僕の心はすっかり落着いた。幾月、幾年と勝手に過ぎてゆくがいい。月も年も、この僕には、何も持ってきてはくれない。何物も持ってくることは出来ないのだ。
僕はまったく孤独だ。なんの期待も持ってない。僕はなんの恐れも無くこの月と年とに相向うことができる。僕の過ごして来たこの幾年かの生活は、まだ僕の手と目の中に生々しく残っている。
西部戦線異状なし エーリッヒ・マリア・レマルク 秦豊吉訳
第七遊撃隊の糧食を持ってきたと大鍋を抱えた白髪交じりの炊事班であるギヨーム爺が言うと、暗闇から僕らは這い出して、その周りにぞろぞろと、まるで蟻のように、彼の周囲に群がった。
ここはサウス・セントラル駅と旧フォート・アラモ基地前駅を結ぶ、二十七番鉄道線の中間駅、ドラッガーのプラットフォームである。今、大鍋から立ち昇る糧食の匂いに集まった飢えた狼が、八人集ったところである。
僕たちはみな土や埃、汚水や血で汚れたボロを身に纏っていて、その上にほつれの目立つ大きなチェストリグやいくつもの弾倉入れがくっ付いているベルトを掛け、手には猟銃店から盗んだライフル銃や拳銃、スコップや手斧を持っている。
頭には垢で黒っぽく汚れた帽子を被ったり、ニット帽を被ったり、運の良い奴はケヴラー防弾繊維製のフリッツヘルムを被っている。僕は運が悪い奴なので、武器は小柄な護身用拳銃に黒い野球帽と、丈夫で殴りやすいスコップを持っているだけである。
ギヨーム爺の周囲に集まった僕らは、各々個性的な行動を取った。隊長代理のユーリはどこで拾ったのかも知らないブリキのコーヒーカップを、ノミだらけのポケットから取り出して、爺の言葉も待たずに大鍋の蓋を開けようとして、掌に平手打ちを喰らって舌打ちしている。
両親をバンガードに拘束されたアフメドは、匂いに釣られたはいいものの、今月が断食であることを思い出してすっかり落ち込んでいた。しかしその隣に居たワイズが「神は天にいまし、地下にはいない」と言うと、パッと黄ばんだ歯を見せて笑っていた。
部隊最年少かつ煙草中毒のスクリューは目深にかぶったブーニーハットの奥から、物欲しそうな目で大鍋を見つめて口からは涎がだらだらと漏れ出して顎にまで伝っているのが暗闇でも分かるほどだった。
ギヨーム爺がユーリを軽く叱りつけた後、説教をして満足したギヨーム爺にユーリはむっつりとした口調で、隊長らしく、はっきりとした物言いで言った。
「第七遊撃隊、隊長代理、ユーリ・オルロフだ。さっさと飯を食わせてくれ。俺たちは腹ペコなんだ。もう三日も食ってない」
「待て待て。第七遊撃隊はこれだけか? 俺は全員分の飯を持ってきたんだ。十六名いたはずだ。全員そろわなきゃ飯は配れねえ。そういう決まりなんだ」
ギヨーム爺がその手には食わないぞ、という風ににやりと口元を緩めると、ユーリは気がふれた女のように口角を持ち上げて、僕らの方を振り返った。
「全員だとさ。ここにいるのが全員だ。残り半分はみんな特高に連れて行かれちまった。銃火器不法所持だとか、不法滞在だとかって理由でな。―――あと殺人罪と反逆罪だったかな」
ああ、そうだ、その通りだと、僕らは統一されていない別々の肯定を口にした。
俺の勝ちだと言いたげにユーリが振り返ると、長く我ら『地下鉄道』の炊事班として暗躍してきたギヨーム爺は、よろよろと後ずさって、ゆっくりと大鍋を地面に置いた。
「俺は腹減らしてると思って、十八名分煮てきたんだ。脂と肉を一緒に煮てきたんだ。でもあんたらは八人しかいやがらねえ」
「そうだ、ギヨームの翁。よくあることだよ。それで翁、十八名分ってことは、煙草ももちろん十八名分あるってことかい?」
「ああ」
ギヨームはパンパンになった背嚢をどさりと落として、中身を僕らに見せた。中にはパンとソーセージ、それから煙草とブランデーの小瓶がそれぞれ新聞紙に包まれていて、仄かに香る肉の匂いが僕らの食欲を刺激した。
「馬鹿馬鹿しいや、全部持ってけ」
その言葉を聞くや否や、ユーリはギヨームの背嚢から食べ物を取り出して、僕らに配り始めた。肉汁で破裂しそうになっているソーセージと、瓶詰されていたキャベツの酢漬けを新聞紙でくるみ、各々が持っているカップに空豆と牛肉のスープを注ぐ。
わいわいと僕らは食べ物に被り付き、その汁に、その肉に、その美味さに吐息を漏らした。怠惰の後の食事は決まって単調なものであるが、長く厳しい労働のあとの食事は、この世の幸福がよく分かると言うものだ。実際、食事をしながら誰かが、この時のために生きてるんだなぁ、と呟いたくらいだ。
牛肉はスープの味が染み込んでいて柔かく、ソラマメは肉の脂を中和するかのようにその独特な触感を口の中に残す。暖かいスープは胃袋から身体全体を暖め、染み渡り、僕らを癒す。胃袋と、カップを持つ手から、僕らの身体は暖められ、戦いと言う凍土から日常と言う安らぎと温もりの世界に引き戻してくれる。
「ああ、やっぱうめぇや」
黄ばんだ歯を見せながらアフメドが言うと、隣に座っているワイズが「疲労は味覚を鋭敏にするんだ」とどこで知り得たかもしれないことを呟いて、一杯目のスープを飲み干したアフメドが「へぇ」と言って感心した。
スクリューは新聞紙を開けると酸っぱくて人気のないキャベツの酢漬けを、実に美味そうに食い始めた。それを見て数人が、これは酢付けじゃないのかもしれないと思って、試しに酢漬けを口にするくらい、上手そうに食っていた。
でも結局、人気があるのはソーセージだ。肉汁がたっぷりと詰まっていて、油でてかてかと光っている。その匂いは、嗅いだだけで僕らの口から唾液がだらだらと流れ落ちる程で、僕らは皆ソーセージ中毒に陥っていたとも言える。
食事は長く続いた。一人二人分の配給がされ、残りの二人分に関しては、ギヨームの分になった。次の配給は十六名分持ってきてくれ、とユーリが交渉して、ギヨームがそれを了解したためである。ギヨームはあれでも狡猾で繊細だと、ユーリは知っているのだ。ギヨームは食事が終わると、背嚢を背負って帰っていった。
「誰か、交換しないか。この拳銃と葉巻だ」
食えるだけ食って、僕らがだらしなく汚らしい地下鉄道に座り込んでいると、スクリューが紙煙草を吸いながら、懐から鉄の塊を取り出して言った。
彼の交換しないか、というのは、決まって紙煙草か葉巻が対象だ。とはいっても、僕らの部隊で煙草を吸わないのはワイズくらいなもので、誰もその鉄塊と大事な嗜好品である煙草を交換しようとは思っていないようである。
アフメドなどはワイズに「吸わないなら、俺が吸うから頂戴」と言っているほどで、スクリューは目深に被ったブーニーハットを、さらに目深に被って、頬を膨らませていじけた。
「それ、なんの拳銃だい?」
スクリューが機嫌を損ねると、大抵悪いことに繋がるのだと知っている僕は、静かに言った。煙草を吸いながら大きな声を出すのは、苦労する。
「四十五口径。葉巻くれるなら、弾もやる。交換するか?」
「葉巻か。それならやる。足りないなら、ブランデーも」
「ブランデー!」
座りながらスクリューが跳ね、スクリューの大声に驚いて皆が跳ねた。僕も跳ねた。
「それなら、入れ物がある。分捕った。全部やる。全部くれ」
「交換だからな。全部やるよ。ほら、葉巻とブランデー」
「ああ」
僕が葉巻五本とブランデーの小瓶を差し出すと、スクリューはそれを分捕って、マガジン三つと革製ホルスターと、弾箱三つを置いて、プラットフォームの奥に引っ込んでいった。
物好きな奴め、と誰かが嘲笑するのが聞こえたが、僕はそれを無視して床に置かれた四十五口径の拳銃を手に取り、マガジンと、ホルスターと、弾の入った箱を回収して、座っていた場所に戻った。
僕が持っていた拳銃は、三十八口径で護身用の小さなものだったから、丁度取り替えたかったのだ。前に、赤毛で華奢で、可愛くてコケティッシュに笑う娼婦に貰った拳銃だから、捨てるのは勿体なかったから、僕は拳銃から弾を抜いてポケットに突っ込んだ。
新しい拳銃は重かった。グリップが太くて、マガジンから覗く四十五口径のホローポイント弾は、無機質な狂気を僕にチラチラと見せる。この狂気は、人を虜にするのだ。銃の狂気に取りつかれると、碌なことがないと僕は知っていた。
身体が覚えた簡易整備で銃の状態を確認し、僕はこれがなかなかの代物であると感じ、惚れこんだ。これがあればなんでも倒せるような気がした。しかし、僕らはしがないテロリストでしかないのである。たかが拳銃一丁でできることなど、些細なことしかないではないか。
「これでお天道様がおがめりゃ、文句ねえんだがなぁ……」
ふいに、ユーリが年寄みたいに疲れ切った声を出して、石綿の灰色と煤の黒で覆われた天井を見上げる。もう僕らは、三ケ月近く太陽を見ていないのである。
地下鉄道の末端である僕らがこれほど苦労したところで、僕らの上で暮らす人々はなんの苦労も無く暮らしていける。僕らが何人この地下で死のうとも、僕らの上にいる人々は僕らのことなど知りもしないのだ。
だが、僕らは戦わなくてはいけないと教え込まされていた。そうすることが自由への道であると。お前たちのしがない、単純で簡潔な人生であると。ボロの服と申し訳程度の武器を手にして、僕らは大人の地上帝国に闘うヒーローなのだと。
理由などない。闘うことに理由がいると言うのは、余裕があるものの言う事である。闘うことに理由などいらない。理由と言うのは、つまるところ、それらしい原因をほじくり出して、お前はこんな悪い事をしているんだと、ぶん殴ったあとで言えばいい話のことなのだ。
食後の休憩が終わり、僕らは旧フォート・アラモ駅へ前進した。そこには第四遊撃隊がいたはずだが、プラットホームには誰もいなかった。争った跡も、野営した痕跡も見つからないのだ。
誰かが噂した。
「スカヴェンジャーが出たんだ」
僕らは震えた。それは僕らにとって、死と同義の名前であったからである。
投稿者:狛犬エルス
最終更新:2013年08月01日 02:52