一夜ひとよに 続き1

動物の本能がここで働いたかどうかは分からないが、私も直感した。
会ったことがない人と言えば少し間違いになる。記憶にないだけで、面識はあるはずだ。
おばあちゃんそっくりのアメジストみたいな瞳の男性。
女性の赤い癖毛は私が毎朝格闘しているから、思い当たらないわけがなかった。
おばあちゃんに2人の子どもを預けて、どこか遠くへ行ってしまったという、私の両親。
お父さんとお母さんだ。

「なんだよ……何しに来たんだよ」

直兄さんはきっと覚えているのだろう。私と兄さんは4つ年が離れているから、少なくとも4年間はこの人達と暮らしていたはず。

「連れ戻しに来たの」

ごめんなさいね、いつまでも放っておいて、と少し憂いを秘めたような声で、お母さんは言った。
そして、その視線は私に移る。私を見る目は潤んで、たった今事故現場から救出された少女を見る肉親のようだ。

「まりあ。立派に育ったわね」

感極まるその声は、全く私の心まで届かない。
目の前にいる人が、私によく似た赤の他人としか思えない。
何故、私にそんなに親しげなのか、分からない。
動揺しきっているのは、誰の目にも明らかだった。

「……しらないわ」

思ったことが、ついいっぱいになった心から溢れ出すように言葉になって零れる。

「知らない。あなた達のこと、私は知らない」

お母さんがドラマみたいに膝を折って、ゆっくり崩れた。
安っぽい演技にしか思えない。
何か、私たちに仕掛けられた悪戯なのではないか。
「どっきりでーす!」なんて看板を持って、おばあちゃんが笑いながら入ってくるんじゃないだろうか。
しかし、それにしてはあまりにも良くできたどっきりだった。


そうよね、私たちのこと、まりあは覚えていないのよね、と涙の混じる声でお母さんは独り言のように言った。
仕方が無いじゃないか。私を置いてどこかへ行ってしまったのは、あなたじゃないか。
なぜ、そんなに悲しそうにしているのだろう。
私が喜んで抱きついてくれれば、それで良かったのだろうか。
そんな都合の良いこと、あるわけ無いのに。
生まれたての子鹿みたいにうずくまるお母さんに、いつの間にか直兄さんが近づいていた。
そして、無理矢理立たせるように、胸ぐらを掴む。
いつも温厚な兄の行動とは、とても思えない。

「何だよ、今更何しに来たんだよ。僕が、どんな気持ちで見送ったか、知らないだろう? 優しい言葉で子どもが騙せるとでも思った? 夢見させるようなこと言うなよ」

声こそ荒げないが、お母さんのブラウスを掴んだ手は震えているし、瞳は静かに怒りに燃えていた。
嫌だ。直兄さんが女性に暴力を振るう所なんて、見たくない。

お父さんがそれを止めるのよりも早く、私は何か叫んで、部屋から飛び出した。
飛び出すときに、何か踏んだ。茶色い紙袋。マカロンだった。急に涙が出そうになった。
何も聞きたくないから耳を塞いだ。
何も見たくないから瞼を閉じた。
やっぱり何かにぶつかった。瞳は開いておくべきだ。
でも、目が見えなくても分かる、ぶつかった時に広がる石鹸の匂い。毎日嗅いでいる、私の大切な人の匂い。
顔を上げるとおばあちゃんが鋏とハーブを持ったまま、驚いた表情でこちらを見ていた。

「どうしよう、おばあちゃん」

いつもは笑ってすぐに明快な答えをくれるおばあちゃんが、今日は何も言ってくれなかった。
何も言えないのだった。
なにかどろりと黒い物が頭を満たす様で、底知れない恐怖に、足が震えていた。



昨日の騒動から1日たったが、まだ事態は収まっていない。

「分からない訳じゃないんだ」

落ち葉を、ぱちぱちと燃える焚き火へ足しながら、直兄さんは独り言のように言った。
赤い髪が冬の寂しい夕暮れになびいている。
右目の少し下は青く痣になっていた。
結局、あの後直兄さんは怒りを抑えることができなかった。
お父さんに力ずくで止められるまで、兄さんはお母さんを殴り続けた。
まるで別人のようだと思った。毎晩苦悶しながらも静かに楽器に向かい合っているあの兄は、消えてしまったように感じた。

「2人とも、あんまり周りに受け入れられない夫婦だったんだ。おばあちゃんは違ったけどね。きっと寂しかったんだと思うよ。『私達に日本は狭すぎたのよ』なんて言って、どっかに消えちゃった。はずだった」

私はしばらく焚き火の中に入れた芋の焼け具合を心配する振りをしていたけど、兄さんの声が泣き出しそうだったので、目線をそちらに移す。

「つい、かっとなっちゃったよ」

痣が痛々しい。
お父さんは息子をどんな気持ちで殴ったのだろう。
私には到底分からない気持ちだろうか。

「ねえ、兄さん」

兄さんもこちらを見る。竹箒の手が止まった。
もう、笑っている。いつもの兄さんだ。

「私、お父さんとお母さんが、私の親だなんて、思えなかった。言われても、赤の他人にしか思えなかった。だって、今日初めて会った人だよ? 血のつながりって何? 私、本当にあの人達の娘なの?」

兄さんは溜息のような深い息を吐いた。白い息が、筋になって、消える。

「何だろうね。ほんと」

そこに明確な答えはなかった。
何とも言えない、寂しくて嫌な気持ちになる。
嵐が通り過ぎるみたいに、あっという間に我が家の状況は一変した。
何故だか知らないけれど、焼き芋を食べたら電話ボックスに行こうと思った。
とにかく、家には帰りたくない。


適当な理由を付けて家を出て、路地をゆっくり出ると、いつものように甚平姿がそこにはあった。
マフラーを巻いているのが、いつもと違った。
小春さんが狭い電話ボックスの中で、緑の受話器を見上げるように、座ってぼうっとしている。
扉にもたれかかって、こちらに気付いていないようだったので、わたしはそっと近づいて、いきなり扉を開いた。
かなり体重を掛けていたようで、小春さんの頭はそのまま地面に打ち付けられた。

「痛え!」

「ごきげんよう」

黒い睫毛が、眩しそうに瞬いた。
何故いきなりこんな事をされるのか分からないといった様子だ。
私にもよく分からない。ただ、何となくやってみたくなっただけだし。

「変なの」

「何が」

あんなに変な人だと思って、できればもう二度と会いたくないとまで感じていた小春さんに、こんな時に自分から会いに行くなんて。

「なんだか私、安心しちゃってるんだもん」

「不安だったの?」

小春さんがゆっくりと体を起こした。
そのまま、立ち上がって私に向き直る。
改めて顔を見ると、何故か喉がきゅっと締まって、目の奥が痺れたように熱くなった。
どうしてだろう、泣き出しそうだ。

「正体不明なの、私」

声も、どうしたって震えてしまう。
どうして、私はこんなに全幅の信頼を持ったみたいに、全体重で小春さんに寄りかかろうとしているのだろう。
相手が体を避ければ、無様に転んでしまうと言うのに。




小春さんは何か考えているのか、それともただ呆然としているのか、身動き一つしない。
もしかしたら、戸惑っているのかもしれない。急にこんな事言い出してごめんなさい、と私は心の中で謝った。
冷え切った風が、私達のつま先をかさかさと撫でていく。
言いだしたのは自分だけど、気まずいなぁ、この沈黙。

「ハグしてやろっか?」

「え?」

急に何かをひらめいたように小春さんが言った。でも今、急にハグというのはちょっとぶっ飛んだ考えにも思える。
だって、出会ってまだ3日なのだ。私達は長年の親友でもなければ、熱烈な恋人でもない。
いつか、直兄さんの恋人は酔うとキス魔という怪物になると言っていたが、もしかして、キス魔みたいなものでハグ魔なのだろうか、この男。

「ごめんなさい、そう言う方向では貴方の期待に応えられないかも……」

「いいから、はい」

小春さんはジャグリングのポーズみたいに掌を上に開いて私の方へ差し出した。
ちょっとよく分からない、この人。


でも、何となく、その腕に吸い込まれるような気がして、私は小春さんに体を預けてみた。
背中に優しく腕が巻き付くのが分かった。勿論、私のお尻を撫でたりすることもなく。
小春さんは幽霊ではなかった。腕の中は、とても暖かかった。
頬に当たる鎖骨は、やっぱりおばあちゃんのハグとは違う。ごつごつしてて、ちょっぴり痛い。
もう大丈夫だと思っていた目の奥が、また痺れてきた。
こぼれ落ちたら、なかなか涙は止まらない。
鼻を啜ったら、頭をぽんぽんと撫でられた。

小春さんは、女友達みたいに余計な詮索はしてこない。それがありがたかった。

「あれ」

ふと、マフラーから覗く首筋に、傷跡が目に付いた。
そんなに大きな物ではないけど、まだ新しい。


小春さんは、泣きながら急にもぞもぞし始めたこの小動物のようなものをどう扱ってよいのか分からず、結局私の頭のてっぺんを見つめながらフリーズしてしまった。
女の子というか、人全般との接し方をあまり心得ていないらしい。

「もう、大丈夫?」

本当は、あまり大丈夫でもないけれど、傷を見たら一時的に涙がストップしたみたいだ。

「うん。痛そうだよ、これ」

言って、私は左の鎖骨よりすこし上にある痣を伴った傷を見た。ちょっとだけ、直兄さんの頬を思い出しながら。
マフラーで隠れてよく見えなかったけれど、これは地味に痛い奴だ。

「ごめん」

小春さんは何故か謝った。会話が繋がらない。
何か私に謝ることでもあるのだろうかと私は顔を上げる。
小春さんは頭を掻いた。

「帽子、とられちゃって。取り返そうとしたら、殴られた」

ああ、と私は心の中で溜息を漏らす。
また、殴り傷なのか。
そう言えば、小春さんはマフラーはしているのに帽子は付けていなかった。
多分、その辺のヤンキーぶった派手なおにいちゃんにちょっかいを出されたのだろう。なんか、小春さん悪目立ちするし。

「全然、もう痛くないよ」

そう言って、小春さんは傷を隠すようにマフラーを直した。
それなら、いいんだけど。

「あともう一つ発見。小春さん、ネックレスとかするんだ」

「はあ?」

さっき見つけてしまった。甚平にはあまり似合わないけど、茶色い紐に鍵の付いたネックレス。ずいぶん古びているようにも見えたが、何か大切な物なのか、そういう加工なのか。
何故か耳が赤くなる小春さんを見て、私は目に涙を溜めたまま笑ってしまった。


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最終更新:2011年01月21日 16:00
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