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zinsei

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zinsei


期間 不明
作成者 不明


長めのショートストーリー(小泉構文)が貼られているページ


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正直限界なのは分かっていた。耳鳴りと眩暈は一日に五・六回が当たり前。輪郭を持たない痛みが頭の中を徘徊しているような気分だった。それを誤魔化すためにコーヒーを馬鹿みたいに飲んでは、カフェインの誘惑のままに夜更かしをした。体の悲鳴は鮮明に聞こえていた。それを無視したのは紛れもなく僕だった。それでも無視を続けた。誰の助言にも耳を貸さなかった。何を言われても「そうかもしれない。」「気を付ける。」で済ませた。もう何を言われているかも分からなかったけど、そうやっておけば誰も文句が言えないことなんて自明だった。
僕は生きるのが下手だから。緩やかな自傷行為で首を絞めなきゃ生きていけない。
昔から何かと無理をするのが好きな体質だった。些細なことでもよかった。例えば苦手な人に話しかけてみるだとか、そこまで好きじゃない飲み物をコンビニで買ってみるとか。そういう些細な「無理」をするのが日課になっていた。

救いようもない、嗚呼、ごめんなさい。

日曜日の昼下がり特有の気だるい空気と初夏の蒸し暑さに身を任せ、僕はクーラーの効いた部屋のベッドで寝転び、スマートフォンを弄っていた。つまらないまとめサイトを酒の肴に幾分か温くなった発泡酒を嚥下すれば、まるで素敵な六月のある日が完成した。途方もない暇の大海に溺れ、為す術もなくその流れに身を任せた。人並みの性欲と1LDKに蔓延る孤独が僕の神経を掻き乱した。
所謂、僕は同性愛者だった。きっかけはちょうど十年前の今頃。僕は先生に襲われた。ねっとりと吐かれる吐息。欲情にまみれた視線。湿った掌。タバコ味のキス。どれもが気色悪い一つの記憶の中に収められた。進路相談室から見える空はドロドロと溶けてしまいそうな快晴だった。
悪い記憶は列を成し、代わる代わるに囁いた。
同僚に言われた「河村さんって神様みたいですよね」と言うセリフが脳裏を塗りつぶした。まるで五徳にこびりついた焦げカスの様にひっそりと存在を主張する。それもまた、僕の神経をチクリチクリと攻撃して、苛立ちを増幅させた。「僕が神だったら、お前との退屈な会話をせずに済むように世界を設計するよ」なんて言ってしまえたらどれ程痛快だろう。くだらない考えが脳内を支配する。だから、一人は嫌いなんだ。誰かと話したい。この馬鹿らしい思考回路を断ち切りたい。身勝手な欲求と安い酒がもたらした酔いは一夜限りの交わりを求める理由には十分だった。
ズラリ、と並ぶ男達の写真に目を滑らせる。数スクロールほどした頃だった。ある男の写真から目が離せなくなってしまった。名前は「タク」だった。特に美形である、とか印象的な顔をしている訳では無い。どちらかと言うとすぐに忘れてしまいそうな平凡な顔だった。コンビニの店員だったら、レシートと共に忘れてしまいそうな顔だ。それなのに、何故か目を離すことが出来なかった。まるでそれが運命だったかのように僕は彼を呼んでいた。
ピンポーンと錆び付いた機械音に呼ばれ、玄関のドアを開けるとそこには気弱そうな男が一人立ち尽くしていた。
「こんにちは。ご指名いただきましたタクと申します」
飾り気のないシャツに地味なズボンを合わせたいかにも大学生らしい男がペコリとお辞儀をした。襟足からちらりとうっ血痕が覗く。不健康そうな白い肌と少しパサついた黒髪はホームページで笑っている彼とは少し違ったけれど、左の頬の黒子が彼が彼であることを証明した。それは彼の唯一の身分証明書にも見えた。
「どうぞ」玄関ドアを大きく開け、彼を迎え入れる。なぜかびくびくとしている彼はサンダルを脱ぎそれを揃えると、僕が歩く道を忠実に再現するようについてきた。
うつむいたままの彼をソファに座らせると、僕は冷蔵庫に麦茶を取りに行った。外は依然蒸し暑かったので、お茶ぐらいは出そうかという僕の密やかな気遣いだった。それを両手で持つと、

「なあ、山本。飯、食べに行かね?」
伊沢さんは仕事がひと段落ついたらしく、背伸びをしながら僕に話しかけてくる。時はちょうどお昼時。ご飯を食べるには格好の時間だった。
ねえ、伊沢さん。あなたに片思いをしている男を弄んで、楽しいですか?話が合う相手なら河村さんの方が適任でしょう?川上さんならあなたの小ボケにも付き合ってくれるでしょうね。美味しいお店に行きたいなら須貝さんの方が適任ですよね。こうちゃんと行った方がきっと盛り上がるし、あなたみたいな仕事人間なら福良さんの方が波長が合うんじゃないですか?なんで、僕を誘うんですか?
どす黒い感情が腹の中でとぐろを巻く。それは虎視眈々と誰かに噛みつくタイミングを伺っているようで、いっそのことこの感情ごと捨ててしまえればいいのにとさえ願ってしまう。
「はい、もちろん。」
書きかけの記事を保存したUSBをパソコンから引き抜きながら答える。
「伊沢さん」
明日の天気を聞くような、何気もない雑談のような。
「好きな人が出来たら…どうします?」
朝のニュース番組の占いの結果を伝えるように。
卑怯な手順でそれ相応の答えを。ローリスク・ハイリターンなんて望まないから。
ハハと軽く笑うあなたが今はどうしようもなく憎い。
「急になんだよ。そういうお年頃か?」
ニヤニヤと揶揄うあなたが為す術もないほど忌まわしい。
「いや、別に… 聞いてみただけです」
答えたくなかったら答えなくても、と付け足すと伊沢さんは眉を顰めながら答えた。
「変なの。まあ、告白するんじゃない?当たって砕けろ男ならなんて言うでしょ?」
嗚呼、ごめんなさい。目の前の男は告白する勇気をなんて少しもないから、こうやって、あなたを試しているんです。ドロドロに溶けた劣情と手から零れ落ちそうな劣等感を皿まで飲み込めなくて、吐き出してしまいそうなんです。
許してください、許せなくても。飲み切ったカフェオレのカップに沈んだ一つまみ弱の砂糖とか長針に追いつけやしない短針みたいに惨めで 理不尽で悲しい恋でも、続けることをどうか。

目を開けると、そこは暗闇だった。左右にある二つの長細い穴から漏れる光と上空を四角く縁取る光の筋を見て初めて自分が箱の中にいるということに気が付いた。所々に毛玉が付いたバスタオルと少々獣臭い体臭が漂う小さな空間は据わりどころが悪く、全くもって落ち着かなかった。口を開くとミャァ、となんとも間抜けで気の抜けた鳴き声がこぼれたので自分が猫であろうと理解することは容易かった。確かに前世で猫になりたいなどと文句を垂れた記憶はあるが、それは別に本当に猫になりたかったのではなく…と神様に言い訳を連ねてもこの現実が変わるわけではないので、現世は猫としての人生を全うしようじゃないか。そう覚悟を決め、景気づけに尻尾をパタリと揺らめかせた。
覚悟を決めたはいいが、箱の中の小さな子猫にできることなど精々とミャァミャァ喚くかカリカリと箱を引っ搔いてみるか見るかの二択、あるいはその二つを同時に行って三択だった。無駄に体力を消費することはまっぴら御免なので、じっとして居よう。一度伸ばした四肢をくるりとまとめ、そのまま何もせずじぃとしていると、徐々に眠気が僕を襲った。それに抗わず、うつらうつらと微睡んでみる。なんてにゃんこ然としたときの過ごし方だろう。猫生一日目とは到底思えない。自分を褒め称えながら眠りにつこうとした時だった。
パカリと音を立てながら蓋が開いた。突然眩しくなった視界に困惑する暇もなく、僕は透明のショーケースの中に放り込まれた。せめて少しでも抵抗してやろうと手の中で暴れても、人間はそれを無視して僕を地べたに置いた。そして、可愛らしく書かれた手書きの値札には可愛らしくない二十万円のゼロが礼儀正しく五個並び僕の価値を主張した。トイレシーツとベッドとボロボロのテディベアが置かれた簡素な部屋の中で僕は一人途方に暮れた。前世では転生系という一ジャンルが確立される位には転生が人気だったが、転生したらペットショップの猫だった件なんて言う作品はこの方一度も見たことが無い。抗議の為にシャアシャアと鳴いてみても、「うるさいよー」などと呟いて無視をした。聞き覚えのある声に視線を上げると、福良が何食わぬ顔で僕を抱え上げていたので仕返しに腕を引っ掻いてやった。なんでお前が人間で、俺が猫なんだよ。前世の行いの差ですか?それともリア充度?ねえ、神様。聞こえますか?こんな不公平な待遇が許されるとでもお思いですか?仕返しに腕の生傷ぐらい良いですよね。野生の猫ちゃんなんだから許してほしい。
そこから数日間、僕は実に猫らしい日々を送った。十時起床、そのあとご飯。キャットフードは割と美味しかった。そのあとは自由時間。自由時間といっても、半畳もないショーケースの中の自由なんて自由とも呼べない。買う気もないお客にジロジロと見られるのも癪に障る。八つ当たりをしようとテディベアを咥えてブンブンと振り回していると、女子高生三人組に「かわいい~」などともてはやされた。何が「かわいい~」だよ。とガラスに反射する自分を見返してみると、そこには自分とは思えないような可愛らしい子猫がポカンとした表情で写っていた。グレーの毛皮に青い瞳。自分には釣り合わないような気がして、むず痒くて堪らなかった。

桜の花びらがはらはらと舞い落ち、冷たい都会のコンクリートに錆びついていた。ニュースキャスターは春らしい気候だとにこやかに話していたが、外の気温は摂氏八度だった。僕は大学四年生になり、講義室にはあれほどいたはずの茶髪の男女が揃いも揃って黒髪に戻り、歯抜けだった教室の椅子には顔を知らない同級生達がギュウギュウとひしめき合っていた。
「うぇーい!内定ゲット!」
背中をドンと叩かれ、頭上を見るとそこに木原がいた。スマートフォンを激しく左右に揺らしながら、画面を見せてくる。きっとメールなのだろう。白い背景に黒い文字が墨汁を垂らした様にぼやける。
「ちょっと、見えないから」
僕がそう言うと、彼はごめんなーと笑いながらスマートフォンを渡す。きっと少しも悪いとは思ってないだろうに、表面上の謝罪よりもうざったらしいものはない。
木原様 
先日は誠にお忙しい中、弊社の採用試験にお越し頂き、ありがとうございました。
株式会社ビジブル、採用担当の戸崎です。
厳選なる審査の結果、木原様の採用内定が決定いたしましたことをここに通知いたします。
また、入社手続きなどの諸書類に関しましては、別途ご連絡をさせて頂きます。
木原様と働ける日を社員一同心待ちにしております。
以上、メールにて恐縮ではございますが取り急ぎご連絡お願い致します。
「ヤバくね?エグくね?俺天才じゃね?」
木原が騒ぎ立てる。スクリーンショットを取りながら、彼は自慢げに胸を張る。きっとツイッターにでも上げるのだろう。名前と社名を黒塗りにして、さっき僕に言ったセリフと全く同じセリフを添えられたツイートがそっくりそのまま目に浮かぶ。なんて意識の高いことだろう。スタンディングオベーションでもしてやろうか。
「お前も就活した方がいいよ。チケンがヒロガルっていうか、ジンセーケーケンにもなるしさ。」
お母さんからの伝言をそっくりそのまま伝える子供のような語り口に思わず笑みがこぼれる。微笑ましい光景だ。それはまるでテレビが点いたままの家族団らんの朝食の様にも見えた。同じテーブルに座っていようと、子供が喋っていようと、みな芸能人のスキャンダルと政治家の不正にしか興味はないのだ。履歴書という素敵なトーストに、統一された証明写真のバターを塗って。甘美な青春のマーマレードと、第n志望に一を代入して定数項だと偽った嘘つきの牛乳を流し込む。なんて馬鹿らしくて形式的なシュウショクカツドウ。反吐が出る。
確かに、就職活動はしなければならない。人生はよく一本のレールに例えられる。「普通」の人間はそのレールに沿い、そうでない人間はそのレールから逸脱する、らしい。そして、レールに従った人間は特別褒められもしなければ、貶されることもないが、レールから外れた人間は成功しなければ貶されるのみだ。又、レールから外れ、成功した人間は神の様に称えられるが、失敗した場合は悪魔の様に貶されるのだ。僕には精々非情な現実に対してつらつらと文句を垂れることしかできない。
「そうだな。うん。そのうち。」
曖昧な返事でその場を去る。いつだって僕はそうやってはぐらかして、生きてきた。これからもきっと同じように生きてゆくのだ。息を吐く。
ドアを開け、教授が入ってくる。授業を始めます。とマイクを取り、張りのない声でつぶやくと学生たちは蓋をされたように静かになった。かすかに聞こえる数人の喋り声と笑い声以外全てが様変わりしてしまった講義室の中で、教授は化石がいかに重要であるかについて説き、僕はチョークの音と微かな街の喧騒に身をゆだねた。
講義が終わると、静まり返っていた教室にはパンドラの箱を開けたような騒がしさが蘇った。僕はその騒がしさにどうも耐え切れず、講義室から飛び出した。
幸福か、不幸なのか。外はお花見客であふれかえっていた。ブルーシートで覆われた桜の木の根元は人工の青空のようだった。そこに各々が持ち寄った食品と、そして肝心の酒を無造作に散らかす。辺りは文字通り混沌であった。迷子の子供が泣き喚き、酒に酔った大人達はその子供以上に喚く。数人の男達が酔いに任せて、女に声をかけてはセクハラでーすなどと軽くあしらわれる。桜の木の下には死体が埋まっている。と昔の文豪は言ったそうだが、まだ死体の方がましだろう。二〇二一年年現在、桜の木の下に生まれたのは紛れもなく人が生み出した混沌であった。
酔っ払いがドンと僕にぶつかると、胸のあたりに手のひらサイズの染みを残し過ぎ去った。
匂いからしてビールだろう。独特の匂いが妙に鼻に残った。ビールの染みはじわじわと乾いた領土を侵食した。濡れたシャツがべとりと肌に纏わりつき、体温を奪っていった。
春という季節は不思議だ。何も変わってはいないのに、何かが変わってしまったような気がするのだ。アウターをギュと握りしめ、歩を進める。アスファルトには依然、踏みつぶされ、変色した桜の花びらが水溜まりの様に染みついていた。憂鬱な気持ちのヴェールに覆われたままの僕は、ふと、古書店の前で立ち止まった。今にも崩れ落ちてきそうな瓦屋根と、古ぼけた看板には「古谷書店」と刻まれており、いかにも昭和っぽいガラス戸には日光によって劣化したセロテープと歪に書かれた「古書買い取ります。」の文字が春の光に照らされ、破れた端を誇らしげにはためかせていた。元来読書好きであった僕にとって古書店というものは宝の山のようなものであったし、この憂鬱な気持ちを晴らすには絶好の場所であろう。僕はそうしてドアを引いたのだった。
カランコロンと寂れたベルの音に歓迎されながら僕は店内を進んだ。店内は外見通りに古ぼけていた。本棚の上にはほこりが溜まり、コンクリートを打ち付けたままの床には数えきれないほどの正体不明の染みがついていた。唯一褒められるのはコーヒーのかぐわしい香りと曲名は分からないが、品のいいピアノジャズのBGM だけであろう。そしてまた、本棚のラインアップも一風変わっていた。この店の店主はよっぽど流行りの本が嫌いなのだろうか。そう思わざるを得ないほど、本棚の本はどれも難しそうで、そして分厚かった。この店構えも不思議ではないな。と僕が納得していると、店の奥から「お客さんかい?」という声が聞こえた。しまった。と僕は思った。気難しい本ばかりが並んでいるこの本屋の店主はきっとこの本たちと同じぐらいに気難しいのだろうと思ったからだった。
「あ、すいません。勝手に入っちゃって。」
一応謝罪をしておく。ドアは半開きだったし、特に定休日であるとかは書いていなかった。つまり、客として入店することは罪ではないはずだが、こういうことは謝っておいて損はないのだ。謝罪も立派な処世術と誰かの言葉を引用すると、そういうことだ。
「いや、別に、謝ってもらおうなんて思ってないけど。うちの店に来るお客さんなんて珍しいでしょ?」コーヒーミルをガリガリとまわしながら店主らしき男が答える。臙脂のキャンバス生地のエプロンの胸部には大きく古谷書店と白い文字で書かれており、胸ポケットの底部にはインク漏れらしい染みと所々に茶色っぽい染みが散らばっていた。不潔であるはずなのに、それがデザインの一部であるかのように彼のエプロンと古書店と、そして彼自身は絶妙なバランスを保ち、共鳴していた。
「お客さん、大学生?」
じっと見つめられながら聞かれる。なんだか自分が悪人にでもなったような気がして、虫の居所が悪くなる。
「ああ、はい。そうです。近くの大学で。」
「何年生?」
「四年生です。」
「大変だねえ。そうだ、コーヒー飲む?入れたてで美味しいと思うけど。」
「いや、結構です。お気持ちだけで十分です。」
店主は不思議な人だった。たった二言程度しか話していないにも関わらず、何かを見透かされているような気がしたからだ。まるで解剖される蛙のような心持だった。
店主は僕の目をじいと見つめた。そして、彼の目の前にある椅子を引くとどうぞ、と言わんばかりに目配せをした。素直に従った方が吉だろうと、僕はその椅子に腰を掛けた。
店主はコーヒーカップを磨いていた。もっときれいにするべき場所があるだろうに。沈黙が僕と店主の間に横たわった。クロスで縁を一回転、反対方向にもうあと一回転。持ち手を念入りに磨く。そして、僕の目を再度見つめた。
「お客さんさ、今悩んでるでしょ。大学四年生だし、就活のこととか?」
店主は僕の目を見つめたまま、そう言い放った。ボウリングのストライクの様に軽快な音を鳴らしながら、店主は僕の心情を言い当てた。さっきまでの自分が解剖される前の蛙ならば、今の僕はメスで腹に一筋切れ込みを入れられた蛙に違いない!
「まあ、そんな感じです。」
動揺していた。つい数分前に入店したばかりの店の店主に、春と共にやってきたこの辟易を言い当てられてしまったのだから。僕はその店主に恐れまで感じた。恐れおののく僕を尻目に、店主はのんきにコーヒーを淹れ始めた。
「ああ、そうだ。コーヒー、飲むでしょ?いい豆が手に入ったんだ。一人で飲むには味気ないし、一緒に飲もうよ。」
僕に拒否権はないらしい。店主は磨いた方のカップを自分の方に、カウンターの下から取り出したキャラクター物のマグカップをこちらによこすと、コーヒーを注いだ。唯一の救いは僕の方のカップにほこりが被っていないことだった。
「お花見、賑わってるね。」
「そうですね。」
「桜、綺麗だね。」
「はあ、綺麗ですね。」
空っぽの会話を数回続ける。先ほどまでの鋭さはどこへやら、ただのまぐれだったのではないかと思うほど穏やかな時間だった。
店主の言う通り、コーヒーは美味しかった。古書店をたたんで、喫茶店を営んだ方が良いのではないかと思うほどだった。
店主は桜を見ていた。その下の喧騒には目もくれず、ただ季節に従って咲いた利口な桜を見ていた。桜の花びらが風に誘われ、古書店の中に吹き込んだ。黄ばんだ表紙の上で桜の花びらがぽつりと舞った。
「コーヒー、美味しかったです。ありがとうございました。お代は、」
「いいよいいよ。僕も楽しかったし。」
店主はバイバイと言いながら、半ば僕を追い出すかのように見送った。
書店の外は僕が来た時よりは少し静かになっていたが、それでもまだうるさいことに変わりはなかった。桜の木の下には花見客の残骸がぽつりぽつりと落ちていた。ビールの空き缶、プラスチック製のパック、片方だけの割りばし。桜の花びらと混ざり合った混沌の欠片達はなんとも悲しそうに風に吹かれていた。

では、ここはどこか?

僕は、決してここで起こった一切合切を僕が正確に記憶している訳では無い。だから、もしかすると僕のくだらない思い込みであったり、無駄な脚色であったりがくっついている、という可能性も否定することはできない。つまるところ、僕は根っからのリアリストである。道理の通らない御伽噺の面白味に関しては理解できるような気もしないし、理解をしようとも思っていない。しかし、僕はこの事実というべきものに対して誠実でありたいと思っている。
濡れて冷えた石畳。饐えた空気。眩暈。騒めきと足音が響いた午後三時。僕はそこに居た。気分が悪かった。胃がひっくり返ってしまうような気さえした。あらゆる毛穴から冷や汗が噴出し、握っていたハンカチはぐっしょりと濡れてしまった。息が詰まり、心臓を誰かに握りつぶされた。
背広を着た蛙が小銭を落とした。チャリン、と音を立てて落ちたそれは、地面の凹凸を気にせず一直線に走り抜けた。石畳の隙間から親指ほどのウサギが三匹、甲高い声でわめきたてた。そして、これまた小さなレースの日傘をさして、歩き去った。建物はゴムの様にぎぃぎぃと音を立て、伸びたり縮んだりを繰り返した。太陽に顔を向ける向日葵の様に、彼らは全員規則正しく、且つ礼儀正しく僕を取り巻いた。ネオンの点滅はメトロノームと同義で、禁じられた。雲は黒く、太陽はランタンの中に等しく分けられ、夜を助けた。ピアノの音色はゾッとするようなものであったし、黒く光った正体は秒速百二十メートルで脳髄を満たした。ダイナマイトは鼓膜ではなく、雨音はいずれかの植物に擬態した。そして、僕は――。

筆が止まる。万年筆のインクが黒い染みを作る。目が離せない。きっとここにもそこがある。染みたインクが消えることはない。指先、手首。順番に飲み込まれてゆく。ズルリ、バキッ、ゴクリ。きっと、腹の中はワンダーランド。貴方のすぐ横に。


それは小さな溜息の様な手紙だった。
ノートを綺麗に切り取ったそこには彼らしい字で小さく「もしも、死ぬなら海が良い」と書かれていた。嫌味なほどに真っ白なその手紙が、そしてそれが反射する西陽が眩しくて僕は目を瞑った。
そこには海が広がっていた。ザバン、と篭った音を断続的にたてながら、穏やかな波が砂浜に打ち寄せる。砂浜が湿り、色を濃くする。生温い風が肌を拭い、潮の香りが嫌に嗅覚を刺激する。—ここは、何処だろう。言葉が波に溶け、消える。左手に握られた手紙が存在を主張するかのようにパタパタと鳴る。

些か疲れていた。最後の句点を打ち、三度上書き保存をする。もう一度確認をして、背伸びをする。ディスプレイの時計は午前三時を指していた。研究者にとって一番怖いのは、実験の失敗でも論文発表の場でもない。論文のデータが跡形もなく消えることだ。そう、先輩が説教を垂れていた。概ね同意しよう。とはいえ、元来内気であった加藤青年にとっては、どちらもかなり面倒であることに変わりはなかった。
欠伸をする。それを引き金に、忘れていたはずの疲労やら睡魔やらが顔を上げる。「お呼びですか?」というように。「お帰りください」と宥められるなら便利なのに、とシャットダウン寸前の脳味噌が無駄に動く。数歩先のベッドに倒れ込むように加藤青年は眠った。
日が暮れ、日が昇り、そうして、加藤青年は目を覚ました。気持ちの良い目覚めであった。久しぶりの感覚だった。背中にしがみつくようにして重く凭れていたあらゆる物が取り払われ、随分と軽く感じられた。時刻午前十時。ああ、たったの七時間か。……まさか。いいや、もしかして。パソコンを起動する。一日と四時間。その間、彼はずっと眠っていたのだった。
「あー、」
掠れた声は絶望の色を帯びていた。予定があった訳では無い。ただ、一日を無駄にしてしまったことが悔やまれる。疲れているんだ。しょうがないじゃないか。その正当化は専ら、己のためにあった。ぐぅ、と腹が鳴る。喉の乾きを感じ、冷えた水をぐいと飲み干す。その冷たさは過度の睡眠で膨張した脳味噌を少しだけ萎ませてくれるような気がした。
「さて、」加藤は呟いた。どうしようか。部屋の中をグルグルと歩き回る。汚れたマグカップをシンクに置く。床に捨てられた靴下と下着を洗濯機に放り込む。コンビニのサンドウィッチの包装とチョコレートの銀紙を捨て、ゴミ袋の口をきつく縛る。そして、ため息をつく。
どこか、遠くに行きたい。誰も知らない、遠くへ。

電車の中と胎内は似ているから眠くなる。どこかでそんなことを聞いた気がする。切符を見ると、そこは確かに誰も知らないどこか遠くの場所だった。路線図の一番端を選んだからだった。ぎゅぅとリュックサックを抱く。中に入っているのは、数日分の着替えとノートとペン、後は数十枚の一万円札とクレジットカード。

そのベンチは、世界中のビーチにあるベンチと同じように砂っぽく、汚れていた。体を前に倒すと前に傾き、後ろに倒すと同じように傾いた。まぁ、良いだろう。ここに長く座る訳でもない。目の前の海は、ザブン、ザブンとその変わらぬ旋律を奏でていた。おおよそ三十センチメートル程の波が砂浜に侵食し、消える。加藤は、それを暫し眺めその不変的な様子に感服し、辺りを見渡した。
空、地平線、海、砂浜。シャッターが閉じられた海の家、家族連れ。そして、一人の男。

その男は波打ち際を歩いていた。紺色の薄いカーディガンが風に煽られ、羽のように広がる。彼の周りは形容しがたい、神聖と言うべきか。気味が悪い膜が張ってあるように見えた。上質なオーガンジーのように時折陽の光を反射するその膜は、男の動きに合わせて自在に形を変えた。表面張力によってカップの縁から溢れまいとする液体のように、その膜はぴたりと彼の皮膚を取り囲んでいる。男は目的がないように砂浜を漂っていた。不意にぴた、と直立し、そして潮の流れに導かれる魚のように彼はこちらに歩いてきた。膜もまた、彼を追うようにてらてらと輝いていた。

「君、名前は?」
青年は膝を曲げ、加藤の顔を覗き込むようにして聞いた。まるで親しかった友人同士の再会のように。—加藤にそのような友人が居るか、と言われたら首を縦に振ることはできないが、物は例えである—
「ええと、加藤、です」困惑しながら、加藤は答えた。無視を決め込むほど彼は勇敢では無かったし、名前を教えるほど不用心でも無かった。
「えぇ、下の名前、教えてよ。それはさ、苗字でしょ?」膝の上で、彼の細く長い指が居心地悪そうに踊る。
「加藤、加藤シゲアキです」宙に文字を書きながら答える。書き方までは教えなくていいだろう。
「ふぅん……」沈黙を嫌うように波が鳴く。興味が無いなら聞かなくても良かったじゃないか。
「……あなたは?」
「小山、慶一郎」たぶんね、彼は小さな声でそう付け足した。それがまるで秘密であるかのように。
「……多分?」俺がそう聞くと、小山さんは困ったように微笑んだ。
「みんな、忘れちゃうんだ、全部。だからシゲもきっと、明日になったら俺の事忘れてるよ。賭けてもいい」
小山さんは唇をきゅ、と結んだ。それと共に膜も揺れる。ああ、冗談じゃないんだなと悟る。
「……へぇ」酷く素っ気ない相槌が零れる。生憎俺は気の利いた返事を思いつくようなタイプではなかった。
「呆れた?」小山さんは俺の目をまっすぐ見つめた。
「えぇ、まぁ。だけど、嘘じゃないんでしょう?」
「うん、嘘じゃない。たぶん……うん」曖昧な返事が

「シゲ、俺眠いよ」
小山さんは独り言の様にそう呟いた。そして、僅かに俺に体重を預けた。いつも通り、俺の肩に頭を乗せる。秘め事の様に重ねた手先が少しづつ冷たくなってゆく。温い砂浜も雲から様子を伺う様に除く太陽でさえ、彼を温めてはくれなかった。すぅ、と静かに瞬きをする。その瞳は水平線を捉えている。呼吸が、ゆっくりと失われてゆく。彼の体はまるでラジオのつまみを回す様に、徐々に鼓動を緩める。
重力に逆らうことを辞めた彼の体は幾分か重く感じられた。確かな質量を確かめながら、俺は彼が死んだということを認めなければならなかった。濃密な死の質感が俺を覆い尽くした。涙が頬を濡らす。水平線が忙しなく揺れる。空と海の境界線が絵の具を混ぜる様に曖昧になる。

結末はどうせ最初から分かっていた。全て、線路の上に存在していたことなのだ。彼の死は儀式的で、カジュアルでそれでいて荘厳だった。
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