神は偉大なり
アッラー以外に神は無く
ムハンマドは神の御使いなり
いざ礼拝へ来たれ
いざ救済のために来たれ
神は偉大なり
かれこれ数カ月風呂に入っていないなと、廃墟の地下に儲けられた司令部への階段を下りながら、
ノマド統一戦線第1戦車大隊隊長のアブドゥル・フセインは思った。
砂ばかりの戦場を地を這う戦車で生き抜いてきたからか、いつしか彼の身体は砂塗れになり、そんな劣悪な環境に嫌気をさして虱は戦車内で次々と餓死していくか他の乗員に乗り換えた。
主な犠牲者は新人の装填手であったアフマドだ。理由は車長席から近いというだけだが、同じくらいの距離にいる砲手のイスラムに虱は群がらなかった。
これはイスラムが数カ月どころか数年風呂に入らず、虱さえも敬遠する男だからである。どうやら虱も若く活発な青年の方が良いらしく、恐らく虱は今日もアフマドの垢で汚れた服に群がっている。そして痒みに耐えかねたアフマドはその指で、虱を大量虐殺しているだろう。
我が部下ながら微笑ましいなとアブドゥルは唇を引き攣らせる。バンガード前線基地を壊滅させてからというもの、第1戦車大隊はバンガードに目の敵にされ事あるごとに狙われるようになった。今や大隊が二個小隊規模にまで減り、兵員の損耗は限度を超え、補給もない。
そうした矢先に司令部からの帰投命令が下った。もちろん、通信傍受を避けるために帰投命令は協力者である砂漠の民、ベドウィンたちから暗号文を受け取った形である。
―――ただでさえ物資のないアブドゥルたちは労力を提供してくれたベドウィンに、自衛用として錆の浮いたカービン銃をくれてやらなければならなかったが。
その時戦車大隊はまだ二個中隊を残していたが、結局、アブドゥル・フセインの率いる第1戦車大隊は総数九両の二個戦車小隊になった。
いろいろあったのだと言うのは簡単だが、そのいろいろがありすぎてどう説明したものかとアブドゥルは顎鬚を右手の人差し指でぼりぼり掻き、首を這いあがってきた物好きな虱を右手のビンタで叩き殺した。
コンクリートの階段を下り終えると今度はコンクリートの通路が続く。靴底が擦り切れかけ水虫菌に侵食された軍靴が鈍い音をたて、通路の先からはなにやら怒鳴り声のようなものが聞こえてきた。目を凝らせば、司令部付将校が扉の前で立っているのが見える。
司令部付将校は若かった。褐色色というよりは真っ黒な肌をしており、細い手足は俊敏な肉食獣のようだったが、目は気弱そうな草食動物でそわそわと落ち着かず、ドアの向こうから響く怒鳴り声一つ一つに一々肩を震わせ、時折涙を拭って鼻を啜っていた。
アブドゥルは彼に覚えがなかったのでいつも通りに対応することにした。
「少尉、こんにちは。帰投命令を受け取ったアブドゥル・フセインだ。アルフセイン将軍と面会したいのだが」
「あっ、えと……御帰還おめでとうございます、フセイン少佐。こんな様子ですが将軍は少佐の御帰還を信じ待ち望んでおられました。どうぞ中へ入ってください」
アブドゥルはドアノブを握りしめ、一度深呼吸した。怒声が響き続けている司令室へ入るための覚悟を決めるのはたやすいことではない。
「少佐、ノックを」
「ああ、そうだった。文明とは面倒なものだ」
適当にノックをして返事も待たず、私は司令室へ入った。
砂埃がうっすらと積もった机の向こうには、恰幅のある巨体を椅子に預け、通信機の受話器に向けて怒鳴り散らすアルフセイン将軍がいた。
白く染まりかけた頭髪と髭に日に焼けた肌と太い手足を持つ五十代半ばのアルフセイン将軍は、ノマド統一戦線の官職に位置する人物だ。
指導者であるシャラ・マフムードからも信頼され、統一戦線以外のノマド勢力にも顔がきく。そんなアルフセインが、顔を真っ赤にして血管を浮かび上がらせながら、怒鳴っていた。
「アブドゥル・フセイン、御命令に従い只今帰還いたしました」
「分かっている、今は黙っていろアブドゥル!」
でなければシャムシールで首をぶった切ってやるぞ、とでも続けそうな剣幕でアルフセインは言い、アブドゥルはただただ了解と頷いた。
アルフセインはしばらくそのまま怒鳴りまくり、相手の弁解を聞くために呼吸を整えながら黙り、また怒鳴りまくり、また呼吸を整え、そしてまた怒鳴った。
そして時間が、かなりの時間が過ぎた。アブドゥルは直立不動に耐えかねてもう少しで悟りを開くか、今はもうどこにあるかも分からないメッカに向って頭を下げるところだった。
「くそったれの宗教組合が。……よく戻って来てくれた、アブドゥル。シャラ・マフムードもこのことには気をよくするだろう」
「御命令に従ったまでの事です、閣下。御無礼を承知でお聞きいたしますが、今の通信の内容は、神聖ノマド戦線とのものですか?」
「ああそうだ。くそったれ過激派で原理主義の糞野郎だ。我々のような世俗派とこれ以上手を組むのは耐えられない、ときたよ」
「失礼ですが閣下、それは以前のノマド連絡会議で決定的なものとなったはずでは?」
「その通りだ少佐。だが俺が怒っているのはもっと悪い事なのだ」
デスクの下からスコッチ・ウィスキーのボトルと、小さなショットグラスを取り出しながらアルフセインは言った。アブドゥルは少し考え、目を閉じ、失望したように肩を落とし溜息を吐き出す。
「ああ、まさか閣下……」
「そうだ少佐。過激原理のくそったれ野郎は聖戦の手始めに我々の第1戦車大隊と第7歩兵連隊をぶち殺すと言ったのだ」
ショットグラスに琥珀色の液体を注ぎ、アルフセインはそれを一気に飲み下す。アブドゥルは頭を抱えたいのを堪えて、また溜息を吐き出した。
「それで閣下、奴らは今どこに?」
「ああ少佐、それが一番くそったれな事実なんだ」
ウィスキーに喉と食道を焼かれ、アルフセインは首をぐっと縮めながら言う。直後、司令部がびりびりと細かく振動した。
呆然とするアブドゥルに対してアルフセインは真剣な表情をし、片手で通信機の受話器を取りながら言った。
「彼らはもう来ている。迎撃しろ」
「了解閣下。くそったれに乾杯」
「くそったれに乾杯、少佐。行け」
最終更新:2013年05月03日 00:19