故郷に帰ろう。
決心した。一昨日のことだ。買い溜めた高価なピーチブランデーを根こそぎ喉に嚥下して、強烈な果実とアルコールの臭気に浸った頭に、ふとそんな考えが過ぎった。壁越しに発電機の唸りを聞きながら、薄着の肌が冷たく、空の高い夜のことだった。考えのまとまらないまま、夜通しの飲酒ですっかり火照った体を引きずり、まずは屋外にある水場まで足を運ぶことにする。このときはまだ、それが些細な気の迷いであると、──酒の勢いを疑っていたのだ。
体にまとわりついた衣服を道すがら脱ぎ捨て、剥き出しにした裸体の指先で、給湯管のバルブを捻る。屋外で肌を惜しみなく晒すこと、ひととき肌を打つ冷や水にも、とうに慣れた。手元に残したスキットルから迎え酒を喉に流し込み、直線距離にして数十㎞を貸し切った全天を、ぼんやりと仰ぎ見る。
何度見ても慣れない。天井のない世界。
頭上に横たわる高架に隔てられてなお、淀んだ大気の最果てに霞んでなお、夜空は遠く、途方もない高みにあった。郷愁に駆られたのは、空が広すぎたせいかもしれない。そんな感傷を酒臭い息とともに吐き出して、己の惰弱さを自嘲した。
──私は、迷っているだけだ。
時折、無意識に空を仰いでしまうのは、その下に、視界に入れたくない光景があるからに他ならなかった。汚染し尽くされた大地と、無数にそびえ立つ未来建設の亡骸たち。退廃的な錆色をした、ここはろくでなしどもの楽園だ。欲した未来も、願った報いも、そんなものは、地上のどこにも存在しなかった。手に入ったのは、この醜悪な現実を持ち帰る、残酷なばかりの責務だけ。
引き結んだ唇に、軽くなったスキットルをねじ込んだ。最後の一口だった。買い込んだブランデーが底をつき、矜持はとうに錆びついて、発電燃料の備蓄も心許ない。
今が責務を果たすべきときだ。
この旅路の始発点が、よもや終着点になろうなどとは、考えもしていなかった。どうにか抗ってみせようとはしたものの、そのなれの果てがこのざまだ。臆病風に吹かれ、酔えない酒に溺れる毎日。分厚い天井を潜り抜けた先には、手を触れることさえできない天井があるだけだった。
形のない天井。
空へ、おもむろに手を翳す。
若い時分には生身だったこの腕も、今となっては筋電義肢の紛い物だ。矜持ばかりか、肉体までもが錆びつこうとしている今、故郷に帰るという選択は道理に思えた。
逃げようというわけではない。
慰めが欲しいわけでもない。
手にした真実を、土へ返すのだ。それだけが、自分にただ一つ残された、最後の役割なのだろうから。
視線の先、空を掴もうと伸縮する筋電義肢のシリンダーが、物悲しく軋みを挙げた。感傷を逆撫でにする、ひどく耳障りなその音色。胸元に引っ込めた黒金の腕を、慰めるように優しく撫でながら、
「泣くな。……軟弱者」
そう独りごちた。久方ぶりに聞いた自分の声も、どこか震えて上擦っているような気がして、余計に耳障りだった。
温い水温に甘える自分を叱るように、給湯管のバルブを閉めれば、冷えた外気が肌を撫でる。顎を揺らし、赤い髪の毛先に滴る水滴を振り落とすと、素足の爪先をテントへ向けた。
一昨日のことだ。
脱ぎ散らかした衣服を拾うとき、肌寒さに耐えかねてくしゃみが出たのを覚えている。確かにそのとき、私は決心をしたのだ。
故郷へ帰ろう。
未踏査深度と呼ばれる場所。地の底より、なお深きところ。
アンダービロウ。
最終更新:2013年11月25日 14:54