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子供の時間 - (2008/06/06 (金) 22:29:17) の編集履歴(バックアップ)


梅雨が明けて七月。
蝉のシャワーが降り注ぐ、夏の始まりのある日。

灼熱のトイレの中で、私こと泉こなたは、自分が今、大人の階段を登ってしまったことを知った。

それから私がどうしたかっていうと、とにかく慌てた。
パンツどうしようとか、スパッツはいててよかったとか、そういうのもみんなぶっ飛んで、私は廊下へ飛び出した。
普段ナメクジみたいに静かにしてる私があまりに血相を変えて走っているので、すれ違う人たちは思わず道を開けてくれる。
そのおかげでほぼストレートにそこへたどり着くことが出来た。

三年C組。
かがみのクラス。

私はすっぱーんと襖のような勢いでドアを開けた。

「かがみぃ!」

唐突に現れた私にかがみは食べていたお弁当のアスパラガスを、口からぽろりと落とす。





―子供の時間―





「ど、どうしたのよ?」

血相を変えている私に、かがみがお弁当をそのままにして駆け寄って来た。
今までかがみと一緒にお昼を食べていたみさきちや峰岸さんが呆然とその背中を見送っている。
でも何かが振り切れてしまった私はそんなことまで頭が廻らない。
「朝に今日はこっちで食べるって言ってあったで――」
「どうしよう! かがみ!」
かがみの言葉をさえぎるように、私はかがみの両腕を掴んだ。
かがみは驚いて目を白黒させる。
「うお!? ちょ、一体何!?」
「き、来ちゃったんだよ!」
「は? え? 何が?」
かがみは目をくりくりとさせて、きょとんとした。

うう、やっぱりちゃんと言わないとダメか。

私はかがみの肩を掴んで、かがみの耳を引き寄せる。
そして事態を説明した。間近にあるかがみの目が、見開く瞬間がばっちり見えた。

「ええーーー!?」

想像以上に大きい声が返ってきて、逆に私が驚く。
「か、かがみ、声が大きいヨ…」
「ご、ごめん」
かがみが慌てて自分の口を塞ぐ。
かがみはそれから、ぐいーっと私の手を掴んで、私を廊下の隅に連れて行った。
そして小声で私に囁きかけた。

「…あんたまだったの!?」

うう、やっぱそっちの驚きなんだネ…。

私は視線を廊下の床に落とした。
「う、うん…で、でね、なったことなかったから、そういうのとか持ってないし、どうしたらいいかわかんなくって……」
何だかイタズラを叱られる時のような気持ちで、しどろもどろに言葉を紡いだ。
かがみが少し顔を紅くしながら、納得したように何度か頷いた。
「そ、そか…だからか…」
そして顎に手をやって、少し考えるような仕草。
暫くするとかがみは私を安心させるみたいに少し背を屈めて顔を覗き込んできて、こう言った。
「えっとね、こなた、保健室行こ」
「えぇ!? どこも痛くないよ?」
「んと、そうじゃなくてね、保健室に、あるのよ。急になっちゃう子とかいるから」
「あ…そうなんだ…」
小学校から数えて学校と言うものに十二年通っていて、初めて知った。
かがみは突っ立ってる私の手を掴むと、保健室まで連れてってくれた。


私の手を握ってくれているかがみの手は、どうしてか走ってきた私より少し熱くて。
その温度差に胸が音を立てる。
かがみのことが大好きだと自覚してからもう半年以上経つけれど、それでも触れる度に私の心臓はやかましく音を立てた。
今も手を握られながら、私の心臓は気持ち早めの四つ打ちのリズムを刻んでいる。
しかし同時に、さっきまでの興奮も収まってきて、だんだんと冷静さが戻ってきた。

(……私もよりによって好きな相手にこういうことの助けを求めることはなかったかも)

でもかがみは私にとって「好きな相手」以前に、「一番の親友」であるわけで、困ったことがあったら相談するのは自然なことかもしれないけれど。
私は少し前を歩くかがみの姿を斜め後ろから見上げる。
私より少し高い位置にいつもの綺麗な顎のラインと、形のいい耳があった。
……自分が人より発育が遅いことは自覚しているけれど。

かがみの身体は、私よりやっぱり一歩大人で、手も少し大きくて、腕も足も長い、と思った。




保健室で養護の天原先生に事情を説明すると、ここでも驚かれた。

「泉さんって、誕生日いつですか?」
「……五月です」
「じゃあもう十八歳なんですね」

先生はゆったりと何度か頷くと、奥の部屋に行き、私に「それら」一式を紙袋に入れて手渡した。
トイレに行ってステータス画面を開いて、先生からもらった装備(…)に代えて戻ってくると、先生とかがみが話していて、私を見るとそろって苦笑した。
それが何だかすっごく恥ずかしかった。
でも恥ずかしがってると思われるのはもっと恥ずかしいから、わざと何でもないように長椅子に座った。
(しかし……代えのぱんつまであるとは驚いたね)
先生にそう言うと「保健室には大抵のものがあるんですよ」と意味深な笑いを返された。
ぱんつなんて殆ど最終兵器に近いのに。保健室って凄い。次元のはざまの道具屋並だ。
冷房も効いているし。

「……」

私は下半身に慣れない違和感を感じて、座りなおした。
なんかこれ、むずむずするよぅ。
世の女の人って、毎月こんなのつけてるんだなあ。
いや、確かこのタイプじゃないのもあったはずだけれど、あっちは別の意味でよく使えるなって思う……想像できない。
かがみの方を見ると、腕を組んで近くの棚に寄りかかるようにして腰をかけて、何か考えているような顔をしていた。
天原先生が再度聞いてきた。
「今までに一度も無かったんですね?」
「…ハイ」
何度も訊かれるのは恥ずかしい、と思った。なんか子供だ子供だって言われてるみたいで。
まあでも事実だし仕方ないよネ、と私は開き直る。
私の気持ちを察したのか、天原先生は「ごめんね」みたいな笑顔を私に向けた。
それから先生は少し「んー」と上を見て何かを考えるような仕草をする。
「十八くらいまでなら偶に来ない子もいるんですよ。だから大丈夫だと思いますけれど…」
そして、また笑顔を作って私を見た。
「でも一応一度婦人科を受診した方をしてみておいた方がいいかもしれませんね」
「うえっ?」
これで終わりだと思っていた私は聞き返してしまった。
フジンカをジュシンしろって、つまりビョウイン行きなさいってことだだよね?
「せんせー」
「はい?」
「せーりってビョーキじゃないんですよね?」
「ええ、病気じゃありませんよ」
先生はにっこり笑って言った。
「『大人の女性の仲間入り』です」
うわ、その単語、小学五年生のときの性教育の時に聞いたことがあるヨ…。

するとかがみがニヤニヤしながら言って来た。
「ってことはこなたは今までコドモだったわけか」
寄りかかって腕を組んでるその姿は、何だかちょっと大人っぽく見えた。
なんだか変にドキドキしそうだったから、私は膨れ面を造って見せた。
「むう、たった今同じラインに立ったよ」
「うん、そっかそっか、いらっしゃいませー」
すっごい笑顔で言ってくる。うう、すごいムカつく。
普段はからかわれてる分、復讐してきてるのか。
「柊さん、こういうのには個人差がありますから……」
先生がそう言うと、かがみはすぐにばつが悪そうな顔をして頬を掻いた。
「そうですね、すいません」
かがみはこういうところ真面目なんだよね。すぐに反省しちゃう。
ホント、真っ直ぐな性格なんだよネ。
私はかがみに向かって手をひらひらさせた。
「もしも~し謝る相手が違うんじゃないかね? かがみんや」
「そうですね、ス・イ・マ・セ・ン」
私がチャカすと、かがみは歯をイーッと見せた。
天原先生が私たちの様子を見て笑った。
「生理は病気じゃありませんけれど、初潮が来る遅いことの原因の中には、身体の調子が悪いのが原因の時もあるんですよ」
それを聞いて、頭のどこかが重くなるのを感じた。
ど、どっか悪いの? 私。
「泉さんのは、多分、体質的なものだと思いますけどね」
私の不安を察したのか、先生は一層優しい笑顔を浮かべて言った。
「でも、今後のためにも婦人科には一度行っておくといいと思いますよ」
「はあ…」
私はとりあえず頷いておく。
それを見て、先生はまたにっこり笑った。

「それから、わからないことがあったら遠慮なく聞いてくださいね。私でもお家の方でもいいですから」
お家の方…ってウチはお父さんしかいないんだけれど。
しかしこういうことをお父さんに聞くのは流石に憚れるような。
……ていうかウチのお父さんだと必要以上に的確な答えと対処が帰ってきそうでイヤだ。
私がそんなことを考えていると、天原先生はかがみを手で示して言った。
「勿論、柊さんにでもいいですよ」
私とかがみは揃って、『え゛ぇ゛っ!?』と声を上げてしまった。
思わずかがみを見ると、彼女はぷいっとそっぽを向いた。
そして腕を組んで「そんな面倒なことはしない」とでも言いたげな表情を作るけれど、その頬は赤い。
かがみってすぐに顔が紅くなるんだよね。赤面症って言うのか。
普段はそれがカワイイんだけれど、今紅くされると私もすごく恥ずかしいからやめてほしい。
「いや~、先生に教わりにきますよ~」
私が両手をぶんぶん振ると、天原先生はまた笑う。

そろそろ昼休みが終わるので、私とかがみは連れ立って立ち上がった。
天原先生は丁寧に出口まで見送ってくれた。


「それにしてもアンタ、変だと思わなかったの?」
廊下を歩き出してすぐ、かがみが振り返って言った。

「う、うーん…」
かがみのその顔は少し厳しい表情で。
何で叱られてるみたいな空気なんだろ、と思いながら私は説明した。
「あんまり来なかったから、ポロッと忘れていたっていうか……無きゃ無いで楽だしいいかな、って思ってて、そのままずっと」
かがみが呆れ顔になる。
「アンタねえ…自分の身体のことなんだから、もう少し気を使いなさいよ」
「あたっ」
かがみは私の頭をぐーで軽く小突いた。
「それにしても」
暫くしてかがみが視線を前に向けながら言った。
「なんで私に言いに来たのよ?」
「えっ?」
「教室につかさやみゆきもいたでしょう」
言われて初めて気がついた。
そう言えばご飯を食べた後、トイレ行って来るって言ってそのままだったから二人とも心配してるかもしれない。
どうしてって言われると。
よくわかんないんだけれど…パッとかがみの顔が浮かんだっていうか。
何だかそれを言うと、余計な気持ちまでバレてしまいそうな気がしたから、私は別の理由を言った。
「ん~…つかさやみゆきさんには言い辛くない? こゆ話とかって」
「ん? あ~…それは何となく分かるかもしれないわね」
「その点かがみなら上の話だろうが下の話だろうがおK!って感じで」
「おい! それは突っ込んでいいんだろうな!」
親指を立てて見せると、かがみがいつもの逆ハの字眉毛になって歯を剥いた。
それからかがみは溜め息をつくと、少し真面目な顔を作った。
「でも、あんた、ちゃんと病院には行くのよ?」
「え゛ー」
「『え゛ー』じゃなくって! 変な病気とかだったら困るでしょ?」
速攻で不満の声を上げた私にかがみが指を突きつけた。
「それはそだけど…病院とかほとんど行ったことないし…それに、フジン科ってなんか行き辛いよ。ニンシンしたわけでもないのに」
「にっ…」
かがみがまたさっと顔を紅くする。こんなことで紅くするなんて思わなかったので、内心たじろいだ。顔には出さなかったけれど。
これじゃセクハラしてる気分だよ。かがみって、ホント純情なんだな。
何かを堪えるようにかがみは一拍遅れて、私の誤解を訂正し始めた。
「――それは『産婦人科』! 婦人科はそれとはちょっと違う。確か」
「どう違うの?」
「私も詳しくは知らないけれど……確か女性特有の病気とかそういうのを専門にしてる…んじゃなかったかな」
ふぅん。小児科の女の人バージョンとかかな?
「まあどっちにしても行きたくないねえ」
「駄目よ」
かがみは厳しい顔で、ぴしゃりと言い放った。
変な話だけれど、私はそれで何だか嬉しくなってしまった。
かがみ、本当に心配してくれているんだ。

だから少し調子に乗ってこんなこと言ってしまったのだ。
「じゃ、かがみがついてきてくれるなら行こうかな~なんて」
「……いいわよ」
「はっ?」
予想外の答えが返ってきて、私は思わずかがみを見る。
かがみは澄ました顔をして言った。
「あんた一人だと理由つけて行かなそうだしね。いいわよ」

とんだことになった。





と、言うわけでその週の土曜日。
私とかがみは灼熱の太陽の下をのろのろ歩いて、そのなんとか女性クリニックにやってきた。
お天道様は全開ゴーで、外にいるだけで干からびそうな晴れの日だからか、住宅街にあるその診療所周辺には誰もいなかった。

(こ、こういうとこ、友達と来るってどなのかな…)

今更ながらそんなことを考えるけれど、一人で来る勇気はなかったし、お父さんを連れてくるわけにも行かなかったし。様々な意味で。
「ほら、こなた、入るわよ」
じっと炎天下に立っていた私の背中をかがみの手が叩く。
そちらを見れば、かがみが何処となく諦めたような、不思議な笑顔をして立っていた。
その額や頸に汗が浮かんでいる。
蝉の鳴き声が元気に私たちの鼓膜を震わせた。

「かがみんや」
「あによ」
すわった声だ。
「もしも行きたくなかったら、私ひとりで行って来るヨ…?」
「何言ってんのよ。この炎天下で外で待ってろっていうわけ?」
「ウ、それもそだね」

私は諦めてそこのドアを潜った。
冷房の風が私たちの前髪を吹き上げた。

入った第一印象は、普通の病院と同じだった。
と言っても、私は病院にかかったこと自体があんまり無いけれど。
観葉植物や白い壁、でも消毒液の匂いがそんなに強くない。
待合室には私たちの他に誰もいなかった。
「…歯医者みたいね」
かがみが呟いた。私は歯医者に行ったことがないのでよくわからなかった。
それにしても冷房が少し寒い。タンクトップ着てくるんじゃなかったヨ…。
かがみは半袖のブラウスだから、丁度良さそうな顔をしていた。
奥へ進むと、受付に座っていたお姉さんが私たちを一瞬不思議そうに見て、それから「こんにちは」と柔和な挨拶をしてくれた。
私が受付に行こうとするとかがみが言った。
「こなた、保険証出すのよ」
「あ、そか」
病院では保険証がいるんだ。ていうか保険証は病院で使うものだったよね。
私は鞄を開けて保険証を出すと、受付のお姉さんが微笑んだ。
「泉さんですね。こちらへ来るのは初めてですか?」
「ハ、ハイ」
「それじゃあ、こちらを記入して持ってきてくださいね」
と何処から出したのかカウンターの向こうから、にゅっとクリップボードと出してきた。
それと鉛筆を受け取ると、私はかがみが座っているシートの隣にぽすんと座った。
「どうだって?」
「ん? なんかこれ書けって」
「なになに……『最後に月経が来た日』って、あ、終わってる?」
「めでたく昨日終わりました!」
「拍手しないぞ」
「ノリが悪いにゃー、かがみんや」
私は『昨日』と書き込んで、次の項目へ向かった。
かがみは暇なのか(暇なんだろう)、私が書いているのを横から覗いている。

「……なんか身長とか体重とか、答え難い項目ばっかりだな」
「私は別に平気だよ。困るのはかかみだけじゃないかナ」
「ほーぅ、よっぽど殴られたいらしいな」

持病とかアレルギーはナシ、煙草もお酒も未成年なのでナシ。
かがみと軽口を交わしながら記入していった。

しかし、一点の項目で、私たちは同時に停止してしまった。

「………」

それは要するに……『経験したことがあるかどうか』っていう質問。

何の経験のことかは推して知るべし。全年齢板なので単語は自重。
とにかくその紙には、その質問が言葉を濁すことなく、かな~りストレートに書かれていた。

「……………」

私とかがみの間に、果てしなく微妙な空気が流れる。
『なんでこんなこと質問が!?』とか『こんな質問があるなら一緒に覗き込んだりしなかった!』とか。
いろんな言葉が駆け巡って、私は頭の中で「この恋の熱量」と歌うボーカロイドみたく拡声器を持って叫んだ。
しばらく硬直の後、かがみは「…あー」とか言いながら視線を外して、手を軽く振った。

「……こういうのは見たら悪いわよね」
「なっなにをぅ!今更!」

私はわざとかがみの前にクリップボードを突き出した。
「隠すことなんかなんもないもんね!」
そして高らかに鉛筆で丸を描き、『経験無し』の方をずばっと囲う。
「どーだ!」
私は言って、むん、胸を張った。
私が開き直った所為か、かがみも表情を緩めて苦笑いを浮かべた。
「『どーだ』って……誇るところか、ここ?」
「ヒクツになるところでもないでしょー」
私がそう言うと、かがみは少し考えて「まあそれもそうだな」と呟いた。
そしてふと気になったので、私はかがみを盗み見ながら言ってみることにした。

「まぁ、私たちの周りにはホント、ロマンスってもんがないからネー」

いつもの台詞。
でも、これっては半分嘘だよネ。
誰かを好きになったりなられたりすることがロマンスなら、存在してる。
けれど私は何も口にしないし、それ故、かがみも何も知らないから。
目に見えるものは何も無いから、「無い」ってことになってる。

無いことになってる。
それが私の恋。
(…そう思うとちょっと苦いかも)
かがみに気付かれない程度の溜め息を吐く。

ところで私がこんなことを口にしてみたのは、暗に『かがみもそうだよネ?』って訊きたかったからなんだけれど。
だから『たち』って言ってみたんだけれど…。
かがみは何か考えるような仕草をして、特別返事をしてこなかった。
軽く宙を見上げて、思案顔をしている。

(ま、いっか。いつも散々ロマンス無い色気無いって言ってるしネ)

私はそこで探りを終わらせて、さっさと書き上げてしまおうとボードに目を落とした。
当然だけれど、その後かがみはもう私が書き込んでいるところを覗き込もうはとしなかった。

――でも、まさか。
鉛筆を走らせながら、私はつい考えてしまった。
――まさか、経験あるとかじゃないよネ?
いやいや、入学してすぐからかがみとは友達だったけれど、かがみに男いたなんて聞いたこと無いし。
いやでも、中学の時とか言われたら…わかんないかも。
そう考えると聞きたいような、聞きたくないようなモヤモヤした気持ちになる。
ちらっとつい隣のかがみを見ている。かがみは考え事をしているようだった。
でも何を考えてるかまではわからない。
だからふと思ってしまった。
(……私はかがみのこと、何処まで知ってるんだろう)
見て、話して、私の知ってるままが、かがみの本当の姿なのだろうか。
それとも、私の知らないかがみがいるんだろうか。
(それは……なんか、イヤだ)
かがみのことなら何でも知りたい。
でも知りたくないかもしれない。誰かと恋してたとか、そういうのなんか聞きたくない。
(私、どっちなんだろ)
自分で自分がよくわからない。

クリップボードを受付に返す時に診察室に呼ばれたので、私はかがみに軽く手を振って待合室から離れた。

「で、結局何だったの?」
病院を出ると、かがみがすぐ振り返って聞いてきた。
あ、なんかデジャヴ。
病院に入るときには真上にあった太陽は、もう少し傾き始めていて、風も少し涼しくなっていた。
蝉の声もニイニイゼミやアブラゼミの声から、ヒグラシの声に変わり始めていた。
「えーと、なんだったかな」
「おい」
「あ、そうそう、やっぱり多分『体質性の遅発月経』だって」
たいしつせい、とかがみが繰り返す。
「それって、つまり」
「何にも悪くないみたいだヨ」
そこまで聞いて、かがみは頬を緩めた。
「よかった」
「うー、でも血液検査の結果を来週聞きにこなきゃいけないんだよネ…」
面倒くさいな、と言いながら右腕の内側を撫でた。そこはさっき採血されたトコ。
「注射なんて小学生以来だったから、えらく緊張したヨ」
「なんだなんだ、怖かったのかー?」
かがみはすっかり相好をよくして、笑顔で私のことをからかってきた。
お子様扱いされて、私は頬を膨らませて反抗した。
「怖くなかったよっ」
……嘘だけれど。
本当はあの細い針が怖かった。注射の針は細くて尖ってて、見てるとむずむずする。
あれで刺される、って思うと目を開けていられない。
注射なんてダイッキライだ。
「んー…っ」
でもこれで病院は終わり。私は開放感に伸びをした。
空を見上げると、だんだんと金色になってきていて、息を吸い込むと夏の夕方の匂いがした。

カナカナカナ…と鳴くヒグラシの声。

この声を聞くと、家に帰らなきゃ、という気持ちになる。
かがみも同じだったのだろうか。
私とかがみはどちらからとも無く、何も言わずに駅に向かって歩き出した。
中途半端な時間の所為か、来るときと同じようにやっぱり町には人気がない。
見える限り歩いているのは私とかがみの二人きりだった。
土曜日なのにみんな一体何処に行っちゃったんだろうね。

歩き始めて暫くして。

「………ねえ、こなた」

かがみがおずおずと言った様子で話しかけてきた。
少し前を歩いていたから、私はかがみの方を振り返った。
「んー?」
「検査って、何した?」
「んんー?」

質問の意図が掴めなかったので、私は顔を傾けた。

「血とられたり聞かれたりって、別に普通だったけれど」
「そ、そう……」

かがみはそれきり黙ってしまった。
何だろ?
私は気持ちに忠実に、かがみに聞いてみることにした。
「何、かがみ?」
「いやね……」
かがみは下を向いたまま、ゴニョゴニョと何かを言っていた。
また顔が紅くなってる。何だろ。
「んん? 聞こえないよ」
「だからねっ、婦人科って、その……アレがあるって姉さんから聞いてて」
「アレって何?」
かがみは息を吸って吐くと、短くその言葉を口にした。
「内診」
「ナイシン?」
何だそれ、という意味をこめて私は鸚鵡返しに言葉を口にする。
するとかがみは「ああもう」と言って、ヤケになったように捲くし立てた。
「だからっ! その、婦人科のお医者さんでしょ!?」
「えっ、う、うん」
その剣幕に気おされながら私は頷いた。
何故、かがみキレ気味?
かがみが耳まで真っ赤にしながら続きを言った。

「だから診察のとき、下を直接見ることがあるの! それが内診!」

一瞬意味が分からなくて、止まってしまった。
下って、下?
数秒後に意味を理解して私は声を上げてしまった。

「うえええええ!? そんなのあったのおおお!?」

私が思い切り動揺すると、その動揺は即座にかがみに伝染した。

「わ、私もまつり姉さんから聞いたんだけよ!? でっ、でも、こなたはなかったみた…」
「なかったけれど! そ、そんなことするなら絶対行かなかったよ! 何で教えてくれなかったのさ!」
「だって言ったらあんた絶対行かなかったでしょうが!」
「うわーー! かがみに騙された! カインが敵になって戻ってきた時のセシルくらいショックだよー!」
「わけわからんわ!」

私はもうどうしていいかわからなくって、「かがみのばかっ!」とどっかのヒロインみたいに言うと、だーっと走り出した。
「おま、ちょっ、待て!」
一歩遅れて、かがみが追いかけてくる。

私は「わーわー!」と言いながら夕焼けの住宅街を走った。
蝉の声が空気に混じって耳を掠めていく。それから夏の温度。湿度。肌に感じる空気。
私はそれを突き抜けるように、走る。
夕暮れの匂いを嗅いでいると、小さい頃を思い出した。

夏はよく、小さい頃を思い出す。

小さい頃は男の子に混じってよく外で駆け回ったなあ。アニメの時間に遅れないように、何度も夏の夕方を全力疾走した。
そんなことを思い出すと何だか笑いがこみ上げてきて、私は近くにあった公園に駆け込んだ。
やっぱりそこにも誰もいなくて、傾いた太陽が遊具の影を大きく伸ばし始めていた。
私は勢いのままブランコに飛び乗ると、そのまま立ち漕ぎでギコギコと揺らした。
少し遅れて、かがみが公園に駆け込んでくる。
私はゆらゆら揺れながら、かがみを指差した。
「あっ、裏切り者のガリだ!」
「誰がガリか!」
ジャンプで貫いたろか、とか言いながら、かがみは私の傍までやってくると膝をついて息を整えた。

「はーっ…」
「かがみ、運動不足じゃないのかネ~」

ギッコギッコとわざと音を立てながら言うと、かがみが息切れの間に「ムカつく」と呟いた。
かがみが身体を起こすとき、汗がきらっと輝いて地面に落ちるのが見えた。

「ったく…」

かがみは、私の傍までやってくると隣のブランコに座って呟いた。

「でもまあ…本当………何にも無くてよかったわよね」

そう言って、きぃ、とブランコを動かし始めた。
かがみの髪が風に合わせて揺れる。

夕焼けに照らされたかがみの横顔は、私の心の奥の気持ちをカタカタ揺らした。
それこそ風みたいに。

「んん~、心配してくれたんだネ。さすがツンデレ」

夕焼けでよかった。
きっと顔が紅いのはバレない。

私は目を逸らして、尚一層強くブランコを漕いだ。
ブランコの大きな振り子に、少し遅れるリズムで、私の長い髪が揺れる。
するとかがみも負けじと大きくブランコを漕いだ。
私とかがみが漕ぐブランコが交互にすれ違う。

すれ違いざまに、かがみが言った。

「…私くらいしか、アンタに煩く言う人いないでしょ」

隣り合ったと思ったら、凄いスピードで離れて、また凄い速さで近づいて離れて。
だからかがみの表情はよく見えなかったはずなんだけれど。

その時に、私はかがみの気持ちがやっとわかった。
どうして付いて来るなんてこと、言ってくれたのか。
私を、他に連れてこれる人、いないもんね。

「そだね」

私は頬を緩ませてそう呟いた。
こんなのって何か変なんだけれど、何だかすごく嬉しくて優しい気持ちになった。

『私に煩く言う人はかがみしかいない』ということが。
『かがみだけ』というフレーズが、ただ嬉しかった。

何より、かがみ自身がそう思っていてくれていた、ということが私の背中に羽を生やした。

私とかがみはしばらく黙ってブランコを漕いだ。
揺れるたびに空が近づく。

ほら、飛べそう。

そう思ったとき、かがみが飛んだ。

めいっぱい振ったブランコから、かがみがジャンプしたのだ。
一瞬遅れて、かがみは乾いた地面に着地する、たん、という音と、砂煙が立つ。

そしてかがみは私を呼んだ。

「ほら、いくぞ!」

そう言って、ポケットに手を突っ込んでさっさと歩いて行こうとする。
これは…照れているな。
私はまた笑った。

そんな時でもかがみの背中はピンと伸びていて。
身長も高くて、手足も私より長くて。胸とかもあって。
そんな子供っぽい行動をとるくせに、私より少しだけ大人の身体をしている。
私より誕生日、遅いのに。

何の差なんだろう? 遺伝かな。だったらしょうがないか。

少しだけ歩いてかがみは振り返った。

「そうだ」

そこにはいたずらっぽい笑顔が浮かんでいた。

「赤飯、炊くか?」

私は膨れ面を作る。

「いらないよ」

少し緩くなったブランコをもう一度大きく揺らした。
また空が近くなる。
夏を知らせる入道雲が近くなって、遠くなって……。

でもとりあえず私は、少し先を歩くかがみを追いかけるために、地面へ飛んだ。

「大体さ~かがみに炊かせたら、お釜いくつ吹っ飛ばすかわかったもんじゃないよ」
「お前の中で私はどんだけ料理下手なんだ! ていうかそんなヤツいるか!」



もうすぐ夏休みが来る。



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  • 斬新な視点も素晴らしいし、
    それにしっかりと合った「女の子」そのものの目線を持ちつつ
    ごく自然に二人の信頼関係と感情のかすかな動きを
    描ききれているのも素晴らしいです。
    -- 名無しさん (2008-06-06 22:29:17)
  • 凄いです。こちらには余り来てなかったのですが、こんなレベルの
    書き手さんがいらっしゃるとは…。

    夏の風景の中にぽつりと言葉が浮かび上がるような、会話文と
    情景描写と心理描写の流れが絶妙です。
    短くて素直な、とても読みやすい文なのに艶があるのは、
    言葉をどこまでも吟味されているせいでしょうか。

    女の子であると云うことへの畏れとか、日々成長していく思春期の
    住人としての戸惑いとか、そんなものへの慈しむような視線が
    感じられて、本当に素敵な作品でした。

    こなたの大切な夏の一日を教えていただいてありがとうございます。 -- デルフィ (2008-06-06 09:14:35)
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