大地を揺るがす鬼の咆哮が轟く。纏う深淵が散弾の如く撒き散らされる。
山折圭介と八柳哉太。得物を剣とする二人の若者は襲い来る死の脅威に果敢に立ち向かう。
哉太は卓越した技量にて攻撃を捌き、圭介は魔聖剣の光の魔術で猛撃を凌ぎ続ける。
そして、赤鬼こと大田原源一郎の討伐戦線に存在するのは二人の若者だけではない。
「ブモオオオオオオオオオオオオオオ!!」
鬼の雄叫びと負けず劣らずの迫力で咆哮するのは馬ほどの巨体を持つ白猪のウリヨーー伊吹山神の使徒。
身体を覆うのは魔力を帯びた白吹雪。哉太と圭介の攻撃の合間を縫って、ウリヨは鬼へと突進する。
聖なる氷雪は鬼の纏う瘴気を凍てつかせ、一時的に防御性能と自動攻撃を劣化させる。
攻撃速度が鈍る最強。生じた隙を二人の剣士が見逃すはずもない。
厄と剛拳による遠近両対応の反撃を掻い潜った瞬間、体勢を戻す刹那の空白の間に繰り出されるのは二つの斬撃。
魔聖剣の切っ先からの炸裂光が大田原の右足の腱を貫き、聖刀の鋭い斬撃が左足の腱を真一文字に切り裂いた。
どちらの傷も再生し始めるが、その速度は先程と比較すると各段に遅くなっている。
完全な転倒の前に巨人は何とか踏み留まるも、明確な行動遅延(ディレイ)が発生する。
主の危機に纏われた厄は対敵3つに対し、自動追尾攻撃を放つ。
だが、歴戦の勇士は既に行動パターンを把握しており、危機を察知すると同時に各々の手段で対処する。
体勢を完全に戻される前、地獄を潜り抜けたのはウリヨ。
倭建命に不覚を取ったように大田原もウリヨの神威を受け、ダメージと共に幾度目かの能力低下(デハブ)を受けた。
立ち向かう三者の中で最も戦闘に貢献しているのは二人の若者ではなく、新たに戦線へと加わった白猪。
佇まいは歴戦の強者を思わせ、彼女自身が圭介と哉太に合わせているようにすら思えてしまう。
このまま状況が続けば何れ刃が赤鬼の首へ届く。二人の剣士は確信する。
そして、次なる一手を打とうとした瞬間ーーー。
「カナタあああああッ!!」
望まぬ救援が訪れる。
「バ…馬鹿野郎ッ!来るんじゃねえアニカァ!!!」
「---ッ!」
鬼との戦闘区域に入る直前、哉太が声を張り上げて闖入者ーー天宝寺アニカの足を止める。
女王から逃げおおせた先。そこには想い人がいた。あらゆる負の感情に支配される中、見出した希望。
普段の聡明さは過酷な状況で剥がれ落ち、今のアニカの精神は年相応の少女のもの。再び失態を繰り返してしまった。
先程の地獄では相性もあり、春姫の助けになることができた。しかし次なる地獄は彼女の特異性など意味を為さない暴虐地獄。
現状を理解すると探偵少女は歯噛みし、後ろに後ずさる。
ほんの数秒にも満たない空白。それが致命的となった。
ーーずるり。
「ーーーーえ?」
アニカの背後で闇が脈動する。異変に気付き、探偵少女は振り返る。
眼前に映るのは身の丈を優に超える暗黒。出現先はアニカの背後ーーいつの間に開いていた黒く淀んだ孔。
突然の出来事に明晰な頭脳は働かず、頼みの異能も意味をなさず。
何一つ理解が及ばぬまま、天宝寺アニカは闇に呑まれた。
「アニ……カ……?」
パートナーの少女から注意を逸らしたのは僅か数秒。ほんの少し、藻を離した瞬間、前兆なく顕れた厄が天才探偵を吞み込んだ。
数時間前、目の前で魔王に串刺しにされた時のように。
十数分前、黒槍にうさぎが射抜かれた時のように。
"守護る。絶対に死なせない。"
その誓いは運命に踏み躙られ、八柳哉太は過ちを繰り返した。
死闘の真っ只中にも関らず、アニカを呑み込んだ闇の孔を見つめ、呆然と立ち尽くす若武者。
「馬鹿野郎ッ!!!突っ立ってる場合かッ!!!」
友の異変に気付いた圭介の怒号が飛ぶ。その声で漸く現実へと引き戻される。
だが時すでに遅し。生じた空白を地獄の門番が見過ごすはずもなくーー。
「■■■■■ーーーーーー!!!」
天を衝く暗黒の咆哮。棒立ちになった少年へと肉薄する赤鬼。
哉太の視界に映るのはスローモーションでこちらに向かう巨人とその背後で魔聖剣を手に疾走する圭介と白猪。
反応しようにも脳の処理速度が追いつかない。咄嗟の回避も聖刀の防御も間に合わずーーー。
「ーーーーガッ!!!!」
赤黒い鉄槌が哉太の内臓を骨ごと砕く。少年の口から血と肉が零れ落ち、胴に食い込んだ剛拳を濡らす。
コンマ一秒地面を離れた後、少年の身体は凄まじい速さで打ち出され、吹き飛んでいく。
◆
「く……畜生……!」
「おや、随分と早いお帰りだね。流石隠山血筋の元祖兼量産型「巣食うもの」のオリジンといったところか」
月影の下で再び対峙する古の巫女と黒の女王。現在、春姫の身体の主導権を握るのは副人格と化したいのり。
史上災厄の呪いを祓うため狩人や退魔師が生み出した対抗策は皮肉にも人類の味方となったいのりを封じ込めた。
しかし、呪いにとして最上位に位置する彼女の完全な除霊には至らず。肉体に入り込みいのりを喰らわんととした呪厄を逆に取り込み、呪縛を解く糧としたのだ。
解呪の中でもいのりは春姫と五感を共有しており、現状も既に把握していた。
女王の非道も。想い人の苦悩も。己の存在が抹消された後の山折村のことも。そしてーー。
(春姫………)
たった数分で未来の可能性全てを断ち切られた、自分を完膚なきまで救い出してくれた威張りん坊のお姫様の絶望も。
『反魂』と『魂縛り』を解いた瞬間、いのりは春姫に断りも入れず強制的に人格交換を行った。
入れ替えを行う瞬間にいのりの魂は春姫とすれ違った。その時、怪異の巫女は異変に気づく。
天照神を彷彿させる煌々と輝きを放つ春姫の気高い魂。その輝きは失われ、黒く塗りつぶされていた。
そして現在。
『肉体変化』を使用して流れ続ける血液と露出した骨肉を変換。切断面を皮膚で覆い、両腕の止血を行う。
しかし腕を再生させるまでには至らない。かつて取り憑いた隻眼のヒグマとは違い、宿主には失われた肉を補充できる余剰栄養素(リソース)は存在しない。
失血も酷く、『肉体変化』と『身体強化』の併用をしなねればそのまま意識が闇へと引き摺り込まれかねない。
だが、絶望的な状況に置かれても尚、いのりの心は折れていない。
『そなたの事情、全て知った。恨み捨てられず、なおそなたが神楽の断罪を望むのなら、我が魂くれてやる』
ーーー光を見た。
呪いあれと憎悪した神楽春姫(ひかり)が誰一人として見向きもしなかった不浄(いのり)の手を取った。
かつての想いを取り戻すことができた。理由はそれだけで十分。
予言だろうと運命のありがたいお導きであろうとも、もう二度と厄災になど堕ちてなるものか。
「べらべらと……随分、楽しそうにご高説を垂れちゃって……。冥土の土産……とでもほざくつもりかしら……?」
「うーん。そんなつもりじゃないんだけどなぁ」
途切れ途切れながらも挑発めいたいのりの言葉をぶつけられ、女王は拗ねた子供のように唇を尖らせる。
この場において既に順位は決定された。俎板の鯉はこちらで数メートル先の少女が板前。
だがあろうことか女王は春姫といのりに興味を示した。春姫には暴虐の限りを尽くす反面、いのりにはいらぬことまで愉しそうに話し出す始末。
女王に何の意図があるのか理解できないが、付け入る隙があるとすれば春姫と入れ替わっている今しかない。
どうにかして活路を見出して女王の魔の手から逃れる。そして『奥の手』を使って春姫をーーー。
「だったら……わたし達以外にも……お前の下らない一人芝居を……聞いてくれる観客がいたの……かしら?」
「お、今の回答はいい線を言ってる。花丸をあげよう」
何気なしに吐いた挑発に「やるぅ」と言い、気分良さげに笑う少女の姿をした精神的異形種。
はぐらかされるか嘲笑われるかのどちらかという予想が外れ、いのりはポカンと口を開く。
呆然とするいのりの顔をにやにやと見下すように笑い、女王は人差し指を立てて上を差した。
「お月様が……見ているなんて……言うつもりかしら……?」
「おや、メルヘンはお嫌い?まあ違うんだけどね。正解は上空でこちらを常に監視しているドローンさ。SSOG製のね。
まあ、外がどうなっているのか分からないけど、私達の会話を盗聴しているのなら事実確認を急いでいるんじゃないかな」
自らの情報を敵である存在に知らしめて何の意味がある。危険性が知れ渡った以上、すぐにでも空襲で山折村諸共焼き尽くされる可能性に考えが至らないのか。
腕なし巫女の疑問を感じ取ったのか、女王は間髪入れずに言葉を紡ぐ。
「『隠山祈』を解き放った目的は生みの親への反意の誇示。それと私考案のZ計画ーー即ち人類救済のためだ。
その第一歩として私の子機をを各地にばら撒くことから始めてみたのだよ」
先程の軽薄な態度から一転。怒りと決意に満ちた黄金の瞳がいのりを射抜く。
彼女が語った人類救済計画は一部であって全貌は掴めていない。だがその一部だけでも杜撰で稚拙であることが素人目でも分かる。
立案した計画を自分ならば本気で成し遂げられると目の前の異形は信じ切っているのだ。
それを為せる力を手に入れるまであと僅か。
「妄執……ね」
「好きに呼べばいいさ。動き始めた時計が止まることなんてないのだから。
さて、雑談はこれくらいにしよう」
女王の演説が終わる。それと同時にいのりの足元から厄が顕現する。
ずるり、ずるりと形を持った淀みが足から這い上がってくる。
最上位の怪異すら支配しきれない暗黒が浸食し始める。
「しばしの別れの前に教えてあげよう。
解き放った59の『隠山祈』には私のエッセンスが仕込んであるが、私が志半ばで倒れたとしてもHE-027-Aは死滅することはない。
それぞれ別の人格を持って行動を起こすだろう。でも彼らに対する絶対命令権は私が持っているからから特に問題はないだろう。
だけど、万が一に私が死んだら計画が頓挫し、人類救済はなされないだろう。
そのために、私を継ぐバックアップを作ることにしたんだ」
「神楽春姫と隠山祈。君達は最悪の的であると同時に最高の素体だ。
特に進化を果たした神楽春姫の異能には目を見張るものがある。それこそ『日野珠』とは比較にならないくらい程にはね。
ではそろそろお暇するとしよう。全てが終わった後ーーーハッピーエンドのその先でまた会おう」
闇が脈動する。黒の空間が蠢き、悍ましき世界に形を変えていく。
地獄に巣食うのは数多の厄。
山折村の歴史の中で生み出された『隠山祈』。
暗黒を掻き分けながら、女は進む。彼女こそが蠢く厄の原点たる怪異、隠山いのり。
彼女が押し込められた牢獄は神楽春姫の天性の肉体。
いのりにも宿主たる春姫にも既に肉体の主導権はない。
爪先から頭まで。細胞一つ一つに至るまで女王の支配下に置かれた厄に侵されしまった。
それでもま原初の巫女は前へ進み続ける。光を得た今、もう二度と堕ちることはない。
掻き分け、掻き分け、進んだ先。そこに彼女を救い出した光があった。
「ーーー春姫ッ!!」
山折の女王ーーー神楽春姫ははただ一人、闇の中でへたり込んでいた。。
彼女に纏わりつく闇を払いのけ、いのりは手を伸ばす。
「春姫ッ!手を取って!わたしが貴女をーーー」
「……………」
差し出した手は取られず、いのりの願いは闇の中で空しく響く。
掻き分けた闇が閉ざされ始める。いのりは両手に力を籠め、形なき厄を無理やりこじ開ける。
手が取られないのならばこっちから掴んでやるまでだ。今度は春姫のすぐ傍に立ち、だらんと下がった彼女の美しい手を取る。
「春姫……ここから出よう。脱出手段はあるから。だから立って」
「…………無理……だ……」
「春……姫……?」
神楽春姫という人間が発したとは思えない、力なくか細い声が木霊する。
握りしめた手には何一つ力が入っておらず、枝垂れ柳のように垂れ下がるばかり。
気遣わし気な表情を浮かべるいのりへと、春姫はゆっくりと顔を上げる。
黒曜石のような瞳は光を失い、浮かぶ表情はかつての面影など見当たらない程弱々しい。
「もう……妾は……立てぬのだ……」
度重なる非道の前に、春姫の心は折れていた。
金剛石を思わせる強靭な精神は粉砕され、欠片すら残っていない。
矜持も大義も想いも何もかも。全てが砕かれた。
愛した穢れ無き山折村が偶像に過ぎず。敬愛した祖先は悪逆の使徒だと知らされた。
今の春姫に残ってるものは、何もない。
静まり返る中、周囲を漂う闇が再び脈打ち、いのりと春姫を喰らわんと覆い始める。
いのりの顔に焦燥が浮かび、春姫に肩を貸して無理やり立たせる。
「まずい……!悪いけど無理やりにでも連れて行くよ!」
「…………」
春姫の反応を待たず、閉ざされ始めた闇を抜けて歩き出す。
二人の視界に広がるのは暗黒。一筋の光明すらない道なき道を行く。
纏わりつく闇を振るいながら、必死に歩き続ける。
いのりが足を動かす中、為すがままにされていた春姫が口を開く。
「もう……妾のことは良い……。そなただけで逃げ延びてくれ……」
「そんな……ことっ……できるわけないでしょう……!私と貴女は一蓮托生……!全てが終わった後、貴女が私を裁くんでしょう……!?」
「最早……妾にはそのような資格などありはせぬ……。妾は、神楽一族は……存在そのものが不浄だったのだ……」
「…………」
暗黒を進む中、消え入りそうな声の独白は続く。
「妾の一族は……屍を築き上げ、その血肉で繁栄を謳歌していたのだ……。
始祖神楽春陽も一族の悪逆に、妾の醜態に嘆いておられよう……。
白兎の言の葉の通り……妾は無知陋劣な畜生に過ぎなかったのだ……。
妾は民を誰一人として導いてはおらぬ……。己が欲のまま血肉を食らう餓鬼畜生と同類ぞ……。
もう良い……。もう良いのだいのり……。妾は女王などではない……。妾が厄に喰らわれている間に逃げおおせれば……」
「ーーーーーーッ!!」
言葉の途中でいのりの肩から春姫がずり落ちる。死人のような春姫の瞳が僅かに見開かれる。
ペタンと腰を抜かす春姫の前には同じくしゃがみ込んだ怒りを滲ませたいのりの潤んだ瞳。
瞬間、春姫の頬に衝撃が走る。頬を張られ、春姫の顔に驚愕の色が浮かぶ。
混乱の最中にいる春姫の様子などお構いなしに胸倉を掴まれ、下手人たるいのりと無理やり顔を突き合わされる。
「ーーーーアンタ、それ以上下らない妄言を吐いたら許さないからね……!!」
「いの……り……?」
「あの糞ったれの女王に封じ込められている間色々事情は聴いたよ!山折村が腐り果ていて、神楽一族も同じくらい腐っているってこともね……!」
「ならばーーー」
「でも!今の神楽が――アンタがそいつらと同類なはずないでしょ!!
確かにアンタは春陽様と同じくらい威張りんぼで、子供みたいに我儘だけど誰より気高く優しかった!!
祟り神と化したわたしに道を指し示してくれたんだよッ!!」
「でも……妾は……」
「それに、私に殺された綺麗な女の子も貴女に希望を見出して託してくれていた!!
私が乗っ取っていた一色洋子も、貴女とお話ししているときはとっても楽しそうだった!!
私を食い殺そうとしていたヒグマも、貴女のお陰で大切なものを取り戻して天国に行った!!
女王に乗っ取られた日野珠だって!貴女は友達と一緒に助けようと足搔いていた!!」
「…………」
いのりの怒号が続く中、春姫は俯いて何も言葉を発さない。
ずるり。暗黒の中、数多の『隠山祈』が二人の巫女を捕捉し、にじり寄ってくる。
「終わりはどうあれ、みんな貴女に導かれたんだ!私も貴女に光を見出したんだ!!
山折村が糞ったれでも!アンタは誇り高く生き続けていたんだよ!!それを投げ捨てるんじゃないわよ!!」
にじり寄った闇が二人を喰らわんと覆い隠す。
その様子にすら気づくことなく、いのりは涙を流しながら春姫へと向き合う。
「アンタが女王じゃないって言うんならわたしが言ってやる!!
何があろうとアンタはあの細菌女なんかとは比べ物になんかならないくらい女王なんだよ!!
山折村を守ってきた、神楽一族の女王!!春陽様と同じくらい最高の王なんだ!!
世界がアンタを否定しても、わたしは一人でも叫び続けてやる!!」
闇が接近し、二人へと降りかかる。
「ーーー女王は神楽春姫ただ一人だけだ!!!」
ーー瞬間、混沌とした暗黒が二人の巫女を呑み込んだ。
蠢き、二人の美姫を咀嚼するように脈動を繰り返す。
数多の『隠山祈』が死肉漁りを待つかのように、スライム状の厄に集まりだす。
そしてーーー。
「ーーー不敬ぞ」
闇夜に響き渡る凛とした声。蠢く闇の動きが一瞬止まる。
同時に辺りを照らすのは内部から溢れ出す光明。
内側から差し込む光が闇に穴を開け、黒一色の空間に光が灯る。
「隠山の地にーーー山折村にも黄昏が来ようとも、神楽一族の血筋が絶えようとも、継がれた意志は決して途絶えぬ」
隙間から光が漏れ、膨れ上がる穢れの塊。
這い寄ってきた混沌は威光に慄き、ずるりと一歩下がる。
「退け、忌まわしき厄災共よ。妾はーーー神楽春姫は女王である!!」
膨れ上がった暗黒が四散し、一帯に光が満ち溢れる。
周囲を取り囲んでいた数多の『隠山祈』は神威の光を受け、塵と化す。
太陽の如く照らすのは、女王ーー神楽春姫。
その目には以前とは比べ物にならぬ程強い意志が宿り、彼女から発せられる魂の輝きはまさしく日の光。
「やっぱり……春陽様の子孫はーーー神楽春姫はそうじゃなくっちゃ……。」
女王の傍らには、始祖神楽春陽の想い人、隠山いのり。目尻に涙を浮かべ、心から嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
彼女の呟きなど知らぬと傲慢な仕草で背を向け、天を見上げる。
「―――逝くぞ、我が王道へ」
「ーーーうんっ」
◆
「馬鹿……野郎……!!」
瘴気蠢く戦場の外れ。圭介は赤鬼への対応を出自不明の白猪に任せ、戦線を一時離脱していた。
その理由は圭介が必死の形相で引き摺って、安全圏へと移動させようとしている彼の友ーー八柳哉太。
哉太の下半身は文字通りプレスされ、ギリギリ原型を留めている悲惨そのものの状態。
哉太の異能は『肉体再生(アンデッド)』。急所さえ無事であれば死ぬことはない、圭介とは真逆の個人で完結した異能。
不幸中の幸いか、心臓と脳は無事なのか、明らかな致命傷なのにも関らず、虫の息ながらも哉太は生きていた。
意識は混濁しているらしく、時折思い出したかのように咳き込んで、口からちと肉片を吐き出す。
(こいつはもう……戦線復帰は無理かもしれねえな。あの一撃は間違いなく一発アウトな奴な気がしたが、死ななかっただけマシか)
圭介の眼下で身を横たえる哉太。潰された内臓は徐々に再生をし始めている。何とか生きている証拠だ。
即死に至らなかった要因は異能の賜物か、それともインパクトの瞬間をギリギリのところで避けようとして失敗したからか。
それとも、食欲に塗れた赤鬼が哉太の再生を目撃し、じっくりと喰らうために手加減でもしたのか。
「……ダメだ。どうしても悪い方へと考えちまう」
軽く頭を振って負の坩堝に陥りそうな頭を何とか落ち着ける。
圭介としても哉太を責める気はさらさらない。
目の前で彼を支えてきた幼い友人が闇に飲み込まれたのだ。
圭介自身も数時間前、誰よりも大切な恋人が目の前で殺された時、哉太と同じく何もできなかった身だ。
「哉太……。悪いけどこれ借りてくぞ」
戦線離脱が決定づけられた友人に断りを、手に握り締められている打刀を無理やり引き剥がしてベルトに差す。
万が一にも魔聖剣が手から離れた時のためのスペア。持ったところで大した意味がないのかもしれないが、ないよりはマシだろう。
向かう先は白猪の大氷雨と瘴気が飛び交う戦場。一人欠いた事で優勢だった戦況が拮抗へと戻り、今以上の苦戦を強いられるだろう。
魔聖剣から溢れ出す魔力を脚力に回した瞬間ーーー。
「クソお邪魔しますッ!!」
「ーーーーッ!!」
ーーーズドン、地を揺るがす音を立て土埃を撒き散らす空からの落とし物。目の前に突如として現れた物体に圭介は警戒し、魔聖剣を手に身構える。
土埃が夜風に吹かれ、闖入者はその正体を露にする。
纏う瘴気は現在戦闘中の赤鬼と同等のもの。動きやすい服を身に纏った小柄な体と手に構えるのは煌々と光を放つ二振りの木刀。
そして、闇夜でも光を失わないその双眸は、女王の証である黄金。彼女の名はーー。
「珠……!」
「さっきぶりだね、圭介兄ぃ♪」
彗星の如く現れたのは日野珠ーー否、彼女の皮を被った女王は義兄となる筈だった少年に人懐っこい笑みを向けた。
圭介を導いた祟り神曰く、女王ウイルスが第二段階になった時点で全て終わり。殺すしかないらしい。
珠の周囲を漂うのは戦鬼が纏うものと同じ禍々しい黒い霧。そしてこちらを愉しげに見やる黄金の輝きを放つ双眸。即ち。
(もう手遅れってことかよ……!)
圭介と春姫は間に合わず、殺す以外選択がないことを意味していた。
自分の無力を噛みしめる。覚悟を決め、家族同然の少女へと剣を向けるがーーー。
『圭介兄ぃ。お姉ちゃんのことをよろしくね』
在りし日の珠の顔が浮かぶ。光と恋人同士になったと報告した時の心から嬉しそうな笑顔が、女王の作り物めいた笑顔と重なる。
光を失い、黒い感情に支配されていた時とは違う。今の圭介は子分を守護るガキ大将であり、切り捨てる覚悟などできる筈もない。
悲痛に顔を歪ませ、剣を構えたまま硬直する。圭介の醜態に珠(じょおう)は穏やかな笑みを浮かべて歩み寄りーー。
「邪魔」
轟、と珠の周囲に暴風が吹き荒れる。剣を構えただけだった圭介は成す術もなく吹き飛ばされ、十数メートル程地面を転がる。
急いで立ち上がり、魔術を行使した珠へと視線を向ける。赤鬼と魔猪の戦闘をバックに女王は一歩一歩と悠々と歩みを進める。
確実に来るであろう攻撃に備え、剣を正眼に構える。しかし、珠の足は途中で止まり、黄金の眼差しは足元を見つめる。
彼女の視線の先にあるのは、異能の力でギリギリ命を繋いでるだけの八柳哉太。
「おや、丁度良い所に無限食材があるじゃないか。我が傀儡の餌に相応しい」
「てめーー」
仲間想いのガキ大将の頭に血が昇る。衝動に突き動かされるまま、魔力ブーストで肉体強化を施し、一直線に女王へと向かう。
狙いは木刀を持つ細腕。珠が重傷を負うのは間違いないが即死はせず、上手く事が運べば無力化できる可能性がある。
憎むべきは女王であり、断じて珠ではない。怒りに我を忘れても尚、次期村長は最善を目指せる可能性に賭けていた。
だが、淡い希望などこの地獄では何一つ救いを齎さず、只食い潰される運命にある。突け入る隙を見逃すほど、女王は甘くない。
光の魔力を帯びた魔剣が振り下ろされる。人体など容易く両断する一刀は女王に届くことなく、右の聖木刀にて阻まれる。
鍔迫り合いはほんの一瞬。魔剣は聖木刀の刀身を滑り、振り下ろされた勢いのまま地面に激突した。
轟音が轟き、生じた衝撃が地面にひび割れを作る。
受け流された大振りの攻撃。地に降ろされた切っ先。無防備になった圭介を女王は見過ごすことはない。
圭介が剣を持ち上げる寸前、側面に二振りの木刀が叩きつけられる。
闇に反響する木と鉄の混合二重奏。
魔聖剣と聖木刀。それぞれの強度と特質は相似。違いを分けるのは担い手。
山折圭介は同世代と比較すると強靭な肉体を持つが、異能は他者に依存し、身体能力も魔力強化がなければ一般の域を出ない。
日野珠は肉体も身体能力も発達途上。しかし、彼女に寄生するHE-028-Zの異能により彼女を構成する全ての要素が限界を超えて上昇している。
担い手の差は歴然。即ちこれから起こる結果も必然。
ーーーガキン
「ーーーなっ……!!?」
魔聖剣が、折れる。
魔力と異能の二重強化がなされた剛腕の一刀が刀剣の急所ーー樋(フラー)に驚異的な力が加わり、両断された。
驚愕と絶望が圭介の心中を満たす。停止した思考を呼び覚ますかのように、女王の木刀が振り上げられる。
「ぐ……ァ……!!」
ーーべきりと枯れ木が折れるような音が木霊する。
伸ばされた圭介の両腕に木刀の重単撃が落ち、前腕に衝撃が走る。
激痛が少年の脳を焼き、思わず手に持った魔聖剣を地面に落としてしまう。
しかし、切断には至ることはない。
「成程。皮膚表面に極薄で高密度の魔力バリアを貼っていたのか。刃が通らない訳だ」
「づ……うぅ……!!」
痛みに呻く圭介を他所に珠の皮を被ったナニカはうんうんと納得したように頷いている。
焦燥が圭介の頭の中を駆け巡るが、肉体は思考と切り離されたかのように動いてくれない。
激痛のあまり座り込む敗者を見下ろす女王の目はどこまでも無機質で冷たい。
「そら、飛んでいけッ」
「ゴッ……!!」
圭介の胴に炸裂する珠の鋭い蹴り。少年は血を吐き出して後方へと場される。
飛ばされた数メートル先。折れた腕で体を起こして何とか立ち上がった。
目に映る光景は必然の結果。
「さあ、ディナーの時間だよ。お遊びを早く終わらせたまえ、我が戦鬼」
珠の小さな手が未だ動けない哉太の襟首に指を食い込ませて掴む。
内臓を露出させ、ぐったりと動かない若武者はかつての妹分の為すがままにされている。
同時に女王の背後でーー赤鬼と白猪の戦場で爆発音が鳴り響く。
宙に打ち上げられたのは白点ーー圭介達と共闘してくれていた白猪。
「やめろ、珠……!!やめてくれ……!!さっさと起きろ、哉太……!!」
「ほーら、御馳走だ。再生するから心臓と頭は食べちゃダメだぞ☆」
圭介の叫びも空しく、半ば肉袋と化した哉太の巨体は赤鬼の方へと放り投げられた。
宙を舞う剣道少年から脇差と淡い光を放つ御守りが地面に落下する。
僅かな沈黙の後、夜闇に響き渡る骨を砕く音、肉を咀嚼する音、血を啜る音……赤鬼の食事の音が鳴り響く。
「くひっ」
月光に照らされる珠の見るも悍ましい笑顔。
手には己が力で調伏した宝聖剣の複製ーー二振りの聖木刀ランファルト。
飢えた鬼(オーク)が下賜された肉を喰らい、咀嚼する。
役者はいくつもかけているが、移る光景は地獄絵図。
それは祟り神の語った圭介の恋人ーー日野光の見た破滅の未来そのもの。
膝から崩れ落ちた圭介の目はどこまでも虚ろ。
ありあまる絶望が両腕の激痛を忘却させ、精神は恐ろしいほどに凪いでいる。
にじり寄り、迫るのは村王を裁く罪深き断罪者。寿命は残り十数メートル。
間もなく圭介は祟り神の語った浅葱碧と同じ末路を辿るだろう。
「…………ごめんな、珠。お前の姉ちゃん、守れなかった」
痛みを忘れ、胸のロケットペンダントを握りしめる。
そしてーーー。
『圭介ッ!!後ろに跳べッ!!!』
不意に聞こえてくる女の張り裂けんばかりの声。
反射的に顔を上げ、声に導かれるまま全力で後ろへ跳ぶ。
「…………?」
突如飛び跳ねた俎板の鯉に女王は怪訝な表情を浮かべた。
今更命が惜しくなったのか?それとも厄に侵した神楽春姫との合流でも目指すつもりか?
圭介の突飛な行動に首を傾げる。だが、その答え合わせは直後に訪れた。
「ぐぎゃあああああああああああああああああああッ!!!」
「んなッ……何だ突然……!?」
女王の顔に初めて驚愕が浮かぶ。
圭介は見ていた。女王の足元に淡い光を放つ魔法陣が現れ、地面から大口を開けた双角の巨龍が翼をはためかせ、天へと飛び立っていく。
女王は大口に呑まれ、龍と共に天高く登っていく。
あまりにも現実離れした光景に圭介はあんぐりと口を開け、激痛も絶望も忘れて固まっていた。
◆
「く……この……!ドラゴンと言い、さっきの畜生共と言い、一体何なんだ……!?」
龍の口の中。女聖木刀と強化された珠の脚力で龍の驚異的な抗菌力による噛砕を防ぎながら、女王は忌々し気に言葉を吐く。
運命視により予知した未来。宿主の覚醒から真実へと到達しうる智者との邂逅、そして浄化装置ランファルトを手にするまでは予定調和であった。
だが、異空間で死せる筈だった賢者(アニカ)は、虚空を掴んだかと思えば光を放ち、まんまと逃げおおせた。
そして、消化試合に過ぎない筈だった怪異との小競り合いも、突如として現れた畜生共のせいで余計な時間を食った。
ーーー現れた獣達には運命の光が見えなかった。
「だったら、力ずくで運命を切り開けばいい……!そうすれば元通りだ……!」
イレギュラーが起ころうとも関係ない。、前の世界線で憎悪に溺れた隠山祈のオリジンを日野光の肉体で取り込んだ時のようにすれば問題ない。
女王発案の人類救済プランを魂に流し込んで存在意義(エゴ)を塗りつぶし、支配下に置いたランファルト。
龍の上顎を防いでいる二振りの聖木刀に魔力が迸る。魔力を解放するその刹那。
女王の視界に映るブラックホールを思わせる龍の呼吸気管。
そこからてちてちと小さな足音を立てて駆けあがってくるのは脇差を加えた白兎。
迫る力なき獣。当然、他の獣達と同じように運命の光は見えない。
蹴とばそうと身をよじって足を動かそうとしても龍の咬筋がそれを許さず、肉体が強化された女王すらすり潰す力が籠められ、動きを封じられる。
訪れる窮鼠ーー否、窮兎の牙に備え、全身に魔力を漲らせる。
兎が飛ぶ。少女の目の前に映る脇差には、紐で括りつけられた二つの金襴袋ーーー女王は知る由もないが、哉太とアニカが持っていた白兎の御守り。
白兎(ボーバルバニー)の牙が迫る。愛しき主を殺された獣の牙が突き立てられる先はーー。
「そこは……ガッ!!」
対物ライフルすら防ぐ皮膚を貫き、刃を通した先は珠の細首ーーー願望義が埋まる場所。
突き立てられた刃ごと白兎を葬り去ろうと魔力を放出する。だが白兎は疎か、刀身に括られた御守りすら揺れない。
御守りが光の粒子と変換され、願望器に吸い取られていく。
「嘘だろ……!?」
願望器が願いを叶えた。
突き立てらえた脇差を伝い、日野珠の肉体から抽出される。
現れたのは白い小さな光球。それは形を変えながら、天へ向かい動き出す。
飛び立つ直前、白兎は器用に身体を動かして脇差を願望器へと放り込む。
輝きを放つ光球。そして再び訪れる身体の異変。身体の中の『何か』が光に呼応する感覚が女王の魂を揺さぶる。
吸い込まれた脇差が、光の粒子に変わり雲散する。それと同時に願望器は夜空へと飛び立った。
「何をしてくれたんだ……!」
女王の幼い顔に明確な怒りが浮かぶ。せめてもの腹いせに蹴とばそうと体制を崩れるのにも構わず足を動かす。
しかし女王の拙い蹴りは空を切る。憎悪を滲ませる女王など見向きもせずに、白兎は口の洞窟を昇って難なく脱出を果たした。
◆
「俺は一体……何を見せられているんだ……?」
口をあんぐりと開けて座り込む圭介。見上げた空には双角の龍が翼をはためかせて雄叫びをあげていた。
VHが発生して以降、あらゆる超常を目の当たりにした圭介でも目の前で起きたイベントには目を丸くせざるを得なかった。
しばらく呆然としていたが、空から突如白い塊が圭介の元へ落ちてくる。
数秒後、固まる圭介の前で見事な着地を披露する白い毛玉。その正体は。
「白……兎……」
『ーーーすまない、君達には苦労を掛けた』
漸く言葉を発した圭介に向かい、白兎はぺこりと頭を下げて謝罪した。
「お、おお……」と何とか返事をした少年に首に時計を掛けた小さな獣の真紅の双眸が彼を見上げる。
『これでしばらく女王は君にも、君の友達にも手出しは出せない筈だ』
「友達……!か、哉太は……!哉太はどうなって……!!」
白兎の発したと思われる言葉で妹分の珠ーーの殻を纏った女王に放り投げられ、今も尚貪られているであろう親友の事が頭に過ぎる。
焦燥に駆られて捲し立てる圭介の瞳を英知と慈愛に満ちた瞳で白兎は見つめる。
『安心してくれ。彼はまだ生きている。それに、私の仲間が必ず助けてくれる』
「仲間……?」
脳裏に過ぎるのは突如現れた牛頭の巨人と魔力を帯びた氷雪を操る白猪。
だが、牛の巨人は腕力で潰され、白猪はつい先ほど鬼が起こした黒の爆発によって死んだはずだ。
疑問を口にしようとした圭介に割り込むように、白兎が言葉を紡ぐ。
『私の仲間はまだいるんだ。それに、彼らはそう易々と殺されるほどやわじゃない』
言葉が終わると同時に、地を蹴る蹄の音と甲高い猿叫、猪らしき雄叫びが轟く。
圭介と白兎の数十メートル先。赤鬼が哉太を一心不乱に食らい続けている場所に現れたのは三頭の獣。
全身血塗れの一角獣とそれに跨る如意棒を構えた赤猿。そして、赤鬼に殺されたはずの白猪。
誰もが皆全身に傷を負い、地球上の生物であれば致命傷となる傷を負っている。
その状態でも尚、地獄の番人へと立ち向かっていく。
「GIIIIAAAAAAAAAAAAAA!!!」
哉太を捕食したことでほんの僅かだけ理性を取り戻したのか。何とか人の言葉らしき轟きを上げ、赤鬼が暴れまわる。
山折村にて、何度目かもわからぬ血風が吹き荒れる。血肉が飛び交い、断末魔とも雄叫びとも取れぬ叫びが轟く。
その最中、赤鬼の手から何かが明後日の方に放り投げられる。それは間違いなくーーー。
「哉太……!」
両腕の激痛など気にせず、友の元へと駆け寄ろうと立ち上がる。
だが、圭介が走り出す前に哉太の元によろよろと歩み寄る一頭の獣ーー遠目からでも分かる、死にかけの羊。
彼(または彼女)は、口で哉太の身体を掴むとそのままよろよろと三頭の獣と赤鬼が死闘を繰り広げる危険地帯から離脱する。
そのまま圭介の近くーーとはいっても数メートル先だがーーまで移動し、哉太に覆いかぶさるように倒れ伏す。
白兎は光の粒子になることはなく死した羊にしばし黙禱を捧げた後、戦場に背を向けて動き出す。
全てを失ったような哀愁漂うその後ろ姿に、圭介はかつての自分を重ねてしまい、思わず声をかける。
「どこに、いくつもりなんだ……?」
『…………厄災(パンドラ)の底に眠る、最後の希望を求めに』
返ってきたのは抽象的過ぎて理解できない言葉。
そのまま力なき白い獣は歩みを進め、数メートル先ーー金髪の少女が吞み込まれた闇が蠢く孔の前で立ち止まる。
飛び込む直前、彼女は圭介の方へと顔を向ける。
『ーーー彼女を……春姫の事を頼んだ』
その言葉を残し、時計兎は淀みの中へと飛び込んでいく。
白兎が視界から消えるタイミングを見計らったかのように、圭介の背後から聞こえる不規則なリズムを刻む土を踏む音と荒い息遣い。
理由が分からない胸騒ぎがする。訳の分からない焦燥に駆られながら、圭介は背後を振り返る。
そこにいたのはかつて犬猿の仲にあったガキ大将の幼馴染。ふてぶてしい態度を隠さぬまま、厳かに悠々と圭介へと向かってくる。
「ーーーーッ!」
言葉を失う。
凛とした雰囲気はそのままだが、歩みは村に蔓延っていたゾンビと変わらない程頼りなく、襲い。
それもその筈。両腕は鋭利な刃物ですっぱりと斬られたように肘から下は失われ、全身はかつての面影が見当たらない程腐り果て、腐臭を放っていた。
見るも無残な状態にあっても尚、彼女の美しい双眸から光が失われることはない。
圭介の眼前で『彼女』は足を止める。
悲痛に顔を歪める圭介を夜空の瞳が見据えた。
「は……春……!?」
「……許せ、不覚を……取った……」
◆
春姫の身体はいのりを伴い、闇の中を浮上していく。頂点ーー脳に到達まであと僅か。
春姫の放つ天照の光は、身体の隅々まで侵した山折の厄ーー『隠山祈』を浄化し、塵芥へと変えていく。
天へと浮上する途中で目に入るのは、木漏れ日のように淡い光が漏れる亀裂。
ここはいのりと女王の戦闘時、聖木刀の斬撃により生まれた傷跡。悪夢の始まりの証。
そこで、再臨した女王は飛翔を止め、傍らの祈りへと向き直る。
「春姫……?」
「……いのり、ここでそなたとはお別れだ。」
「え……?」
唐突に告げられた別れにいのりは驚愕する。
堕ちた己を叱咤し、女王としての矜持を取り戻させた彼女に向き直り、彼女の瞳を見つめる。
ほんの少し前の自分ならば、そのような真似などするはずもなかったであろうな、と僅かに苦笑する。
「ここから先は妾一人で逝く。女王の王道に、同伴は許さぬ」
「そんな……貴女一人じゃどうにも……!それに春姫はいつ死ぬかもわからないくらい重症なんだよ……!わたしがいなくなったら、もしかするとそのまま……!」
「…………」
「大丈夫だよ……!わたしには貴女の身体を元に戻せる奥の手があるから……!それでアナタは元通りになって……!」
「いのり」
「ーーーーッ!」
縋るように喚き散らすいのりの目をじっと見つめる。ほぞを固め、既に自分の辿る末路は悟っている。
頬を張ろうとしたいのりだが、春姫の目を見た途端、振り上げられた腕は力なく降ろされた。
恐らく、春姫の祖先ーー神楽春陽も道を誤った時はこのように諭されたのだろうか。
春姫の覚悟を感じ取り、もう自分では彼女の意志を変えられないと悟り、春姫へと背を向ける。
亀裂の方へと飛び立つ直前、春姫の手がいのりの背に触れる。
「待て、いのり」
「……どうしたの?」
唐突の『待った』に振り返り、怪訝な表情を浮かべて春姫を見やる。
山折の女王は穏やかな顔で原初の巫女を見つめ返す。
一呼吸置いた後、春姫の手に光が集まる。そして集った光は春姫の手からいのりの身体に流れ込んでいく。
いのりに変化が起こる。怪異そのものとして機能していた仮初の身体が別の何かに変わっていく感覚が伝わる。
それはとても心地よく、温かい。
「これは……?」
「……餞別だ。これより汝は妾と同じく、死地へと向かうのであろう」
「……うん」
「……沙汰を言い渡す。隠山いのりよ、汝は己が命を以って妾のーー神楽春姫の友を救え」
「ーーーうん」
裁定を終えた後、今度こそいのりは光が差し込む方へと向かっていく。
春姫の身体を脱出する直前、原初の巫女は最後の女王へと向き直る。
「ーーー私を見つけてくれてありがとう!貴女は春陽と同じくらいカッコいい人だったよ!」
いのりと別れ、春姫は一人、天へと昇っていく。
思い浮かぶのは山折の地で生きた19年の人生。
"春ちゃん。友達を大事にしなよ。一生の宝だ。"
遠い昔に聞いたような、力強い声が過ぎる。
かつては女王はただ一人。王道を共にするものはなしと豪語していた。
それは過ちであった。傍には必ず誰かがいて、春姫を見守り、支えてくれていた。
全ては手遅れになってしまったけど、最期にそれに気づけて本当に良かった。
『ーー待ってくれ』
身体の支配権を取り戻すまであと僅かというところで聞こえてくる厳かな女の声。
浮上を止め、声の方へと顔を向ける。そこに佇んでいたのは白兎。己の傲慢と無知を見抜き、沙汰を下した張本人。
春姫と白兎。漆黒と真紅が交差する。
白兎の目を見れば分かる。白き神獣が再び自分の元に現れたのは春姫を裁くためではない。彼女は間違いなくーー。
『ーーーすまなかった』
「なぜ頭を下げる」
『君に貸した力ーーー因果歪曲の力を取り上げたせいで君の身体と魂が女王に蹂躙されてしまった』
「……構わぬ。それは妾が汝の言う通り無知陋劣な愚物であっただけの話よ。
それに、汝の力添えがあったところで、結果は変わらぬ。寧ろ女王はその力を簒奪し、更に力を蓄えることになっていたであろう」
それは女王の力を身をもって知った春姫だからこそ分かる歴然たる事実。
死を遍く愚かな女王は泥船に乗った女王を闇底へと叩き落とし、その事実を突きつけた。
『山折の地は己が罪への贖いに露と消えるであろう。されど想いは継がれていく』
女王の王道は袋小路で途絶え、朝を迎えることなく消えてゆく。されど必ず夜明けは来る。
曙を迎えた者が原初の想いを継いで、命を繋げていく。
言葉を終えた後、最期の女王は天へと浮上していく。
神の御子たる白き獣も浮上し、女王とすれ違う。
決して交差することのない道。その最中ですれ違っただけの仲。
しかし、胸に抱く想いに何の違いがあろうか。
『さよなら、女王。どうか君の王道に安らぎあれ』
「さらばだ、神獣。汝の旅の行く末に幸あれ」
◆
村王と女王。山折村の救済を目指した二人は互いに大敗を喫し、逃げおおせた先で再会を果たす。
圭介は両腕を折られ、頼みの綱の魔聖剣は聖木刀によって砕かれた。
春姫は聖木刀委より両腕を断ち切られ、厄により全身が汚染され続けている。
圭介は精神が死にかけ、春姫は身体が死にかけている。
「春……」
「そう情けない顔をするな……。汝は皆を支える「リーダー」なのであろう……?」
傲岸不遜な春姫の口から発せられたとは思えない弱々しい言葉が圭介の死にかけの精神を揺さぶる。
別れたのはたった十数分前。その間に何が変わったのか。こんな、慈愛に満ちた顔をする人間ではなかった筈だ。
ふ、と腐れ縁の幼馴染は圭介に笑い掛ける。
「頼みがある」
「……何でも、言ってくれ」
「そなたの腰に添えてある刀で、妾の心臓を突いてくれ」
「なっ……!」
余りの衝撃に言葉を失う。VHで圭介はたくさんの物を失った。
それは故郷であり、友であり、家族であり、恋人でもある。そして再び大切なものを失おうとしている。
「女王は妾の異能と肉体を奪おうとしておる。妾の身体で、友が殺されるのには耐えられん。
両腕を負傷した汝には酷であるだろうが……頼む」
「でも……」
「頼む」
子供を諭すような春姫の瞳。弟を見る様な目で見つめられ、圭介は言葉を詰まらせた。
迷っている時間はない。先程の珠ーー女王との戦闘でそれを思い知らされた。
腕に走る激痛を堪えながら、腰から哉太の打刀を抜く。
切っ先を春姫の胸に向ける。手が震えるのは激痛のためか、それとも圭介の心が拒絶しているためなのか。
そしてーー。
「ーーーッ!」
「か……ふっ……」
鮮血が刃を伝う。徐々に腐れ縁の幼馴染から力が抜けていく。
春姫の最期に、いがみ合っていた幼馴染の末路に、圭介は目を逸らさない。逸らすことなど、許されない。
ーーーカッ。
異変が起こる。春姫の身体が光を放ち、心臓から零れ落ちた血が、打刀に浸透していく。
瞬く間に打刀の刃は輝くような深紅に染まる。霊感も魔力もない圭介でも、刀に力が宿っていくのが分かる。
覚醒した『全ての始祖たる巫女(オリジン・メイデン)』により目覚めた力の発現。
それは己の生命力を物体に宿す秘伝。犬山はすみが得ていた異能『生命転換/神聖付与』の未来の姿。
厄に対する絶対兵器ーー聖刀神楽、生誕。
命が尽きていく最中、圭介を見つめる春姫の口が開かれる。
「………圭介」
「…………」
「そなたと過ごした日々、悪いものではなかったぞ」
花の咲くような、愛らしい少女の笑顔。神楽春姫には似つかわしくない、優しい微笑み。
最初で最後、初めて圭介の名を呼んだ。
黒曜石の光沢が完全に消える。胸に刃が突き立った身体は、村王の方へと枝垂れかかってくる。
山折村の女王、此処に眠る。
◆
最終更新:2024年06月08日 21:44