2006.4-6
2006.6.25 濱野好枝師
「聖化の神」
良いことをして捕らえられその場所からピリピの人々へ送った手紙です。パウロとシラスが牢屋から助け出されたと使徒の働きにありますが、その場所がピリピです。ピリピ人の大きな点は、喜びです。喜ぶ前に大変なことがあると1章の12節から書いてあります。
この投獄されたことが、なおも神さまの働きが進められるとパウロは受け止めました。このパウロのように、悪いことは、チャンスで神さまがもっと素晴らしいことをしてくださると受け取りたいものです。
聖霊がくだった当時のエルサレム教会で神さまの働きが進められました。パウロは、「イエスさまは復活させてくださる神さまだ」と確信が与えられ、その確信により、益々大胆に語れるようになっていきました。パウロが投獄されたとき、さらに痛みがありました。それは、競争や党派心から神さまを伝えている人の存在を知ったことです。
それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。 ピリピ1:20
困難の中で、その困難さが見えるのではなく、イエスキリストが見えてくることが大切です。生きることはキリストです!死ぬことも益です!と、全生涯をささげて、証しし、神さまを褒め称えることが大事です。
2006.6.18 濱野好邦師
「天国への道」
心から礼拝できるときはどのようなときでしょうか。イエスキリストがどのような方か心で理解できたとき、私達は心から喜べるようになります。反対に礼拝する喜びを失うときはイエスさまが誰だか分からなくなってしまったとき。その様なときは私達の心は暗く閉ざされています。
イエスさまの奇蹟を見たとき、「水をぶどう酒に造り替えたイエスさまは私の人生も造り替えてくれるに違いない」その様に思えたら、私達の心には光があり、幸せを感じます。
ヨハネの福音書を読むと、イエスさまがどのような方なのか、よく分かります。
今日の箇所は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」とあります。
ギリシャ語を翻訳しているため理解することが少しむずかしいと感じるでしょう。強調することばを名詞で表すヨーロッパ、強調することばを副詞で表す日本。というように、ヨーロッパと日本では表現の仕方が違います。日本では感情を込めて強く表現するときに形容詞や副詞を使います。ヨーロッパでは特別に強調することばを名詞で言い切ってしまうんです。この箇所を、”日本語風”にすると、「わたしを信じることによって、あなた方は天国への喜びを味わえるようになるのです」
ヨハネ14:1~
なぜ心を騒がせているかというと、イエスさまがもうすぐいなくなることを弟子たちは聞いていたからです。イエスさまがいなくなってからの不安があります。イエスさまはそんな弟子たちに、語りました。同じように、今、イエスさまはあなたの心の状態を見て、語っていてくださってます。
次ぎに「わたしがいなくなるということは、天国であなた方の住む場所を準備するためです」とイエスさまは弟子たちに説明しました。「わたしはあなた方といつも一緒にいたいんです。愛しているんです。準備が出来たら必ず迎えにきます。」
わたしが道であり、真理であり、いのちなのです
イエスキリストを神さまとして信じる以外に、天国へ行く方法はない。イエスキリストを信じると言うことは、天国へ行くことと同じ事です。天国では心の中に平安があります。私達は天国がどこにあるのかどこに道があるのか分かりません。しかし、天国には神さまの平安、すばらしさがあることは知っています。
2006.6.11 浜野好枝師
「神さまは手品師」
先週はペンテコステでした。ペンテコステとは、聖霊が注がれて教会が出来た日です。聖霊様は見えない神さまを教えてくれます。そして、今も変わらず働いておられます。
使徒2:22~32は、ペテロの説教です。ペテロは、エルサレム教会の指導者になりました。イエスさまによって神さまが行われた奇蹟について話し、どうやってイエスさまが十字架に着いたのかを話しています。
ペテロはどのような弟子だったでしょうか。マルコ14:29「たとい全部の者がつまずいても、わたしはつまずきません。」イエスさまが十字架につく前、ペテロはこの様に言います。これが聖霊を受ける前のペテロの姿です。また、マタイ16:22「そんなことが、あなたに起こるはずがありません。」と、神さまのご計画を無視したような言葉を言います。
そんなペテロから比べると、この説教は本当に様変わりしています。何がこんなにペテロを変えたのでしょうか。イエスキリストを本当に心に受け入れたからです。そして、ペテロのうちで聖霊様が働いているので、大胆に証しすることができたのです。
1コリント12:3「聖霊によるのでなければ、だれも”イエスは主です。”と言うことは出来ません。」
神さまがペテロをこの様に変えたのです。
ペテロを変えたこの聖霊様が今、私たち一人ひとりの中で働かれます。ペテロを変えたように私たちを変えることが出来ます。「神はこのイエスをよみがえらせました。私達はそのことの証人です。」と証ししていくことが出来ます。
聖霊をいただいていることを信じますか?
あなたの主は誰ですか?
2006.6.4 浜野好邦師
「聖霊降臨」
今日はペンテコステです。1がモノ、2がジ、3がトリ、4がテトラ、5がペンタという。だから、五旬節はペンタ→ペンテコステと言います。
使徒の働きには、炎の様な分かれた舌が現れたとあります。火として、聖霊がくだったときに、弟子たちは色々な国の言葉を話し出しました。これは、創世記に書かれているバベルの塔を思い出させます。神さまは神さまを抜きにして人間が何かをすることをお嫌いになります。だから、バベルの塔を作ろうとしたとき、言葉が通じないようにしました。その日以来一つの民族に一つの言葉、という状況が今日まで続いている。乱されてしまった民族同士の言葉が、この聖霊がくだったときまた話せるようになりました。言葉は宝です。その言葉をかみさまはでした地に与えました。言葉が通じるようになると相手が何を考えているか分かり、自分が何を伝えたいか分かる、そして気持ちが通じ合い、一致していくことが出来ます。言葉と言葉で語り合い、言葉によって、打ち明けあい、理解し合うことが出来るようになる。そこに、聖霊様がくだった大きなポイントがあります。
戦前、日本の新宿でこの現象が起こりました。柏木という聖書学院で、リーダーが不在であるために修養生だけで集まって祈っていました。ある修養生が、神さまの力を信じずに薬瓶を持って献身しました、あなたの力を信じていなかったことを悔い改めます、と悔い改めの祈りをしました。その悔い改めの祈りから始まり、お祈りが進められていくうちに、大地震のような衝撃が起こりました。昭和5年です。その後修養生は朝鮮へ行きました。朝鮮語がしゃべれない彼は、朝鮮の山で1ヶ月間祈ったあと、山から下りて村の人に話しかけました。「私は日本からきた・・イエスさまを信じてください・・」と日本語でしゃべっているつもりが、口から出る言葉は朝鮮語でした。
私達はイエスさまの愛、救いを伝えるために、言葉を使うことが出来ます。私達が心を通わせあい、一つになり、互いに愛し合うことが出来るようになるために、聖霊様はお降りになったのです。イエスさまが死んで50日目にこのことが起こりました。
聖書の中にこれと同じ現象が列王記の18章にあります。
信仰を失ってしまったイスラエル人のために、エリヤは働きました。「私に答えてください・・あなたが神であることをイスラエル人が知ることが出来るようにしてください」と祈った。すると、38節「主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。」
今までのすべての話しには共通性があります。
聖霊がくだると。自分の気持ちをイエスさまに伝え、イエスさまの思いを受け取ることができます。すると、家族や友達に言葉で気持ちを伝え、相手の気持ちを受け止めることが出来るようになります。それが神さまの力です。
「主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。」
祈り抜いて、神さまの力に満たされましょう。
2006.5.28 山岸寛之師
「神の栄光を現す」
神の栄光を現すとはどんなことでしょうか。例えば、「道のごみを拾う」、「おばあちゃんを助ける」ことは良いことです。しかし、どんな動機で行うかが問題です。神様のために、主のためにしているかどうかです。今、私たちは、イエス様が言っていることをイエス様のために速やかに行動できるでしょうか。
できないのは自分を守るためです。たとえば、体を大事にしたい、痛い思いをしたくないなどの思いからです。
Ⅰコリント6:19
「あなたがたのからだは・・もはや自分自身のものではないことを知らないのですか。」
自分自身のものではないのです。この体で勝手なことをするのは泥棒と同じです。自分の体でないのに自分の好きなようにしているとき、泥棒です。この体は神のものです。今朝、賛美で♪みなささげまつりわがものはなし♪と賛美しました。私たちはこの体を借りているのです。ただで借りています。
神様の栄光を表すためには、借りているからだの使い方を良く知る必要があります。自分の体を使いこなすために、自分の感情を知る必要がある。自分のことをよく考える、人に指摘してもらう、聖霊様に見出していただくことで、自分のことを熟知することができます。また、色々な場に身をおくと自分の長所と短所が見え、特質が分かります。そして、分かった自分の姿を神様に話せばいいのです。すると、神様は練り直してくれます。自分が行きたくない場所へも導かれます。そうなると、わがままを言っていられなくなります。
感情を自分の意思で支配できるように変えられる、人前に出て証しできるほどの姿に変えられる、そのためには鍛錬されることが必要です。
私たちの武器は愛です。愛します、その態度が神様の栄光です。感情、意思、欲望、自我、それらを知り尽くして、心を良く知り、神様と会話をし、傷を癒してもらい、神様に満たされ、神さま漬けになると自然と栄光を表せます。
ローマ8:26,27
「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」
御霊がとりなしてくれているいつでも何してるときも常に祈っていてくれています。
自分を使いこなし、神の栄光をあらわしていきましょう。
2006年5月21日 中上勝雄師
「リフォームのプロ」
天の神ご自身が、私たちを成功させてくださる。だから、そのしもべである私たちは、再建にとりかかっているのだ。ネヘミヤ2:20
私の実家は、先日リフォームし、とてもきれいになりました。父には家にこだわりがあり、リフォームが大好きです。
使っていたものは古くなる、だめになります。古くなったものをまったく新しいものに変える、のではなく、もう一度、やり直すということはとても根気の要るものです。
私は絵画が苦手です。小学生のときも、失敗することが多くありました。失敗すると新しい紙が欲しくなります。先生に同じ紙に続きでやり直したらと勧められましたが、どうしてもできませんでした。
また、こういう方がいます。2,3ヶ月で転職し、その転職を何回も、何十回も繰り返しています。一度嫌なことがあったり、ミスをしたら、やり直さないということがあるからかもしれません。
人間関係でも同じようなことがあります。離婚率が高くなっていますが、大きな問題や失望があってから、再建していくことができないことが原因にあるのかもしれません。
昔は根気があって、修理してやり直すことをしていました。テレビにしても扇風機にしても、修理してからやり直していましたし、人間関係においても、一度だめになってもやり直すということが当たり前でした。
本当は真っ白にして、リセットして新しくはじめたい。しかし、聖書ではいっています。クリスチャンとはいったい何者か。聖書の信仰とは何か。聖書の信仰を一言で言うと、「一度だめになったものを再び良いものへと作り変えていくこと」です。そして、クリスチャンとは「やり直しの天才、リフォームの天才」です。だめになったっていいのです。やり直せるかどうか、やり直しをスタートできるかどうかにかかっている。
今日の聖書箇所、ネヘミヤ記では、国を再興することが難しくなったときに、やがて、ペルシャ帝国に取って代わられる。一度自業自得で落ちていってしまったがチャンスが与えられたと喜んだが、回りの民族からは馬鹿にされ略奪されまだまだ問題は多かった。半ばあきらめかけている人もいました。同化されて吸収されていってしまう人もいました。しかし、ネヘミヤという人物は、ペルシャの王の高官として仕え、王様から厚い信頼を得ていた。申し分ない地位にいたネヘミヤでしたが、「再建しよう、やり直そう」「神がおられれば再建できる、神様の力でやり直せる」という気持ちで、妨害にもめげずに、街を再建しやり直すことに成功しました。神様がやり直させてくださったのです。
>「今はだめになってしまったけど、でも、もう一度やり直してみよう。神様がおられれば、きっと、やり直せるはずだ。」と、神様がともにおられることを信じ、どんなことでもあきらめずにやり直していきましょう。
06.5.14濱野好枝師
「ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。『私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。』そこで神は彼の願ったことをかなえられた。」Ⅰ歴代誌4:10
こんなことを祈っていいのだろうかと思いつつ、意を決して毎日祈りの1番目に祈り始めました。祈り始めてどの位日数が経ったか分かりませんが、私に現実のものとして返ってきました。
①祝福されました。・・・神の愛がイエス・キリストを通して、波が押し寄せて来るように感じられるようになりました。
②地境が広がりました。・・・遠いところから、知らないクリスチャンの方から電話や手紙があったり、私の信仰のきっかけになった高校の同級生から便りがあったりしました。
③苦しむことのないようにしてくださいました。・・嫌だと思ったり、感じたりすることがほとんどなくなりました。真実な神様がみことば通りにして下さっておられることを思い、感謝に溢れています。
この様なことがありました。私は大きな声が苦手でした。今まで主人の大きな声に心がふるえるぐらい”びびって”ました。しかし、この祈りをするようになってから不思議にその声が通りすぎるようになりました。先日は、「落ち着いてね」と肩に手を置いて言うことが出来ました。すると、主人もにっこりしました。
わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。 Ⅰコリント15:58(新共同訳)
私たちは目の前に輝いているものがあるとこっちにあっちに動かされやすいものです。無駄にならない。神様のためにやったことが全部プラスになります。目標は神の国であることをしっかり置いて、その道を着実に進むことが大事です。
この世の快楽に目もくれずに、はかないものだとモーセは計算しました。選び取って、出エジプトを完工しました。あらゆるものを捨ててイスラエルの民と一緒に苦しむことを選んびました。その選び取った道には、苦難だってあるけれども、素晴らしいものを与えてくださり、決して無駄なことはないと約束して下さっている主がともにいます。
宝の素晴らしさを覚えながら、主への奉仕に励みましょう。
06.5.7 濱野好邦師
[復活]
聖書箇所:エゼキエル37:1-10
ヨハネ11:25
イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」
>ヨハネの福音書
>七つの奇跡とイエスさま
>1カナの婚礼,水をぶどう酒に造り替える 2:1-11
>2カナの役人の子,死にかかっていた少年を癒す 4:46-54
>3ベテスダの池,38年の病人を癒す 5:1-9a
>4ガリラヤ湖畔,5000人以上にパンを給食する 6:1-14
>5ガリラヤ湖,水上を歩行する 6:16-21
>6シロアムの池,生まれつきの盲人を癒す 9:1-12
>7ベタニヤ村,ラザロを生き返らせる 11:38-44
>イエスさまの七つの自己紹介
>1わたしはいのちのパンです。 6:48
>2わたしは世の光です。 8:12
>3わたしは羊の門です。 10:8
>4わたしは良い牧者です。 10:11
>5わたしはよみがえりです。 5:25
>6わたしが道・真理・いのちなのです。 14:6
>7わたしはぶどうの木 15:1
自己紹介が一つではないということで、混乱することがあるかもしれません。イエス様には、名前が沢山あります。時に、とてもややこしいと感じます。しかし、私たちの心の中に喜びと希望を持つことができるときは、「イエス様がどういう人だか分かったとき」です。イエス様を信じている人でも、信じていない人でも、イエス様がどういう人だか分からなくなったときは心の中がごちゃごちゃになります。神様が分かっただけで、私たちの心はすっきりする。イエス様は御自分がどういう方なのか私たちに知らせたいと思っておられます。
死んだ人間が生き返ること、そして、再び死なないことが、「復活」です。イエスキリストは「わたしがよみがえりです」といっておられます。死んでも生きる永遠の命というものを知ったとき、ぜひもらいたいと思う人は沢山いるでしょう。
このみ言葉が現実にエルサレムで起きました。ローマ軍によって粉砕されたエルサレムが復活したのです。
エゼキエル
息、風、聖霊は、すべて同じ言葉です。ここにエゼキエルという人がイエスキリストが生まれる500~600年前に予言した言葉が書かれているわけです。イエス様は十字架にかかり三日目によみがえります。「これらの骨は生き返るだろうか」、しかし、神様はそれを必ず成し遂げるということがここに書いてあります。「その中に息はなかった」、エルサレムが再建されても息がないということ。現在イスラエルは再建されているが、その魂は死んだままの状態にあります。ついに神様の号令が下りユダヤ人たちに聖霊が吹き込まれると、完全に救われます。完全に復活する日は必ず来ます。
このことと私たちがどういう関係があるでしょうか。イスラエルが復活してきたように、私たちも復活できます。イエス様と一緒に永遠に生きることができます。大きな力、天からの力が与えられます。罪に打ち勝ちながら生活し、喜びと希望が与えられます。もし、上からの力がないと、いいことがあれば喜べるけど悪い事があるとつまらなくなって「死にたいな」などと思ってしまいます。復活の希望により、生きる意欲を持ち続けていくことができる。
私の祖父が死んだとき、私は10歳でした。その10年後の20歳のときある夢を見ました。
ベットの上にネクタイがあります。「おじいさんのベットだ」と死んだおじいさんを思い出しました。おじいさんのネクタイがだんだんおじいさんの骨になっていきました。そして骨に肉がつき、皮膚がつき、スーツを着て、起き上がりました。「おじいさん目が覚めたの?起きるの?」と聞くとおじいさんが消えてしまいます。
そういう夢を見た、その二年後教会に行きました。そこへ初めて行ったときに、このエゼキエルのはなしを聞いた、始めて教会へ行ったとき、2年前に見た夢に非常に良く似た文章が読まれたのです。それから、教会に行くようになった私ですが、心にアップダウンがあるのです。感情に大きな起伏があり自分で自分の心をコントロールすることができませんでした。良いときは喜ぶけど、悪いときは仏頂面になるという感じでした。しかし、ヨハネ3:16を読み、確かに自分もそうなると信じたその日から、アップダウンがなくなりました。特に神様に対する気持ち、自分が天国にいけるかどうかという迷いが全然なくなりました。
>復活の力をよく覚え、信じて受け止めて毎日の生活を歩ませていただきたいと思います。
06.4.30 浜野好邦師
よい牧者であるキリスト
>「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」ヨハネ10:11
色々な羊飼いがいる中でよい牧者だといっておられます。悪い羊飼いはオオカミが来ても羊を守りません。でもよい羊飼いのイエス様は「羊を守るために自分が死にます。」と言っています。
私たちは羊のようなものです。
① 羊は、目が見えなません。近眼です。えさがあるところ、水があるところまで自分で行くことができません。
→私たちも、どうしても見えなければならないものを見ることができません。神様を見ることができません。神の国が見えません。未来が見えません。
(羊は賢い動物です。自分でできないことをしっかり羊飼いに世話をしてもらいます。しかし、人間は神様なんか要らないと神様の助けを拒んでいます。)
② 羊は、道を歩きません。どこが道だか分かりません。危険なほうへ、危険なほうへと進んでしまいます。
→私たちも、「やっちゃだめよ」ということばかりしたくなります。
③ 羊は、単純で真似をします。
→私たちも、人の真似をすることがよくあります。流行を追います。
>「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」Ⅰペテロ2:25
私たちは、幸せな生き方に迷います。心穏やかに生きていく行き方に迷います。心の中に安らぎを持って生きていく行き方を失ってしまいます。それらが、「さまよう」ということです。人との付き合い方を忘れてしまいます。そのような、さまよっている私たちを、イエス様は、神様のところに連れ戻してくれました。呼んでくれました。イエス様によって神様がいることが分かりました。イエス様が私の羊飼いだということが分かりました。
イエス様が何をしてくれるか
詩篇23:1-6
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油を注いでくださいます。
イエス様は、私たちを満足させてくださいます。愛で満たしてくれます。私たちの渇きをいやしてくれます。リフレッシュさせてくれます。新鮮にさせてくださいます。元気をくれます。
そして、神様を喜ばせるような生き方をさせてくださいます。直接イエス様から養われて信仰生活ができるようになっていけたらいいですね。**06.4.23 山岸寛之師
「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」使徒11:1
ここで、国を再興したいと思っている民衆に対して、「わたしの証人となりなさい」とイエスさまは語っておられます。「国、国家を再興する前に、わたしを証しする人になりなさい」ということです。
証人になるとは、証明するということ。つまり、自分自身が聖書のみ言葉の証明になるということです。
自分自身を周りの人にそのまま見てもらうときに「イエスさまみたいだな~」と思われる、それが証明です。そうするためには、自分自身の頑張りだけではどうにもなりません。だから、聖霊様がおられるのです。
「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき・・・」
なぜ証人にならなければならないのでしょうか。それは、聖書によく記されています。
イェスさまが生まれる前、だれが生まれたでしょうか。バプテスマのヨハネです。ヨハネは主の道を備えるためにきたのです。
イエス様が突然きたらびっくりする、そんな民衆の心を耕すため、ヨハネは働きました。イエス様がきても大丈夫なように多くの人の心を耕したのです。その多くの人はイエス様が来られた後、イエス様に従っていきました。
私たちもヨハネのように道を備えなければなりません。
2ペテロ3:12
イエス様は天の御国でわたしたちの家を作っています。なぜまだ来ないのか、それは私たちが道備えをできていないからです。
イエス様は待っています。
強い気持ちで待っています。
私達は主の道ぞなえをしていきましょう!
浜野好邦師
ロマの信徒への手紙10章1節~13節
1)熱心さと正しい認識
ユダヤ人の宗教的熱心さについてはパウロはしっかり認識していました。というのも、彼自身がそういう世界に生きていたからです。しかし、彼はその熱心さの問題の深刻さを自覚しています。熱心そのものは悪いことではありません。ただ、その熱心が正しい聖書の教理理解と結びついていないのです。これは不思議なことですが、多くの新興宗教に関わっている人たちの特徴のひとつは「熱心さ」にあります。きっと、どこかで「熱心にがんばらなければ救いは手に入れることはできない」という脅迫めいた考え方があってそれに追いまくられているのかもしれません。
いずれにしても、パウロはユダヤ人たちの熱心さを評価しますが、それが聖書の教理、教えと一致していないことを知っているので深刻な警告の言葉を発しています。彼らも神様は彼らの熱心さを評価してくれるのではないか、それによって救いのための得点を稼ぐことができると考えていたのかもしれません。
2)キリストこそ(4節)
自分の力で律法を完全に守り抜いて救いを獲得することができませんので、誰かが律法の要求を満たしてくれないと私たちは神様からの怒りや裁きに会うことになります。そこでイエスキリストが私に代わって、律法の要求を満たしてくれたのです。つまり、私たちの不足分を補い、律法違反の刑罰を自ら引き受けてくださったのです。イエス様が来てくださったことで、律法からの重圧が私の肩から去りました。
(6節7節)
誰が神様の所に行って罪の赦しの交渉をしてくださるのだろうと悩む必要はありません。イエス様がすでにそれを実行してくださったからです。
また、誰が罪の裁きのために、地獄に落ちてくれるのだろうと悩む必要はありません。すでにイエス様がそこに行ってくださったのですから。それらのことで悩み、それらのことで、誰が救いを届けてくれるのだろうと思い煩うことはイエス様の十字架と復活を無駄にすることになるのだとパウロは言います。すでにイエス様が救いのすべてのことを実行してくださったのです。信頼すればよいのです。
3)御言葉による信仰の告白による(8節~13節)
とはいえ、何をどのように信じたらよいのでしょう?
パウロは、福音は決して遠いかなたにあるのではない、手の届くところ、いいえ、あなたの心にさえ届いているのだと力説します。御言葉を聞いて、イエス様の十字架と復活が説明され、それが自分の出来事として心に留まるなら、それを信頼すればそれで、救いが届くのです。
すでに過去の出来事として歴史の中で起こされたことの意味を確認し、信頼するためには、聖書の言葉による裏づけと意味づけをはっきり理解することが必要です。聖書の言葉が教えていることを土台に、信頼するのです。
聖書の教えていることがどうして真理だとわかるのかという問題については、聖霊が心の中にしっかりとそのことをうなずかせてくださるのです。もちろん、一通りの知的理解と納得は必要ですが、単なる理性的納得ということよりむしろ、聖霊によって、心の内側からの信頼ができるようになるのだとパウロは教えているのです。心で信じる、口で告白するという作業は、自分の内側も外側も、このことについてうなずき、信頼していますという信仰表明なのです。その内容は、イエス様についてのことです。
(10:9)
イエス様こそ、私の主です。父なる神様が私を愛してくださって、御子イエス様の十字架と復活の出来事によって私を救ってくださった。神様は死んでいた者に命をもたらすことができるお方だと信じるならそれで十分なのです。それがすべての出発です。
ユダヤ人はの多くは、それを拒否したのです。わたしたちは、どうでしょう?
宗教的熱心さはとても大切な要素ですが、熱心は人を救いません。救ってくださるのはイエスキリストだけなのです。
そして、その福音は決して遠くにあるのではなく、手の届くところにすでに届けられています。
ヨハネによる福音書3章16-17節の言葉で
メッセージを閉じたいと思
います。
3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 アーメン。
2006.4.9 中上勝雄師
マタイ26:69-27:5
主な登場人物は、
① イエス様
② イエス様を憎んでいる人たち
③ イエス様の弟子
③のイエス様の弟子のなかで、対照的な二人がいます。ペテロとユダです。ペテロは後に、偉大な指導者となっていきますが、反対に、ユダはのろわれた人間として忌み嫌われる存在になります。
対照的な二人ですが、実際歩んできた人生はさほど変わりません。二人とも、イエス様の弟子で忠実に歩んできました。そして、裏切りました。
ペテロ
イエス様が十字架にかかる前の夜、絶対の忠誠をイエス様に誓います。しかし、イエス様が捕らえられる時、イエスを見捨てて逃げてしまいました。さらに、イエスを知らないと3度言います。
そして、その後彼はどうしたか、、、イエス様の言葉を思い出し、激しく泣きました。そのあと、何もしなかった、何もできませんでした。自分の罪をよく分かっていたのです。言い訳もしない、正当化もしない、自分が神様の前に罪深くおろかな人間だということが分かったのです。ただ認めて泣くだけでした。その後、自分もかかるはずだった十字架を見つめながら、やはり何もできませんでした。
ユダ
お金でイエス様を売る、裏切る約束を祭司長とします。そして、イエス様を引き渡す手引きをします。神様の前に大罪を犯します。
その後の彼はどうしたか、、、ペテロ同様、自分が罪深い人間であることを認めました。しかし、ペテロとは違いました。首をつって自殺をしました。なぜでしょうか?罪の責任を自分で取ったのです。自分の罪をどう責任を取ればいいか考え、ユダは行動に出ました。ユダは、十字架にかかるイエス様を見ずに死んでいきました。
神様は、この二人のどちらを喜ばれるでしょうか。ペテロです。信仰とは何かをすることではない、ということです。神様の前に何もできない、そこに救いがあるのです。
「自分の罪の責任をあなたが負ってはいけない。
もう償わなくていい。
このイエスキリストの十字架を見なさい。
あなたはもう破産宣告しなさい。
あなたの代わりに責任を負うからあなたは生きなさい。」
こう、イエス様は語っていてくれるのではないでしょうか。
2006.4.2 濱野好枝師
神の恵と力
創世記
神様が絶対の主権者で、具体的に導いてくださる。それが、この創世記の一章から分かります。
私たちの出発点は「はじめに神が天と地を創造した」です。これは、まったく疑うこともない事実です。そして、私たちの心は偽りでころころ変わる、と聖書にありますが、三位一体の神様はどの角度から見ても、まったく狂いがないのです。
>1:26「そして神は、われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、地をはうすべてのものを支配させよう。と仰せられた。」
「われわれに似るように、われわれのかたちに」…三位一体のイェスさまを見ても神様を見ても聖霊様を見ても愛しか見えない、という三位一体の神様に似るように造られた私たち。
神様を見なければ、愛をもてない
神様が「よしとされた」と何回言ったでしょうか。
よしとされた、よしとされた、よしとされた、よしとされた、よしとされた → 非常によかった
満足してくださっている神様。神様が満足しているのに私が勝手に不満足になっていてはいけない。
神様の言葉ですべてが造られた、み言葉の大切さ。
満足してます、と言葉にして、周りの人に言ってみましょう。
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最終更新:2007年12月09日 22:49