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 夜、少女がヴィルヘルムの部屋を尋ねると、彼は一人ベッドの上で汗だくになって横たわっていた。大きく息をついていて、そして、机の上にはミネラルウォーターの入ったペットボトルと、それから幾分の食塩が、容器に入っている状態で放置されていた。「ヴィルヘルム?」と彼女が声を掛けると、少年は顔を覆っていた腕を少しだけずらして、そこに少女が立っているのを確認した。
「ニーナ、どうしたの」
 彼は未だに息も絶え絶えと言っていい状況にいたけれど、でも返事そのものははっきりとしていた。
 ニーナ・ロビンスはそんなヴィルヘルムのことを幾分呆れた表情で眺めていた。
 ドアを押し開けて、それから部屋へと二、三歩入ってきて、彼の脇に仁王立ちに立った。そして、じっと彼の顔を眺めていた。ヴィルヘルムは、そんな彼女が一体何を示そうとしているのかよく分からず、相変わらず収まりのつかない息を抑えようと努力するばかりだった。
「――どしたのさニーナ」
「ヴィルヘルムは、一体何になりたいの?」
 そんな具合にニーナは問いかけている。
 しかし、ヴィルヘルムはまだ意図を掴めない。
 ニーナが、彼の専用の机の上へと視線を遣って、そこに出しっぱなしにしてある彼の一日のスケジュール帳へと目を遣った。そこにびっしりと刻み込まれている書き込みに、彼女は少しだけ目を顰める。彼はまだ十三歳だったのだ。それなのに、こんなことばかりしていては身体の方が先に駄目になってしまうのではないか、あるいは、肉体の方はともかくとして、心の方が完全に壊れてしまうのではないか――あるいはもうどこかネジが外れているのではないか。彼女の言いたいのはそういうことだった。
 ヴィルヘルムは身体を起こした。それから、少女の方を見た。
「大丈夫だよ」と彼は言った。
 ニーナは、いつのまに自分の意図を察してくれたのかと随分驚いていたけれど、あまり表情にその辺を出さなかった。
 ヴィルヘルムは、彼女の方へと一つ微笑んでいた。
 そのこめかみを、汗が一粒伝っていた。
「大丈夫。ちゃんと、タンパク質とビタミン類も計算して食事を取らせてもらってるし、効果的な休憩の仕方も、筋力や持久力をきちんと増幅させるトレーニングも、それから心臓や内蔵にそれほど負担をかけ過ぎないようにする生活手段も、それなりに理解してるつもりなんだ。
 だから大丈夫」
 彼は相変わらず微笑みながらに、ニーナにそう言っていた。
 ニーナは、暫くの間呆気に取られてヴィルヘルムの方を眺めていたのだが、やがて、何かに押し負けてしまったように、しょんぼりと下を向いていた。
 相変わらず、彼女には彼が目指しているものとか、そうやって日々厳しく、勉強の合間にトレーニングをすることで、一体何を手に入れようとしているのかが、さっぱり分からなかったのだ。そして、毎日のように十分な睡眠を取り、翌朝になれば完全に回復して、普段の集中力を取り戻している様子を見ているにつけ、彼女にはヴィルヘルムが一体どこか遠い場所に行ってしまうのではないかと、そればかりが心配に思われたのだった。
 でも、目の前でヴィルヘルムが笑顔を見せつつそんなことを言うものだから、彼女としては彼に何も言い返すことができなくなっているのである。だから、わけもなく彼女としては悲しくなって、それで下を向いてしまっているという具合だった。
「ニーナ」
 彼は、ベッドの自分の横の位置を、軽く手の平で叩きながらにそう言った。
 ニーナはそれを見て、暫く迷う動作をした挙げ句、のろのろとした動作で、それであってどこかぎこちないところのある仕草で、ゆっくりとベッドの上に体重を預けた。そこで、ニーナはヴィルヘルムの身体から漂う汗の匂いを嗅いだような気がした。でも彼女にとってそれは不快なものではなかった。ただ単に、汗の匂いであると感じられただけだった。
「僕はね、母さんを助けなきゃいけないんだ」とヴィルヘルムは語った。
 ニーナは、無言の内に、彼の方を振り向いていた。
 何でまた、彼がこんなにも自分の考えていることを先回りできるのか、彼女は理解しかねていた。でも、とにかく自分の抱えている疑問を彼が解消してくれるにあって、彼女は黙って話を聞いていた。
「いつかね、ちゃんとお金を稼げるようになって、それから、絶対にどんな環境でも耐えられるようになって、勉強もちゃんとできて――奨学金を貰いながら、もう少し頑張ってみたいんだ。僕が目指しているのはそういうこと。
 僕は絶対に身体を壊さないし、心だって壊したりはしない。そういう意味も含めて、僕はもっとも効率の良い形でトレーニングをしてるんだ。僕の身体が成長途中だっていうことも、全部込みで理解してる」
 彼女は、一つ溜息を吐いた。
 この少年に何を言っても無駄なのだ、と、彼女には思えて仕方ならなかった。ならばまあ、どうにだってすればいいじゃない、と彼女は思った。何でかまた、悲しくなって、それからさっきと同じように、ベッドの上で俯いてしまいそうになる。
「たまには休めばいいのに」と彼女はぽつりと言う。
「たまにというか、結構休んでるよ。僕は。休憩ということに関してはもっとも効率よく肉体と心を休めて、成長させられるように頑張ってる」
 そんな風に語る彼の方を見ながら、ニーナは彼のことをほとんど完全に変人なのだな、と認識しつつあった。彼と、彼女とが初めて顔を合わせた時、彼と、彼女が、まだ、七歳かそこらだった時、少年は、あどけない、そして、屈託のない、それであって、どこか芯の強いところのありそうな、綺麗な笑みを彼女に見せたものだった。
 そして、今彼女の目の前で微笑んでいる青年の青い瞳は、綺麗に透き通っていた。
 あの頃に感じた印象と、何一つ変わっていないのだ、と、彼女はすっかり呆れ返ってしまっていた。
 彼女は一つ、溜息を吐きたくなって、でも何とかそれを堪えた。
「因みに、ニーナの家って結構門限とか厳しいところじゃなかったっけ」
 不意に、そう聞いてきた青年に対して、彼女は、ちょっと意味深い視線をちらりと向けていた。
 それから、今度こそちゃんと一つ、溜息を吐いていた。
「お父さんと喧嘩したの。それで、ヴィルヘルムのところに行くって言ってから家を出たの」
「へ、へえ」
 彼はよく理解しない内に、そんな返事を漏らしていた。
 ニーナは、そんなヴィルヘルムの反応を見ながらに、にっこりと、彼女がこの部屋を訪れてから今までで初めて見せる、満面の笑みを浮かべてみせたのであった。

     ◇

 ヴィルヘルムが毎日黙々と訓練をし、そして定期的に休憩を取り、それから時間をしっかりと決めて機械系の操作を勉強し、それから定期的に休憩を取り、そして夜はぐっすり眠り――それ以外の諸々の行動の後でも、全く疲労とかを感じさせない顔付きで、老人と社長室において談話をしているのを、エンリカは不思議そうに眺めていた。
 それであって、ちっとも汗臭いところだってないのだ、と思う。
 あるいは、少し普通の人間とは汗腺とかの仕組みが違っているのかもしれない、と彼女は適当に青年について想像してみる。そういう、取り留めのない想像の中で、彼女が今一番推しているヴィルヘルムの奇妙な生活を裏付ける仮説というのは、彼が独自の時間軸を生きていて、一日に四十八時間分の時間を圧縮しているのではないか、というような説だった。
 でも、彼女が見ている限りで、ヴィルヘルムが違う時間軸へ繋がっている扉を開けて、そこで奇妙なトレーニングに励んでいたりする様子は、片時も無かったのである。よくよく、他の社員の人々に話を聞いたところで、「あいつは少し頭がおかしいんだ」という旨の返事を聞く以外に、ヴィルヘルムのそのような奇妙な生活を透徹するような説は、今のところ一つとして存在していなかった。
 朝の社長室の、東からの光が差し込む休日に、キッチンの衝立の向こうから、エンリカ・リゼルフォードは数ヶ月前からこのプライベートルームによくよく現れるようになった社員のことを、奇妙に表情のない、平坦な瞳で見つめていた。
 そして、そんな青年が、ふと彼女がいるところへと視線を向けようとしたのを察して、彼女はさっと身を隠したのであった。
 衝立の陰に身を隠しながらに、あの新入社員は、中々直感にも優れているらしいと彼女は認識している。それから、再び彼女が二人の方を覗き込んだ時に、彼女のことなど忘れたかのように会話に勤しんでいる老人と青年の二つのシルエットを見て、何だか、よく分からない心のざわつきを、少しばかり彼女は覚えるのであった。ある日曜日の朝のことであった。



投稿者:Cet
最終更新:2014年02月11日 02:06