた。
やがて、苦笑に近い表情を浮かべる。

「結局、私はお前を信じていなかったのだな。自分で選べる人間だと、信じ切れていなかった」

自らの過ちを認めるように、彼女は息を吐いた。

「過保護ですね」
「そうだな」

マーガレットは、ふっと短く笑った。
それは刑務官としての笑みではなかった。

「だからこそ。お前がこうして自分の意思で外へ出ると言うなら……歓迎すべきなのだろうな。その決断を」

飛び立とうとする子の成長を、親代わりなら喜ぶべきなのだろう。
だが、その声には、まだ割り切れていない苦さが滲んでいた。

「凶悪犯が一人、外に出るのですから。刑務官としては悲観すべきなのでは?」

エネリットが冗談めかして言う。
マーガレットは苦笑しながら頷いた。

「ああ。そうだな。大した凶悪犯だったよ、お前は」

女など捨てた鉄の女だったはずなのに。
幼いエネリットに出会い、その外壁を崩された。
マーガレットにとって、彼はアビスのどんな凶悪犯よりも厄介な相手だった。

マーガレットは一度目を閉じた。
次にその目を開いた時、その顔には刑務官としての表情が戻っていた。

「これより、エネリット・サンス・ハルトナの恩赦申請手続きを進める」

手元の資料を整理し、必要な項目を確認していく。
落ち着きを取り戻した指先は、よどみなく動いた。

やがて、彼女の手が止まる。
前時代的な手続きだが、今の時代であろうとも、最後にはこれが必要だった。

「ここに署名が必要だ」

そう言って書類と共に机の上に置かれたのは、一本の万年筆だった。

少年を救うために、名前を書いてほしいと願ったマーガレット。
その真意を見抜きながら、その名前を自分の腹の底へ沈めた少年。
二人の間に、一瞬だけ、刑務作業前夜の面会室が戻ってくる。

エネリットは万年筆を手に取った。
ペン先が紙に触れ、さらさらと静かな音がする。

『エネリット・サンス・ハルトナ』

かつて飲み込んだその名を、未来のために手渡す。
マーガレットは署名を見つめた。
僅かな沈黙の後、書類を受け取る。

「……確かに受理した」
「お願いします」

エネリットは座ったまま、深く頭を下げた。
マーガレットは複雑な表情でそれを見届けると、事務的な声に戻した。

「申請が受理されても、人格的に問題がないかを確認するための適性検査が行われる」

ポイントを支払ったところで、恩赦は無条件で与えられるものではない。
凶悪犯を無差別に表へ出さない最後の防波堤として、人格検査が行われる。
これに弾かれれば、恩赦は与えられない。

事前説明こそなかったものの、当然の措置と言えた。
エネリットとしても異論はなかった。

「まあ、お前であれば、検査そのものは問題なく通るだろうが……」

元より、彼は許されざる罪を犯したわけではない。
『王族罪』などという、存在そのものに貼り付けられた罪業を背負わされた子供だった。
何より、彼を教育してきたのは他でもないマーガレットである。

人格面では問題ない。
そう、思いたいところである。

マーガレットは手続き用の書類を整えながら続けた。

「仮に検査にパスして恩赦が認められたとしても、完全な自由が与えられるわけではない。
 今回の刑務作業に関する緘口契約は結ばされる。アビスに関する情報も同様だ。名前や経歴は今のものを捨て、別人として生きてもらうことになるだろう」
「心得ています」

エネリットは、初めから理解していたように頷いた。

「ところで、その新しい名前は自分で決めてもいいのでしょうか?」

思わぬ申し出に、マーガレットが眉を顰める。

「申請はできると思うが……通るとは限らないぞ。何か希望があるのか?」
「ええ」

エネリットは、机の端に残されていた紙片を一枚引き寄せた。
そして万年筆を取り、さらさらと文字を記す。
その紙片を、マーガレットへ差し出した。

「であれば。これで申請願えないでしょうか」

受け取った紙片に書かれた名前を見て、マーガレットは驚いたように目を見開いた。
しばらく、その文字を見つめる。

「これ……お前、本気か?」
「ええ。お許しいただけるのであれば」

エネリットの声は穏やかだった。
だが、冗談でも気まぐれでもない。
その名を選ぶ意味を、理解した上で言っている。

マーガレットは紙片から視線を上げた。
二人の視線がぶつかる。
何かを言おうとして、結局、出たのは諦めたような深いため息だった。

「……承った。上に通しておく。どうなっても知らんぞ」
「ありがとうございます」

エネリットは静かに頭を下げた。
マーガレットは紙片を丁寧に折り、書類の間へ挟んだ。
それから、いつもの事務的な声に戻る。

「聴取はこれで終わりだ。後日、人格検査の案内があるだろう。これから独房に戻ってもらうが、その前に確認しておくことはあるか?」
「でしたら、確認ではないのですが、ひとつお願いが」
「お願い?」

さらに何を要求するつもりなのか。
マーガレットが警戒したように眉を寄せる。

「スヴィアンさんと、お話しさせていただけますか?」

その要求に、マーガレットの表情がわずかに硬くなった。

スヴィアン・ライラプス。
マーガレットが率いる第三班に属する特任看守官。
そして、かつてバルタザール・デリージュ――セルヴァイン・レクト・ハルトナに付き従っていた女。

本来なら、囚人が刑務官を名指しで呼び出すことなど認められない。
ルーサー・キングのように、所内の看守や囚人にまで根を張り、外部の政治力すらちらつかせられる相手なら話は別だが、エネリットにその種の力はない。
だからこそ、彼はマーガレットに頼むしかなかった。

第三班班長であるマーガレットが、班員であるスヴィアンを呼び出すこと自体は難しくない。
事情聴取の担当官交代とでも称しておけば、名目としても十分だろう。
問題は、彼女がそれを認めるかどうかだった。

「何を話すつもりだ……?」
「悪いようにはしません。彼女が背負った荷物を、少しでも降ろすお手伝いができれば、と」

エネリットは静かに言った。
マーガレットは、刑務作業が始まる前からスヴィアンの様子がおかしかったことを覚えている。
長い時間をかけて押し殺してきた何かが、今にも喉元から溢れそうな危うさがあった。

班長であるとはいえ、マーガレットは彼女の事情すべてを知っているわけではない。
だが、彼女がハルトナ王家の因縁と浅からぬ関係にあることくらいはなんとなく察していた。

マーガレットは、その発言の真偽を見定めるべく、しばらくエネリットを見つめた。

冷淡で、合理的で、残酷なほど割り切りがいい。
そのくせ、妙なところで筋を通す。
その不器用な律儀さを、マーガレットは知っている。

「分かった。認めよう。彼女を呼んでくる」
「ありがとうございます」

マーガレットは取調室を出ていった。
白い部屋に、再び静寂が落ちる。
一人残されたエネリットは目を閉じ、長く息を吐いた。

「……さて、ひとつずつ片付けていきましょうか」

僅かに残ったハルトナ王家の残滓。
セルヴァインに寄り添い続けた女。
沈黙のまま、未だにこの深淵に縛り付けられている人。

王家に残された遺児として。
最後の役割を、果たすとしよう。


ほどなくして、取調室へ二人分の足音が近づいてきた。

一つは、質実剛健をそのまま形にしたような、迷いのない硬い足音。
もう一つは、引きずるように静かで、どこか重い足音だった。
歩幅だけで、近づいてくる者の心境が知れるようだった。

やがて扉が開き、マーガレット・ステインが姿を見せる。
その後ろに、一人の老淑女が立っていた。

特任看守官、スヴィアン・ライラプス。

義眼の奥の光は、いつも通り冷たく澄んでいる。
だが、顔色は悪く、長いあいだ張り詰めていた糸が、今にも音を立てて切れそうな危うさがある。
マーガレットは室内へ一歩入り、エネリットへ視線を向けた。

「連れてきたぞ」
「ありがとうございます」

エネリットは椅子に座ったまま、静かに頭を下げた。

スヴィアンは扉の前で足を止め、エネリットを見つめていた。
その視線には、怯えにも似た色が滲んでいる。
そして、とうに判決を待つことに疲れ果てた者の諦めがあった。

「……エネリット様」

囚人に向けるには異様な敬称だった。
だが、この場にそれを咎める者は誰もいない。

「お久しぶりです、スヴィアンさん。直接お話しするのはいつ以来でしょうか」
「……私に、そのように声をかけていただく資格はございません」
「資格の話をし始めると、アビスの人間は誰も何も話せなくなりますよ」

冗談めかして言うが、スヴィアンの表情は動かなかった。
マーガレットは二人を見比べ、短く告げる。

「私は外にいる。何かあれば呼べ」
「同席なさらないのですか?」
「ライラプス特任看守官は第三班の刑務官だ。彼女がお前の事情聴取を引き継ぐのであれば、私が同席する必要はあるまい」

これから始まるのが、ただの事情聴取ではないことは分かっている。
それでも、体裁上の形を言葉にし、その通りに行動する。
マーガレットはスヴィアンへ視線を向けた。

「ライラプス特任看守官。囚人の聴取を引き継げ」
「……承知しました」

否応なく与えられた上官の命に、スヴィアンが小さく頭を下げる。
マーガレットは最後にエネリットへ視線をやった。
だが、それ以上は何も言わず、取調室を出ていく。

扉が閉じた。
白い部屋には、エネリットとスヴィアンだけが残される。

「どうぞ、お座りください」

エネリットがスヴィアンを促す。
どちらが囚人か分からないやり取りだった。

促されてなお、スヴィアンはすぐには動けなかった。
数秒の間を置いてから、ようやく椅子へ腰を下ろす。
机を挟み、二人は向かい合った。

「改めまして。呼び出しに応じていただき、ありがとうございます」
「……マーガレット班長の命でしたので」

スヴィアンの声は低い。
膝の上で重ねられた指先は、かすかに震えていた。
まるで、沙汰を待つ罪人のようだった。

「私に……何をお望みでしょうか」
「そう身構えないでください。あなたを責めるためにお呼びしたわけではありません」
「責められるべきことは、いくらでもございます」
「それはそうでしょうね」

エネリットはあっさり頷いた。
慰めも否定もせず、彼女の罪をなかったことにはしない。
その態度に、スヴィアンはかえって僅かに目を伏せた。

「叔父上は、私が殺しました」

静かな声で、エネリットが告げる。
スヴィアンの肩が、ほんのわずかに震えた。

「……はい。存じております」

驚きはなかった。
結果だけは、すでに知っていたのだろう。
あるいは、聞くまでもなく悟っていたのかもしれない。

「セルヴァイン様をお止めすることも、王家への忠義を貫くことも、地の底へ堕とされたあなた様をお守りすることもできませんでした」

年老いた女の声が、深淵に落ちる。

「真実を告げたのも、忠義からではございません。私が、もう耐えられなかっただけなのです」

スヴィアンは、自らの人生を絞り出すように続けた。

王家に忠誠を誓いながら、何一つ守護る事も出来なかった。
すべてを奪った男が壊れていく姿に同情し、絆された。
かといって、忠義を完全に捨てることもできず、最後には王家の遺児へ真実を告げた。

「私は、自分の罪をあなた様に預けたのです」

スヴィアンの義眼が、机の上の一点を見つめる。
忠臣にも、裏切り者にも、共犯者にも、救済者にもなりきれなかった。
そのどっちつかずの半端さこそが、彼女にとっての罪だった。

「私は最低の女です。王家に仕える者としても、セルヴァイン様に付き従った者としても、刑務官としても、何ひとつ果たせなかった……」

その告白によって、エネリットは復讐の対象を明確にした。
自らの告白が、セルヴァインを殺したのだ。
少なくとも、スヴィアンはそう思っている。

「あのお方と共に、私も終わるべきなのです」

セルヴァインの後を追う。
それが自分に残された、最後の責任なのだと。

一時の感情に身を任せた激情の叫びではなかった。
長い時間をかけて準備していた結論を、ただ口にしただけのような静かな響きだった。

「その結論に対して、私から言えることはありません」

エネリットは庇うでも、否定するでもなく、淡々と頷いた。
それが判決であるかのように、スヴィアンは目を閉じる。
だが、次の言葉は彼女の予想と違っていた。

「ですが、スヴィアンさん。あなたは一つ、勘違いをしていらっしゃる」
「勘違い……ですか?」

スヴィアンが顔を上げる。
エネリットは、静かに言った。

「私は叔父上を、恨みから殺したのではありません」

スヴィアンは息を呑んだ。

「……恨みでは、ない?」
「ええ」

エネリットは頷く。

「叔父上が父を殺し、国を滅ぼし、私をアビスへ堕とす原因を作った。事実としては、そうなのでしょう」

その声には、憎悪も怒りもない。
ただ、遠い歴史を確認するような静けさだけがあった。

「ですが、私は父の顔も、国の景色も、王族としての暮らしも知りません。奪われたという実感を持つには、あまりにも何も持っていなかった」

亡国の王子。
ハルトナの遺児。
監獄に落とされた最後の血脈。

その肩書きは、エネリット自身の中にあるものではない。
彼を取り巻く属性でしかなかった。
彼には最初から、奪われるものなどなかった。

最初から何も持たない者は、奪われる前の温もりを知らない。
失ったものの輪郭さえ、他人の言葉でしか知ることができない。
それが、目の前の空っぽの青年の正体だった。

「だから私の復讐は、怒りや恨みによるものではありませんでした。私はただ、自分に残ったものが何なのかを知るために、叔父上を殺す必要があったのです。
 なんの慰めにもならないかもしれませんが、そこだけは誤解なきよう」
「……それは」

スヴィアンの唇が震える。
それは、あまりにも空ろだ。
あまりにも、救いがない。

そう言いたかったのだろう。
だが、言葉にはならなかった。

エネリットは、彼女の言い淀んだ言葉を待たずに続ける。

「私は先ほど、この刑務作業の報酬として恩赦を申請しました。この申請が通れば、名を変え、立場を変え、別の人間として生きることになるでしょう」

その先に続く言葉を察したスヴィアンの指が、膝の上で強く握られる。

「それは、つまり…………」
「ハルトナ王家は、これで終わりです」

ハルトナ王国、最後の遺児がはっきりと告げた。
それは、幕引きの宣告だった。

王国は滅びた。
王家は潰えた。
父王は死に、叔父も死んだ。
そして最後に残った遺児も、ハルトナの名を捨てる。

ハルトナの名残は、ここで完全にこの世界から消え去る。

「ですので。もう、あなたが王家に縛られる必要はありません」

スヴィアンの顔が、ゆっくりと歪んだ。

忠誠を捧げるべき王家も。
止めるべき主君も。
償うべき遺児も。

すべてが消えた。
彼女を縛っていたものは、もうこの世のどこにも存在しない。

「私は……」

スヴィアンは声を震わせる。
解放される日を、自らを解き放つその言葉を、待っていたはずだった。
誰かに、そう言ってほしかったはずだった。

それなのに、実際に告げられた瞬間、胸の奥から込み上げてきたのは安堵だけではなかった。
喪失と後悔。そして、ようやく膝をついてもよいのだという、遅すぎた赦し。

「私は、何を……守っていたのでしょうか」
「分かりません」

エネリットは正直に答えた。
スヴィアン自身に分からない答えを、彼が知っているはずもない。
その答えはきっと、彼女の中にしかない。
誰かが与えられるものではない。

「ただ、少なくとも。あなたは何も守れなかったわけではないと思います」

スヴィアンが顔を上げる。

「私は今ここにいて、自分の意思で外へ出ようとしています」

エネリットの声は穏やかだった。

「それは、あなたが最後に真実を告げてくれたからです」

それだけは、確かな事実だった。

「それを忠義と呼ぶのか、裏切りと呼ぶのか、私には分かりません。ですが、結果として私は、あなたの言葉によって自分の物語を終わらせることができた。そのことには感謝を」

スヴィアンは唇を噛んだ。
泣き出すことはなかった。
後悔を涙として零すには、彼女は歳を取りすぎていたのかもしれない。

それでも、彼女の背から何かが少しだけ落ちたように見えた。
エネリットは姿勢を正す。

それは囚人としてでも、アビスの申し子としてでもない。
滅びた王家に残された王子として、最後の使命を果たさんとする姿勢だった。

「スヴィアン・ライラプス」

名を呼ばれ、スヴィアンは反射的に背筋を伸ばした。
長年、身体に染みついた礼の形だった。
エネリットは、まっすぐ彼女を見る。

「あなたはもう、王家に仕える者ではありません。セルヴァイン・レクト・ハルトナに殉じる必要も、王家への償いに殉じる必要もありません」

その言葉が、白い取調室に落ちる。
あまりにも遅く、あまりにも静かな解放の言葉だった。

「これからは、あなた自身の人生を生きてください」

最後の王族が、最後に残された臣下へ告げる。
スヴィアンの義眼が、かすかに揺れた。

スヴィアンは、しばらく動かなかった。
やがて、その唇が小さく震える。

「長い……」

かすれた声だった。
それだけを言うのに、彼女はひどく長い時間を要した。
そして、ようやく絞り出す。

「長い、お役目でした……」

背負ってきた時間が、あまりにも長すぎた。
生き方を変えるには、彼女は少し歳を取りすぎていた。
降ろしたところで、すぐに身軽になれるわけではない。
背負ったまま終わる方が、あるいは楽だったのかもしれない。

それでも、この荷物はここで降ろさねばならなかった。

「……少し、疲れました」

そう言ったスヴィアンの肩から、ふっと力が抜けた。
それは崩れ落ちるような脱力ではなかった。
長く背負っていた荷物を、ようやく床に置いた者の空白だった。

その言葉に、エネリットは穏やかに頷いた。
最後の王族の役目として、長い役目を終えた忠臣へ告げる。

「お疲れさまでした」


アビス所長室。

刑務作業終了の翌日。
事後処理はいまだ終わらず、監獄の内部は慌ただしい空気に包まれていた。
だが、その部屋だけは異様なほど静かだった。

壁にも床にも、過度な装飾はない。
来客を迎えるための調度も、権威を誇示するための美術品もない。
所長室というより、司令室に近い装いだった。

アビス所長、乃木平天は、その執務机の前に座っていた。

卓上には、報告書が置かれている。
内容はすでにGPA本部へ送信済み。
今さら手元で読み返したところで、数字も結果も変わりはしない。

それでも乃木平は、何度もそこへ視線を落としていた。
その内容は、アビスという組織の首を容易く折りかねないものだった。
これより始まるのは、アビスの運命を左右する報告会である。

やがて、卓上モニターが起動する。
低い電子音とともに黒い画面が四分割され、それぞれの枠に映像が流れ込んだ。

一つは、乃木平自身の映像。
真正面から映し出された己の顔は、普段より幾分か硬く見えた。

残る三つの枠には、GPA中枢を担う重役たちの姿があった。
画面越しでありながら、そこに並ぶ顔ぶれは、アビスの空気そのものを一段重くする。

「ひとまず、お疲れさまだ。乃木平所長」

最初に口を開いたのは、画面上部に映る男だった。
その声が発せられただけで、モニターの内側にある空気がわずかに引き締まる。
他の二名も、まずは彼の言葉を待つように沈黙していた。

尊大、と言えばあまりに分かりやすい。
自分が場の中心であることを疑わず、他者もまたそれを疑わない。
そういう人間だけが持つ、自然な傲慢さがあった。

世界保存連盟。
Global Preservation Alliance、通称GPA。
その長官、終里元。

「では、始めようか。乃木平所長。まずは君の口から、今回の刑務作業の結果を報告してもらおう」

穏やかな声だった。
少なくとも、表面上は。

だが、乃木平はその穏やかさを信用していない。
内心の緊張を悟らせまいと、彼は背筋を伸ばした。
元軍人としての習慣が、こういう時だけはありがたい。

表情を殺し、声を整え、必要な情報だけを報告する。
この場で取り乱すことは許されない。

「はい。刑務作業そのものは、全工程を終了しました。フェーズ1からフェーズ3までの実施記録、戦闘データ、超力の進化記録については、既にGPA本部へ送信済みです」
「ふむ」

終里は手元の資料へ視線を落とした。
紙面をめくる音が、モニター越しにやけに大きく聞こえる。

「送られた報告書には目を通した。相変わらずユニークな報告書を書く」

そう言って、終里は苦笑するように口元だけを歪めた。
その様子は、どこか楽しげですらあった。

「だが、これはどういうことだ?」

声を荒げたわけではない。
しかし、その一言だけで、乃木平の背筋に冷たいものが走った。

「『システムB』の崩壊。それに伴う『システムC』親機の喪失。完成の鍵となり得たメカーニカの回収失敗。加えて、最終局面の詳細はモニター不良により記録なしと来た」

終里は資料から目を上げる。
画面越しでありながら、その眼光は真正面から乃木平を射抜いていた。

「説明願いたいね。乃木平所長」
「……はい」

乃木平は一呼吸置いてから、慎重に言葉を選んだ。

「モニター不良に関してはAG-1に対する超力融合実験の不具合によるものです。崩壊の直接原因については、現在解析中です。
 ただし、現時点では、征十郎・H・クラークによる世界の切断、及びそこから呼び込まれた『永遠のアリス』による『永遠』の流出が『システムB』に致命的な負荷を与え、元より懸念されていた結び目から崩壊したものと推定しています」

実際には、『システムB』崩壊の直接原因は別にあった。
メリリン・“メカーニカ”・ミリアンが放った超力弾。
それはエリアA-1上空の結び目を貫通し、その奥に接続されていた『システムB』親機を破壊した。

だが、最終局面の映像記録は断絶している。
原因を『永遠のアリス』と『システムB』そのものの不具合に寄せる余地は、まだ残されていた。
この空気の中で虚偽を混ぜた報告を詰まらずに行えるだけでも、乃木平の胆力は十分に大したものだった。

「推定、か。随分と都合のいい推察だな」

終里の声は軽かった。
だが、その軽さこそが、乃木平の弁明をまるごと信用していない証でもあった。

「なるほど。つまり君はこう言いたいわけだ。試作段階の『システムB』の不備に、『永遠のアリス』というイレギュラーが介入した。従って、アビスのみの瑕疵ではない、と」
「いえ。そのような弁明の意図はありません」
「そうか。では、確認を続けよう」

終里は薄く笑った。

「そちらに貸し与えた『システムC』の親機は?」
「崩壊直前、ミリル=ケンザキ刑務官による転移回収を試みましたが、モニター断絶と世界崩壊の進行が早く転移には失敗しました」
「残骸のサルベージは?」
「すでに部隊を編成中です。ただし、『システムB』側の接続孔そのものが崩壊しているため、通常手段での再侵入は困難です」

その報告を聞き終え、終里は資料を閉じた。
前掛かっていた姿勢を背もたれに預け、足を組みなおす。

「何としても、崩壊した『システムB』の残骸から『システムC』をサルベージせねばならない。これが完全喪失していた場合、計画の後退は数年どころの話ではない」

GPAの掲げる『異世界移住計画』。
その最終段階に関わる機構を、アビスは消失させた。

この影響は、計画にだけでは留まらない。
『システムC』は、今後の超力社会の要ともいえる管理機構である。
魂を保存し、分類し、管理するための基盤。
それを失った場合の損害は計り知れない。

「すべてをそちらの責任とするつもりはないが、無罪放免と言う訳にもいかん」

これについては、乃木平に返す言葉がなかった。

「だが、想定外の成果もあった」

終里は、そこで声の調子をわずかに変えた。

「『永遠のアリス』。アレの討伐が成されたのは大きい」

永遠を振りまく世界の災厄。
魂の回収こそ叶わなかったが、討伐そのものは疑いようのない成果である。
いかなる経緯であれ、長年にわたり世界の頭痛の種であり続けた脅威が一つ消えた事実は無視できない。

「我々に残された猶予は、いくらか伸びたと言っていいだろう。そういう意味では事前の想定通りか」

修復不能なほど荒廃した現世界を見限り、新たな世界への移住を目指す『異世界移住計画』。
現時点で実用段階に達しているのは『システムA』のみ。
『システムB』と『システムC』は、依然として試験運用の域を出ていない。
計画を現実のものとするには、なお時間が必要だった。

ルーサー・キング。
ドン・エルグランド。
ジャンヌ・ストラスブール。
並木旅人。
銀鈴。

世界規模で影響力を持つ危険人物の排除。
それこそが、この運用実験における副次的成果だった。
そこに『永遠のアリス』が加わったのは、まさしく棚から牡丹餅と呼ぶべき成果だった。

世界の病状は、もはや手遅れに近い。
それでも、とりわけ深刻な病巣はいくつか切除された。
少なくとも延命措置くらいにはなっただろう。

中でも『永遠のアリス』の消滅は、破局までの猶予を確かに押し広げたはずだ。
その一点においてだけでも、アビスは今回の刑務作業で一定の成果を上げたと言える。

「まあ、損失による計画の遅れを取り戻せるほどではないだろうがね」

終里は皮肉げに喉を鳴らした。
功としてはまだ足りない。

「あまり瑕疵ばかり責め立てると、私が随分と嫌な上司に見えてしまうな」
「では、成果の側から整理しましょう」

口を開いたのは、画面左下に映る栗色のミディアムショートの女性だった。
感情の起伏をほとんど感じさせない、静かで平坦な声。
老成した落ち着きを漂わせている一方で、その容貌だけを見れば二十代でも通るほど若い。

『未来人類発展研究所』所長、長谷川真琴。

カメラ越しに映し出されているのは白衣ではなく、身体の線を隙なくなぞるタイトなスーツ姿だった。
冷ややかな面差しは眉ひとつ動かさず、その奥の瞳だけが眼鏡越しに淡々と手元のレポートを追っている。

「そうだな。任せる」
「では、私から」

引き継いだのは、画面右下に映る白髪混じりの初老の男だった。
がっしりとした体格に、元軍人とひと目で知れる鋭い風貌。
GPA治安維持部隊総隊長、奥津一真。

元・自衛隊秘密特殊部隊隊長。
乃木平と同じ経歴を持つ、彼にとっての元上司に当たる人物だった。

「第一目標である戦闘データの収集については、十分な成果が得られたと判断しています。来るべき日の暴動鎮圧のみならず、現行世界における治安維持、ならびに重大犯罪者への対処にも転用可能でしょう」

通常環境ではまず観測不可能な高ランク超力者同士の衝突が、島の各所で記録された。
今回の刑務作業で得られた戦闘記録は、質においても量においても、公的に行われる超力運用試験を明らかに上回っている。

「特に、第二段階到達者との直接交戦が記録できた点は大きいですね」
「ええ。研究資料としても極めて希少です」

奥津が補足し、長谷川も簡潔に同意した。
第二段階到達者は、それ自体が稀少な存在だ。
かつて欧州で発生したとされるルーサー・キングとリカルド・バレッジの衝突も、満足な観測記録は残されていない。

こうして制御された試験環境下で到達者同士の衝突を観測できた意義は大きい。
軍事部門にとっても、研究部門にとっても、ここで得られた成果は決して小さくなかった。

「研究面でも、複数の到達者が確認された意義は大きいと言えます。到達条件についても、おおよその特定ができたと言えます」

長谷川がレポートをめくる。
世界でも最高峰の素質を持つ人間を集めた、という事情はあるのだろう。
それでも、世界全体でも数名しか確認されていない第二段階到達者が、この一日の実験の中で複数発生したという事実は重い。
これまで不明瞭な点が多かった到達条件についても、ある程度の輪郭が見えてきた。

「『全人類を次の段階へ』――これは、シエンシア博士の理念だったか」

終里が声を低く響かせる。
到達条件を精査できたのであれば、それを全人類へ適用する道筋も、理論上は見えてくる。
超力者を次なる段階へ押し上げ、人類そのものを進化させる。
それは、かつて一人の科学者が掲げた妄執でもあった。

「だが、私は違う」

終里の言葉は断定的だった。
言葉そのものに力でも宿っているかのように、場の空気がわずかに張り詰める。

「到達者の力は危険だ。世界を破壊し、あの災厄すら撃ち滅ぼした。今の人類には過ぎた玩具だ」

メリリンによる首輪(システムA)の解除。
征十郎による世界(システムB)の破壊。

記録された想定外の事態の多くは、到達者によって引き起こされている。

やはり、まだ『世界』を運用するには強度が足りない。
少なくとも、到達者級を基準とした再設計が必要になるだろう。

この成果を、いかに用いるか。
その舵取りはGPAに委ねられている。

到達条件が把握できたということは、逆に言えば、到達させないための条件もまた構築できるということだ。
開放ではなく抑制こそが、GPAの考える世界の『管理』である。

「目指すべき進化は、突然変異による段階の先取りではない。世代の積み重ねによる足並みをそろえた緩やかな進化だ」

第二段階への到達は、急速な進化を促す、バグのようなものだ。
GPAが目指すのは、全人類が一定の足並みをそろえ、段階的に超力との親和性を高めていく未来である。
それに合わせた社会体制、制度、常識を作っていく、それこそが管理である。

開闢以降、人類は超力を得た。
そして『魂』という概念を操る超力の出現により、『魂』の実在は確認された。
だが、GPA中枢が掴んでいる真実は、民間に流布する理解とは根本から異なる。

人が魂を持ち、その魂に超力が宿るのではない。
超力こそが、魂と呼ばれる器を後天的に発生させる。
研究者たちは、そう結論づけていた。

それは、三位一体に数えられるような概念とは別物だ。
つまり、超力に宿る『魂』とは、人類が開闢以降に獲得した新たな器官であり、同時に次世代へ至るための核でもある。

「第三世代以降の人類は肉体という檻から外れ、魂が独立し始めるとと予測されています。
 『システムC』は、その魂を管理するための基盤です。将来的な世界管理構想においても、不可欠な中枢です」

長谷川が改めて『システムC』の重要性を補足する。
ブラックペンタゴン内で派生した大金卸樹魂が、魂のみで世界に干渉したように。
超力が意思を持ち、やがて人間は肉体を捨て、魂だけの存在となる。

それが、第三世代を超えた先にある境地だ。
その境地では、人が超力を操るのではない、超力が人を操る時代が訪れる。

「そうなってはもう人とは呼べまい。精霊、霊体、あるいは――神。そう呼ぶべき存在なのかもしれないな」

その言葉は、会議の空気を一変させた。

全人類の進化。
全人類の到達点。

つまり、全人類が神となる。

「しかし、そうなったら唯一肉を持つ私の立場はどうなるのだろうな」

モニターの向こうで、不老不死の魔人がくつくつと笑う。
その声には、奇妙な愉快さが混じっていた。
だが、追随して笑う者は誰もいない。

肉体を捨て、魂だけの存在へ向かう人類。
その未来を前にしてなお、彼だけは肉を持ち続ける。
不老不死という、『永遠』の停滞に取り残された存在として。

「まあ、いずれにせよ。『システムC』の再築は必須だ。サルベージにはこちらの人員も回そう。
 それと並行して、その他システムの開発とテストも進めていくべきだろうな」
「そうですね。今回のテストで『システムB』の問題点もいくつか洗い出されました」

長谷川が頷く。

「結び目の修正。第二段階級の出力への対処。
 イグナシオ・"デザーストレ"・フレスノが発見した『無』への対応も必要となるでしょう」

研究所は洗い出された問題点を一つずつ修正していくことになるだろう。
そのためには、今後も今回の刑務作業と同様のテストを重ねる必要がある。

今回の刑務作業では、初回と言うこともあり世界最高峰の素質を持つ人間を多く集める必要があった。
そのうえで、消えても大きな問題になりにくい人材となれば、アビスの囚人たちはこれ以上ない人選だった。
能力的にも倫理的にも、今回以上の人材はそう容易く揃えられはしないだろう。

「今回の問題点をピンポイントで再テストするだけなら、それほどの人材は不要だろう。
 仮に『システムC』がサルベージできても再建は間に合うまい。システムBの単体テストであれば、次回以降は、かなり小規模なものになるだろう」

終里は、そこで一度言葉を切った。
囚人と言う人材の提供。これこそがアビスがこの刑務作業を主導で来た理由だ。
それが不要となった以上、アビスもまた不要となる。

ABC計画の運用テストの受注先は、次から別の組織へ移るだろう。
だからこそ、アビスにとってはこれが唯一のチャンスだった。
そして、そのチャンスを取り逃がした。

GPAも、ここまでのアビスの成果を無視するわけではない。
だが、やはり、『システムC』損失の失態を挽回できるほどではなかった。

「これまでの功績を考慮し、そちらの言い分を受け入れよう。ただ、作文はもう少し上手く書かんとなぁ」

終里が言った。
アビスの目論見など、最初から見透かしていたような声音だった。

「……肝に銘じておきます」
「であれば、我々は粛々と『異世界移住計画』を進めていこうではないか」

終里は椅子の背もたれに身体を預けた。

「核となるメカーニカの代替となる超力者を見つけ出さねばならん。情報網をもっと広げる必要があるな」

メカーニカの回収失敗。
それもまた、今回の失態の一つだった。

『システムC』を再築できたとしても、それを完成へ導く鍵がなければ計画は進まない。
親機の喪失とメカーニカの喪失。
二つの損失が重なったことで、GPAの計画は大きく後退していた。

「それに、そろそろ『世界管理者(ワールドオーダー)』の素体候補も本格的に見繕わねばなるまい」

モニターが閉じた後に行われた氷月蓮の運用ログは、ほぼ消失している。
『深淵管理者(アビス・オーダー)』の実働は、記録に残されていない。

『システムC』のテスト運用について、確実に残されている記録は、最低水準の適性しか持たない人間へ運用させたケースだけだった。
それはそれで有用なデータではあるのだろう。
だが、世界管理者の作成には役に立たない。

「素体は、超力の素質だけでは足りない。人格面も重要となる。
 世界を運営する冷静さと、世界を切り捨てる冷徹さ。その両方を兼ね備えた人間でなければならない。
 私や蒼光くんも候補の一人ではあるのだが、何分、我らは新世界での役割があるのでね。できれば、別の候補を打ち出すのが望ましい」

その言葉に、誰も軽々しく口を開かなかった。

世界管理者の素体。
それは、あの被験体のように、世界へ捧げられる人身御供に等しい。

神に近づくための器。
世界を管理するための装置。
そして同時に、二度と人間へ戻れない贄でもある。

「その件ですが」

その沈黙を破ったのは、乃木平だった。
終里が、愉快そうに目を細める。

「まさか君が立候補するのかね?」
「いえ。私ではありません」

乃木平は首を横に振った。
声に迷いはない。

「一人、推薦したい人物がいます。ワールドオーダーの素体として、極めて適任と思われる人物です」

画面の向こうで、三人の視線が乃木平へ集まった。
世界の中枢に座る三つの視線を受けながら、乃木平は静かに息を整える。

その名を口にした瞬間、アビスの今後は決定的に変わる。
それは、失敗したアビス案を別の形で生き残らせるための一手だった。

そして、この状況に陥った場合に備え、最初から決められていた取り決めでもある。

「では、聞こうか」

終里が言った。
その声音は、先ほどまでの皮肉を失っていた。
世界を動かす者の声だった。

「君が、次の世界に捧げる名を」

乃木平天は、モニターの向こうにいる世界の支配者たちを見据えた。

そして、静かにその名を告げた。


刑務作業の終了から数日。
恩赦申請が受理されてからも、エネリット・サンス・ハルトナは以前と変わらぬ独房で過ごしていた。

所内は慌ただしかった。
廊下を行き交う看守官の足音は増え、遠くで通信端末の呼び出し音が鳴り、どこか張り詰めた空気が漂っている。

だが、エネリット自身の待遇が大きく変わったわけではない。
生まれてからずっと味わってきた、いつも通りのアビスの日常。
ただ、終わりが決まった監獄は、ほんの少しだけ違って見えた。

そして、その日が来た。

人格検査。
呼び出しに予告はなかった。

凶悪犯を外部へ戻してよいのか。
社会生活に適応できるのか。
超力者としての危険性はどの程度か。
そして何より、機密を守れる人間か。

それらを確認するための、恩赦手続きにおける最終段階。
少なくとも、表向きはそういう名目だった。

エネリットは独房から複数の看守官に連れられ、特別検査室へ移された。
そこは取調室とよく似た、無機質な部屋だった。
白い壁。金属製の机。向かい合う二脚の椅子。
天井の隅には監視カメラが埋め込まれ、壁際の記録端末だけが淡い光を灯している。

ただし、その部屋には、すでに一人の男が待ち構えていた。
その顔を見て、エネリットは扉の前で足を止める。

漆黒の制服を纏い、足を組んだまま、悠然と椅子に腰かけている。
冷えた眼差しをした長身痩躯の男。
その口元には、常と同じ皮肉気な笑みが浮かんでいた。

看守長、オリガ・ヴァイスマン。

「驚きましたね。まさか看守長が、このような些事に出張ってくるとは」

本来なら、彼のような立場の人間が手続き上の検査に直接立ち会うことはない。
適性検査は専門の検査官か、担当班の刑務官が行うのが通常だろう。
だからこそ、意外な人物が待ち受けていたことに、エネリットはわずかに目を細めた。

「どうした。掛けたまえ」

足を組んだまま、ヴァイスマンが促す。
その声はいつも通り、皮肉めいた冷淡さに包まれていた。

エネリットは小さく肩を竦め、椅子に腰を下ろした。
同行してきた看守官たちは、ヴァイスマンの一瞥だけで室外へ下がる。
扉が閉じると、部屋には二人だけが残された。

「改めて、おめでとう。君が今回の刑務作業における唯一の生還者だ。何か感想はあるかね?」

皮肉を込めて、ヴァイスマンは口元を歪める。
エネリットは気にした風もなく、椅子に背を預けたまま答えた。

「これは恩赦に関する適性検査なのですよね。でしたら、哀悼の意でも捧げた方がよろしいのでしょうか」
「お為ごかしは不要だ。私の超力は知っているだろう?」

タグ付けした相手の状態を把握する、ヴァイスマンの超力。
アビスの囚人たちには、抑止力としてその概要が告知されている。

少なくとも、この男は相手がどのような状態にあるかを読み取れる。
表面的な嘘や取り繕いに、さほど意味はない。

「なら、この面談も不要なのでは?」
「対面で話さねば分からぬこともあるさ。それに、私は人と直接話すのが好きでね」
「それはまた、よいご趣味で」

互いに薄い笑みを浮かべる。
それきり、短い沈黙が落ちた。

看守長は書類を広げることもなく、記録端末を操作することもなかった。
人格検査という名目でありながら、用意された設問など存在しないようだった。
やがて、ヴァイスマンは組んだ指先を口元に寄せたまま、静かに言った。

「エネリット。一つ問おう――――――君は『悪』とは何だと思うかね?」

唐突に投げられた問いに、エネリットはわずかに目を細めた。

「それが、検査の設問ですか?」
「何。ただの雑談だよ」

ヴァイスマンの口元には、常と同じ皮肉気な笑みがある。
だが、その穏やかさの奥には、相手の返答を見定めようとする冷たい意図が滲んでいた。
その軽口を真に受けることなく、エネリットは少し考えてから答える。

「『悪』とは、人が生み出すものです」

ヴァイスマンは、ふむ、と短く息を漏らした。

「人間こそが『悪』を生み出す存在だと?」
「少し違います。より正確に言うなら、『悪』とは人と人の間に生まれるものです。
 個々人の倫理観が決めるものであり、人間が属する共同体や社会が、それぞれの位相において定義するものでもあります」

ヴァイスマンは、その答えを吟味するようにエネリットの顔を見た。

「なるほど。『悪』とは関係性にこそ生まれると?」
「この世に人間が一人しかいないのならば、罪も罰も、赦しも悪も発生しないでしょう。
 他者がいるからこそ分かり合えぬ断絶が生まれ、断絶があるからこそ罪が生まれる。罪があるからこそ、赦しも罰も生まれうるのだと思います」

罪も赦しも、関係性の中に生まれる。
その回答に、ヴァイスマンは椅子に深く座り直した。組んだ指先を、口元の前で静かに合わせる。

「では、その線引きを担う『法』こそが絶対だと?」
「いいえ。法は、あくまで社会を維持するための装置です。罪を定義することはできますが、悪のすべてを定義できるわけではありません」

エネリットは淡々と続けた。

「では、絶対の悪は存在しないと?」
「絶対のものなど、ありはしないでしょう。善悪とは流動的な価値観に過ぎません。
 時代、国家、宗教、文化、立場。そのどれが変わっても、善悪の天秤は容易く傾きます」

ある土地で称賛される行いが、別の土地では断罪される。
昨日まで正義だったものが、明日には蛮行と呼ばれる。
そんなことは、珍しくもない。

「ならば、社会の定義する善悪とは何かね?」
「大多数が良しとするもの。悪しとするもの。多くの人間が不快とし、排除すべきだと感じるもの。
 明確に定められた法だけでなく、慣習、感情、利害、空気。そういった曖昧な合意の集積こそが、社会における善悪を形作ります」

この世界に、絶対的な正義も絶対的な悪も存在しない。
より多くにとって都合が良く、受け入れやすいものが正義と呼ばれる。
より多くにとって都合が悪く、受け入れがたいものが悪と呼ばれる。

「だが、殺人のように絶対悪とされる行為もあるだろう?」
「法に基づく死刑執行。戦争。正当防衛。粛清。呼び名はさまざまですが、誰かの命を奪う行為であろうとも、認められるものはあります。
 社会を成り立たせるという大義の前にあれば、その評価はいくらでも塗り替えられる」

戦争など、その最たるものだ。
同じ行為であっても、旗印が違えば評価は反転する。
敗者は悪名を着せられ、勝者は正義を名乗る。
馬鹿げた話だが、現実はそうできている。

他ならぬエネリット自身が、『王族罪』などという罪を押し付けられ、ここへ落とされた者だった。
裁く側の都合によって生み出された罪。
存在そのものに貼られた、悪の烙印。

「では、裁かれることのなかった行為は『悪』ではないのか?」

ヴァイスマンが、別の角度から問いを投げる。

「誰に知られることもなく処理された悪行。時の権力者による、法を越えた超越行為。
 社会に認識されず、法にも裁かれず、被害者すら声を上げられぬまま消えた行為。それは『悪』とは呼べないのではないかね?」
「『罪』はなくとも、『悪』ではあるでしょう」

エネリットは淀みなく答えた。
たとえ法で裁かれずとも、行為そのものが生み出す『悪』はある。

「では、誰にも知られぬその行為を、誰が『悪』と定義する?」
「悪行に対して、必ずしも罪と罰が下るとは限りません。罰されなかったから悪ではない、とはならない。
 それが誰かを侵す行為であれば、被害者にとっての悪となる。社会にとっての悪と、法における罪は必ずしも一致しません。だからこそ、裁きなどという仕組みが必要になる」

エネリットは、迷わずそう言った。
ヴァイスマンはほんの少し目を細め、さらに別の例を差し出す。

「ならば、娘を犯し殺した畜生を、父が殺害する。そういった復讐はどうだ?
 法は彼を裁くだろうが、世間は彼に同情し、その行為を称賛するかもしれない」
「今の社会規範に照らし合わせるなら、復讐もまた『悪』でしょう」

エネリットは即座に答えた。

「意外だね。復讐を否定するのかな?」
「そちらこそ。法を否定するので?」
「ただの言葉遊びさ」

エネリットの言葉を引き出すための投げかけでしかない。
実際のところ、それがヴァイスマン自身の考えというわけではないのだろう。

「ならば、理不尽に耐えろと言うのかね?」
「そのために法という規範がある。正しい側でいたいのなら、耐えるべきでしょう」

立場の入れ替わったような問答だった。

たとえ感情が赦しても、法により定義される『悪』はある。
法だけではない。
感情だけでもない。

善悪は、常に複数の視点から評価される。
一つの行為に対して、複数の善悪が同時に成立する。

ただ、とエネリットは言葉を切った。

「それでも、『悪』と呼ばれる覚悟があるのなら、踏み越えればいい」

その『悪』を肯定する。
譲れぬ一線があるのならば、踏み越えることを良しとする。

己の信念と社会の規範が食い違った場合、その線を越えるかどうか。
それこそが、正義と悪を分ける一線である。

「つまり、社会性よりも自己の価値観を優先する人間こそが『悪』であると?」
「社会の価値観が時勢によって流動するように、我々はそれぞれが確固たる自己を持ち、千差万別の価値観を持つ。
 その価値観が社会の規範と一致すれば『正義』と賞され、社会に受け入れられなければ『悪』と蔑まれる。善悪など、それだけの話です」

変動する時流に一致するか。
善も悪も、その天秤に量られた重しでしかない。
ならば、その傾き次第で、人間は誰もが『悪』になり得る。

「人間が社会で生きる以上、その価値観は時勢や社会の定義する善悪に寄るものになるのだろう。
 だからこそ悪人は少数派であり、多数派になれば秩序は崩壊する。そしてこの世界は、そこに近づきつつある。そのようなものを『革命』などと呼んで美化する風潮を、私は最も嫌う」

看守長は、静かに続ける。
その声には、冷えた嫌悪があった。

「己の信念と社会の規範が食い違っていても、なお折り合いをつけて生きる者もいる。世界との摩擦を最小限に抑えようとする者こそ、私は評価する」

人間は社会性を持つ生き物だ。
衝動や欲望、消しきれぬ憎悪を抱えながら。
それでも手綱を握れるから、人でいられる。

「だからこそ、その線を平然と踏み越える君たちは、私にとっては許し難い」

それが、オリガ・ヴァイスマンの線引きだった。

秩序に適応できなかった異物。
社会との折り合いを捨てた落伍者。
あるいは、社会の側が抱えきれなかった歪み。

そのすべてを、彼は『悪』と呼ぶ。

「無自覚のままその線を越える者もいるだろう。環境や境遇、止むに止まれぬ事情で境界を越える者もいるだろう。
 だが、私としては変わらない。他者との折り合いを放棄し、その行為が結果として他者を侵すならば、それは断罪すべき『悪』だ」

線を越えるのならば、そこに悪意の有無など関係がない。
存在するだけで周囲を侵す、天然の災厄。メアリー・エバンス。
悪意すらなく思うまま周囲を巻き込む、初代『災害』のように。

彼女らに悪意はない。
だが、それでも社会を侵す『悪』であることに違いはない。

「社会の価値観に染め上げられない、適応できない人間ならば、そもそも世界に存在すべきではない。
 悪は人間から切り離せない。人間は誰しも『悪』たり得る。それはその通りなのだろう」

ヴァイスマンの声は冷えていた。
秩序の管理者としての矜持と冷徹さに満ちている。

「『悪』とは、受け入れがたいもの、容認できないものに対するタグ付けでしかない。だからこそ、そのタグは適切に支配し、管理すべきなのだ」

その言葉に、エネリットは少しだけ沈黙した。

「それが、アビスですか」
「そうだ」

ヴァイスマンは否定しなかった。
そして、まるで当然のことのように告げる。

「アビスとは、世界が抱えきれぬ悪を沈める場所だ。地上の人間が目を逸らしたがるものを引き受け、隔離し、記録し、利用し、必要なら処分する。醜い仕事だが、誰かがやらねばならない」

これは恩赦である。
これは慈悲である。
これは救済である。

かつて刑務作業の始まりに告げられた言葉が、エネリットの脳裏を過ぎる。

「やはり、貴方はそう考えるのですね」
「存在すら許されぬ『悪』に使い道を与えることは、無為に消費されるより遥かに慈悲深かろう?」

ヴァイスマンは平然と言った。

「ですが、アビスもまた悪たり得る。その正しさは、誰が証明するのです?」

死後すらも管理する監獄。
罪人の魂すら逃がさず、利用し続けようとした深淵。
それを慈悲と呼ぶのなら、その慈悲の正しさは誰が定めるのか。

「証明など不要だ。私は自分を正義の側に置く気はないよ」

ヴァイスマンは少しも揺らがなかった。
その冷えた目に、自己弁護の色はない。

「善人を気取るつもりもなければ、秩序や世界のためなどと、耳触りのいい看板で自分を清める趣味もない」
「では、何だと?」
「必要悪だ」

正しさではない。
清らかさでもない。

必要性こそが、アビスを求める。
ただ、世界が処理しきれぬものを処理する機能として、アビスは存在を許されている。

「ここは悪人の巣窟だ。囚人だけではない。刑務官も、研究者も、管理者も、この深淵に関わる者は多かれ少なかれ悪を扱う。ならば当然、私もまたその一人に過ぎない」

この男は、自分たちを善だとは思っていない。
アビスを正義の砦だとも考えていない。

ただ、必要だから存在する。
必要だから管理する。
必要だから、悪を悪のまま運用する。

そこに罪悪感も、陶酔もない。
あるのは、冷え切った機能としての自認だけだった。

「アビスは正しくなどない。正しい場所であったことなど、一度もないさ。
 そもそも正しければ、存在を世間より秘匿する必要などなかろう? 人を隔離し、閉じ込め、殺し合わせる。これのどこに善がある?」

エネリットは答えなかった。
つまらなさそうに肩を竦める。
ヴァイスマンも、答えを求めてはいないようだった。

「悪を沈めるために、悪を使う。悪を縛るために、悪の制度を作る。そこに免罪などない。ただ、必要性があるだけだ。
 我々は悪を引き受け、悪に染まり、悪を運用する。悪の処理とは、そういうものだ。綺麗な手で泥を掬えると思うな」

エネリットは、しばらく黙っていた。
彼にとって、その答えは意外ではなかった。
この男は、最初から自分を善の側に置いていない。

自らの信念を貫き通す『悪』。
目の前の相手がその一人なのだと、認めざるを得なかった。

「あなたのような自らを貫き通す『悪』を、僕はこの目で沢山見てきました。
 醜く、愚かで、救いようのないものばかりでした。けれど、その中に確かに眩いものもあったのです」

『悪』の集うアビスで育った、アビスの子。
アビスの中で、彼は多くの『悪』と触れ合ってきた。
そして刑務作業の中で、さらに多くの『悪』の本質を見た。

自らの信念を貫き通し、周囲に大きな被害を与え、自らも最期を迎えた愚者たち。
世界から居場所を失い、赦されない者たち。
それでも、何かを求めていた者たち。
誰もが、自分の中にだけある真実に従っていた。

「そうか。つまり君は」
「彼らは世界から不要と断じられ、『悪』というタグを貼られた。
 だが、『悪』であることは、存在を許されないということではない」

殺し合いの中で見たもの。
滅びる者たちの最後の意地。
世界に受け入れられなかった者たちが、それでも何かを求め、抗う姿。
それを、なかったことにはできない。

それが、エネリットの得た結論だった。

「受け入れ難きを受け入れては、人間社会は成り立たない。
 それを理解しながら君は、泥の中の一欠けらの砂金を見出すために、それを容認しろと言うのかね?」
「ええ。愚かでも、醜くとも。そこに在るのなら、何かを救うこともあるでしょう」

その答えを受けて、看守長は目を細めた。
やがて、背もたれに背を預け、つまらなそうに嘆息する。

「まったく、救いようのない結論だ」
「気に入りませんか?」
「そうだな。私とは相容れない」

肩を竦める。
看守官と受刑者は分かり合えない。
この問答で分かったのは、そんな分かりきった結論だけだ。

「人格検査としては、不合格ですか?」
「いや」

ヴァイスマンはつまらなそうな表情のまま、机の上に置かれた端末へ手を伸ばした。
短く操作音が鳴る。

「合格だ」

エネリットは少しだけ目を瞬かせた。

「よろしいのですか?」
「言っただろう。こんなものはただの雑談だと」

最初から決まりきっていた結論を述べるように、ヴァイスマンは事務的に告げる。

「君はアビスの機密を軽々しく口外する人間ではない。社会生活にも、表面的には適応できるだろう。危険性についても、管理可能な範囲に収まる」

僅かに唖然としているエネリットの顔を見て、ヴァイスマンは、少しだけ口元を歪めた。

「それなりに有意義な時間だったよ。最後に君と話せてよかった」
「……最後、ですか?」
「ああ。私は本日限りで、この刑務所を辞する」

エネリットが目を見開いた。
今日一番の驚きだった。

「今回の件の責任でも取らされましたか?」
「まさか。栄転だよ。私は、より大きなものを管理しに行く」

虚言や強がりの類ではない。
だが、その言葉の指し示す正確な意味を、囚人の立場では理解することはできなかった。

「次の看守長はどうなるのです?」
「看守の人事を囚人に話すわけがないだろう」
「それは、そうですが……」

だったら最初から口を滑らせなければいいのに。
そんな不満が、わずかに顔に出た。
ヴァイスマンは、それすら楽しむように薄く笑う。

「何かね?」
「いえ。ただ、少し妙な気分です」

エネリットは静かに言った。

「数日前まで、僕にとってアビスは世界そのものでした。その世界から、僕だけでなく、貴方も離れていく」

互いに、アビスを離れる身。
数日前まで、自分の世界そのものだった場所。
その場所から、今、自分たちはそれぞれの形で切り離されようとしている。

「最後にもう一つだけ聞こう」

ヴァイスマンが言った。
今度こそ、本当に雑談でも振るような調子で。

「君は、外の世界が善いものだと思うかね?」
「まさか。理不尽も、不幸も、暴力も、差別も、きっとアビスと変わらないくらいあるのでしょう」

エネリットは、当然のことのように答える。
生憎と、外の世界に夢を見るようなロマンチストではない。

「なら、何を見に行く」

見定めるように、ヴァイスマンが問う。
エネリットは少しだけ考えた。
そして、静かに答える。

「美しいものが見たいわけではありません。それでも、その先に何があるのか、僕はそれを見てみたい」
「つまらないものを見ることになるぞ」
「それでも構いません」

ヴァイスマンはしばらくエネリットを見つめていた。
やがて、皮肉気な笑みを戻す。

「君は、思ったよりも愚かになったな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「そうしたまえ。賢いだけの人間は、案外つまらんものだ」

ヴァイスマンは立ち上がった。
面談の終わりを告げるように、椅子の脚が床を擦る。

「検査は終了だ。数日のうちに、君はアビスを出る。新しい名前、新しい戸籍が用意され、自由と呼ぶには不自由な生活が待っているだろう」
「心得ています」
「よろしい」

ヴァイスマンは扉へ向かいかけ、ふと足を止めた。

「では、どことなりと行くがいい。アビスの子」
「はい」

エネリットは静かに頭を下げる。
目の前の相手だけではなく、この場そのものに別れを告げるように。

「さようなら、看守長。我々囚人にとって、貴方こそがアビスでした」

廊下の冷たい光が、白い検査室へ流れ込む。
ヴァイスマンは振り返らなかった。
そのまま部屋を去り、扉が閉じる。

一人残されたエネリットは、しばらく白い壁を見つめていた。

じきに、独房へ戻すべく看守官が迎えに来るのだろう。
その数日後には、また別の看守官が彼を連れ出す。
今度は検査室ではなく、アビスの外へ向かうために。

悪とは何か。
善とは何か。

答えは出ていない。
きっと、これからも明確な答えは出ないだろう。

それでも、彼はもう知っている。

深淵に沈められた者たちの中にも、確かに信念はあった。
罪人にも、怪物にも、愚者にも、聖人にも、それぞれの選択があった。
悪と名付けられた者たちの中にも、意味はあったのだ。

エネリットは、静かに息を吐いた。

ならば、自分もまた。
悪を背負ったまま、歩くことはできるのかもしれない。

本物の空を見るために。
まだ見ぬ世界の、その善悪を、自分の目で確かめるために。

そうして、アビスの子は外の世界へと旅立っていく。


そうして、刑務作業終了から半年後。
シチリア島東部、カターニア平原の外れに舞台はたどり着く。

オレンジ畑に囲まれた私立療養施設の、集中治療棟最奥。
そこにある特別病室で、一人の老人が眠っていた。

白く整えられた個室は消毒液の匂いで満ちていた。
閉ざされたカーテンの隙間から、夏の光が細く差し込んでいた。

ベッドの上に横たわる老人の頬は痩せこけ、唇は色を失っている。
腕には点滴の管が繋がれ、枕元の機械が規則正しく心拍を刻んでいた。

それだけを見れば、ただの重症患者だった。
生と死の境に横たわる、ひどく脆い老人に過ぎない。

だが、それでもなお、その男から威厳は失われていなかった。
眠っていてなお、部屋の空気を支配している。
白い病室そのものが、彼の沈黙に膝をついているようですらあった。

リカルド・バレッジ。

イタリア最大のカモッラ、バレッジ・ファミリーの首領。
欧州の支配を巡る宿敵、ルーサー・キングとの決闘に敗れ、長く意識不明のまま生死の境をさまよっていた男である。

当然ながら、裏社会の大物が眠るこの部屋の存在を知る者は限られている。
表向き、リカルド・バレッジの容体は伏せられていた。
死んだとも。植物状態だとも。既に引退し、組織の実権は幹部たちに移ったとも噂されている。
真実を知るのはファミリーの中でもごく一部の幹部だけだった。

この病院も、表向きは小さな私立療養施設に過ぎない。
しかし実際には、バレッジ・ファミリーが複数の名義を挟んで押さえている秘密拠点である。

集中治療棟の入口には、医師を装った組員が立っている。
廊下には監視カメラと感知式の警報網が張り巡らされ、病室に入るには幹部の承認と複数の認証を通らなければならない。
敵対組織の刺客が入り込む余地など、あるはずがなかった。

そのリカルドが、ようやく最近になって意識を取り戻した。

もっとも、目を覚ましていられる時間はまだ短い。
医師は面会を厳しく制限していたし、幹部たちも彼の回復を最優先していた。

組織の再建も、抗争の後始末も、王の帰還を急かせる理由にはならない。
それほどまでに、リカルド・バレッジという男の存在は重かった。

そんな、限られた覚醒の時間。
病室の扉が、音もなく開かれた。

「失礼します」

現れたのは、一人の青年だった。
年若いが、ただの若者ではない。

身に纏っている服は、生地も仕立ても上等とは言い難い安物だった。
それなのに、その着こなしのせいか、どこか気品のようなものすら感じさせる。
安物の布地の下に、育ちのよさとも、場慣れともつかない気配があった。

あるいは、恐怖という感情をどこかへ置き忘れてきた者だけが持つ、奇妙な落ち着き。
何より、その目に怯えがなかった。

この病室が何であるか。
ここに眠る老人が何者であるか。
それを理解した上で、青年は平然とそこに立っていた。

ベッドの上で、リカルドの瞼がゆっくりと開く。

老人は闖入者に動じなかった。
濁りかけた老眼が、青年を捉える。
それだけで、病室の温度が一段下がったように感じられた。

「…………見ねえ顔だな、坊主。キングの差し向けた鉄砲玉、ってわけじゃなさそうだな」

喉の奥を削るような、弱った老人の声。
だが、その声にはまだ刃が残っていた。
本当に殺す気で来た者なら、その一言で呼吸を乱していたかもしれない。

「ええ。初めまして、カポクラン。不躾な訪問をお許しください。私はハル・スティンと申します」

ハルと名乗った青年は、どこか優雅さを感じさせる仕草で頭を下げた。

リカルドは上体を起こそうとした。
だが、身体は思うように動かない。

肩がわずかに震え、呼吸が乱れる。
枕元の機械が、短く電子音を刻んだ。

ハルが一歩、近づきかける。
しかし、リカルドは眼光だけでそれを制した。

「まだ見舞い客に支えられるほど、落ちぶれちゃいねえよ」
「失礼しました」

ハルは素直に足を止めた。
身を起こしたリカルドは、荒い息を一つ吐き、改めて青年を見た。

その目は、病人のものではなかった。
目の前の相手が何者かを測る、組織の長の目だった。

「それで? ハル。わざわざこんな田舎くんだりまで訪ねて、こんな死にぞこないに何の用だ? 少なくとも、見舞いの花束はねえようだが」

意識不明の重体となったカモッラの首領を匿う秘密病院。
しかも、その最奥にある特別病室。

伝手があるだけでは足りない。度胸だけでも足りない。
この部屋まで辿り着いた時点で、ハルという青年がただ者ではないことは証明されていた。

「手ぶらなのはご容赦を。要らぬ警戒を招くかと思いまして」

花束の中に刃を仕込んだり、果物籠に爆薬を隠すなんてのは暗殺の手口としては古典も古典だ。
手ぶらの無礼は、敵意がないと示すための最低限の作法だった。
その気の回し方を、リカルドは鼻で笑う。

「は。今の時代に古風なことだ」

第二世代(ネイティブ)が第一世代(オールド)に古風と諭される。
妙なやり取りだった。

今の世は、すべての人間が超力を持つ人類総兵器時代である。
素手であることは、何の無害証明にもならない。
刃物も銃も持たずに人を殺せる者など、掃いて捨てるほどいる。

つまり、ハルの手ぶらは実質的な安全の証明ではない。
あくまで、敵意はないと示すための作法に過ぎなかった。

「それで? 俺に何を求めに来た」

リカルドの声が低くなる。
多くのリスクを抱えてまで、この病室にやってきた。
ならば、相応の目的があるはずだった。

その問いに答えるように、ハルは静かにベッドの前まで進み、片膝をついた。
病人への見舞いではない。
王に謁見する者の姿勢だった。

「どうか、この私をファミリーの末席に加えていただきたく、馳せ参じました」

皺の深い目が、測るようにハルを見つめる。

「イタリア人でもないお前が、こんなくたばり損ないが頭を張ってる、落ち目の組織にわざわざ入りてえってのか?」

ハルのイタリア語には、わずかに異国の訛りが含まれていた。
外見から見て取れる人種も、イタリアのそれではない。
身なりからして、イタリアに根を張った移民というわけでもなさそうだった。

縁も所縁もない国の、しかも敗北した組織に身を置く理由が分からない。
何の理由もないのなら、ただの狂人の酔狂である。

「お察しの通り、私は帰る場所(くに)もない、流浪の根無し草です。イタリアには縁も所縁もありません」
「では、何故このファミリーを選んだ?」
「以前、バレッジの組員の方に世話になることがありまして。その縁もあります。ですが、恩義だけではなく、私なりの目的もあります」
「聞かせろ」
「半年ほど世界を巡り、そろそろ路銀も尽きて、腰を落ち着ける場所が欲しかった。というのが一つ」

冗談めかしてそう言って、ハルはわずかに間を置いた。

「そしてもう一つ。荒れた欧州の裏社会を平定できるのは、このバレッジ・ファミリーを置いて他にないと考えています。その手助けをさせていただきたい」

一瞬、病室が静まり返った。
心拍を刻む電子音だけが、やけに大きく響く。
リカルドは青年を見つめたまま、低く笑った。

皇帝ルーサー・キング率いる『キングス・ディ』は、欧州制覇に王手をかけていた。

キング自身は逮捕された。
だが、それは計画的な投獄であり、組織は王の帰還を信じて欧州各地へ根を張り続けている。

対するバレッジ・ファミリーは、直接対決に敗れた側だ。
首領は倒れ、主力の多くを失い、勢力図は明らかに後退している。
イタリア国内でこそなお影響力を保っているが、欧州全体を巡る覇権争いでは敗残兵と言ってよかった。

「は……。面白え冗談だ。負け犬の病室に来て、ベッドに縛りつけられたジジイを目の前にしても、それを口にできるたぁな。まともじゃねえ」

理想を語るだけなら子供にもできる。
何の策もない妄言なら聞く価値もない。
実行可能な現実である根拠を示せなければ、その場で追い返されるだけだ。

「ルーサーの野郎が獄中で消されたって噂は耳に入ってる。だが、『キングス・ディ』の勢力は健在だ。今のバレッジ・ファミリーに、それを打ち崩せるだけの力はない」

それは謙遜ではなかった。
組織の力を誰よりも知る首領としての、冷徹な見立てである。
外から来た若造の希望的観測より、はるかに正確な判断だった。

「それについては、少々当てがありまして」

失礼、と断り、ハルは懐に手を入れた。
普通なら、凶器を取り出すと見られてもおかしくない動作だった。
その瞬間に警報が鳴っていても不思議ではない。

だが、リカルドは止めなかった。
青年が何を取り出すのか、最後まで見届けることにしたのだ。

ハルが取り出したのは、一枚の古びたコインだった。
表面には、牙を剥く虎の紋章が刻まれている。

「こいつぁ……ティガード坊のコインか」

リカルドの目が、初めて明確に変わった。

「ご存じでしたか」
「ご存じも何も、あの坊やには何度も煮え湯を飲まされた」

リカルドは、在りし日を懐かしむように、そして少しだけ苦々しげに笑った。

「腕は立つ。頭も切れる。人を惹きつける妙な華もあった。だが、最後まで群れの王にはなりきれなかった」

かつて欧州で一大勢力となっていたマフィア、『タイガーファング』。
そのボスであったティガードは、出所を目前にして死亡したと聞いている。
本来ならば、余所者の青年が持っていていいものではない。

「このコインを使えば、『タイガーファング』の残党に声をかけられます」

ハルはコインを掌に載せたまま言った。
頂点を失った組織は瓦解し、残党は欧州各地へ散った。
だが、彼らは完全に消えたわけではない。
牙を折られた獣のように、暗がりの中で息を潜めている。

「『バレッジ・ファミリー』と『タイガーファング』残党が協力すれば、『キングス・ディ』に対抗するだけの戦力は整えられるはずです」
「はっ。敗残兵を集めて王者に挑もうってのか?」

ベッドの上で、リカルドが豪快に笑った。
肺に響いたのか、途中で咳き込み、機械の音がわずかに乱れる。
それでも彼は、笑うのをやめなかった。

「全員が従うとは言いません。ですが、少なくとも耳を貸す者はいる。『キングス・ディ』に対抗するという共通目的もあります」
「無謀だが、無策じゃないか」

リカルドの笑みが、わずかに深くなる。

「それは悪くねぇ」

そして、笑みの奥から鋭い視線が戻った。

落ち目のバレッジ・ファミリーとしても悪くない提案だ。
ティガードの残党にしても、キングに対抗する力を得られる。

双方に利のある話だった。
交渉というものを、よく分かっている。

だが、まだ足りない。

「そうまでして、何故欧州を束ねたい?」

ハルは少しだけ考える素振りを見せた。
だが、それはポーズだけで、答えは初めから決まっていたように見えた。

「世界平和のため、と言ったら信じていただけますか?」

リカルドはしばし黙ったあと、喉の奥で笑った。

「まるっきり嘘ってわけでもなさそうだが、そんな殊勝なタマでもねえだろう、坊主(バンビーノ)」

さすがは大組織の長だった。
老いてなお、人を観る眼は確かである。

善意だけで動くような人間ではない。
正義などというお題目を掲げる人間でもない。

ハル・スティンという青年の奥には、もっと別のものがある。
冷えた火のようなものが、静かに沈んでいる。

「そうですね。動機で言えば、嫌がらせが一番近いでしょうか」
「嫌がらせだと?」
「ええ。諸事情により詳細は”語れない”のですが、省みられることなく利用された多くの命に報いるには、これが一番効果的な方法だと愚考しました」

ハルの声は穏やかだった。
だが、その穏やかさの底には、静かな怒りが沈んでいた。

荒れ切った欧州の裏社会を平定する。
それは、表向きには秩序の回復であり、平和への近道である。

勝手に世界に不要と断じられ、利用されるまま使い捨てられた命。
誰かが作った醜悪な筋書き。

そのすべてを不要と断じるために、平和という結末で塗り潰してしまう。
それは、痛快な復讐だった。

「そのための足掛かりとして、まずは荒れ切った欧州裏社会を平定しようかと。悪人の蔓延る裏社会にこそ秩序と管理が必要という点は私も同意する所ですので」
「足掛かりねえ……。欧州だけじゃなく、本気で世界を救おうってのかい?」
「ええ。アフリカに少々伝手がありまして。古い……と言うほどの付き合いでもないのですが、技術的に協力いただけそうな便利屋(しりあい)がいます」

リカルドはしばらく黙っていた。
復讐という在り方は、この青年に相応しい。
少なくとも老雄の目には、そう見えた。

病室の空気が再び重くなる。
機械音が、二人の間に一定の間隔を刻み続ける。
やがて、老人は口を開いた。

「いいだろう。お前にファミリーの食客としての立場を与える」
「盃はくださらないので?」
「はっ。世界を救おうなんて嘯く輩を繋ぎ留めておくつもりはねえよ」

リカルドは薄く笑った。
目の前の青年は、目的を果たせば飛び立つ渡り鳥だ。
盃を交わして一生そこに縛りつけるのは、どちらのためにもならない。

「お気遣い、痛み入ります」
「勘違いするな。まだ身内とは認めてねえってだけだ」

その言葉に、ハルは小さく笑みを浮かべた。
リカルドは改めて表情を厳しくし、目を細める。

「坊主。まず成果を示せ。お前に一つ仕事を与える」
「何なりと」
「ティガードの残党を集めろ。バレッジの看板を使っても構わん。錆びた看板だが、それなりには使えるだろう」

落ちぶれたとはいえ、イタリア最大のカモッラ。
特にイタリア国内での影響力は健在である。

バレッジの威光と、ティガードのコイン。
その二つがあれば、眠っていた残党に声を届かせるには十分だろう。

「ただし、頭数を揃えるだけなら犬にでもできる。俺が欲しいのは、頂点に牙を剥く覚悟のある奴だけだ」

リカルドの声に、かつて組織を率いた王の響きが戻る。

「半端者はいらねえ。昔の看板にすがるだけの死人もいらねえ。負けを覚えていて、それでももう一度噛みつく気のある奴を連れてこい」
「了解しました」

青年は深く頭を下げた。

「行きな、バンビーノ。俺が次に目を覚ました時、退屈な報告を持ってくるなよ」
「はい。必ず」

ハルはコインを握りしめ、静かに立ち上がった。
もう一度だけ深く頭を下げ、踵を返す。
ハルが立ち去ると個室には再び機械音だけが残った。

久しぶりにしゃべりすぎたのだろう。
リカルドは疲れたように目を閉じた。

だが、その口元には薄い笑みが残っている。
死にかけの老人の笑みではなかった。
若々しさを取り戻した、野心に燃える王の笑みだった。

リカルド・バレッジは眠る。
だが、その眠りは、もはや死に近い沈黙ではない。

傷ついた獣が、再び牙を研ぎ始める前の静寂だった。


この半年。
エネリット・サンス・ハルトナは、残された恩赦ポイントを換金した金を元手に、世界中を旅して回った。

初めて見る本物の空。
初めて吸う地上の空気。
初めて踏む、アビスでも刑務作業の舞台でもない大地。

目に映るもの。肌に触れる風。耳に届く喧騒。街角に漂う匂い。
誰かが当たり前のように交わす笑い声。
その一つひとつが、彼にとっては新鮮なものだった。

だが、世界は決して美しいばかりではなかった。
看守長の予言通り、ろくでもないものも少なからず見た。
理不尽も、不幸も、暴力も、差別も、アビスの外にもいくらでも転がっていた。

だが、それでよかった。
彼が見たかったのは、美しい世界ではない。
自分が知らなかった世界なのだから。

エネリットに用意された国籍は、アメリカのものだった。
中東系移民、ハル・スティン。
それが、外の世界で生きるために与えられた新しい身分である。

目隠しをされたままアビスから送り届けられた先は、米国西海岸だった。
米国は、現代において最も『正しく』超力社会を運営している国家とされている。
少なくともエネリットの目にも、表向きの秩序は安定しているように見えた。

巨大企業。州政府。連邦機関。民間軍事会社。
それぞれが超力者を囲い込み、管理し、契約で縛り、必要とあらば武力として運用する。
混沌を力で押さえつけるための仕組みは、他の地域よりも遥かに整えられていた。

街には広告が溢れ、道路は整備され、人々は当たり前のように笑っていた。
自由を売り、自由を買い、誰もが自由であることを誇っていた。

だが、その自由の裏側には、常に監視と契約があった。

自由の国。
そう呼ばれるその国で、自由は高度に管理されていた。

もっとも、エネリットにとっては、それもさほど不思議な話ではなかった。
檻の形が見えにくいだけで、人はどこにいても何かしらの檻の中にいる。
ただ、その檻が頑丈で、快適で、見栄えよく作られているだけの話だった。

それから、彼は陸路で中南米へ渡った。
そこは欧州と並び、数多くの地下組織が群雄割拠する終末都市の連なりだった。

欧州との最大の違いは、その腐敗が裏側だけで完結していないことにある。
地下組織の影響は表社会にまで深く根を張り、政権にさえ汚職と癒着が蔓延していた。

私兵として武力を持つ独裁政権。それに対抗する革命組織。
さらに、その双方に武器と超力者を供給する犯罪シンジケート。
正義と悪。そうした言葉の境目は、とっくに泥の中へ沈んでいた。

かつてこの地には、技術革新をもたらした地下組織があった。
中核を担う人材の消失により、その組織はすでに活動を停止している。
だが、彼女らが残した技術は今も残り、多くの犯罪組織や政府軍がそれを遺産のように使っていた。

空気の中には、火薬と血の匂いが混じっている。
人類初となる、超力を本格投入した大規模戦争。
それが始まるとするならここだろうという機運が、確かに漂っていた。

そこで暮らす人々は、誰もが救いを求めていた。
だが、彼らが求めていたのは、秩序ある統治者ではない。
制度を整え、法を正し、少しずつ暮らしを良くしてくれる賢明な指導者でもない。

すべてを一度焼き払ってくれる、『災害』のような救世主。

今あるものを残したままでは、もう誰も救われない。
壊すことでしか救われない世界が、そこにはあった。

次に、彼は海を越え、アジアへ渡った。

まず訪れたのは日本だ。
多くの事件が引き起こされた世界の中心地。
そしてエネリットは、世界最大の超力事件の被害地である、光の豊島事件の跡地へと足を運んだ。

そこで、意外な人物と出会った。
パンキッシュなピンクのツインテール。
慰霊碑の前に立ち、静かに祈りを捧げていたミリル=ケンザキである。

エネリットが恩赦を得てアビスを出てから程なくして、彼女もまた刑務官を辞したらしい。
だが、世界最高峰の転移超力を、アビスがそう簡単に手放すはずもなかった。

GPAやアビスが欲しているのは、ミリル=ケンザキという人格ではない。
彼女の持つ超力である。

他者の超力を遠隔発動するための、システムC応用試験作。
その被験者となることを条件に、ミリルの退職は許可された。
退職というより、首輪の形が変わっただけだった。

二人は慰霊碑の前で、しばらく無言のまま並んで立っていた。

元刑務官と元受刑者。
共通の話題など、あの監獄の話しかない。

だが、そのアビスについては緘口令が敷かれている。
この場に監視などないだろうが、表だって口にするのは憚られた。

ミリルは、以前より少し疲れて見えた。
だが、同時に、アビスにいた頃よりも人間らしい顔をしていた。
傍観者の瞳ではなく、自分の足でどこかへ向かおうとしている者の顔だった。

エネリットは、あの日のことを尋ねなかった。
彼女もまた、なぜエネリットを助けたのか、その理由を言わなかった。
言葉にすれば、どちらも嘘になる気がしたからだ。

二つ、三つ。何でもないような言葉だけを交わし、彼女とは別れた。
彼女とはそれきりだ。もう会うこともないだろう。

そして、すべての始まりの地――征十郎の故郷である山折にも足を運んだ。

そこは現在、立ち入り禁止区域に指定されていた。
だが、周囲に警備らしい警備はない。

風雨に晒され、色褪せた看板だけが、形ばかりに道を塞いでいる。
エネリットはそれを越え、山に囲まれた村の中へ入った。

世界を侵す災厄の始まり。
永遠のアリスを生んだ場所。
征十郎が斬り捨てた因縁の源流。

そこは、美しい自然に囲まれた、ごく普通の廃村だった。

人のいなくなった集落は、自然の侵食によって緑に呑まれつつある。
木と紙と瓦で作られた古びた日本家屋は、エネリットにとって物珍しいものだった。
そこには、自然と融合した退廃的な美しさがあった。

だが、彼の興味を引いたのはそれくらいだ。

誰かが暮らし、誰かが笑い、誰かが死に、やがて誰もいなくなった場所。
終わってしまえば、どれほどの因縁も風景の中に沈んでいく。

エネリットは、征十郎が求めた明日を思い出した。
永遠ではなく、終わるからこそ残るもの。
止めるのではなく、過ぎ去ることで届くもの。

山折には、もう『永遠』などない。
そこにあったのは、いつか忘れ去られていく一つの小さな村(せかい)だった。

だが、忘れられていくことは、何も残らないという意味ではない。
少なくともエネリットは、ここに立っている。
征十郎・H・クラークという男の最期を見届けた者として。
虎尾茶子という少女の妄執が、ようやく終わる瞬間を知る者として。

それだけで、この場所は完全には消えていないのだろう。
その風景を心に移し、エネリットは始まりの地を後にした。

それから大陸へも渡った。
その片隅にある、かつて怪物の生まれた孤島にも足を運んだ。
そこには、どこか火の消えたような暗い雰囲気が漂っていた。

絶対的な支配者は消え、恐怖政治も終わった。
島を覆っていた暴力による支配は、もはや存在しない。
それにもかかわらず、残された人々は解放されたようには見えなかった。

銀の檻は壊された。
だが、檻の中で生きることに慣れすぎた人々は、外へ出る歩き方を知らなかった。

誰かに従うこと。
誰かに命じられること。
誰かに責任を預けること。

それだけが、生きる形になってしまっていた。

囚人たちと同じだ、とエネリットは思った。
首輪を外されたからといって、すぐに自由になれるわけではない。
檻の外に出ても、心が檻の形を覚えている。

自立することもできず。
かといって、完全な自由に耐えることもできず。
残された人々の間には、再び絶対的な支配者を望む空気さえ流れていた。

自由とは、与えられるものではない。
扱い方を知らぬ者にとって、それは時に、暴力よりも恐ろしいものだ。
エネリットは、そこでそのことを学んだ。

アジアから欧州へ向かう。
その途中。一つの寄り道をした。

かつてハルトナ王国が存在した地。
エネリットが生まれたとされる場所だ。

そこは今、原理主義を掲げる共和国の一部に組み込まれていた。
国境線は変わり、王宮は取り壊され、街の名前も変わっている。
広場には見知らぬ記念碑が立ち、通りには新しい国の旗が掲げられていた。
人々は知らない言葉で笑い、知らない暮らしを営んでいる。

そこには、すでに新しい国の時間が流れていた。

ハルトナの名残など、どこにも残っていなかった。
そもそも、エネリットは祖国の姿を知らない。
知らないものの名残を、見つけられるはずもない。

王国は滅びた。
王家は終わった。
その血を引く最後の一人である彼も、すでにその名を手放している。

ここに彼の望郷はない。
ならば、何の感傷も湧かないのは当然のことだった。

奪われた祖国。
そう呼ぶには、彼はその国を知らなすぎた。
彼にとっての故郷は、結局のところ、あの地の底にあるのだろう。

跡地に吹く風を受けながら、今はどこにもない亡国の王子は空を見上げた。

本物の空は、どこまでも高かった。
その下にある世界は、思っていたよりずっと広く、思っていたよりずっと醜く、そして思っていたよりずっと退屈しなかった。

帰る場所がないことと、進む先がないことは同じではない。
後ろ髪を引かれることなく、エネリットは先へ進んだ。

次に渡ったアフリカでは、一つの再会があった。

メリリン・“メカーニカ”・ミリアン。
そして、ジョニー・ハイドアウト。

アビスの公式記録において、彼らは死んだことになっている人間たちだ。
システムBの崩壊に巻き込まれ、アビス外部の深海へ放り出され、死亡した。
それがアビスの、そしてオリガ・ヴァイスマンの下した結論だった。

だが、現実は違った。

脱獄王たるトビ・トンプソンは、当然のようにアビスからの脱獄を目論んでいたらしい。
アビスの実体が、海底に沈む海中基地であること。
地上へ繋がる正規ルートが、長距離エレベーターしか存在しないこと。
彼は刑務作業の開始以前から、その程度のことは調べ上げていた。

だからこそ、飛び出した先が深海であることも半ば予期していた。

完全ではなかったにせよ、事前に対策は講じていた。
あの翼は、そのためのものだった。

海中で彼らを包み込み、わずかな生存可能性に賭けるための準備。
その結果、彼らは見事に脱獄を成し遂げた。

もっとも、トビ本人はその場にはいなかった。
跳び立つ鳥ように跡を濁さず、いつの間にかどこかへ消えていたらしい。
脱獄王は脱獄王らしく、次の面倒事を拾いにいったのだろう。

民族対立や紛争の尽きないアフリカは、GPAの管理の手が行き届いていない。
潜伏には適した場所だった。
独自の伝手を持つジョニーの助けもあり、彼とメリリンは地下に潜り、組織を作って便利屋稼業を始めていた。

エネリットもまた、凄まじい技術を持つ便利屋の噂を聞きつけた一人だった。

だが、彼らは死亡したことになっている人間だ。
生存が知られるだけで致命傷になる身分である。

彼らの情報は地下深くに隠されており、接触するだけでも簡単ではなかった。
時には、いくつか穏当ではない手段も使ったりした。
そうしてようやく、エネリットは二人と再び顔を合わせることができたのである。

とは言え、抱き合うことも、過去を懐かしむこともなかった。
そもそも再会を喜び合うような関係ではない。

だが、アビスの外にほとんど関係性を持たないエネリットにとって、それは貴重な繋がりだった。
彼らが生きていたという事実だけで、少し愉快な気分になった。

彼らとは、これまでの経緯とこれからの目的を確認した。
その事務的なやり取りこそが、いかにもアビスの住民らしい関係なのだろう。

今は潜伏と生存を優先して、近隣住民の困りごとを解決する日々。
その裏で、ジョニーは怪盗の願いに沿い、GPAへの告発の機会をうかがっていた。
メリリンは親友の願いに沿い、世界に蔓延る残骸を排除しようとしていた。

エネリットもまた、自らの望む未来を告げた。
そうして一晩飲み明かしたあと、緊急時の連絡手段を交換し彼らとは別れた。
生まれて初めて体験する二日酔いに深酒の怖さを学んだ。

最後に、エネリットは欧州へ向かった。
欧州は、世界最大の暗黒街が広がる、古い秩序と新しい暴力が幾重にも折り重なった土地だった。

国家、企業、宗教、貴族、移民社会、そして地下組織。
それぞれが長い歴史の中で築いてきた縄張りを持ち、表向きには法と伝統の顔をして、裏側では血と金と超力を流通させている。

どの街にも、美しい石畳と、誰にも見られない路地があった。
観光客の歩く広場のすぐ裏で、子供たちは銃を握り、名もない者たちは安く売られ、その事実を多くの者は見て見ぬふりをしていた。

エネリットはその裏側である、スラム街に足を踏み入れた。
自らストリートギャングの支配地域に入ったという事情もあるが、襲われた回数は片手では足りない。
それでも対処できたのは、相手が組織的な脅威ではなく、個人による散発的な犯行だったからだろう。

かつて、そこにあったのは秩序ある暴力と略奪だった。
誰がどこを支配し、誰に逆らえば殺され、誰に貢げば生き延びられるのか。
そうした暗黙の線引きが、辛うじて治安を成り立たせていた。
だが、その安定は一人の王の存在を前提としていた。

闇の皇帝、ルーサー・キング。

彼の名があるからこそ、暴力は一定の形を保っていた。
彼の影があるからこそ、王の子供たちはまだ群れとしてまとまっていられた。

彼が逮捕されてからも、その帰還を前提として裏社会の秩序は保たれていた。

本来であれば、獄中にいる人間の動向など簡単に知れるものではない。
だが、キングは獄中にありながら独自の伝手を使い、なお欧州の裏社会へ影響力を及ぼしていた。

しかし、その強すぎる影響力が災いした。
キングからの連絡が途切れたという事実は、その身に何かがあったことを意味していた。

公には、何も発表されていない。
それでも裏社会においては、沈黙そのものが訃報になることがある。
キングの死が欧州の裏社会でまことしやかに囁かれ始めるまで、そう時間はかからなかった。

後ろ盾を失ったストリートチルドレンたちは、散り散りになった。
ある者は小さな徒党を組み、ある者は薬に沈み、ある者は銃を取った。
王の庇護を失った子供たちは、それぞれが好き勝手に生き延びようとした。

強力なリーダーの不在。
秩序なき暴力の拡散。
薄汚れた路地裏で、誰にも数えられずに消えていく命。
彼らをまとめ上げられるギャングスターは現れなかった。

ただでさえ生き抜くには厳しい世界は、さらに荒廃してゆく。
救われぬ世界だった。

だからこそ、手始めにはちょうどいい場所だった。

監獄の王子は旅をした。
多くの土地を巡り、多くの人と出会い、多くの世界を見た。

それは、世界の形を知る旅であり。
同時に、自分自身の形を知る旅でもあった。

世界は広い。
世界は美しく醜い。
世界は壊れている。

どこまでも間違い続ける世界。
誰かの正しさが誰かを傷つけ、誰かの善意が別の誰かを檻に閉じ込める。
秩序は支配と隣り合い、自由は責任と背中合わせにあり、救いの名を掲げた手が、平然と他者の首を締めていた。

多くの間違いを見た。
そして、己の間違いも知った。

けれど、その間違った世界の中で、人々は確かに生きていた。

怒り、泣き、誰かを傷つけ、それでも誰かに手を伸ばしていた。
悪と呼ばれた者たちの中にも、人はいた。
善と呼ばれる場所の奥にも、檻はあった。

ならば、善悪の名だけに意味はない。

正義と呼ばれたから正しいわけではない。
悪と呼ばれたから、そこに救いがないわけでもない。

必要なのは、タグ付けされた名札ではない。
何を選び、何を背負い、どこへ進むかだ。

間違い続けることは間違いではない。
間違ってでも、それでも前へ進もうとする意志がある。
傷つき、傷つけ、取り返しのつかないものを抱えながら、それでも明日へ手を伸ばす意志がある。

それを、なかったことにすることなど許されるはずがない。

アビスで育った怪物が、外の世界を見て回った末に出した結論は、そこにあった。
そうして、己が成したいことを知った。

結論としては、復讐である。
やはり、それを選ぶのが自分らしい。

かつて、エネリット・サンス・ハルトナは、復讐のために人を殺した。
怒りのためではない。恨みのためでもない。
自分に残されたものが何なのかを知るために。

そして今、ハル・スティンは新しい悪を選ぶ。

世界を檻に閉じ込める者たちがいる。
秩序の名で魂を縛り、破綻した場所を使い捨てる者たちがいる。
彼らが、壊れた世界を見捨てるというのなら――――こちらは、その世界を救う。

正義のためではない。善意からでもない。
まして、清廉な理想のためでもない。

ただ、身勝手な復讐のために。

正義では届かない場所がある。
善意では踏み込めない泥がある。
綺麗な手では、掴めない手がある。

ならば、汚れた手で掴めばいい。
悪の名を背負わなければ進めない場所があるのなら、その名ごと引き受ければいい。

最後まで、囚人と看守は分かり合うことはできなかった。
それでも、悪には管理が必要だという意見には同意する。

放置された悪は、ただ腐る。
秩序なき暴力は、弱い者から順に食い潰す。
支配者を失った裏社会が、救いのない混沌へ沈んでいく様を、ハルはこの目で見た。

ならば、始めよう。

悪を滅ぼすのではない。
悪を否定するのでもない。
悪を、より大きな悪へ食わせるのでもない。

悪を束ねる。
悪を律する。
悪を、世界を壊すためではなく、世界を変えるために使う。

アビスの子として。
ハルトナの名を捨てた者として。
そして、ハル・スティンという一人の悪として。

まずは欧州。
救いようのない世界の、壊れた片隅から。

世界に救われなかった者たちのために。

正義ではなく、己が悪のために。

世界を救い始めるとしよう。

【オリロワA 完】

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最終更新:2026年06月27日 19:26