男はその女に吸い寄せられるように、人気のない入り組んだ路地に誘い込まれていった。
 OVA傘下の地方都市。治安は場末に比べればいいが、法の整備は緩く杜撰で、少し薄暗いところへ行けば、路上で身を売る娼婦がいるのが常である。
 酒に酔って日頃のストレスを発散する矛先を探していた男からすれば、小柄で魅惑的な娼婦は望むところだった。彼女らは痛めつけても、金さえ渡せばなんとかなる。顔を傷つけると、金だけでは済まないのだが、顔以外ならどう痛めつけても大抵の場合は金で解決できた。窒息寸前にしても、苦痛で腰を折るような仕打ちをしても、気が触れたように痙攣するような行為をしたとしても、とりあえずは、金でなんとかなるのだ。
 男はそれなりの権力者であり、いつかは自分も更なる高みに登れると信じきっている俗物である。
 彼にはプライベートに干渉するなと、耳に腫瘍ができるほどきつく言い付けられたシークレットサービスが三人いた。三人とも元政府軍の治安維持部隊に所属していた軍人たちで、それなりの金を貰っていたので、プライベートに干渉せず対象を警護する術を探求して、身に着けている。しかし彼らと言えども、対象が秘め事に及ぶような時はやや距離を取り、散開した。

「ふふふっ、いけないお客さんですねぇ……ボクに釣られてこんなところまで来ちゃうなんて」
「何を言っているんだか。私を君が誘ったんじゃないか。そんな服を着て、身を捩って、私を誘っていたじゃないか」
「んー……そうかもしれませんね。言われてみれば、今日はちょっと殿方と親しくしたいかなー、なんて」

 くすくす、と女がコケティッシュに笑いながら、着ていたシャツを捲って見せる。
 真っ白な素肌が露わになり、女のくびれた腰や流線型を描く身体のラインが黄色の街灯の元に浮かび上がり、男は思わず口元に下卑た笑みを浮かべた。
 見れば見る程、女は魅力的で蠱惑的だった。流れるような黒髪に、細い眉と幼い顔立ち。それでいて桜色の薄い唇はしっとりと濡れ、華奢だが程よく肉のついた四肢。白い肌は傷もなく、なめらかそうで、身に纏っている布を剥ぎ取りそのすべてを露わにさせたいと男に思わせる。幼く、それでいて妖艶な娼婦。無力で魅力ある存在を探していた彼にとって、その女は格好の獲物であった。
 やるならさっさとやってしまおうか、と彼は思った。そういうわけで、手持ちの金を彼女のガーターバンドに差し込んでやって、お楽しみをするために、その華奢な身体を抱きしめる。男が思ったとおり、女は小さかった。彼女は男の腕の中にすっぽりと入って、熱っぽい吐息を彼に吹きかけ、細い指先で彼を刺激する。
 ――と、彼が加虐的な妄想に耽って、一人で興奮していた時だった。彼の左側頭部に、堅くて太いものが突き付けられ、男の声がした。

「それは俺の妻だ。地獄に落ちろ。クソ野郎」

 パシュン、と作りの雑なサンドバックを殴ったような音がした。
 男はしてやられた、ぶん殴られた、俺はおしまいだと薄れゆく意識の中で思ったが、事実として、彼の人生はここでおしまいだった。

―――

 吐き気がする、とシメオン・ムーシェは拳銃の残弾をすべて男の頭にぶち込みたい欲求に逆らいながら、男の財布を抜き取り、娼婦そのものの格好をしたエルフィファーレの手を取り、逃げた。タールのように粘ついた腐臭を伴う空気の層が、一刻も早く現場を立ち去りたいシメオンの手足に絡みつき、彼は眉間の皺をより一層深くする。慣れ親しんだ狙撃ではなく、よりにもよって拳銃を使うとは、なんたることだと、彼は唾を吐き捨てながら思っていた。
 手に持っているのは慣れ親しんだ四十五口径のシングルカーラムだ。それにサイレンサーが取り付けられている。密造されたにしては完成度が高く、発砲音をかなり消し去ってくれた。これがなかったら俺はシークレットサービスの持っていたサブマシンガンで、滅茶苦茶にされていたに違いない。そう考えると背筋が凍る。事前にサイレンサーも拳銃も入念にチェックしてはいたが、圧倒的火力を持つ相手と近距離で渡り合い、しかも相手に気付かれないように事を済ますと言うのは、思った以上に難しいものだ。恐怖とストレスで吹き出た汗が、気持ち悪い。
 しばらく走った後、俺は周囲に誰もいないことを確認して、溜息を吐いた。これならACに乗っていた方がマシだと喚き散らしたい気持ちにもなったが、それはプロとして許されざる行為だ。冷静に努めるべきだと自分に言い聞かせ、俺は濡れたハンカチでサイレンサーを包み、それを拳銃から外し、コートの内側にしまった。

「三人、全部仕留められましたか?」

 コケティッシュに笑いながらエルが言うので、俺は拳銃のマガジンを交換しながら言葉を返す。

「仕留め損ねていたら、俺はエルのところへ行けず、エルはあのクソッタレとやらなくても良いことをやっていただろうさ」
「たしかにそうですねぇー。もしかしてその『やらなくても良いこと』をボクにやらせたくないから、焦ってたりしたんじゃないですか?」
「どうして分かる?」
「女の勘ですよ」
「よく当たる勘だな。羨ましいよ」
「女の勘ですからね」

 第六感ってやつかと、俺は周囲の物音を探りながら思った。たしかに第六感というやつは、どんなに堅物な奴でも一度は信じたくなるような不思議な魅力がある。特にふとしたことで死や苦難を避けられた際に、俺は運が良かったとか、神に愛されているとか、そういうことを思いつくと同時に、第六感という言葉が浮かんでくる。ありはしないが、たしかに存在する気がして見て見ぬふりは出来ないが、それが上手く作動してくれるかどうかは分からない。猫のように気まぐれな回路だ、と俺は常々思っている。

「……追手はいないか?」
「いないと思います。議員と言ってもこの地方都市で開かれてる小さな議会のメンバーで、ちょっと企業から美味しい汁を啜ってただけの人ですから。護衛もあの三人で終わりかと」
「そうか。なら良かった。拳銃だけで仕事をするのは、もうこれっきりにしたいもんだが」
「ACパイロットとヒットマンって契約でしたから、仕方ないですよ。ボクらが生活してくには、こういうことをする以外にありませんし」
「OVAも太っ腹だな。まったく……。さて、我が家に戻ろうか、スウィーティー?」
「ええ、戻りましょうか、旦那様」

 御互いにくすぐったくなるような言葉を掛け合った後、通行人の目に毒な服装を隠すために、俺が着ていたエルにコートを羽織らせ、手を握りながら路地を行く。
 腐臭の漂う裏路地には血と硝煙の臭いが残り、それもしばらくすると消え失せ、あとにはやはり、腐臭だけが残った。


投稿者:狛犬エルス

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最終更新:2014年02月12日 11:02