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始まりは一歩から(3)」を以下のとおり復元します。
◆

「お母さん、そっちにいた?」
「ここにはいなかったけど、困ったものね」
「あうう、奥のほうに何かいるよぅ……」

普段静かな我が家に危機が迫っていた。
今朝から家族総出で押入れを引っ掻き回してどたばた騒ぎを続けているが、一向に戦果が上がっていない。
時折聞こえるいのり姉さんやまつり姉さんの悲鳴が、私たちの身に迫り来る惨状を物語っていた。

ことの発端はこうだ。
明日予定している勉強会に来るこなたとみゆきのために来客用の布団を干そうと、押入れを開けたときだった。
普段めったに開けることのない押入れの中はひんやりとしていて、独特のかび臭いにおいが鼻をついた。
山のように積み重ねられた来客用の布団と共に収納されている数々の小物類。
その中には懐かしいものや珍しいものが入っており、一体誰が買ったのか人形を打ち上げる花火なんてものまであった。
思えばつかさがそれを奥から取り出したのがきっかけだったと思う。
まるでゲームで剣を抜くと呪いが発動する仕掛けのように、突如“それ”は現れた。
全身を黒光りする装甲で覆われた人類の宿敵“G”は、さながら奇襲のようにつかさに飛びかかった。
哀れ私の可愛い妹がどうなったかは……ご想像にお任せしたい。

その後他の部屋の押入れを調べたところ、これまでどこに隠れていたのかと思うほどやつらが見つかった。
掃除は頻繁にしているはずだが、さすがに押入れの隅々にまで手が行き届いてはいない。
このところの異常な暑さが原因か、それともこの家が原因なのか。
古い家だから仕方がないとは言え、やはり私だって女の子、こんなやつらと一緒に住むなんてぞっとする。
と言うわけで、家族全員を巻き込んで今の今まで死闘を繰り広げていたわけだ。

時刻はもうとっくにお昼を過ぎている。
比較的涼しかった朝とはうって変わって、とにかく蒸し暑い。
朝から続くどたばた騒ぎのせいで、額から玉のような汗が流れ落ちていた。

「ねえ、バルサン使ったほうが早くない? 私もうくたくただよ」
心身ともに憔悴しきった様子のまつり姉さんがそう言った。
周りを見渡すとつかさもお母さんも疲れた様子だ。
当然私もたび重なる“G”の出現にげっそりしている。

そんな様子を見かねたのか、お父さんはお母さんといのり姉さんにバルサンを探してくるように言うと、一人で最後の押入れに立ち向った。
──早く決着をつけなければみんなの身がもたない。
そんな悲壮な覚悟をしたかのように、一気に押入れを開けた。

その瞬間、飛び出す黒い影。
弧を描くように宙を舞うそれは、お父さんを飛び越えてつかさの顔面へと迫る!

「バ、バルス!?」
気が動転したつかさはどこから取り出したのか、黒い液体の入った霧吹きを勢いよく周囲に散布した。
「キャー」
「う、うわっ」
「うっ、ごほっ」
あたり一面に漂う酸っぱい臭い。
パニックに陥ったつかさはやつが去った後も延々と黒い霧を吹きかけ続けた。
噴射する対象を見失ったつかさは恐怖に駆られたのか、今度は私たちを消毒するかのように霧吹きをこちらに向けた。
慌てて止めようとしたお父さんは、哀れ顔に直接吹きかけられてしまい、その余りの濃度にぐったりしてしまった。
まつり姉さんはそんなお父さんに取りすがって泣いてるし、もう喜劇なんだか悲劇なんだか訳が分からない。
──早くつかさを止めないと。
タイミングを見計らって無事つかさを後ろから抱きとめると、即座に霧吹きを奪い取った。

状況を知らない人が見れば、私たちの様子はその目にどう映っただろう。
うーんと唸りながら起き上がったお父さんの顔は真っ黒だ。
以前テレビでやってたホームコメディーのよう。
私までその登場人物になったような気分になり、ため息をついた。
しばらくして戻ってきたお母さんも、なんともバカバカしいこの惨状に呆れた様子だった。
「うううう、臭いよう」
正気に戻ったつかさの呟きだけが、いつまでもこだましていた。

◆

そんなこんなで何とかあの場を脱出した後、結局バルサンを炊くことになった。
最初から炊いておけばよかったのにとまつり姉さんが文句を言っていたが、あれを使用するとしばらく部屋に入れなくなるのでなかなかに厄介なのだ。

「あー、疲れた」
布団を干した後、さっきまでの疲れがどっと出てきたようだった。
肉体的な疲れではなく、どちらかというと精神的な疲れの方が大きい。
神出鬼没の敵と戦うには、かなりの精神力を要するのだ。

「ごめんね、迷惑かけちゃって」
あの後家具についたお酢をふき取ると共に、部屋の換気をしなければならず、その作業に1時間ぐらい掛かってしまった。
そのことを気にしてか、つかさはさっきからしゅんと俯いている。
心なしリボンも垂れ下がっているようだ。

「もう済んだことだし、それにまさかあんた目掛けて飛んでいくなんてだれも思わなかったんだから、気にしちゃダメよ」
「うん……」
お父さんは笑って許してくれたものの、大好きなお父さんを酷い目に遭わせてしまったことが、さらに落ち込む原因となっているようだ。
もし私がつかさの立場だったら、きっと私も落ち込むと思う。

「あんたも一生懸命頑張ったじゃない」
「うん」
「それに、お酢だから意外と殺菌効果あるかもしれないしね」
そう言っていたずらっ子のようにニヤッと笑うと、やっとつかさも笑顔を取り戻してくれた。

バルサンを焚いている間、しばらくつかさと一緒に縁側に座って待つことにした。
時折思い出したかのように私たちの間を風が通り過ぎて行く。
お互い無言で、静かな時間が流れていった。
そういえばこうやってつかさと二人きりでボーっと過ごすのは、すごく久しぶりな気がする。
学校があるときはいつも勉強やその他の用事に追われて、何もせずにただ一緒にいるということがとても難しかった。
だから何にも束縛されずこうやってゆっくりと過ごすことのできる時間は、とても贅沢で大切だなと実感した。

つかさはどう思ってるんだろう、気になって横顔をのぞいてみると、ふんわりとした何か柔らかいものでも想像してるんじゃないかと思えるほどリラックスしている。
その様子を見ているとなんだか私まで体の余計な力が抜けていくようで、それがおかしくてつい笑ってしまった。
ただ側にいるだけでこんな気持ちにさせてくれる、そんなつかさだからこそ、私はこれまでずっと側にいたのかもしれない。
本人に自覚はないのか不思議そうな眼差しで私の顔を覗き込んできた。
ニコッと微笑んでみると、つかさも綿毛のように柔らかな笑顔を返してくれた。
久しぶりに感じるとても優しい時間に、心が安らいでいくのを感じた。

ひとたび視線を上に向けると、そこは夏空が広がっていた。
縁側から仰ぎ見た空は痛いほど蒼く澄みきっていて、青の階調を幾重にも渡って深めていた。
日を追うごとに暑くなる夏空には真っ白に輝く太陽が眩しい光を投げかけていて、額にかざした手からこぼれる逆光に思わず目を細めてしまう。
一面透き通るような夏空から降り注ぐ光は杜の中に深い陰影を作り出し、青と白の強いコントラストが夏特有の爽やかな色合いを演出していた。

──もう夏なんだ。

体にまとわりつくような蒸し暑さだけが夏なんじゃない。
この季節を構成する色そのものが夏であることを私に教えてくれるんだ。

「見てみて、お姉ちゃん」
つかさが指し示す方向に目をやると、遥か遠くで大きな積乱雲がとぐろを巻いていた。
あの空高くまで達する大きな雲はどうやってできるんだっけ。
瞬時に積乱雲の発生のメカニズムと、その雲がもたらす結果を思い出す。
地上と上空の強い温度差によって上昇気流が発生し、時間と共に発達した雨粒が落下する際、下降気流を伴って地上に強い雨をもたらす──確かそんな仕組みだったはずだ。
今頃あの雲の下は大雨なんだろう、私の頭をよぎったのは冷静な分析だった。

──こなたならどう思うだろう。
いや、考えるまでもないか。
あいつならきっとあのアニメに例えるに違いない。
昔テレビで見た一シーンが蘇る。
それは私のような普段頻繁にアニメを見ない人間でも知っている、もはや国民的とも言える作品。
父の意思を継ぎ、飛行機に乗って天空の城を目指す男の子の冒険活劇だった。
少年はとにかくよく走る。
小さな体をいっぱい使って、全身で駆け抜ける様が印象的だった。

──そういやあいつもあんな風に走ってたな。
体育の合同授業のときに見たあいつの走る姿は、まさに青い風と形容してもおかしくないものだった。
一体あの小さな体のどこにそれだけの力を秘めているのか、驚きと共にちょっとした憧れに似た気持ちを感じたのを覚えている。
そしてその姿は今も強く目に焼きついて離れない。
──竜の巣だ。
そんな台詞を言って、あいつもこの空へ向かって駆け出していくんだろうか。

「綿飴みたいで、おいしそう」
そんな物思いにふけっていたところ、突如横から聞こえてきたふんわりした声に、私はズルッと滑り落ちそうになる。
そう、これだ。
つかさはいつもこうやって物事を優しく柔らかく捉える。
ロマンチックって言うんだろうか。
それとも夢見がちとでも言うんだろうか。
今まで同じように育ってきたはずなのに、この認識の差は何なんだろう。
頭の中のふわふわを少し分けてもらえば、私の現実的過ぎる性格も少しは直せるのだろうか。
そんな思いでつかさの頭を撫でると、くすぐったそうに笑う。
触れた髪は案の定ふんわりしていて、私の手に優しい感触が残った。

「空、青いね」
「うん、ほんとに」
紺碧に染め上げられた無限大のキャンバスには、太陽と雲だけが描かれている。
一切の無駄を省いて描かれたその絵の中には、綿飴のような(別に私が食べたいわけじゃないんだからね)雲が平和にゆっくりと漂っていた。
そんな何も無いごく当たり前の風景の中に、とても大切なものが隠されているように思えて。
私の心はずっと空の中を漂い続けていた。

あの少年は雲の中にある城を目指した。
私はこの空に何を求めているんだろう。
空を掴むように手を伸ばしても、決して触れることのかなわない青。
それはいつも私の側にいて、捕まえようとするたびにすり抜けていくあいつを思い起こさせる。
だからだろうか、大切な存在をいつも側に感じながらも、ちょっぴり寂しくなってしまうのは。

──ねえ、どうして空は青いのかな?
子供の頃つかさが口にした素朴な疑問。
その頃は空が青いことなんて当たり前すぎて、疑問にすら思わなかった。
大きくなるにつれて、それは光の散乱による現象だと知り、世の中の多くの事象を科学的に説明できることを知った。
理論や数式で表される現象は何だか味気が無いとは思う。
ロマンが無いって言うんだろうか。
でも、私には理路整然とした説明が一番しっくりきたし、それ以上の疑問や感慨なんて出てこなかったんだ。

夏休みに入る前、そう、1学期も終わりを迎えようとしていた日の昼休み、つかさはまた同じ問いを口にした。
最近空ばかり見上げている私を気にかけてくれたんだと思う。
そんな優しいつかさに感謝しつつも、私の中で大きく育った知識がむくむくと頭をもたげてくるのを感じた。
子供のときよりずいぶん偉そうになった知識を披露すると、つかさは相変わらずよく分からないという風な顔で渋々納得したようだった。
これ以上にないほど筋の通った説明で、誰も反論なんてできない。
私はそう思っていた。
だから、つかさの放った呟きがこんなにも私を惑わすなんて、思いもしなかった。

──でも、本当にそれだけなのかな?

他愛のない疑問だったと思う。
本来なら一蹴するような問いかけ。
でも、その言葉に少し同調してしまっている私がいて。
空がそれだけの理由で青いことに、どこか反発している自分を感じて。
気付いたら、私の築いてきた“常識”にほんの少しひびが入っていた。
それからだろうか、私がより一層強く空の青に惹かれるようになったのは。

つかさの目には何が映っていたんだろう。
ただの光の散乱現象の中に、何を見ていたんだろう。
普段のふわふわした雰囲気の中でたまに見せるつかさの鋭い洞察に、私はハッと目が覚めたような気分になった。
捉えようによっては哲学的な思索へと誘う深い言葉を放った当の本人は、相変わらずぽやんとした表情で私を見ている。
いつもながらそのギャップに混乱するはめになった。

つかさ自身特に深い意味があって言ったわけじゃないんだろう。
でも、つかさはたまに私の心を代弁してるんじゃないかって思うことがある。
私の心の深いところを突くっていうんだろうか。
もやがかかって論理的に説明できない部分を問いかけてくれるというか。
何ていうんだろう、心の奥底で繋がりあってる感じ。

双子だからなのだろうか。
昔どこかで聞いたことがある。
遠く離れ離れになった双子が奇しくも同じ運命を辿る話を。
一卵性ではないけれど、やはりどこかで私たちは繋がりあってるんだろうか。
それを確かめるようにつかさに顔を向けると、私のことを見ていたのか、ぴったり目が合った。
口元に微笑を浮かべたつかさは、いつもより大人びて見えて。
何故か分からなかったけれど、少し寂しそうに映った。

「お姉ちゃんはあの空にとても大切な人を見てるんだね」
「えっ……」
その意味を理解したとき、胸の鼓動が早くなる。
まただ。
つかさはどうしてこうも私の心を鋭く見抜く。

「な、なんでいきなりそういう話になるのよ?」
「だって、空を見てるときのお姉ちゃんの顔、とっても優しいんだもん」
そう言うと私を包み込むように柔らかく笑った。
「それにね、何だかうらやましいなって」
「あっ……」

そっか。
そうよね。
小さな頃からずっと一緒だったもんね。
一緒に遊んで、一緒に勉強して、一緒に笑って、一緒に泣いて。
どんなときでもあんたは私の側にいて。
私たちは同じ物を見続けてきた。
あんたはいつも私のこと見てるから、私のちょっとした仕草から分かってしまうんだ。
ずっとつかさを中心に見てきた私の目が、少しずつ別の人に移りかけてるってことに。
だから、……私の心まで離れていくように感じて寂しかったんだ。

「こなちゃん……だよね」
ふわふわした大きな雲が太陽を覆い、辺りを一瞬にして暗くする。
独り言のようにつかさの口から紡がれる言葉を、私は意外なほど冷静に聞いていた。
──私はこなたのことが好き。
そう、それが私の本当の気持ち。
つかさに言われて一切の迷いが晴れた。
もう驚くことはない。
恥じることも、好きになってしまったことを悔いることもない。
ただ私の心の中にある真実なんだ。

悩みが無いといえば嘘になる。
世間一般で言う恋愛とは違うし、そのことで不安に押しつぶされそうになることもあった。
でもこの気持ちを否定してしまったら、私という存在だけでなく、これまでこなたと築いてきた思い出までをも否定してしまうような気がして。
とてもじゃないけど、そんなこと私にはできなかった。
こなたのために必死になって誕生日プレゼントを作っていた日も、星空の下二人っきりで歩いた日も、お昼休みの他愛のない会話も、学校帰りに怪しいグッズ買うのに付き合ったのも。
全てが輝くように幸せな日々だった。
だからそんな思い出を壊さないように、慈しむようにこの気持ちを育て上げてきたんだ。

──もし私のことをただの友達としてしか見ていなかったら?
これまで何度も頭の中をよぎった冷徹な思考が、再び私の心に冷たい刃物を突き立てる。
こなたの目に私はどう映っているんだろう。
そんな答えの出ない問いを幾度となく重ねてきた。
やっぱり……ただの友達なんだろうか。
いや、普通に考えればそれが当たり前だ。
でも、それじゃあ私……。

……怖い。
こなたとの関係が途切れてしまいそうで。
それが怖くてこれまで溢れてこぼれそうだった想いを必死に隠してきた。
ううん、こなたはいつも隠してるけど、ほんとはとても心の優しい持ち主なんだってこと私は知っている。
だから、私が告白しても付き合い続けてくれると思う。
でも……前の関係には二度と戻れない。
怖い……やっぱり、怖いよ……。

ふと、手のひらに温もりを感じた。
目を向けると、つかさの手のひらが包み込むように私の手の上に添えられていた。

『だ……きだよ』

その瞬間、ふいにその言葉が思い浮かんだ。
同時に私の胸の中が温かいもので満たされていくのを感じた。
数日前に電話でこなたが私に言ってくれた言葉。
上手く聞き取れなかったけど、とても大切なことを、そして勇気を与えてくれる言葉を言われた気がする。
そうだ、こなたはあの時私に精一杯何かを伝えようとしてくれていた。
その言葉だけじゃない。
私が会えなくて寂しいって言ったとき、自分も同じだって、そう言ってくれたじゃない。
──こなたは私に希望を与えてくれてたんだ。
そのことに気付いたとき、私の目に熱いものがこみ上げてきた。

「つかさは……」
声が震えている。
それでも、振り絞るように最後の不安を声にした。
「……何とも、思わないの?」

つかさは静かに目を閉じて考えているようだった。
背筋をピンと伸ばして瞑想するかのような、普段目にすることの無い凛々しい姿。
それは自分一人の力で考え、自分の足で歩いていこうとする強い意思を感じさせた。
どこまでも自分の心に素直であろうと、嘘や虚飾でごまかさずどこまでも誠実であろうと努力している姿が、一瞬私自身と重なったように見えた。

「難しいことは分かんない。でもね、お姉ちゃんがずっと悩んで、それでも好きだって思えるのなら本物なんだと思う」
太陽を覆っていた雲は風に流され、再び力強い光が差し込む。
その光にも負けないほど輝く笑顔でつかさは私を優しく包み込んでくれた。

「それにお姉ちゃんの涙、とってもきれいだもん。だからね、お姉ちゃんの想いもその涙と同じ。熱くて切なくて、きらきらと輝いてる。そんな誰にでもある大切な気持ちなんじゃないかな」
漏れ出そうとする嗚咽を抑えながら、絞るようにその言葉を紡ぎだす。
「……ありがと」
勇気を与えてくれたつかさの手を、私はぎゅっと握り返した。



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