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 部屋の中、男が一人、電話をしていた。
何か良い事でもあったのか、とても上機嫌な様子で、饒舌に電話をしている相手に語りかけている。
 それで内容も微笑ましいものであれば、平和なものだったのだろうが、残念ながら、とてもではないが穏やかには済まなそうな話である。私は知っている。この男が楽しそうに話をしているのは、誰かの祝福を喜ぶ話ではないという事を。この男が、喜んで笑っている時は、誰かを永遠に救われぬ暗い底へとたたき落とした時にしか見せない、吐き気を催すような、人の道から外れた話であると、理解していた。
 分かっていてなぜ止めないのか、と言われるかもしれないが、私には無理だ。私はまだ死にたくはない。蛮勇だけで遥かに上の存在に対して喧嘩を売るような真似は出来ない。
 臆病者め、と罵られてもいい。私には護るべきものがあるのだ。その為であればなんだってしてやる。あの悪魔と取引でも何でもしてやる。それだけの覚悟が私にはあった。

「済まん、時間が思った以上にかかっちまったよ」

 私の前で、電話を切り上げて男が話しかける。酷く嬉しそうな声だった。聞いているこちらとしては、腹が立つほどに、陽気さを感じられる。

 「いえ、そこまで待ってませんから」

 「そう言ってくれると、助かる」

 男が笑う。この男の笑みは、多くの意味を持つことがある。それを見逃してはならないというのを、皮肉にも長く付き合っている私は分かっていた。こんな男と長く付き合っていても、良かったと思えることなど一つもなかったというのに、だ。
 男が椅子から立ち上がり、こちらへと歩いて来る。男が歩みを進めていくたびに、かつかつと、無機質な部屋に無機質な音が響いていく。熱の一つも感じられぬ部屋の中で、男と私は向き合った。

 ――怖い。

 ただ向き合っただけだというのに、私は既に恐怖を覚えていた。男は、笑顔のままでいるというのに、私には、その笑みが、拷問をする前にして、悦びを堪えきれぬ異端審問官にしかみえないのだ。

 「おいおい、怖がるなよ」

 男が、迷子になった子供を落ち着かせるような甘い声を出す。その優しい声が、私を縛り付けていく。蛇に睨まれた蛙。今の私はまさにそれだった。男が、くくっと嗤う。

 「今度の依頼については俺が行く。あいつは忙しいらしくてな。俺の方が適任なんだとよ。そう言われたら行くしかねえよな」

 よくそう言えたものだ。この男は、面白ければ、構わないのだ。自分さえ楽しめればそれでいいとすら思っている男だ。今回の依頼とて、内容がこの男にとっては愉快なものだったから引き受けただけだろう。
 ああ、またか、と思う。
 この男が依頼に行くという事であれば、新たな犠牲者が出るということだ。男女問わず、この男は徹底的に嬲るのだ。心が折れるまで、徹頭徹尾責め続けるのだ。悪趣味などというものではない。近くで見ているだけで、私は嘔吐した挙句、這々の体で逃げ出したくらいだ。助けを求める悲鳴、家族の誰かを呼ぶ声、徐々に小さくなっていく喘ぎ声。どれも、私の耳の奥深くに強く刻み込まれている。
 人知れず、神に向かって懺悔した事だってあった。その程度で、あの男に協力したという大罪が消えるはずもないが、そうでもしなければ、自分の心が狂ってしまいそうだったからだ。狂気に堕ちてしまえば、どれだけ楽だっただろうかとは考えるが、思考の隅に追いやる。無駄な時間だからだ。

 「そうですね。では私は何をすればいいでしょうか」

 「標的の弱み、もしくはされたら嫌がりそうなもんでも調べといてくれ。駄目で元々だからな。気楽にやってくれや」

 男が、顔面に不自然な笑みを張り付けたまま答える。よく言うものだ。気楽になど、とても出来はしない。自分が使えないと分かった時点で、躊躇いなく斬り捨てるつもりだというのに、白々しく言葉を吐き出せるものだと、感心する。この男の基準は、長年付き合わされている私ですら、把握しきれていないのだ。特に対人関係については、この男の内面を覗かなければならないのである。それだけは御免被る。ならば、まだ自分でこの男に都合のいい道具だから利用されていると思い込んだ方が気楽だ。この男とこれ以上親しくもしたくない。この男は、悪逆という言葉では収まりきらないからだ。悪党でもない。外道とも言い切れない。その不確かさが、私は無性に怖いのだ。
 悪意が凝縮され、人の形を成していると言ってもいいだろう。そして、何よりも貪欲である。貪欲と言っても、ただ貪欲なのではない。物欲もあるだろうが、この男が最も貪欲なのは、己の趣味に関してであろう。
 中でも、人が顔を歪める瞬間がたまらなく好きだというのは、この男の悪趣味な嗜好であるというのは知っている。
 端金で、ささやかな幸せを掴んだ親子に対して、歪められた感情の復讐の依頼を請負い、父親の目の前で母親を犯し、幼い娘を犯し、発狂しそうになる父親を縛り付けてニヤニヤとして嘲笑い転げていたことすらあるのだ。
 そして、顔が見事に、悪鬼を思わせるほどに歪んだ家族達を直視して、言い放ったのだ。


――必ず殺しに来い。


 当時の私は、この男が毒物でも食ったのかと思ったが、そうではなかった。冷静になれば、この男の頭の中には、どれだけ最低な事が詰まっているか、すぐに分かったというのに、私はそれを拒否していただけだ。
 答えは、実に簡単なものだ。
 自身の尊厳を蹂躙された娘は、父親と、あれだけされても奇跡的に狂わずにいられた母親が止めたのにも関わらず、傭兵になっていたのだ。
 そして、ある程度実力をつけたところで、あの男を抹殺する依頼を請け負ったのだ。あの男の、当時の傭兵ランクは下位。復讐者は既に、男よりも上位ランクにいた。実力も高く、ある程度の評価もされていた。女だからと、舐められるの嫌っていたのもあるだろうが、依頼をきっちりと完遂させ、裏切りには落とし前をしっかりとつけることも高評価に繋がっていたのだろう。同僚からの評判も良かった。

 そして、依賴の日、男は笑顔で戻り、女は消えた。

 何があったのかなど、聞きたくもない。男が上機嫌で帰ってきて、笑い転げていたのだから、察するべきであろう。ただ一つ、男にとって残念であったのは、己を抹殺しようとする依賴が激減したという事態だろう。自分の命ですら、気軽に趣味に注ぎ込める。命が趣味に使えなくて、嘆く男など、この男ぐらいしかいないだろうし、そんな人格破綻者はこの男だけにしてほしい。
 無論、傭兵というものが、人格破綻者の行き着く所でもあるというのは、仕事上、よく知っているから、この願いは無駄にしか過ぎない。

 「なんだ、随分と考えこんでいるな。良い仕入先でも思いついたのか?」

 長く思考の海の中を彷徨っていたせいだろうか。男が笑みを崩さないまま、長考していた自分に対して、指摘する。

 「ああ、そんな所です。情報としては対象者の弱みだけでいいのですか?」

 「あいつが行くならもっと細かく聞くだろうがな。今回は俺だ。だからそれだけで十分だ。お前の仕事は評価しているからな」

 評価されてなければ、既にここにいないだろうが、と言いたくもなったが、素直にここはありがとうございます、と礼を述べておいた。

 「それで、あの人は今回の依賴には出ないのですね?」

 もう一度、確認をする為に問いかけ、男は肯定するかのように頷いた。それだけを確認すると、私は足早に背を向けて、この男と私しかいない、無機質な牢獄の如き部屋から退出する。
 あの男――ラフストックについての正しい情報を持っているのは私だけだろう。ラフストックとは、一人ではない。二人いるのである。表に出ているのは、あの男の方で、表に出てきていない男がいる。電話をしている相手がそうなのだと思うが、未だに微かな情報すら確認出来ていないのだ。余程警戒心の高い人物なのだろう。何せ、拠点の一つを教えてもらっている自分にすら姿も声も自ら聞かせようとはしないのである。それだけ周到な人物であれば、騙しの依賴をわざと引き受けて、皆殺しにすることも容易いのかもしれない。あの男自身も、相当な実力者であるのは身を持って味わっているが、電話の向こうの相手はそれ以上なのだろうか。

 「……好奇心は猫をも殺す、か」

 止めておこう。情報屋としての欲求を無理矢理心の中で押し殺す。
 あの男達は危険すぎる。裏表問わずに、触れるべき相手ではない。深淵を覗き込み、そのまま吸い込まれて帰ってこれなくなる。
 長く情報屋として生きて、培ってきた経験と本能が警鐘をけたたましく鳴らしている。
 これに逆らうと碌な事がない。
 私は、警告に従って余計な思案を振り払い、あの男の拠点を後にした。






 「で、今度は俺の好きなようにしていいんだな?」

 男は、他に誰もいない部屋の中、一人、電話をしていた。生を感じさせない部屋の中で相変わらず誰に見せるわけでもなく、嘲笑っていた。

 「ああ、そうだな。今回はアンタの番だろうさ、俺は十分に楽しませてもらったし、今度は兄弟の番だろうさ」

 もう一人の男の声が、部屋の中に響く。不可解な事に、電話からではなく、男の部屋から声が聞こえてくる。

 「助かるぜ、兄弟。アンタと俺は唯一無二の兄弟であり、家族であり、仲間だ。まさに一心同体だな」

 「言うな、兄弟。男色に思われるぞ。まあ俺たち以外には誰も居ないがな」

 声が言うように、部屋の中は男だけしかいなかった。男がそれの何がおかしいのかは知らないが、盛大に笑い出す。それから一度黙ると、もう一人別の男の笑い声が響いた。

 「そういえば、あの女はどうしてる?」

 「離したよ、兄弟。あの女の憎悪はいいものだからな、次が楽しみさ」

 「飼ってても面白かったがな。まぁ次があるか」

 「そうだよ、兄弟。次を楽しもう。それじゃあそろそろ俺は行くぜ、兄弟」

 「ああ、良い狩りを、兄弟」

 男が電話を置くと、声はぴたりと聞こえなくなっていた。男が上機嫌で歩き出していくと、部屋の中に無機質な音が響く。
 電話は、よく見てみれば、破損していた。


投稿者:ニーベル
登録タグ:ニーベル 小説 読み切り
最終更新:2013年12月26日 15:28