ホモ

幼少期
1978年1月4日、東京都港区にある東京都済生会中央病院で生まれ、幼少期を世田谷区で過ごす。小学生時代の1984年以降に横浜市神奈川区白幡南町へ引越し、鶴見区の聖ヨゼフ学園小学校に通う[6]。小学校では弟の唐澤厚史を守って戦うこともあり「ヤバイ兄ちゃん」と呼ばれた[13]。

1993年5月には東京へ戻り、祖父河野一英の住む大田区田園調布で暮らした。法政大学第二中学校に通い、3年1組では学級委員長を務める。この頃、様々な挫折を経験した[6]。文化祭ではエイズの研究発表を行う。修学旅行は四国を訪れ、徳島県の大歩危峡観光遊覧船に乗り、高知県の坂本龍馬記念館を見学した。

青年期
中学卒業後、高校に通うが、レールに敷かれた人生に疑問を抱き中退する。しかし、何の打算もなく高校生の身分を捨てた唐澤は孤立し、競馬や映画、文学に耽溺した自堕落な生活を送るようになり、精神科で精神鑑定もしたが特に異常は無かった[14]。見かねた両親の紹介により、都立新宿山吹高等学校に再入学[15]。17歳の時に、一つ違いの弟厚史を自殺で失い、自分の無力さを痛感する[16]。自分の力で弟のような犠牲者を出さない、人が人に優しい社会をつくりたいと思うようになる[6][17]。

1年の浪人生活の末、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)環境情報学部に入学[18]。3年間遅れての大学生活を過ごすことになり、当初は周囲に溶け込むことに不安があったが、開成高等学校を卒業後医学の道を志したものの挫折し、同大学に通うこととなった人物とよい仲になる。後に総合政策学部に編入し[19]、情報通信政策、アメリカの政治、政治過程論、廣瀬陽子氏のゼミでナショナリズムを学んだ。この時に人生初の一人暮らしをする[6]。社会問題の解決を志して政治学を選んだものの、この学問では弱者を今すぐ助けることができないと感じるようになる[20]。

弁護士として
大学後の進路を自問自答した結果、自身の思いに直面して司法試験を目指した。ジョン・グリシャムの弁護士小説にも影響され[21]、早稲田大学法科大学院へ進み、宮川成雄[22]とカナダのOsgoode Hall Law Schoolを見る。臥薪嘗胆の日々を経て新司法試験一発合格を果たす。[23]

「クレジット・サラ金被害者連絡協議会」やミャンマーの難民問題関係でのインターンシップ[24]、新63期司法研修を終え[25]、弁護士に仲間入りした。明治大学OB会において坂本雄三と親しかった祖父・河野一英のコネを利用し坂本総合法律事務所へ潜り込むが、最長で半年の在籍の後、退職。

同事務所の同僚であった小西一郎弁護士の証言によると実際に出勤したのはわずか10日だったとされる[26]。また、唐澤はコネ入所であるため専用の机は設けられず会議室を使用させられており、給料も唐澤の祖母(河野喜代?)が一旦坂本法律事務所に預けた金を、唐澤に支払う形をとっていたために、後日それを知った唐澤は号泣したとの小西の証言がある[27]。

独立開業
東日本大震災で独立を決意[28]。2011年7月4日(アメリカ独立記念日)に五反田にて父洋と共に恒心綜合法律事務所・公認会計士唐澤洋事務所を設立、独立開業。この時から、IT関連分野には取り扱う弁護士が少ないことに目をつけて、誹謗中傷問題を中心に取り扱うようになった[20]。2014年にアプリ制作会社の役員に就任。

2015年2月16日、山岡裕明弁護士と共同で法律事務所クロスを設立した。2018年に10月には山岡と別れ法律事務所Steadinessを設立した。

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最終更新:2019年04月08日 18:00