「忘れてしまうものは忘れてしまうし、そうでないものはそうじゃない。
それだけじゃないですか、他にどうしようっていうんです」
女性が背後からそう言うのに、僕はクスクスと笑った。
そうだ、その通りだ。忘れてしまうものは忘れてしまう、忘れようがないものは忘れようもない。それ以上にどうしようっていうんだ?
記憶からは年々遠ざかっていく。
ふと少年の頃の夏を思い出した。狭い空間で、隣には女の子がいて……彼女の名前は何だっけ? あの浅黒い肌の、髪の黒い、恥ずかしがり屋の――。確かそんな女の子がいたんだ、きっといた。忘れてしまうことだってあるんだ。でも僕はきっとそれを思い出さなきゃいけない。忘れてしまったことがあるなら――
ニーナ・ロビンス。そうだった。彼女の名前は。
ニーナと過ごした夏の日を思い出す。
鉄筋コンクリートの、ロクに空調の効かない学校で、うだるような暑さの中で。
僕は何を失おうとしているのだろう、と思った。
僕は、あの夏のことを今までずっと忘れていたじゃないか、と思う。その夏があったからこそ、その記憶があったからこそ、僕は繰り返す季節の中で、自分の位置を定めることができたんじゃないか?
記憶は遠ざかっていく。でも、記憶があるからこそ、僕らは時の過ぎてゆくことを感じるのではないか? 記憶があるから、繰り返す日々の中で、その季節の中で、また新たな輝きに目をすがめることがあるんじゃないか?
僕は笑った。僕はどこにいくのだろう。そして何が忘れられないで残っていくのか。
エンリカ。と僕は思う。
そして振り向いた。身体を捻って、後ろに立っているはずの女性を眺めようと。
そこにはもう誰もいなかった。キャリア・リグの巨大な外壁が、地面にその身を安んじているだけだ。
きっと貴女の言う通りなのだ、と思う。忘れるものは忘れるし、忘れられないものはきっとそのままにするしかない。
でも、何かを忘れることでしか辿り着けない場所があるのかもしれない。そこが、どんな場所であれ、あるいは、そこで何かを失い、傷つけ、喪われていくのであれ――
僕は立ち上がる。
ズボンをはらった。そして、再びキャリア・リグの中へと戻っていく。夕食時になったら、彼女に一つくらい礼を言おう、などと思いながら。
涙が流れないのは、僕自身が流れていくからだ、とそう思った。
投稿者:Cet
最終更新:2012年06月28日 19:45