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三国時代?

迷惑半島で高句麗、百済、新羅が争った時代のことを「三国時代」というらしい
あれ? 任那はどこへ行った?
なに? 任那なんか存在しなかったニダ、って?
いや、何と呼ぶかは別として、当時半島に倭の勢力があったことは好太王碑で明らかだろ?
え? あの碑文は日本の軍人が改竄したニダ、って?
まだしがみついてるのか、時代が遡る拓本が中国で出てきたので否定された改竄説に?
都合の悪い証拠は無視、改竄呼ばわり、破棄
都合のいい証拠は現実・時系列・因果関係を無視してでも取り上げる、なければ捏造
そういうとこだぞ
+ 実は二国時代
二国時代
三国時代という名称は、故意に倭(任那)を無視した呼称
好太王碑文にも明らかなように、その当時半島で対峙していたのは北の高句麗と南の倭
倭(現代朝鮮隣国語では日本の蔑称)という言葉を「日本」と脳内変換してしまいがちだが、上記「倭」は「半島南部の日本領」の意味
38度線(?)に接する倭の最前線のうち、北西の地方を百済、北東の地方を新羅という
百済・新羅の地位は倭の行政区分(近江国・武蔵国などと同格)であり、贔屓目に見ても倭の属国止まり
三国時代ではなく、北の大国・高句麗と南の小国家群の宗主国・が対立する二国時代が正しい
+ 参考図

+ 任那日本府
任那日本府は昭和の時代には小中学校の教科書に載っていた用語だが、下朝鮮に忖度してか最近は使われていない
半島南部に日本の勢力が及んでいた以上、そこに何らかの(陸奥の鎮守府、筑前の太宰府、京城の総督府のような)出先機関・統治機構があったことは確実なので、それを何と呼ぶかだけの問題
+ 百済王
百済王は「くだらのこにきし」と読む
便宜上「こにきし」に「王」の字を当てているだけで、実態は「百済国造」
百済は倭=任那の属国で、王子を人質として日本本土へ送っていた

+ 任那四県
任那四県の割譲
現代で下朝鮮が「領土の北半分を奪われたから九州を寄越すニダ」と主張したら、どんな騒ぎになるだろうか?
実は、歴史上も似たことが起きている
継体天皇六年、高句麗に領土の北半分を奪われた百済から「任那四県の百済への割譲」を要請してきた
そのときには(紛糾はしたが)主張が罷り通っている
先の仮定の話との差は、「下朝鮮はよその国」で国際問題だが「百済は属国」なので国内問題だというところ
単なる「倭の行政区画の変更」であったから、四県割譲などという虫のいい話が受け入れられた

+ 先進地帯
先進地帯だったのは倭
朝鮮人は「百済が未開野蛮な日本に文物を伝えたニダ」と、恩人気取りで上から目線を向けてくる
しかし、中夏から文物を伝える場合、宗主国(倭)の頭越しに属国に伝えたりしたら外交的非礼(笑)に当たる
向こうもルール「貰ったものは親分にいったん上納してお下がりを貰う」は知っており、属国に文物を伝えると二度手間になる
よって文物の流れは 中夏⇒百済⇒倭 ではなく 中夏⇒倭⇒百済 で、文物を内地に持ち帰ったのは百済地方に住む倭人
関係者は倭人=日本人ばかりで、朝鮮人の祖先は関与していない
未開野蛮だったのは…
朝鮮文化は倭から下賜されたもの半島撤退のとき捨てていった残りカスの不肖の末裔だった

+ 売国奴
朝鮮史上最大の売国奴
高句麗は扶余(後の満洲に相当する地域)が本拠というか本体で、半島部分はおまけの辺地
後期には丸都城から平壌城に首邑を移しているが、本拠の移転ではなく辺地の前線基地の強化だと思われる
その高句麗の末裔が今では半島に雪隠詰めになっているが、どんな経緯によるものだろうか?
+ それは…
倭からの独立を謀る裏切り者は、倭、および倭寄りの属国・百済に対抗するため、唐に目をつける
しかし、唐の遠交近攻策では(近は高句麗で確定だが)遠の第一候補は倭、第二が百済
番付外の弱小な陰謀団が唐と手を結びたければ、よほど巨大な手土産を用意する必要がある
そのために唐に差し出した貢ぎ物が、扶余であった
半島に数倍する土地を売り渡した人物、その名を金春秋という

最終更新:2022年11月04日 20:57
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