アインベルター社の、いや、同社御令嬢
ルスィエル女史の執念深い追跡調査の結果、遂に憎き虫オタクの巣窟が判明した。
どれほどの費用が奴らのせいで無駄になったのかはわからない。
怒りのバロメーターは空の果て、オゾン層を貫いて、太陽系を一周していたが、それを女史は正確に計算していた。375と6分の4回殺さなければ清算できない怒りだった。
そして変態研究者どもはあろうことかオンライン上に実験参加の依頼を出していたのだ。
スクローンとワィリスという二人の傭兵がそれを受託したようだったが、「構わん、鎧袖一触、如何なる障害も踏み潰すまでだ」とルスィエル女史は三匹のアホ――馬、カルビ、サンドバックを連れて自ら戦地に赴いた。対生体兵器用として万全の装備を施されたヴァリアシオンで、二度の恥辱を味わわせてくれた性根の腐ったポテトチップス常食眼鏡男たちにたっぷりとお返しをするつもりだった。
このヒートロケットは、行儀は大変よろしいが腹の底がいまいちわからない不気味なCランク傭兵の分。
そしてこの命中特化志向型プラズマガンは、スネ毛ボーボーのムラクモバカの分だ。
だが、いざ現場に着いてみると、様子が変だった。
研究施設は砂に覆われた大地にぽっかり空いた発掘現場を利用したものだった。深さは800メートルもある。淵から下を覗き込んでいたとき、大きな振動を感じた。熱源走査を行わせると大量の反応が地上へと這い出しつつあることがわかった。
「つまり自滅したってわけね。お似合いの最後じゃない。アホらし」
そう鼻で笑った女史であったが、通信機の向こうで呑気にポテチ食ってるミストロックとは違って、悠長に構えていられない事態であることは理解できていた。あんなものは地上に存在していいものではないのだ。
女史はすぐさまCDの乗るリーゼントリッターを130キロ離れたカストリカまで“ちょいと”走らせて、傭兵を呼んだ。
30分後。一機の輸送ヘリとその影に必死に追いすがるリーゼントリッターが到着した。時間ピッタリだったが女史は誉めなかった。できて当たり前なのだ。
傭兵が乗るACはスクラッチの途中で飽きて青い塗料を上からぶちまけたような不思議なカラーリングをした四脚型だった。スナイパーキャノンにスナイパーライフル、そしてレーザーライフル。どうやら狙撃を志向した軽量機のようだ。女史が頭の中で作戦を立てていると、四脚型が通信用レーザーをヴァリアシオンに向けて照射した。
『こちらシストルム。お前が雇い主か?』
「え!?」
『なんだ、私では不服か?』
「あ、いえ。こちらはアインベルターのルスィエルです」
女史は完全に虚を突かれた。低いトーンの凛々しい女性の声に柄にもなく、どきどきしていた。何故か中世時代の軍服を来た男装の麗人が頭に浮かんでくる。幼い頃に見たカートゥーンの呪いだろうか。ああ、確か名はアンドレ――。
「と、とにかく」と前置きして言った。
「いいですか、アンドレ――じゃなかった、シストルムにお乗りの方」
『マウだ』
「マ、マウさんっ」
『……なんだかこそばゆいな。シストルムで結構だ』
「じゃ、じゃあ、シストルム、事態は急を要します。私たちが先行しますので、あなたは――」
『皆まで言うな、自分の役割くらいは心得ている。そちらが取り逃がしたものを屠ればよいのだな』
「え……あ、は、はい。それでですね――」
『FCSには頼れんのだろう? なら狙い撃つまでだ』
シストルムがブースターを吹かす。急斜面の上に移動すると、張り付くように四脚を広げ、アンカーを突き刺した。右腕に抱える狙撃砲を洞穴に向ける。その射角には充分な余裕があった。これなら不意の事態にも対応できるはずだ。
女史は傭兵の手際の良さに舌を巻いていた。こちらがとやかく言うまでもない。まともな傭兵は久しぶりだった。
「あ、で、では、お願いします。各機作戦開始」
インカムから混ざり合った“了解”の言葉が溢れたが、その中でも艶のあるアルトボイスは何だかこそばゆい気持ちがして、女史は人知れず身をよじった。マウの存在を背後に感じて、焦りのような感情が心臓を締め付けていた。
な、何だかおかしいわ、頭が全然働かない。火照った頬をぴしゃりと叩いて集中する。そうだ、今はアインベルターの、いや世界の存亡がかかった緊急事態なのだ。しっかりしなくては。だが、次の瞬間にはアンドレの姿をしたマウが大脳皮質を覗き込んでくる。
女史は震える指を何とかモニターに走らせると、プライベート回線を開く。相手は傭兵と共に後方援護を任せたモーヒルガンだ。
「
ビッグライダー」
『何でしょう、お嬢』
「その人に変なことをしたら……わかっているわね?」
『へ? ああ、はい。了解です』
そわそわするヴァリシオン、不安げなリーゼントリッター、やや遅れてフローヘッド。三機が螺旋状の坂に沿ってぐるりぐるりと下っていく。
中腹まで到達したとき、底のゲートが吹っ飛んだ。そこから這い出す、おびただしい数のムシ、ムシ、ムシ……。ぎちぎちと体躯を動かす音が重なり合い、ひとつの轟音となって大地を揺るがす。
莫大な量の個体がくんずほぐれつ、まるで“何か”から逃げるように我先にと迫り来る様子は、何度見ても慣れなかった。女史は吐き気と嫌悪感を噛み潰しながら、3つのトリガーを引き絞る。数的不利を克服するためにヴァリアシオンは武装の一部を変更していた。肩部から連射されたヒートロケットが前衛の膨らみに突き刺さり、業火と体液を撒き散らす。雪玉のようなプラズマ弾が放り込まれると、内部に圧縮されたエネルギーを解き放ち、うねる電磁線が光沢のある外骨格を貫いていく。それらの空隙を埋めるようにガトリングガンの咆哮が洞穴を反響する。
後続の二機も攻撃を開始していた。
フローヘッドは何を思ったのか足場から飛び降りて、縦穴の底、節足の荒波の中へと消えた。ヒートキャノンの“おおんおうんおんおうん”という唸り声とプラズマキャノンの“ちゃうちゃうちゃうん”という合いの手が聞こえるので、たぶん無事なのだろう。
対してリーゼントリッターは此方側の足場から向こう側のそれへと飛び跳ねながら、徹甲弾と散弾、そして手動で起動させた迎撃機銃弾の豪雨を降らせている。
女史はその久しぶりの勇士を見て、どうやってあの髪型でヘルメットを被っているんだろうか、とふと考えた。その一瞬の隙をついて、群れから離れた一部が一斉に背甲を展開していた。薄く茶色い翅が粘液を滴らせながら、ずるりとはみ出した。
「なっ――」
低周波、そして飛翔。黒雲がリーゼントリッターを弾き飛ばし、ヴァリアシオンの眼前を通り過ぎていく。
突破された。不覚だった。奴らも進化していたのだ。虫畜生とて侮れない。
女史は動揺を隠せないまま、ヴァリアシオンを後退させる。一段一段上昇しながら、下方に攻撃をくわえていく。飛翔型には到底追いつけない。同胞の死体を踏み潰しながら這い上がってくる黒い渦潮を押し留めるだけで精一杯だ。
「ビッグライダー!」
『すまねぇ、お嬢。もう残弾ゼロだ』
「いつ撃ち尽くしたし!」
仕方ない。
「叩き落として、アンドレ!」
足下の淵に爪を立てた甲虫の頭にヒートロケットを撃ち込みながら、女史は叫んだ。間違えたが、そんなことを気にしている場合ではない。
リーゼントリッターが虫の覆いを払って復帰した。フローヘッドが御輿のように虫に背負われていた。そんな混沌を尻目に女史が侵食する黒い壁紙を三点射撃で引き裂いていたとき、頼もしい美声が鼓膜をくすぐった。トリガーに掛かった指が思わず曲がり、プラズマの爆発が眼前に迫りつつあった一群を溶かして混ぜた。
『任せておけ。ミグラントの一つや二、ず――』
だが、そこで途切れる。女史は不安になった。リーゼントリッターが虫の群れに再び呑み込まれていたからではない。フローヘッドが底からゆっくりと浮上し、ある程度の高さでゆっくりと旋回、またゆっくりと沈んでいったからでもない。マウの言葉尻が垂れ下がっていたからだ。
『え』とマウ。
「え?」と女史。
『むし』
「虫?」
間抜けな一言一言に女史は思わず反復する。それと同時に、重なった四匹をガトリングガンの連射でまとめて穴だらけにする。穴から――寄生していたのだろうか――糸状の虫が這い出す。プラズマで駆除しているときに、受信。
『むむむむむしがっ、むしがっ!? なぜ!? どうして!?』
マウだ。ひどく取り乱した声が通信機から溢れ出す。
「え。なに。“どうして”?」
女史の片眉が吊り上がる。組み伏せてきた一匹を蹴り落とすと、180度ターン、背後の壁を這い登っていた三匹のやや上をヒートロケットで狙い撃つ。壁の一部が板のように剥がれ、虫を下敷きにする。
「何を仰っているのですか。依頼内容はちゃんと――」
『ふざけるな、きいてないぞっ!』
「は? ちょっとCD。どういうことなの?」
『えっ!? 俺はちゃんと言いましたよ!』とCDが吠える。
リーゼントリッターの腕が虫の山から生えている。
『“せいぶつへいき”っていったらふつう、“さいきんへいき”とかだろうっ! きょだいな“むし”なんて、だれがそうぞうできるかっ!?』
上擦ったマウの反論に女史は、なるほど一理あるな、と思ったが、いやいや、当方は正確に伝えたのだ。それに、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「此方の情報に不備があったことは深くお詫びします。ですが、今は状況が状況ですので――」
『しるかっ! わわわらし、わたしはきかんさせてもらうっ!』
「――はぁ!? ビ、ビッグライダー、取り押さえて!」
慌ててモニターをタップ、最小化されていたウィンドウを開く。
『な、なにをするっ!? やめれ、やーめーれっ!』
『あ、暴れるなって! 殺すわけじゃないんだから――って、いてぇ!』ビッグライダーが悲鳴を上げる。
『がるるる!』
この唸り声は誰だ?
数分前まで落ち着きを払っていた人間とは思えない。
『え、ACがこんな動きできるなんて! まるでノミじゃないか!』驚嘆するビッグライダー。
『おい、むしはやめろっていってんだろ! わたしは“くも”と“くろいかいぶつ”とかはまじにむりなんだ!』
女史は絶句した。
彼女の中で何かが砕けた。
もはや環境音と化したパルスキャノンとヒートキャノンの夫婦漫才の中へとどんどん意識が溶けていく。アンドレが手を振って遠ざかっていく――。
“あの、お嬢?”、というCDの不安げな呼びかけと目の前で炸裂した白い液体に我に帰る。ガトリングガンが柔らかい腹に突き刺さり、弾丸を吐き出したのだ。跳弾によって破裂した死骸は悲惨だった。
女史は一言、ビッグライダーに告げる。そして無言のまま戦闘を再開。
ヒートロケットで足場ごと粉砕し、ガトリングガンを振り回す。そして、足下にひれ伏した頭部を踏みにじったとき、インカムからコックピットの開放音が漏れた。
『わっ、わっ! なんだおまえ!』
マウが慌てふためく。その向こうからビッグライダーの疲れ果てた声がぼそぼそ聞こえる。
『や、やめろ! あっ、やめ――んぐっ』
弾切れになったプラズマガンを投棄しながら、指先を振るいモニターの隅に小窓を表示する。シストルムのカメラと連動した映像だ。十字が薄く掛かった狭い視界の中で、飛翔型のブレた影が迫ってきている。
『いや――』
マウの拒絶の背後でビッグライダーが気持ち悪いほど優しく囁いていた。
“ゆっくりでいいよ。ほら、絞って、絞って。そうそう。優しく握って。大丈夫。恐くない、恐くない”
影が拡大され、その輪郭がはっきりとした形を持ち始める。
『いやだ――』
小窓いっぱいに映る複眼。粘着質な涎を撒き散らしながら何重もの横顎が開いたり閉じたり。柔らかそうな腹とうっすらと毛の生えた脚がいっぱい。
“その出っ張りに指を、おほっ、そうそう。あ、あとは、い、一気に……うっ――”
『や、やだぁぁぁぁぁぁ!』
狙撃砲が吼え、ちょうど一直線に並んだ飛翔型をまとめて貫いた。白い体液が飛び散って、小窓は白に染まる。そこには細長い線虫がびっしりと張り付いていた。
ここはガレージの隅に設けられた休憩室だ。リノリウムの床に自動販売機が3つとラウンドテーブルが4つ。囲む白い壁の一つの面には硝子がはめ込まれていて、除染課程にある五機のACが見える。
そして、走り回るスタッフたちを尻目に、不揃いな五人が静かな闘争を興じていた。
「私は悪くない」
そう眉をひそめるのはマウだ。
声に違わずなかなかの麗人だったが、その趣味は壊滅的だった。女史には全く理解できなかった。そんな歳でもないだろうに、長く艶のある金髪をツインテールと呼ばれる髪型にしていたし、彼女の乗機シストルムが掲げたエンブレムはよくよく見れば可愛らしい猫だったのだ。この人は年老いてもこんな姿でいるのだろうか。
「それに作戦だって成功したんだ」
そんな女史の心内の蔑みをよそに、マウは大きくかぶりを振って、金色の触角を振り回す。その範囲は凄まじく広く、横でポテチ食ってる
ミストロックと全身痣だらけのビッグライダーの顔にべしべしと当たっている。
「説明しろ。報酬減額とはどういうことだ」マウが身を乗り出す。
「ですから。そちらが敵前逃亡を図ったのは事実、相応の処置は致し方ないでしょう」女史はさらりと返す。
「敵前逃亡? 私がいつそんなことをした」
「CD」
女史が軽く手を叩くと、後ろに黙って立っていたCDがタブレット型情報端末を取り出した。
モーヒルガンのカメラが捉えた映像だ。
『しるかっ! わわわらし、わたしはきかんさせてもらうっ!』
シストルムがノミの如く飛び跳ねる。モーヒルガンが追う。醜態の晒し合いだ。
「どうです。これでもまだシラを――」
「おい」マウが遮る。「シラはやめろ。ミが後ろについたのを連想するだろうが」
「……まだとぼけるおつもりでしょうか?」
腕を組んで、じっ、とタブレットを睨みつけていたマウが呟いた。陰謀なう、と。
「そうだ。これは陰謀だ」
「はぁ?」
「こいつは偽物だ。私を陥れようとしているんだ。そうに違いない」
“くそっ、虫社会上層部めっ。社会的に抹殺しようというのかっ。うぐぐ”などと悔しそうに唇を噛み締めているマウを見て、女史は頭蓋の底が痛くなった。眉間を強く指圧していると、CDがその耳に囁いた。
「失神したせいで、記憶が吹っ飛んでんじゃないですかね」
「そんな都合のいい話があるわけないでしょ」
そうなのだ。あの飛翔型を撃墜した直後、マウは気を失った。ビッグライダーが代わりにシストルムを操って何とか虫どもを殲滅できた。実際のところ彼女は何もしていない。本来なら報酬など与える必要はない。追い払ってもいいくらいなのだ。
そんなことを考えていると、ひとりで何故かヒートアップしたマウが叫んだ。
「そうだ、私にも矜持はある! いや、そうでなければ人殺しなどできるものか!」
彼女はぶんぶんと羽音を立てて、かぶりを振った。女史は頭を仰け反らせて金の暴虐を避ける。
「駄々をこねるのもいい加減になさい」
テーブルに怒りをぶつける。そして冷たく言い放った。
「Aランク傭兵と謳っておきながら、不意の状況変化に取り乱し、敵前逃亡を図る始末。それだけには飽きたらず、確たる証拠を突きつけられてなお陰謀などと有りもしな――「おい、アリは止めろ。まんま過ぎるだろうが」――ちょっと黙りなさい! わかりました。あなたがそうやって我々アインベルターを侮辱するつもりならば、此方にも考えがありますわ。OVA運営にこのことを弾劾し、我が社との連携を断たせていただきます」
バッドディフィートに衝撃が走る。骸骨がゆらりと揺れ動き、ポテチが音をたてて割れる。CDの髪の先がへにゃる。
つまり、我らがお嬢さまはOVAと対立し、修羅の道を突き進む気でいらっしゃる。その冷徹な表情の下にあるのはまさしく般若の面でござらぬか。おお、なんたる禍事だろう。
「お嬢、そ、それは、いくらなんでも」CDが不安げに進言する。「社長は絶対に反対しますよ」
女史はそんな囁きを鼻で笑った。CDにだけ悪戯っぽい笑みを見せる。
「いいのよ、ちょっとびびらせるだけ」
「え。な、なるほど」
「私がそんなに愚かな女だと思って?」
CDは応えなかった。
「それで、どうしますか。マウさん?」
マウは黙りこくった。瞼を閉じて、深いシワを眉間を刻んでいる。苦しげな唸り声が自動販売機の駆動音とセッションする。
勝った。女史は心の中でガッツポーズをとった。馬鹿な女め。私に恥をかかせたことを後悔するがいい。これは貴様が殺したアンドレの仇だ。
「じゃあこうしよう」マウがぱっと顔を上げる。
「へ?」と女史。
今度はツインテールの代わりに人差し指を振って続ける。
「君たちが言うように――真実は違うのだが――私は作戦を失敗したとしよう。だが君たちは私のシストルムを無断で使用した。これは事実だ。故に私は君たちから貸与料を請求してもよい立場にある。よって――」
「あ、あの、私の話、聞いてました?」
「え? ああ、もちろん。OVAを敵に回すなんて茨の道だぞ。まぁ、頑張ってくれ。それでだな――」
駄目だ。この女は何を言っても通じない。彼女が第9地区外部の出身であることを思い出した。そうか元より私たち人間とは違う生き物なんだな。
詭弁を弄する金髪ツインテールがぼやけていく。かつて身悶えさせたアルトの声は自販機の重低音やポテチを咀嚼する音に混ざり合って、無意識の彼方へと飛び去っていく。そうやって女史は現実から逃避し、硝子の向こうで走り回るスタッフを目で追った。巨人の体に貼り付いて作業をする様子はまるで虫のようだ。シストルムのエンブレムを塗り直しているのもいる。待てよ。虫。エンブレム。虫。エンブレム……。
女史の頭の中で戦略がどんどん積み重なっていく。
「マウさん」女史はあれからずっと喋り続けていたマウの言葉を遮り、言った。
「あのエンブレムには何か思い入れがあるのですか?」
「へっ!? べべべつに、べつに何もないぎゃっ!?」
この取り乱し様、先の虫事件と同じだ。女史は営業
スマイルを浮かべた。
「それほどあのエンブレムの生き物がお好きなのでしたら、報酬の代わりに一匹や二匹、差し上げても宜しいですのよ」
「なに? 本当かっ!?」
「ええ。アインベルターの複製技術は世界一です」
クローン技術は未だ復元途中だが、あれくらい小さな生物種なら不可能ではない。
「あっ、いや、でも結構だ!」だが、マウのプライドが許さない。それはアインベルター社ですら復元不可能にまで崩壊していたのだが。
「私は動植物にうつつを抜かすほど愚かではない!」
「ああそうでしたね。じゃあこの話はなかったことに。行くわよ、三人とも」
女史が笑顔を浮かべたまま席を立つ。バッドディフィートの面々だけではなく、マウも当惑した表情を浮かべる。
「あっ、ままま待て!」
「他に何か?」
振り向くとマウはツインテールの先を指先でいじくりながらもじもじしていた。
「まままぁ、そうだな、どうしてもというならば話は別だ。よし、貰ってやろう」
「は?」
「むっ、かかか勘違いするな! べべ別に可愛いからとか、撫で撫でしたいとか、一緒にゴロゴロしたいとかじゃないぞっ! 虫を――じゃなくて、自宅警備のためにだな――」
「はいはい、わかりました。じゃあ、後日――」
「後日っていつだ」
「え? ああ、じゃあ一週間後に」
「何時だ」
「何時って……。そちらが指定した時間に」
「それは本当だな」
「しつこいな」
「よし。では失礼する。私は忙しいのでな」
マウは顔を覆いながら駆け出した。指間から見えたのは、笑みを必死に抑えようとするが全然隠し切れていない、ニヤニヤした不気味な表情だった。
「一週間後、一週間後の朝九時半だぞ。忘れるなよ!」
出入り口の縁から顔を出してマウは叫ぶ。そして触角をなびかせながら走り去った。
「何でウチの依頼はアホしか集まらないのよ……」
女史は嘆息した。
CDが訝しげにその真意を尋ねる。この時代、愛玩動物はその希少価値故に破格の値段で取引きされる。それがクローン体であったとしても今回の報酬の三倍くらいの値段になるからだ。
だが、ミストロックが代わりに応える。的を射た発言に女史はただ頷き、CDとビッグライダーは、ああ、と納得した。
「くぅぅぅ! 仕事空けの一杯ってぇのはぁ、たまらないぜぇ! なぁスクローン!」
そういえば、さっきから隅で酒を飲んでいる二人の男は何なのだろう。くたびれたランニングシャツを着た男は頭に毛髪をちょこんと乗せて、饒舌に喋っている。それに相対するヒッピーのような長髪の男は、何故か上裸であり、そのはちきれんばかりの筋肉に弾帯ベルトを巻きつけている。
女史は、なぜ自分の周りには普通の人間がいないのだろう、と頭を抱えた。何でもないような人間ですら変な奴らなのだった。
マウは薄暗い部屋の隅でうずくまっていた。六個の時計を周りに展開し、ぶるぶると震えている。
一週間、眠れぬ夜を過ごした。慣れない情報端末を使い、ネットの海を潜った。猫に関するあらゆる情報を貪り、道具も揃えた。トイレ用のトレイとそこに敷き詰める砂。
レンジカンパニーで買った自然食品を使ったキャットフード。ロストエデンにまで赴いて入手した清浄な水。マタタビ。
そして、ついに九時半がやってきた。
アラームが一斉に叫びだしたのと、チャイムが鳴ったのは同時だった。
マウは全ての時計を叩き潰し、駆けた。
青年から大きなダンボールを受け取り、OVAに登録していた仮名でサインをする。
「あ、案外、重いのだな……」
厳重に封をされた箱の重みは幸せの重みさ。ニヤニヤしながら彼女はガムテープを剥がした。
スーツ姿の男が通りを歩いている。
そこに大きな瓦解音が響く。
驚いて見上げると女が窓ガラスを突き破って、飛び降りていた。ダイナミック・スイサイドか!
だが彼女は走行中のトラックの荷台に見事に着地すると、スピードスケートのスタートの構えをとりつつ金の触角をなびかせて去っていった。
「なんじゃありゃ」
呟く男の頭上に大量のガラスの破片と、それ以上に大量のチャバネゴキブリが降ってきた。
―終わり―
(投稿者:蟻蛾)
最終更新:2013年11月27日 04:44