シメオン・ムーシェはベッドの上で三度目を覚まし、少し食事を取り、それから死んだように深く眠り、夜中に目を覚まし、一番会いたい女性が目の前にいないことに孤独を感じた。
身体の至る所に包帯が巻かれ、身体にぴったりと取り付けられたコルセットやらなにやらの所為で身体が自由に動かせない。気の利いた看護師もいなければ、冗談を交わせる友人もいない。
なにもやることがなく、自分から人に会いに行くこともできなかったので、ムーシェはそのまま眠りにつき、そして翌日からいつも通りの寡黙な狙撃手に戻った。ベッドの上から動けない、ということを除けば、いつも通りの彼だった。
「………」
ベッドの上で微睡んでいたシメオン・ムーシェは、ふとカレンダーを見て、あの無様な失敗とその後の救出劇からもう一週間経ったのかと溜息を吐き出した。
トムとジョシュがハンヴィーで運べる戦利品を掻き集める中、ムーシェは
エルフィファーレとマルコウィッツに支えられながらスーパーハインドのキャビンに押し込まれ、身体が満たされたような安心感を覚えたためか、そのまま失神してしまい、後の事はよく覚えていない。
スピアーズ曰く、治療を終えた後にマルコウィッツが、リーダーは死なないとキャンプの全員に報告したらしい。報告は簡単なもので、幸か不幸か外傷はどれも致命傷ではなく、それなりに時間はかかるが後遺症はない、残るのは煙草を押し付けられた時に出来た火傷跡くらいだろう、というものだ。
実際、ムーシェは思った以上に軽傷で、今では骨の回復も大分進み、精神的にも安定し始めている。この一週間の三分の二を睡眠で浪費したため、筋肉はかなり衰えているだろうが、それは自己鍛錬で自分を適度に痛めつければなんとかなる問題であり、あとは心身の回復を待つのみとされた。
キャンプの自警団が差し入れで持ってきた戦争詩人の本を片手に、ムーシェはもしあの時、マルコウィッツがいつもボディーアーマーの下に携行している護身用の拳銃を持っていなかったら、俺は死んでいただろうとムーシェは思い返した。
一度彼に感謝すべきかと思い、検診の際に礼を言おうとしたのだが、
「しかし、思い切ったものだね。それは俺の女だ……か」
マルコウィッツが開口一番にこう言ったので、ムーシェは開き掛けた口を閉じて、ただただ黙って思春期の子供のように顔を赤らめ、小さく舌打ちした。
なぜ自分があんなことを口走ったのかが未だに理解できていないと言うのに、マルコウィッツを含む男連中は新婚を持てはやすかのようににやにやしているし、エルフィファーレはどういうわけか自分が眠っている時にしか見舞いに来ない。
しかもスピアーズの情報に寄れば、エルフィファーレはいつも自分の寝顔を観察してから、満足したように笑みを浮かべて部屋を出ていっているらしい。 それを聞いた時、頬が思わず緩んでしまったのは不覚だったとしか言いようがない。なぜなら、翌日からさらに男連中が鬱陶しくなったからだ。
そうした慌ただしくもストレスばかりが募る日々が過ぎ、やっと七日経った。OVAとの取引はボギーが代役として出席し、上手く取り纏め、他のミグラントとの交渉も熟してくれている。物資の補給と各ミグラントへの段階的な移住計画は、止まることなく進んでいく。
こうして俺がベッドの上でウィルフレッド・オーエンやロバート・グレイヴス、それからジーグフリード・サスーンの詩集を読み耽り、銃や弾薬に関する雑誌のバックナンバーを眺めている間でも、難民キャンプはその役目と存在理由を無くすため、職と生活に迷う人々にそれを与えていく。
強かな人たちだと、ムーシェは思った。兵士たちに目もくれず、自分たちの生存のために労力を注ぎ込み、感謝し、神に祈り、不平不満を言う暇があれば改善すべき点を見つけ出し、これを改める。そんな人々の手に銃は無く、自らの両腕と両足で、彼らはチャンスに駆け寄り、それを手にする。
それに比べて、銃がなければなにもできない俺は、どれほど矮小で小賢しい人間なのだろうか。銃弾を放つ人間だと言うのに、銃弾に怯え、砲弾の雨に震え、死にたくないという人並みの情を持ち、それでもなお同族を殺し続ける自分は、どれほど神から程遠い存在なのだろうか。
答えは得られないだろう。もし答えが与えられる時があるとするならば、それは銃によって倒れる直前か、死んだ後に神の前に召喚され、お前の罪は夥しい量の命を奪ってきた事だと罪状を突き付けられて、地獄に叩き落とされる寸前か。どちらにせよ、俺の終わりには安息などない。
だからこそ、せめてそれまでは安らかに過ごせる相棒が欲しいのだ。しかし心から望む人は、なかなかムーシェの前には訪れず、今日もまた日が落ち、マルコウィッツの検診があり、そして歩哨の自警隊員以外は眠る時間になった。節電の為に電気は消され、月明かりだけが室内を照らす。
「……まったく、どうしちまったっていうんだ」
本を置き、顔を両手で覆う。ライフルと狙撃の事ばかり考えていた政府軍時代から、難民の行く末ばかり心配する時期を経て、今度は女一人のことが気になってしょうがないときた。しかも彼女は、つい数週間前に偶然救い出したと言うだけの、赤の他人のはずなのに。
「どうして俺は、初めて会った気がしないんだ」
「初めて会ったのが、ボクもシメオンも覚えてないくらいずーっと前だった……ということかもしれませんね」
ふいに投げ掛けられた高い声にムーシェが驚き、顔から両手を放して扉の方に目をやると、くすくすっと悪戯っぽい笑みを浮かべながら、エルフィファーレが立っていた。
決して長くはない赤髪は彼女が笑みを浮かべて肩を震わせるたびにさらさらと流れ、乾いた心を潤すオアシスのようなくりりとした碧眼は、ムーシェの緑色の瞳をじっと見つめている。
いつのまに部屋に入ったんだと言う月並みな台詞を飲み下し、ムーシェは投げ掛けられた言葉を噛み砕いてその意味を考え、嬉しさ半分真剣半分といったにやけ顔で、エルフィファーレに言葉を返す。
「つまり、俺とエルはあのクーデター以前に一度会っている……ということか?」
「それ以後も会っていたかもしれませんね。ボクはこれでも諜報関係の仕事をしていて、たまに民間人で尾行の練習なんてこともしてたので」
「尾行の練習……か。もしかしたら、俺がエルの尾行をまんまと見抜いて、喫茶店でお茶でも奢ったのかもしれないな」
「おや、覚えてたんですか?」
「……なんだって?」
こつこつっとわざと靴音を響かせ、悪戯好きな少女が勘の鈍い少年を見つけ、これから弄繰り回そうとさまざまな考えを巡らせている顔で、エルフィファーレはムーシェに言った。
「三年前、年の初めにボクくらいの小さな黒髪の女性がシメオンの後をつけていました。あの時はたしか、野暮ったい眼鏡とちっちゃなベレー帽を被って、地味な色合いのカーディガンを羽織ってましたね」
「いやまて……たしか、鞄も持っていただろう。黒い皮の鞄だ。学生鞄に良く似ていて、靴は底に滑り止めの金具がついたスニーカー。時計は華奢でシンプルなもの。瞳の色は………あの時は、褐色だったな?」
「ふふふっ、やっと思い出してくれましたね。まあボクも昨日思い出したんですけど。あの時はどうやってボクを口説いたんでしたっけ、シメオンは」
三年前の年の初め頃、雪が降った後のイル・シャロムだったなと、ムーシェは記憶の引き出しから変装したエルフィファーレの姿と、雪化粧をした都市の情景を掴み取り、頭の中で再生する。
皺になっている部分は引き延ばして綺麗にし、詳細に至るまで思い出す。あれは、日用品と銃の整備用具の買い出しをした時だった。二度も向かいの店舗に彼女がいて、不審に思ったのだ。
一度目はレディースの服を売っているところで、彼女はそこでカーディガンを買った。二度目は香水店で店員と仲良く喋りながら、あれこれガラスの容器を品定めしていたのだったか。
ふいに交じった不鮮明な記憶を熟考するのを止め、ムーシェはその後を思い描く。もし尾行しているのであれば、次の店で畳み掛けてみるかと、あの時は考えた。遠目で見る限り少々野暮ったさはあったが、彼女には人を引き付ける何かがある。
男ばかりの戦闘任務から解放され、少し浮かれていたと言うのもあった。次にジャンクフードのチェーン店に入った時、彼女は斜め左の物静かそうな喫茶店に入って行き、そこで鞄から取り出した新聞を読み始めた。
そして俺はその喫茶店に入り、カウンター席でノンカフェインコーヒーを頼んで店のマスターに睨まれながら、あの窓際に座っている女性にミルクティーを出してくれ、と言ったのだ。
「……まず初めに、ミルクティーを奢ったんだったな」
ぽつり、とムーシェが言うと、エルフィファーレはベッドの端に腰を落とし、嬉しそうに笑いながら言う。
「ええ、そうですよ。あの時は軍人さんを尾行しようと軽く思ってやったんですけど、相手がスナイパーだったなんて、思ってもいませんでしたよ」
「スナイパーは状況判断能力と観察力が求められるからな。リスク計算によってそれが安全と判断したなら、行動力を使って女性の元へまっしぐら……というわけだ」
次第に鮮明になっていく淡い記憶に懐かしさと哀愁を覚えながら、ムーシェはエルフィファーレの頬を撫で上げ、少し笑う。
対するエルフィファーレはまるで主人に甘える猫のように、頬を擦り付けてくる。そんなことをされて、いったい誰が無感情でいられるだろうか。
彼女が堪らなく愛しくなって、ムーシェは彼女をそのまま抱き寄せ、鼻腔を擽る薔薇の香りと、彼女の温もりと、とくんとくんと脈動する鼓動を感じる。
あの時も薔薇の香りがしていた。黒髪の女性がミルクティーを渡された時に、俺は彼女の近くに行って、その香りを良い匂いだと思った。
そして怪訝そうな顔をする彼女に、俺は精一杯の笑みを浮かべながら、すべて見透かしているぞと言いたげに、口を開き、
「そんなに美人じゃ尾行してるのか、こっちに気があるのか、どっちか分からない……だったな、あの時の口説き文句は」
「ばーか。そういう台詞、初対面の女の子に言う台詞じゃないんですよ。もっと大切な時にとっとくべきだったのに」
「好きな女に言う台詞なら、もっと気が利いたのがあるからな。まあ、俺はどちらかと言えば行動する方が得意だが」
「なんたって、その長所を言う前に行動しちゃってるくらいですもんね?」
腕の中で楽しげに笑うエルフィファーレを見つめながら、ムーシェはふっと笑みを浮かべて、自分という器に暖かい風が流れ込み、満たされていくのを感じる。
狙撃とライフルでは得られなかった温もりが、老練な狩人のような男の心に触れ、それを解していく。凍った心が女の温もりによって感性を取り戻し、見るべき人を見るようになる。
ムーシェはくすりと笑い返しながら、エルフィファーレに向けて、
「言うなよ」
と小さく言った。それはまるで、自分の弱点を突っつかれてくすぐったがる子供のような口調で、それ以上されたらどうなるか分からないという意味が込められていた。
さすがに息苦しいだろうと思ったが、ムーシェはエルフィファーレを放さず、ずっと抱きしめ続けている。すぐそこに愛しい人の顔があるというだけで、ムーシェは安らぎ、癒され、満たされていく。
かつて神は、自らが創造した男が孤独で生きるのを見て「人が独りでいるのは良くない」と言い、そして「彼にふさわしい助け手を造ろう」と続け、男の肋骨から女を造った。男と女は結ばれ、家庭を築く。
だが、彼女は俺から造られたわけではない。神に見守られてもいないし、肋骨も抜き取られてはいない。しかし、彼女は俺を愛し、俺は彼女を愛している。互いに愛し、互いに助け合う覚悟があり、生き抜くための強かさを心得ている。
それ以外になにが必要だろうか。金や物も大事ではあろうが、愛がなければ意味がない。あらゆる知識に通じ、山を動かすほどの信仰があろうと、愛が無ければ駄目なのだ。
「エルフィファーレ……君が好きだ」
月明かりが照らす部屋の中、ムーシェの呟きがぽつりと響き、そして静寂に包まれる。
時計の針が進み、衣擦れの音が微かに響き、ベッドのスプリングが軋んだ後、誰かが唇を開く音がした。
「嬉しいです。ムーシェがボクを好きって、そう言ってくれて……」
響いた高音は、男の唇で塞がれる。
薔薇の匂い。乾いた唇に触れる、しっとりとした女性の唇。
抱きしめた細い身体は火照り始め、二人の鼓動は高鳴っていく。
濃厚な長いキスの後、男は彼女の肩をつかんで、にっこりと笑い、尋ねた。
「エルの答えは分かった。俺の答えも、もう分かってるな?」
白い頬を朱に染めて、赤毛の女はこくりと頷き、男の胸元に飛びつくと、ぱたぱたと足を動かして、靴を脱ぎ捨てる。
猫のような軽快な動きで、彼女は男に馬乗りになって、悪戯っぽい笑みを浮かべながら、わざとらしく唇を舌で舐めた。
男はふと、ドアの鍵が締まっているのかが気になったが、それも彼女の人差し指が男の唇に触れると、急にどうでも良くなった。
今は彼女も俺も、なにをするか分かっている。それならもう、その行為に夢中になった方が、お互いに楽しめるというものだろう。
「さて、シメオン」
「なんだ、エル?」
お互いがお互いに甘えているような声音で、男と女が言う。
男が口元を綻ばせると、女は誘うような笑みを浮かべながら、もう一度唇を重ね、互いの吐息がかかるほどの近い距離で、
「ボクもシメオンを愛してますよ」
男にそう囁いた。
そして二人は互いが求めるままに身体を重ね、温もりと愛を共有し、まだ見えぬ未来に幸あれと、そう願った。
Fin.
最終更新:2012年12月20日 20:30