たまたま捉えた野盗を殺すことに、罪悪感は生まれない。
それは人間が狩るということを享楽としてきたためでも、その野盗が捕らえた女を強姦していたからでもなかった。
焚火の近くに突撃銃を放置するような無能たちの集まりだからでも、無精ひげを生やし麻薬を吸い下卑た笑いを上げているからでもない。
ましてや、強姦されている女が赤毛で小さく、それがあの『彼女』に似ているからでもない。それはただの私情であり、狙撃兵には関係のないことだ。
砂に含まれる硬度の高い石英に痛めつけられてぼろぼろになった隠蔽用シートの下、
シメオン・ムーシェは口元と首を覆うように巻き付けたシュマグ越しに息を吐き出しながら、引き金を絞る。
照準線に狙いを定め、呼吸と心臓の鼓動を把握し、引金を絞り、撃つ。ただそれだけだ。そこに感情が入るとしたら、それは繊細で優しい、おおよそ狙撃兵には向かない男の感情だろう。
競技用ライフル程ではないにしろ、トリガープルの重量は調整されている。じりじりと焦らすように引金の遊びを、まるで愛撫するかのように彼はゆっくりと引き絞る。撃針は、ロックから解放されるのを今か今かと待っていた。
身体の骨格で射撃姿勢を構築し、ライフルを構え、来るべきタイミングで撃つ。そしてそれを、シメオン・ムーシェは実行した。
肩が反動で蹴飛ばされる前に銃口から飛び出したのは、精度を追及して製造された競技用弾薬の弾頭だ。弾頭は螺旋状に回転しながら大気を引き裂き、745メートルほど離れたところの低地にいる男の右肩から突き刺さり、斜めに貫通し心臓を貫き破裂させた。
スレンダーな湾曲したボルトハンドルにそっと指先で触れ、彼は静かに薬莢を排出する。発射ガスで熱せられた薬莢が薬室から解放され、ぽとりと地面に落ち、じじじ……と空気中に存在する湿気を焼き殺す。
「One down」
しっとりと湿った唇から声が漏れる。しかしそれはボルトハンドルが定位置に戻され、次弾が弾倉から薬室に装填され、きっちりと閉鎖される音にかき消された。
照準器の向こう側では野盗がぽかんとした顔で男の死体を眺めている。右肩の小さな入弾孔からの出血は少ないが、射出孔からは水筒をひっくり返したように出血している。
赤黒い血は照準器では黒い水溜りのようにしか見えない。男は棒人間程度の形にしか分からず、表情もよく分からない。だがそれらをシメオン・ムーシェは想像し、愉しんだ。
引き金を絞り、撃つ。男が倒れ、照準器の向こう側の世界に混乱が生まれる。女体に触れるような滑らかさで排莢し、次の弾丸を弾装から薬室へ装填。逃げ惑う蟻が見える。
「Two down」
蟻たちは何か叫んでいるようにも見えたが、それがなんなのかはよく分からなかった。聞こえてはいたが、750メートルほど離れた地点にいる男の声など、聞き取る方が難しい。
しかし、シメオン・ムーシェはそれが戦慄と憤怒によるものだと感じた。……なるほど、よく理解できる。俺はあんたの友人を撃ち殺したわけだ。ほら、そこの女みたいに、ヤっちまったのさ。
焚火近くに置かれていた突撃銃を手に取り、男たちは辺りを見回す。見えるわけがない、と彼は思った。それは確信だ。……お前たちは俺が見えない、俺にはお前たちが見える。
「―――Time to hunt」
いつからその馬鹿げた台詞を言うようになったのだろう。この芝居がかった、まるで映画の英雄が言うような低俗な台詞を。
馬鹿馬鹿しいと自分で思いながら、シメオン・ムーシェは撃った。撃ってから、それはある小説に使われていた台詞で、父がよく読んでいたのを子供の頃に読み、その頃から気に入っている台詞だと思い出した。
彼が幼き頃の記憶を銃声によって蘇えらせると同時に、野盗の男がまた一人この世から消え去った。もう二度と、あの男が幼き頃の記憶を思い出すことはないだろう。
「Three down」
戦闘は楽しいものではない。それは容易なものであるし、その気になればどうにでもできる。だがそれを味わった人間は元の自分ではいられない。
俺もそうなのだろうと、シメオン・ムーシェは思った。もう元の自分には戻れない。野球と競技射撃に没頭した学生にも、狙撃学校で純粋な英雄を目指していた男にも。
照準器の向こう側にいる男たちも同じだ。彼らは戦闘を体験したのだ。だから元の自分には戻れない。戻れるわけがない。戻れるとしても、それは外面的なものにすぎない。
でも彼らは幸運だ。彼らはここで死ぬ。もう何者に戻る心配をする必要などなく、ただ撃たれて死ぬだけで良い。せめて死ぬ間際、弾丸が身体を破壊した痛みに耐える時、それを贖罪の痛みだと感じてくれれば良いが。
「Four down」
撃てば男が倒れた。シメオン・ムーシェは撃っては排莢し、次弾を装填し、そしてまた撃った。
機械的のようにも見えたがそれは神秘的でもあった。男たちは数十人を殺傷できる突撃銃と言う力を持っているが、それが無力にも一方的に、まるで家畜を屠るように殺されていく。
その神秘に当てられたのか、強姦されていた赤毛の女は不意に立ち上がって死んだ男から突撃銃を奪い、フルオートでそれを乱射した。7.62㎜×39mm弾使用する銃のフルオートのため、女は数発命中させただけで弾倉を撃ち尽くし、男たちに撃たれて死んだ。
女が倒れる様はまるでダンスでも踊っているかのようだった。着弾点でパッと朱が舞い散り、着弾の反動で女が手や足を大きく振り、ぐにゃぐにゃとした奇怪な舞いを踊る。
「――――――」
ふと、シメオン・ムーシェは『彼女』を思い出した。あの薔薇の香りと柔らかな温もりを。自分にはない活力と光りを。
それが失われるとしたら、それはこんな光景なのだろうかと彼は思った。そうだとしたら、なんと呆気ない終わりなのだろうか。衝撃を感じるとしたら、その呆気なさに衝撃を受けるだろう。
しかし同時に彼は深い怒りを感じ、ここにいる男たちをすべて殺そうと決めた。そしてエクシーレへ帰ろう。
「家へ……帰ろう」
―――
憂鬱な気分で帰投し、彼は『彼女』と共にベッドで眠り、そして夢の中で真っ赤で奇怪なダンスを踊る『彼女』を見た。
大切なものが手に入るのは嬉しいことだが、それが日常に馴染み過ぎてしまうとそのありがたみを忘れそうになる。それを悪夢が呼び起こしたのだ。
温もりに触れていると自分がそこに居るのがさも当然と言う気持ちになって、いつしか『彼女』がいるのが当たり前なのだと、『彼女』はいつもそこにいるのだと思うようになる。
だからか―――、時折、『彼女』が遠く遠く、自分の手の届かないところへ行ってしまう夢を見ると、彼は酷く憂鬱な気分になって、『彼女』の存在を確かめるように、眠っている『彼女』の手を握りしめる。
二人の愛の巣と表現するにはみすぼらし過ぎる部屋の中、生地の薄いカーテンから月が細やかな光を注いでいた。整然とした本棚や銃器類の整備用具と、戦闘用の装身具と私服を入れたクローゼットがうっすらと見える。
微かに香る薔薇の匂いは、隣で小さく寝息をたてながら眠っている『彼女』のものだ。華奢な肩がシーツからはみ出していて、滑らかそうな白い肌がぼんやりと月光を反射している。ほっそりとした腕の先、彼は彼女の手を握っている。
「嫌な、夢だ」
目の前で妹が爆風に吹き飛ばされた時、俺はなにもできなかったと彼は悔やんだ。夢では『彼女』が蜂の巣になっているというのに、俺はその手を掴むことすら出来ずに『彼女』は血塗れで深い闇の中へ落ちて行った。
極普通の歩兵たちと違って、狙撃兵はそれなり以上の距離を射程範囲に収めることができるが、狙撃兵が出来るのは範囲内にいる敵を殺すだけで、大切なものを取り戻したり連れ帰ったりすることはできない。それは狙撃兵の仕事ではないからだ。
夢だというのに、それがどうしても妹を失った記憶と重なってて、もし彼女を失ったら自分がどうなるかという想像に繋がる。安心しきった顔が次の瞬間爆風で吹き飛ばされ、どこを探しても身体の一部すら見つからなかったことが、喪失感になって彼を蝕む。
「……んぅ、どうかしたんですか、シメオン?」
眠たげな声と衣擦れの音を響かせながら、『彼女』が目を覚ます。深い青の瞳は寝惚け眼で、焦点が合ってないようだ。くすんだ赤い髪は手入れが行き届いており、それがさらりと『彼女』の頬を撫でる。
「ああ、起こしたか。ごめんな。少し、良くない夢を見ただけだ」
「良くない夢ですか。ボクも見ますよ、たまにですけど。シメオンがボク以外の女と家庭を持ってる夢です」
「それは非現実的な夢だな。ありえない。もし奇跡が起きたとしてもそれはない」
「ですよねぇ……。ボク以上にシメオンを愛せる人なんていませんから、そんなこと起こるわけがないって分かってるんですけど―――」
そこで『彼女』は、どこか達観したような顔をして、続けた。
「分かってても、辛いものは辛いんですよ?」
「ああ、そうだろうな。家族と離れ離れになるのは辛いことだ」
笑みを浮かべながら、彼はそう言って『彼女』の頭を撫でてやる。お互いまともな出自ではないが、それでも俺たちは上手くやれていると思っている。この日常が、この幸せが崩壊したら、どれほどの失望を味わう羽目になるのかと考えると、笑うしかないと、そう思いながら。
彼は家族を失うことには慣れていた。離れ離れになることも、それこそ二度と会えなくなることにも、慣れ切っていた。戦死した戦友やクーデターのどさくさで死んだ妹や、両親。その胸を貫く痛みも、耐える術も知ってはいるが、喪失感だけは時間がなんとかしてくれるのを待つだけだと知っていた。
そっと『彼女』を抱きしめながら、彼は考える。『彼女』を失った時に襲ってくるだろう喪失感は、いったい何年――いや、何十年かかれば埋まるのだろうかと。
「ん……家族、ですか。良い響きですねぇ」
「そうだろうさ。俺が無条件で信頼できるのは、戦友と家族くらいだからな」
「ふふっ。素直に嬉しいですよ。―――あと、最愛の人っていうのも良い響きだと思うんですよ?」
「それは俺も思ってたことだよ、スウィーティー」
まったく、どうしてこう甘ったるくなるほど甘えてくれるのかと思いながら、彼は『彼女』をそっと抱き寄せる。
その温もりは彼を冷酷な狙撃兵から人へと変えてくれた。彼はしばらく前まで想像もしなかった暖かな未来を夢想し、自分の家族が出来ることを心待ちにしていた。そして、荒んだ世界に安住を求めていた。
すべてが暖かく、甘い。それが彼を狙撃兵へと駆り立てる。それらを失うなと、彼の本能や欲望が命ずる。障害をすべて破壊し、『彼女』と共にあれと。
戦闘は楽しいものではない。それは人を変える。二度と元には戻れない。だからこそ彼は、せめて『彼女』と共に生きる道を選び、そしてそれを唯一の道だと信じた。
それが果たして叶うものかどうか、彼は知らない。その答えは、誰も知らない。
投稿者:狛犬エルス
最終更新:2013年06月05日 19:14