「あ~、つかれた」

 指揮車両の横に張られた天幕をわって、表に出る頃には日もすっかり暮れていた。
 レゲンDはパイロットスーツの胸元をくつろげ、蒸れた肌を、急速に冷めていく荒野の外気に浸した。
 垢染みたインナースーツからは数日来の汗によって熟成された塩気の効いたスメルが立ち上り、その体臭に我が事ながらに彼
女は顔をしかめる。
 入浴はおろか洗濯も満足にできない生活がかれこれ二週間つづいている。
 飲料用以外で、水を使えるとしたら歯磨きと塗れた布で体を拭くのがせいぜいで、その水も汗や小便を濾過したものを使いまわす有様だ。
 不衛生ということはないが、気分のいいものでもない。

 そして不衛生といえばこれもよくは無いだろう。

 レゲンDは物陰に身を寄せて、周囲を見渡し人気のないことを確認すると、スーツのファスナーをさらに臍下まで引き下げ、下
着の中に手を入れる。そして、三度深呼吸をするとやがて意を決したように、一気にソレを引き抜いた。

 「……んっ…痛ゥゥぅ~~っ」

 股間に、ズルリと肉を引き剥がされるような鈍い痛みが走る。

 「ふぅぅーっ・・・ほほぉほぉっ」

 下着から、そろそろと抜き出された彼女の指には尿道カテーテルがつままれていた。
 軟質素材でできた管に、潤滑剤を兼ねた麻酔が塗布されていても、引き抜くときの痛みは悶絶するほどで、レゲンDは股間押さ
えたまま身をくの字に折り、押し殺した苦悶の悲鳴とも、痛みを和らげるラマーズ呼吸法ともつかぬ声で喘いだ。
 機体搭乗中の排尿はこのカテーテルを通して、スーツに取り付けられている蓄尿バックにたくわえられ、濾過されるのである。
 生理学的に人間は極度のストレスやショックを受ければ、失禁脱糞をしてしまうのは致し方ないことであるが、しかし戦闘中
に受けるあらゆる恐怖や苦痛よりも、毎度このカテーテルを抜くときの痛みは尚つらく、しかも避けがたい。

 湿度も無い荒野の夜は日没ともに一気に冷え込むというのに、レゲンDはぎっとり脂汗をかいていた。

 毎度搭乗する度にこんなものを挿入してオムツをしなければならないというのも、ACパイロットは余程因果な商売であるとレ
ゲンDはつくづく思っている。
 そのカテーテルだが、レゲンDがためつすがめつするに、耐用命数が過ぎても洗って使いまわしたために、だいぶヘタっている
ようである。
 とは言え、代えの残りも心もとない。あと2、3日は使えないだろうかとも思案してみたが、かつて患った膀胱炎の苦しみが
フラッシュバックしてきたので、捨てることにした。無くなったらその時はその時である。これだけの規模のキャラバンなら誰
か余分なカテーテルを持ってるだろう。そいつを融通してもらえばいい。
 濾過フィルターはまだ使えそうだし、旅の行程も三分の二を消化して、このペースでいけばあと一週間ほどでつくだろうと思
われた。

 焼けるような股間の痛みが鎮まるのを見計らい、彼女は一息ついて屈めた身をそろそろと起こす。そのときであった。

 「母ちゃん!」

 喜色に弾む幼い声が夜営地に響いた。それが頭の上で纏め上げた長い赤毛を、ひょこひょこ揺らして、レゲンDめがけて駆け
寄ってくる。

 「ナンデ?コゲンダ!ナンデ!?…ま、まて!今は……」

 その声の主を認めた彼女は手を前に出して静止の構えをとったが、しかし、コゲンダとよばれた幼女は母を認めた嬉しさ余っ
て、わき目も振らずに驀進し、駆け寄る勢いもそのままに彼女の下腹部あたりに飛びついた。

 「あいゑぇぇぇえエエエえヱェェエ……!!」

 サツバツ荒野の黄昏にマッポーめいたレゲンDの悲鳴が響き渡る。
 ブッダよ哀れみたまえ、痛みがようやく引き始めたところに、今のでぶりかえしてきたではないか。イタイ。

 コゲンダは苦悶するレゲンDに「大丈夫?母ちゃん大丈夫?したたかいたい?」と気遣わしげな声をかける。

 「お…おお……大丈夫だ。だから、ちょっとそっとしといてくれ」
 「おお、養生しろ」

 落ち着いたところで「こらっ」とレゲンDはコゲンダを小突いた。
 「こいつ引っこ抜いたときにはマンマンいてぇんだから、飛びつくなといったろう!」
 レゲンDは左手にもったカテーテルをコゲンダの前に突き出した。
 するとコゲンダは「うん。イカンに思ってる」などと、自分自身意味もよくわかってない謝罪らしき言葉を口にする。
 「いひゃひゃ……」レゲンDは娘の左頬をつねり上げた。「そういう言い方も人を馬鹿にしてんだよ」
 「わかったかい?」嬉しさあまって、今度は一転、怒られたことにより今の勢いもしゅんとなえてコゲンダは、つねられた頬
をなでさする。

 「……母ちゃんごめん」

 とはいえ、とレゲンDは我が子の心境をおもんばかった。日がな一日トレーラーのキャビンで母親の帰りを待ち続けていたの
だ。子供の時間感覚ではずいぶん長く感じられたであろうと思えば、いじらしいではないか。
 つい怒ってしまったが、こうしてしょげている我が娘の姿を見せられると、自分もなにやらバツが悪い。

 「それでいい」
 そういってレゲンDは屈んで、わが子の目線に合わせる。
 「……母ちゃんも怒ってゴメンな」

 レゲンDは娘の前髪をそっとなで上げ、額にキスをする。

 (くさっ)

 コゲンダの皮脂が溜まりに溜まった髪から、犬畜めいたにおいがレゲンDの鼻腔に入り込んできた。

 「……母ちゃん」

 不意にコゲンダは言った。

 「ん?」
 「腹減った」

 レゲンDはクスリと微笑する。

 「ああ、減ったな。なに食おうか?」
 「汁」
 「汁かぁ……あるといいな」

 ふと、にわかに活気づいてきた夜営の喧騒が彼女らの耳朶を振るわせ始めていた。

 雑多なミグラントが集まったキャラバンは大所帯であり、人が増えればそれに比例してサービス業の需要が生まれる。そんな
キャラバンにコバンザメのように寄り添う行商人たちが、屋台を出し始めたのだ。
 やがて聴覚についで、レゲンDの嗅覚がうずきだし、日中AC機内で流し込まれたパック詰の携行流動食では満足しない消化器官
が固形物への恋慕を訴えだす。要するに腹が減ったのだ。
 屋台はトレーラーで組まれた島嶼陣地郡の中央に集まる傾向があり、一方で襲撃があれば最前線と化す陣地外縁部では、夜番
につくものを除けば人もまばらである。レゲンD親子もまた、はぐれないように手をつなぎ、己が嗅覚の命ずるままに陣地中央へ
と足を向けた。

 その先にあるのは派手な看板やネオンサインこそ無いものの、猥雑な活気を振りまく歓楽街のそれである。
 その賑わいがコゲンダの好奇心を刺激し、見るものすべてにいちいちナンデ?と母に問わずにはいられない。

 「あ、パンパン」コゲンダが指をさす。
 「しっ!」とレゲンDはその手をはたき落とす。

 粗末ながらも艶美な肢体を覗かす女たちが、辻に湧いて男を誘い、早くも情がそそられた者は夜鷹をかきだいて、その場で犬
のように野合する。

 「母ちゃんあたしも打ちたい」
 「あんたにゃまだ早い」

 テント小屋に開かれた賭場の前では、下品な色使いの衣装をまとった道化が鮮やかな手つきでカードをさばき、通行人の射幸
心を煽る。
 屋台から漂う、酸っぱい臭いがする油がしかれた鍋の上を、得たいの知れぬ肉が滑り、黄ばんだプラスチックの皿に盛られ、
それを貪る人、人、人。
 およそ身を清潔に保つ習慣を忘れた人間たちが、獣性もあらわに欲求を満たさんと入り混じるそれは、荒野に突如出現した一
夜限りのソドムの市。
 せわしく首をめぐらして、あたりを余さず見ようとするコゲンダはともすれば足を止めがちで、その度に後ろがつかえてしま
う。

 「昼間はなにしてた?」不意にレゲンDが問うた。
 「ククーとゲームしてた」
 「そうか。よかったな」
 「うん。壁際においこんでかためたおして、中段下段の二択とかかたい。コマンド投げもいれて起き攻めにかさねられるとな
んもでなきかった」
 「ククー容赦ねぇな」
 「おう読みがパネェ」 

 コゲンダはそのゲームについて話しているようだが、レゲンDには異国の言葉を聞くようでさっぱり意味は解しかねたが、適
当に相槌を打つ。
 そんな事を話ながら、人ごみに揉まれ、流されてるうちに、流れ着いた一軒の屋台で夕食をとることとした。
 汁がのみたいというコゲンダの漠然として希望を取り入れて蕎麦の屋台である。
 暖簾分けて、カウンターを見渡すと彼女は、そこへ偶然見知った顔を見つけた。

 「あ、ククー!」

 カウンターの無効では青みがかったアッシュブロンドを頭に乗っけた仏頂面が、丼を覗き込んでいた。

 「お、奇遇だな」と声を掛ければ、「ん」とククーSkは生返事を返す。

 見知った顔といっても、付き合って日は浅く、親愛をこめて相棒とは未だ呼びかねるが、仕事上これから長く付き合っ
てくかもしれないし、かと思えば明日には今生限りとなってしまうかもしれない同僚のククーSkが、そこでもやし蕎麦を手繰っ
ていた。
 蕎麦といっても本物の小麦粉を使った高級なものではない。丙種七等合成粉とよばれる底辺に程近い代用品でこねられたもの
で、麺がそうなら汁も雑多な化学調味料を溶かし込んでつくったものだ。さほど美味いものではないが、腹が膨れれば十分とい
う時勢には妥当な代物である。そんななかでトラックの荷台で栽培したモヤシだけが天然ものだ。
 というよりは劣悪な環境でも育つように先人たちが遺伝子改良を加えた大豆が、今でも比較的安価に製造できる数少ない作物
なのだ。

 「おいちゃんあたし達にも、えーと・・・」レゲンDは言いかけたところで、「一人前食えるか?」とコゲンダに聞いた。す
るとコゲンダは食えると答えた。「じゃ、二つねおいちゃん」
 「へい」

 レゲンDは痛みの残滓が残る下腹部を刺激しないように、慎重にスツールに腰をかけると蕎麦を注文した。お品書きなどない。
なぜならばこの店のメニューはただ一種類、もやし蕎麦しかないからだ。


 「ククー、あんた夜警だろ?ブリーフィングは終わったのかい?」と、レゲンDがたずねたが、ククーSkは聞こえていないとば
かりに、丼を傾けて汁をズーズーと音を立てて飲み始ていた。

 「……」

 同僚にシカトされたようでレゲンDが憮然としていると「へい、おまち」と、これまたククーSkに勝るとも劣らない無愛想な声
とともに、屋台の親父が汁がこぼれるのもかまわずに丼を乱暴にカウンターに置いた。レゲンDの手に蕎麦の汁が跳ね落ちる。コ
ゲンダはそれにかまわず待ってましたとばかりに、箸立から箸を引っつかむと無心に蕎麦を手繰り始める。
 ククーSkは丼を掲げたまま、汁を最後の一滴まで飲み干すと、静かに丼をカウンターにおいてからようやく「これから」と、
短く答えた。

 「……そう。あ、それと昼間はウチのチビが世話になったな。ありがと」
 「うん」

 レゲンDは箸を手にとって、丼に向かいだしたが、一つ思いついたところで「あ、そういやさ」と、ククーSkに問いかけた。
 ククーSkはカウンターに湯飲みを差し出し、店主にサービスの蕎麦湯を注がせていた。

 「なに?」

 ククーSkはこちらをチラリとも見ずに蕎麦湯をすすった。

 「いやさ、カテーテルを多めにもってたりしない?あたしのもう無くなりそうでさ」
 「ない」
 「あ、そう」

 レゲンDが蕎麦を手繰り始めるとククーSkは蕎麦湯を飲み干し、湯飲みは私物であるらしくそれをショルダーバックに収めると
、すっと席を立ち店主に一礼して、うっそりと口を開いた。

 「野良犬も草木も痩せ烏も、三界に同じ宿る土無き根無し草。ただただ糞と骸だけを穢土に残すのみ。ならば糞も、味噌も等
しく泥団子。胃の府に落とせばいつかは同じ血肉とならん。然れば今生の月とこの一会になにをか願わん」

「はぁ?」

 今までうんとか、ああとか、その程度の事しか言わなかったククーSkが唐突に長口上を諳んじたのだ。レゲンDでなくとも珍奇さを覚える。

 「店主。如何に?」

 ククーSkは彼女にしては静かながらも強い語調で屋台の店主迫った。店主は軽侮を宿した冷たい双眸でククーSkを睨めつけて
いたが、その険がふとゆるみ、口元をわずかにほころばせると、鼻でフンと一笑して「アホ抜かせ」と言った。
 だが、もう一言「また食いに来い」とも言った。

 ククーSkは黙って今一度一礼し、くるりと踵をかえす。なんのことやらさっぱりだ。この二人の間にどのようなコミュニケ
ーションが成立したのかレゲンDにはまるで理解できない。

 「あ、そうだ」と、去り際にククーSkは足を止め一言。「隣のブロックに薬屋がいた。カテーテルあるかも」と。
 「あ……ありがとう」レゲンDはその一言を何とか搾り出したが、言い終わる頃にはククーSkは既に雑踏にまぎれてしまっていた。
 得体の知れぬ人間を相棒にもった。内心レゲンDは思った。だがあの仏頂面を不愉快とも思えぬ。コゲンダには世話してくれて
いるようだが、それはそれとして、いまだ好い奴とも、嫌な奴とも判じかねている。だが、もう少し付き合ってみたいとも思えた。

 「あ」

 ふとレゲンダはあることに気づいた。ククーSKが言っていた隣のブロックとはどちらであろうか?彼女は右とも左とも言って
いない。
 そのことに思い巡らし。レゲンDは黙って蕎麦を手繰り続けた。





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最終更新:2012年05月22日 06:20