オフィスには静かな空気が満ちている。
 紙のこすれ合う音だけが唯一響く。そこはオフィスというか、来客をもてなす為の応接間といった空間だった。
「こちらが変更後の予定支払い額です。ご確認ください」
 広い部屋の床には一面灰色の絨毯が敷き詰められており、中心には、部屋のサイズに比べて小さめに見えるテーブルが置かれている。正方形に近い形をしたテーブルで、鳶色の光沢が眩しい。
「安くなってるな」
 そのテーブルを挟むように、二人掛けのレザーソファが互い違いに置かれており、それぞれに一人の人間が腰掛けて向かい合っていた。
「当然です、コストパフォーマンスの改善はかなり進んだでしょう」
「もちろん」
 片方は、金髪の若い男で、背は中背と言ったところだ。また体つきに関しては、ひどく痩せているとも言えないし、太っているわけでもない。
 更に片方は、白髪の老人だった。鼻の下に髭を蓄えており、頭髪は額からやや薄くなっている。しかしその瞳の印象は鋭く、前世紀の思想家を思わせるような光を覗かせている。
 引き続き、紙のこすれる音が響く。
「提示できる資料は、以上です」
「エーレンハイト氏、歳は幾つになったかな」
「十一月に二十一になります。まだ先のことですが」
「恋人は?」
「今はいません」
 部屋の奥は鳶色の材木を用いたキッチンスペースになっているが、同種の木材のついたてによって、ここから直接キッチンを覗くことはできない。テーブルを挟むソファは、部屋の手前側と、奥側にそれぞれ置かれている。青年はその手前側のソファに座っていた。
 部屋の手前には、出入口のドアが、その深く沈んだ暗色で構えている。
 青年の向かって右側は、壁だった。ごくごく薄いグリーンの色彩。
 逆に左側には、全面がガラス張りになっており、明るい光が二人の横顔を照らしている。窓から見える風景から想像するに、その部屋は決して高階に陣取っているのではない、四階から五階程度の高さだろう。
「孫は今年で十六になる」
「エンリカちゃんでしたか。最近話しました?」
「今日は来ているはずだよ、この後に会う予定だが、夕飯を相伴できるかどうかは分からんな」
 老人は膝元に肘を付き、手を組んでその上に顎を載せた。そして、軽く目を細めた。
 その様子を男は眺めている。






 棟と棟を結ぶ連絡廊下を男は歩いていく。極めて無音に近い空間で、響くのは男の足音だけだった。左右のガラス窓からは柔らかい日差しが差し込んでいる。
 やがて、連絡通路の終端に辿り着こうかという時、曲がり角から一人の少女が現れた。エンリカというのが彼女の名前だった。
 白のブラウスの下に黒のインナーシャツを着ている。赤地のチェックのスカートを履いていた。
 男はぺこりと会釈をして、すれ違おうとする。そこで少女が足を停めた。
 廊下には、二人以外の人間はいない。男もまた足を停める。
「こんにちは、エンリカちゃん」
「こんにちは」
 少女はどこか奥行きに欠ける、平坦な目付きで男を見つめる。
 男は、少女の茶色の髪を眺めていた。何かを思い出そうとしているが、思い出せないような様子で、じっと髪先の辺りを見つめている。
「エーレンハイトさん、どうしたの?」
 男は眼の焦点が急に合ったかのように、表情を少しだけ緊張させた。
「いや、よく分からないけど、ぼーっとしてた」
「ふーん」
 少女は視線を斜め下の、何もない床へと向ける。
「じゃあ、おじいちゃんによろしく」
「……うん」
 少女は頷いて、そのまま歩き去っていく。
 男はその後姿を少しだけ見ていたが、やがて歩き出した。
 それから少女が一度、目だけでちらりと振り返って、自分の髪の毛先を指で触った。

 何故、いま涙が出そうになったのだろう、
 と、一方で青年は奇妙な胸の内に囚われていた。

 そのまま、彼は廊下を歩き続け、突き当りで右へと曲がった。小さなエレベーターフロアに続いている。
 エレベーターフロアで乗降用のボタンを押すと、やや時間があってリフトがフロアに到着する。青年は乗り込んで、扉を閉めた。続けて一階のボタンを押す。
 間もなく一階に到着し、扉が開く。やはり小じんまりとしたエレベーターホールに出迎えられ、彼はゆったりとした足取りでホールへと足を踏み入れた。正面に廊下が続いていて、そこから外の光が伺える。そのまま足を進めた。
 出入口のドアの手前には、ささやかな受付のカウンターが設置されていた。背筋をぴんと伸ばして座る女性がいて、青年が通りかかった時に会釈をすると、礼儀正しく笑顔を返してきた。
 そうやって、扉を開けて外へと出る。
 石畳の通路が門のところまで続いていた。同じようなビルが立ち並ぶ都市部で、騒音が常に耳を打っていた。彼はそのまま歩き続ける。
 青年はふと空を見上げる。暫定的な青空がビルの間に広がっている。
 季節は春に移っていた。青年は、何のためというでもなく息を一つ吐いた。






「ウチで働くつもりはないか」

 三ヶ月後の夏の日に、老人はそう言った。いつもの応接間で、書類の説明のために視線を下に落としていた青年が、顔を上げる。

「ええ、喜んで」
「そうか」
 老人は青年の方を眺めていた。
 青年も、率直にその視線を受け止め、また視線を返している。
「免許は持っているか」
「……普通自動車だけです」
「まあ、いずれ取らせる。それで、サービス改訂の話だが」
「待ってください待ってください……ああは言いましたが、正直僕が抜けるとこちらの会社的に問題がありそうです」
 老人はその言葉に三秒ほど考えた。
「お前のお陰でマジックタッチ社とソリオ損保の間にはパイプがある、心配するな、そっちには儂が話をつける」
「はあ……」
 青年は心配そうな顔で、浮わついた調子の相槌を打った。
「それで、サービス更新の件だが……」
 老人が語りだすのに、慌てて青年が机の方に身を乗り出す。
 ちょうどその頃、部屋の奥にある鳶色のついたてから、イエローとオレンジの菱形模様がパターンで並ぶエプロンを着たエンリカが、ひょっこりと顔を出したが、誰も気づかなかった。白いシャツとホットパンツを着ていた。
 彼女は暫く商談に没頭する二人の様子を眺めていたが、やがて二人に気づかれないまま、再びついたての奥のキッチンへと姿を消した。
 そのようにして時は過ぎていく。彼が二十一歳になる二ヶ月ほど前に、建設重機使用の為の、免許取得試験が行われることとなる。



投稿者:Cet

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最終更新:2012年04月26日 01:53