一夜ひとよに

ちいさな屋根の中ふたり。

割り切れない。
足したら駄目。
引いたら零。
掛け合わせるくらいで丁度良いじゃない。



南極がどのくらい寒いのかなんて私の知ったことではないけれど、とにかく冬は朝起き上がるのに1日の頑張りを使い果たすことは確かだ。
兄の直が部屋に入ってくる音で、私は飴でくっついたような瞼をうっすらと開ける。

「おはようイモムシさん」

直兄さんは毎朝部屋のストーブを点けて、氷みたいに冷たくなったルームシューズをその前に置いてくれる。
そんな兄を私は「冬のかみさま」と呼んでいる。
マッチを擦る音がして、石油の燃え始める匂いがする。

「芋虫じゃないですよう。私にはまりあという聖母の神聖なる名前があるんだからねー」

段々開いてきた瞼越しに、直兄さんの赤毛の短髪が目に入った。ああやっと起きることができる。どうして人間は冬眠しないのか不思議だと思った。
もうお年頃なんだから自分で起きたらどうなんだいと言われた。それができるなら苦労はしない。

下の階でベーコンを焼く音がする。おばあちゃん、もう起きている。私と同じ芋虫族のくせに、今日はどうやらかみさま気取りのようだ。
カーテンを開けるとまだ空は陽も昇らない鉛色だった。
この朝さえなければ、冬はそんなに嫌いではない。
日溜まりのありがたさを知ることができるし、なによりおばあちゃんの作るスイートポテトは格別だ。



下に降りると、もう朝食の準備が整いつつあった。おばあちゃんがスクランブルエッグをつぎ分けているのを見て、私もその皿にケチャップ爆弾をお見舞いしてやった。
おばあちゃんはそのラベンダーみたいな紫色の瞳をきらめかせて“good morning!”と綺麗なキングダムイングリッシュで言った。

おばあちゃんは別に日本語が喋れないわけではない。ただ、たまに私にも分かる簡単な英語を口ずさむ。
白髪ではない、プラチナブロンドが素敵な、私のグランマ。

「世の中って不公平だと思わない? ねえ、直兄さん」

焼いたバケットのとなりにレタスとトマトを不器用に切って添えようとしている(明らかに包丁の持ち方が犯罪者の)兄は、え? と裏返った変な声を出した。

「私も銀髪が良かったなぁ。兄さんも私も赤毛の巻き髪なんてまじブルー。マリッジブルー」

「マリッジブルーは違うだろ」

どうやらこの家系では隔世遺伝なんてちょっとしたミラクルは起こらないようだ。
直兄さんは私との軽口を交わす間にも、バイオリンやら楽譜やらをまとめて、出掛ける準備をしている。
音大生は大変ですねぇと言うと、この時期は指がかじかむからねと意外と真面目な答えが返ってきた。


私自身といえば、今日は高校も開校記念日でお休みだし、こんなに朝早く起きる必要もなかったのだけれど。
1人で朝食っていうのも何だか切ない。
図書館の本を2週間も延滞してしまっているので、まずはそれを返しに行こうかと思った。

朝食を食べ終え、着替えて、歯磨きをして、それからこの癖毛をどうにかこうにか緩いツインテールにして。おばあちゃんにいってきますを言うと、彼女はミルクパンを熱して何か温めていた。
この匂いはショコラだ。1人だけなんて、ずるい。
唇を尖らせていると、おばあちゃんは年相応でない意地悪な微笑みでこちらを見た。たまに魔女みたいだ、この人は。

外に出ると、あまりの寒さに首が縮まった。
イヤーマフをしっかり付け直して、歩き出す。ブーツはお気に入りのラウンドトゥが持ち上がった形。寒いと足下ばかり見てしまうのは私だけだろうか。


こんなことでは背筋が曲がってあまりよろしくない。私はしゃっきり立ち直して、ねずみ色の空を見上げた。
なんだか一雨来そうな、どんより空だ。
傘は持ってきていないので、今降られても困る。

「いたっ」

こつん、と何かが頬に当たる。続いて、ぱちぱちとアスファルトで何かが弾ける音がした。
雨ではない、氷の粒が降ってきたのだ。しかもこの状況では雨でないことを喜べない。氷の粒は小指の爪くらいの大きさはある。

空を睨み付けると、さっきよりも大量に、ばらばらと音を立ててみぞれが降ってきた。
生け花の剣山をファンデーションパフに使ったみたいに、顔の皮膚が氷で撫でられる。

「いったー!」

私は走り出した。どこか雨宿り(この場合氷宿り)できる所を探して。図書館へ向かう道とは違う方へ出てしまう。頭皮にも粒は容赦なく打ち付ける。
仕方がないので延滞している本を傘代わりにした。よい子は真似をしないで欲しいけど。
少し走ったところで、電話ボックスを見つけた。
携帯電話の普及に伴い、町から急に、というかいつの間にか姿を消して、絶滅危惧種になっている存在。
そんな電話ボックスに、なんと先客がいた。

私はその男の身なりに絶句する。
肩に付くか付かないかくらいの黒々とした癖毛を掻きながら、受話器も持たないその男は、甚平を着ていた。
その色は夏の夕焼けのような朱で、その黒い髪とよく映えて綺麗だと思ったが、そんなことはどうでも良い。
甚平とは、夏の夕暮れによく似合う、半袖膝丈の日本の伝統的リラックスウエアだと私は認識している。
それが、こんなみぞれ降りしきる12月にお目にかかろうとは。

「寒そー!」

思わず大声を上げてしまった。すると男はこちらを振り向く。年齢は二十歳に少し足りないくらい。肌が白い。もう寒さで凍死寸前なのではないか。
しかしその男は震える様子もなく、私を墨汁を煮詰めたような瞳で見据えた。


その身が竦むような視線で、私はとっさに気をつけの姿勢を取ってしまう。なんだ、この絶対零度のまなざし。スナイパーにでも狙われているような背筋の寒さ。
でも、こんなところで1人気を付けをしていても氷にどうぞ私に降ってきてくださいと言っているようなものだ。

「あの、電話が終わったのなら、代わって貰えませんか?」

精一杯の笑顔で、私はその男に頼んでみる。こんな状況でなければ、絶対に声なんて掛けないけど。
男は近くで見ると私よりずっと背が高かった。生まれつき目つきが悪いのか、私を見下ろして、これでは何だか蔑まれている感じだ。
聞こえなかったのか、返事がない。

「あのう、今すぐにでも屋根の下に入らないと、痛くて痣ができそうなんです」

「…………」

「この本、図書館から借りてるので、濡らしちゃうとまずいんですよ。ただでさえ延滞してるし」

「…………」

「実は私、とってもか弱かったりして。ごほ、ごほごほ」

「…………」

「うなー!」

遂に私は我慢できなくなってしまった。私の五臓六腑のどこにも堪忍袋なんて無い。まず紐が存在してない。

「何なんですかあなたは! 3点リーダで喋るんですか、それが母国語なんですか? 女の子が雨どころか氷に打たれてるんですよ? 大体あんたその甚平――」

「いーよ」

合唱で言ったらバスくらいの低い声で、その男は初めて喋った。意地悪そうに笑っている。


なんとなく第一印象から幽霊っぽい印象を受けていたので、喋れと言ったのは自分なのに驚いてしまった。

「氷、痛いんでしょ。入ればいいじゃん」

女の人が浮かべたらさぞかし妖艶だろうと思われるその笑みは、この男には何か不釣り合いで不気味でさえある。
しかも、この男、私を入れてくれるのは良いが、自分が出て行く気はさらさら無いらしい。
つまり、電話ボックスの中に、2人。
見知らぬひととこんなに密着するのはただでさえ躊躇われるのに、なぜこんな変人と電話ボックスで寿司詰めにされないといけないのか。
当の本人はそんなことに全く構う素振りも見せず、硝子越しにドロップみたいな氷がアスファルトで弾けるのを見ている。早く止めばここから出られるのに。
男は唐突に、「あんた、名前は?」と聞いてきた。

「まりあよ。平仮名でまりあ」

男はわずかに目を見開いたようだった。あまりありふれた名前ではないけれど、そんなに驚く事だろうか。一応、礼儀として相手の名前を聞いてみる。

「小春」

そのなんとも穏やかな、この天気にもその格好にも合わない名前に、思わず笑ってしまいそうになった。


「あなたも、ここで雨宿りしているの?」

「いや、違う」

こんな狭い空間での沈黙には耐えられないので、私は何か話題を提案しようと思った。

「待ってるんだ」

電話ボックスで誰かと待ち合わせなんて変わっている。そもそも、この変な男に友人や恋人はいるのだろうか。

「待ってる、って誰を?」

「電話」

待っているのは人ではないようだ。でも、電話?
小春さん、21世紀にもなって携帯電話を持っていないらしい。特に、この少年期と青年期の間(だろうと思われる)の年代である人間にしては珍しい。
いや、その前に。電話ボックスで電話を待つって、そんなことがあるのだろうか。

「電話ボックスって、電話を受けたりできるっけ?」

「回線が繋がってるんだ。不可能では無いと思うけど」

「『思う』って……相手が決まってるわけじゃないの?」

そこで小春さんは悪戯っぽく笑った。秘密基地を自慢する子どものそれに似ている。

「決まってない。もし世界中の誰かが、試しにこの公衆電話に電話を掛けてみて、それに俺が応える、それはもう奇跡だろ? 確率なんてもう天文学的な数字にぶっ飛ぶ。俺は、その相手こそが、運命の人だと思う。男であっても、女であっても。死刑囚でも宇宙人でも」

話題を振らない方が良かったかもしれないと私は後悔した。


ふうん、あなたってとってもロマンチストみたいですねと適当に相槌をうって、いよいよ早くみぞれが止まないものかと私は空を睨んだ。
角砂糖ほどの大きさの氷が地面で砕け散る。事態は悪くなっているようだった。

「ときに、まりあ」

いきなり名字ではなく名前で、その低い声が私を呼んだので、私は身が竦む思いをした。一瞬遅れて、名字なんて教えていなかったと思い出す。

「交換ノートって流行ったよね」

あまりに唐突な話で、しかもその単語が久しく聞かない物だった。
しかももう成年していそうなこの小春さんには到底似合わない言葉だ。

「ああ、流行りましたね。私が小学校の時、しかも低学年くらい……いつも私で止まっちゃってましたね。あまり覚えていませんけど」

小春さんはそれを聞いて、何故か満足そうに笑った。気持ち悪い。いや、気味が悪いと言っておこう。本当に幽霊みたいだ。
そっか、そうだよなあと、小春さんは言葉を咀嚼するように頷く。

「覚えてるわけないよな」

そこからまた小春さんの運命的おはなしが始まるかと思いきや、会話はそこで途絶えた。全く持って予想が付けられない人だと思った。



帰ってきて手を洗うと、お湯がかじかんだ指先にじりじりと痛かった。
改めて、外の寒さを思い知る。
甚平なんて着ていたら、私なら3秒で凍死するような気がした。

「変なのに出会っちゃったなぁ」

私がぶつぶつと呟きながらリビングに向かうと、おばあちゃんが窓辺のちっちゃなサボテンから目を離して私を見た。

「おかえりなさい。ひどい雨ね」

「氷よ。ドロップくらいの」

おばあちゃんの紫の瞳は、いつにも増してきらきらと輝いている。

「あなた、なにか良いことがあったの? とてもわくわくしているわ」

「えっ?」

そんなことを言われるとは心外だ。
確かに、「何か」が起こったが、決して良い物ではなく、ましてわくわくなんてしない。
それを言うならおばあちゃんの方だ。






そのあとおばあちゃんに全てを事細かく話したのが悪かったのか、次の日の朝、私の学生鞄の上に見かけない毛糸の帽子とマフラーが置いてあった。

深緑色で、それはとても冬に映える素敵な色ではあるけれど、私はもっとカラフルな色が良かった。例えば、ビビットピンクとか。

「おばあちゃん、ありがとう」

一応、台所のおばあちゃんに聞こえるくらいの声でお礼を言った後、私は鏡の前に向かい、帽子を被ってみた。
被ってみると、私の赤毛によく似合う。こういうのは、やっぱり着てみるまで分からない。

「あら、まりあ。残念だけど、それは貴方のじゃないわよ」

おばあちゃんがルームシューズをぽすぽす鳴らしてやって来た。
瞳が良いことを思いついた少女のように輝いている。

「え? じゃあ、兄さんに?」

「違うわね。きのう話してた、あのお兄さんよ」

「げっ」

「甚平で冬は越せないわよ」

そうか。だからこんなにシックな色合いなのか。
おばあちゃんは自慢げにしているけれど、私はこれを届けに、またあの男に会いに行かなくてはならないのだ。
できればもう二度と再会したくないタイプの人間なのに。


私は決して勉強が得意ではないし好きでもない、でも友達と話すのは楽しいから、なんとか学校の8時間授業を乗り切った。
外に出ると、つんと鼻が痛い。
吸い込む空気も冬の匂いがする。土っぽくて、煙臭い。
思わずくしゃみが出て、その息さえも白くなるのに驚いた。
こんな寒い日、私ならイヤーマフとコート無しでは凍死する。
嫌でもあの甚平男の幽霊みたいな笑みが思い浮かんだ。
ひょっとしたら、小春さんって本当に凍死してて、アレは本物の幽霊なのかもしれない。

三叉路で友達と別れて、私は家とは違う方向に歩き出した。
勿論、公衆電話ボックスに向かうために。

心の奥で今日は居ませんように、と祈っていたけど、聖母ではない偽「まりあ」の願いは打ち砕かれた。
やっぱり、あの男は昨日と同じようにゆるりと立っていた。

「しかもやっぱり甚平だし……」

私の声に気付いたのか、小春さんはこちらを振り返り、にやりと笑った。
この不気味さが苦手なのだ。




何しに来たの、とでも言いそうだったので、私は紙袋を突き出した。小春さんって年齢不詳だからため口を聞いて良いのかどうかも分からない。でもこんな人は礼儀も何も気にするようには見えなかった。

「何これ」

「マフラーと帽子。私のおばあちゃんから」

小春さんは袋の中をしげしげと覗き込むばかりで、全く身につける気配はない。
仕方がないから、私はマフラーを手にとって首に巻いてあげた。
見てるだけでこっちが寒くなりそうだから。
背伸びをしても足りなかったので、結局小春さんに屈んでもらうかたちになる。
緑のマフラー自体はとても似合っているが、甚平と激しくアンバランスだ。
至近距離で目が合ったが、その新月の夜空みたいな黒目に吸い込まれそうな気がして、すぐに逸らしてしまった。
ありがとう、と耳の近くで低音が響く。小さいのにずしっとお腹に響く声だ。

「って言っておいて」

「え?」

「ありがとうって言っておいて、おばあちゃんに」

感謝の言葉は私にではなかった。
ちょっと自分が恥ずかしくなって、慌てた動きで帽子も被せる。
首から上が、何だか一般人になった。
いるいる、スキー場にこんな人。

「なに?」

まじまじ見ていたので、不思議に思われたらしい。

「ううん、似合ってるよ。風邪引かないでね」

早く電話のことは諦めなよ、とは何となく言えなかった。


まさか、小春さんがあんなに自然に感謝の言葉を口にする人だとは思わなかった。
どことなく冷たそうな顔をしているから、そんな風に思ったのかもしれない。
北風に背中を押されながら家路を急ぎ始めると、見慣れた赤毛が目に入った。向こう側から歩いてくる。パーマをかけたみたいに、くるくる。
向こうもこちらに気付いたようで掌を振っている。

「直にいさん!」

今日は何故か帰りが早い。きっと午後に講義が入っていなかったんだ。
そんな日は大抵、直兄さんはとびきり甘いエクレアや、ブリオッシュを買ってきて、おばあちゃんと3人でお茶にする。
今日も茶色い紙袋を抱えているから、何か買ってきているに違いない。

「エクレア?」

「今日はマカロン」

あの可愛らしい色と形を思い浮かべて、私の脳内で既にティータイムがシミュレーションされている。
ああ、早く家に帰りたい。
私は、本当にどうでも良い話だけれど、数学の先生がいかにねちっこくうるさいかを説明して、直兄さんはきちんと相槌を打ってくれた。
そうすれば、すぐに小さな上り坂は終わり、我が家の表札がお出迎えだ。


玄関を開けると、見慣れない靴が二足揃えてあった。
一つは、おばあちゃんが到底履きそうもない10㎝はヒールがある濃いピンクの靴。
もう一つは、直兄さんの趣味ではない、ごつごつした男物の黒いブーツ。髑髏(どくろ)のストラップも付いている。

「なんじゃこりゃ」

私がただいまも言わずに扉を開けたところで立ちつくしていると、直兄さんが横から覗いてきて「僕の趣味じゃない」と言った。
ほんのひととき、中にはいるのが躊躇われて、でも外から凍てつく風が吹き込んだので、私たちは急いで靴を脱いでストーブのあるリビングへ小走りした。

「ただいま!」

お帰りを言うおばあちゃんは居なかった。
代わりに、私と直兄さんを見つめる2人が居た。
30代後半の夫婦のようだけれど、でも、どうして?
年齢が離れているので、おばあちゃんの友達ではなさそうだけれど。

素早く気付いたのは直兄さんの方だった。
方に背負っていたヴァイオリンケースが、割と大きな音を立てて床に落ちる。
いつか、兄さんは、楽器は演奏家の魂だと言っていた。その魂が、無様に床に転がる。私は慌ててそれを拾う。

「え……?」

兄さんは楽器には目もくれず、ただ2人を見ていた。
男の銀髪と紫の瞳、女の縮れた赤毛をただ見ていた。
妙な胸騒ぎがした。だって、あまりにも、似ている――

「おかえり、直。まりあ」

知らないはずのその2人は、確かに私たちの名を呼んだ。

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最終更新:2011年01月21日 15:59
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