一夜ひとよに 続き2


確かな何かがあればいいと思う。

いつかおばあちゃんは言った。
人が高価な車を買ったり、美しく着飾るのは、自分の価値を目に見えるものにしたいからだって。
確かに、目に見えないものは不安だ。
そして、今現在私が必要としているのもそれだ。
鍵穴と鍵のように、唯一無二でぴったり嵌る、そんなつながりがあればいいのに。
このままでは、何かふわふわと空をさまよって、世界の歯車から外れてしまいそうだ。

帰った家は、人が増えたというのに前にも増して静かだった。
おばあちゃんが、大きな寸胴鍋にポトフを作っていた。
あの2人がリビングにいないのを確認すると、私は何故かとても安心した。

「ただいまを言ったかしら? 聞こえなかったわ」

「ただいま」

そういって薄く笑うおばあちゃんは、一気に10歳くらい年を取ったように見える。
直兄さんが、バイオリンを手にしたままリビングに入ってきた。


おかえりと言って直兄さんが微笑むと、家の温度が上昇したように感じる。
そうだ、一昨日までの雰囲気をすっかり忘却しているみたい。
こんな空気の流れる家は、誰だって好きではないのだ。そこから軌道が外れてしまったならば、戻せば良いだけの話なのだ。
おばあちゃんは大きめのごつごつした野菜や肉が踊る寸胴鍋に蓋をして、「さてと」と言った。

「お茶にしましょう。色々とお話ししなければならないこともあるしね」

「お話し」という単語に少し緊張したが、おばあちゃんは昨日までと違って笑っている。
これが貫禄ってやつかもしれない。
たとえ作り笑いだって、私を励ましてくれるのだから。

台本あわせをしたみたいに、丁度あの2人が入ってきた。
直兄さんと目が合った両親との間に、一瞬だけ凍った空気が立ちこめた。
見なかったことにしておきたい。

「大人数居ると華やかねえ」

おばあちゃんは笑いながら、クッキーの缶を開ける。
私と言えば、手に汗までかいているっていうのに。



目の前にアールグレイの湯気が立ちこめて、少しだけ緊張が和らぐ。
そうだ、いつかはやらなくちゃいけないのだから、先延ばしにしてばかりも居られない。
私はナッツがいっぱい着いた分厚いクッキーを口の中に放り込んで、ごりごりと噛み砕いた。

「私達は今、モンマルトルに住んでいるのだけれど」

お母さんが独り言のように話し始める。
モンマルトルって言われてもぴんと来ない。
確か、国の名前ではなかったはずだ。

「モンマルトルってどのあたり?」

「え、まりあ知らないの?」

直兄さんが本当にびっくりしたように言う。モンマルトルを知らないって、そんなに世間知らずな目で見られてしまうくらいのことなのだろうか。

「パリで一番高い丘。芸術家の町だ」

パリと言うことはフランスにあるのだろう。なんだかずっと日本で暮らしている私には遠い世界の話に聞こえてしまう。
直兄さんの目は明らかに揺れていた。
芸術家の町。ヴァイオリンだって、その町ではよく響くだろう。

「きっと世界が広がると思うの。ねえ、一緒に来てみない?」


ねえと言われても困ってしまう。私だって外国に興味がない訳じゃない。ましてやフランスなんて日本人が最も訪れる観光地だ。

「いいんじゃないかしら。ねえ、直、まりあ」

意外なことに、おばあちゃんがそんなことを言い出した。
だからねえと言われても困るのに。

「でも、おばあちゃんは」

「私がどうかしたの?」

とぼけなくてもいい。おばあちゃん、今の言い方ではフランスに行く気はさらさら無いらしい。
でも、そんなことをしたら、おじいちゃんが居ないおばあちゃんは一人きりだ。
当の本人はにこにこしながら私にウインクまでしてくる。

「大丈夫よ。若いうちに色々な経験をした方が良いでしょう?」

おばあちゃんにそんなことを言われたら、こちらの立つ瀬がない。
私がおろおろしていると、お母さんは「じゃあ決まりね」と嬉しそうに言った。お父さんも笑っている。

「学校の手続きとか時間かかるんだけど、1週間ぐらいで出発できるようにしようね」

まるで遠足前の計画を話すようにお母さんは言う。
ちょっと待って。私の意見はまだ何も聞いて貰っていない。

「待って待って、私のことも考えてよ! 直兄さんもだよ!」

直兄さんは固まっていた。それはティーカップから立ち上る湯気を見つめているようにも見える。しばらくして、兄さんは静かに口を開いた。

「ごめん。僕ちょっと行きたいかも」

何てことだ。
この前あんなにとっくみあいの喧嘩をしたばかりなのに。
そんなにモンマルトルが魅力的なのか。
とはいえ、私にも明確に反対する理由はない。
ただ、何となくおばあちゃんのことが気がかりで、この目の前の二人と共に暮らしていくことを考えると、胸に鉛が詰まったような気持ちがするのだ。

目の前のお母さんは、一件落着と言った様子で、分厚いクッキーをかじっている。
私は、急に嵐の中に置いてけぼりにされた心地がした。




何とも不安な1週間が始まってしまった。
クラスの友人にもなかなか言い出せない。新学期でも何でもないこの時期に、転校なんて絶対深い家庭の事情があるのだろうと思われるに決まっている。
まあ、実際そうなのだろうけど。
私の部屋と言えば一見片付いているようで、クローゼットを開けると酷い有様だ。直兄さんに「ごきぶりワンダーランド」と名前を付けられたことさえある。
でも、荷造りをする気は何となく起こらない。

放課後も、真っ直ぐ家には帰りたくない。
あのお茶会の後から、直兄さんと両親は少しだけ話をするようになった。兄さんもあれだけ激怒しておいて、現金な人だと思う。
だから、そんなに家の雰囲気は悪くない。それなのに、やっぱり居心地が悪い。



ローファーで踏みしめる地面には、まだ誰も踏んでいない真っ白な雪と、アスファルトの黒を吸い込んで汚れた雪が歩道にマーブル模様を描いている。粉のようにぱらぱらしているわけではないその雪は、朝より少しだけ暖かい空気を思い出させてくれる。

吐き出した溜息が、凍った空気にじんわり溶かされた。
つま先は、どこか寄り道を探している間にもどんどん冷たくなっていく。


適当にCDショップをうろついてみたけれど、特に欲しい物もなく、指先が温まったらすぐに出て行った。
私は一体何をやっているんだろう。やらなくてはいけないことは山積みなのに。

最後に、少しだけ小春さんに会ってから帰ろうかと思った。
急にめまぐるしく変わりだした私の周りの中で、彼だけはいつも定位置にいる。
変人だとか言いながら、実のところ救われていたりもする。
よっぽど暇なんだねと言われてしまうかもしれない。小春さんに言われたくもないけど。

ここ最近で見慣れてきた電話ボックスの中には、やっぱり甚平姿の小春さんがいた。
また狭い中で壁にもたれかかるように座っている。

「こんにちは、寒いね」

私は何か温かいお土産を持ってくればよかったかなと後悔しながら、冷たい取っ手を引いて、ドアを開けた。
ドアの方に寄りかかっている小春さんだが、今日はちゃんと話しかけながら開いたので大丈夫だろうと思っていた。

しかし、小春さんはそのまま倒れた。ずる、と力なく、黒髪が雪の上に横たわる。
目は閉じられている。眠っているのかと思ったが、冷たい雪に目を見開くどころか、きゅっと伏せてしまった。

明らかに様子がおかしい。

「え、ちょっと小春さん、大丈夫?」

私が慌てて地面に着いた肩を持ち上げる。まるで軟体動物みたいに、力が全く入っていない。
おまけに熱を帯びている。暖炉の前に、長時間座っていたみたいに。
なんとか体を起こすと、小春さんは蚊の鳴くような声で「まりあ?」と言った。

「お馬鹿!」

緊急事態だ。前々から気になっては居たけれど、それでも小春さんなら大丈夫なのかと勝手に納得していた。
風邪を引かないわけがないのだ。

細い腕を自分の肩に回して、一緒に立ち上がろうとした。私よりもかなり上背があるから、なかなか上手くいかない。

「ちょっとちょっと、小春さん頑張ってよ!」

「なに、これ」

早く、一刻も早くこの人を温めないと。
直兄さんがいればいいのに、と私は思いながら、ほぼ自分に乗せるようにして、小春さんに肩を貸した。

「家に帰るのよ!」

ずるずると、後ろで足を引きずる音がしたが構わない。
私は、普段運動不足な自分の筋肉や関節が軋む音を聞きながら、ゆっくりと家路をたどり始めた。


おばあちゃんは外で冬眠中の庭の手入れをしていた。
私の上に乗っかっている甚平姿の男を見ると、かなり驚いた様子だったけれど、事情を説明して、深緑のマフラーを見ると「ああ」と納得した。

「早く毛布でぐるぐる巻きにしてあげなさい。すぐ私も行くわ」

流石に腰に負担が大きいのでおばあちゃんに手伝って貰うわけにはいかず、私は自分の部屋まで小春さんを担いで行く。

「ごめん、まりあ」

小春さんが消え入るような声で言った。子どもが泣き出す前の、精一杯の声みたいだった。
脱皮するみたいに、背負っていた小春さんをずるんとベッドに下ろす。
小春さんはそのまま動かない。私はその上にありったけの毛布を被せた。

「すごく暑いんだけど」

「気のせいよ」

一度上がってしまった熱は上げきってしまえばいい。そうやってウイルスと戦っているのだから、無理に薬で下げたりしたら長引いてしまう、というのは全部おばあちゃんの受け売り。
あっという間に、小春さんも芋虫さんになった。

「あ、なんかまりあのにおいがする。せっけんみたいな」

「黙って寝る」

「まりあ臭だ」

しばらく独り言のようにぶつぶつ小春さんは喋っていたが、おばあちゃんが生姜と蜂蜜がたっぷり入った紅茶を持ってくるまでに、小春さんはくたばるように寝てしまった。


おばあちゃんが体温計を持ってきたので、起こそうと思ったけれど、なかなか起きない。
誠に勝手ながら、毛布の中に手を突っ込んで、体温計を脇に挟ませて貰う。それでも起きないのだから、相当しんどいのだろう。
それでもおばあちゃんは気楽そうだ。

「貴方はこの子が寝てる間に部屋の掃除でもしておきなさい」

おばあちゃんが意地悪そうに笑う。私はクローゼットを睨んだ。パンドラの箱は、意外と身近にあるのかもしれない。
おばあちゃんはお粥を作ると言って、また出て行ってしまった。

芋虫さんと私だけの部屋は、ストーブがちかちかと静かに燃える音以外しなくなった。
しばらくして、くぐもった小さな電子音が聞こえ、そろりそろりと体温計を取り出すと、画面は38度9分を示していた。大丈夫、病院に搬送するほどではない。

「ゆっくり休んでね」

それから私は、大きなゴミ袋を引っ張り出してきて、クローゼットの扉を開けた。


中はどこから手を付けてよいかも分からないくらい散らかり放題だ。私の記憶が正しければ、物心ついた頃から、整理したことなど一度もない。
取り敢えず、燃えるものは要る物以外全て捨てよう。
埃の被ったいらない教科書やノートも積み上げられている。

捨てるという作業は、かなり勇気と思い切りが必要だ。
未練を振り切るように、ごみ袋に思い出たちを詰めていく。
やっと、少しだけ、私はもうこの家から出て行ってしまうのだと実感し始めた。
おばあちゃんと離れて、まだ良く馴染めない両親と共に、知らない土地へ行くのだ。
そう思うと、なおさら思い出を捨てる作業も遅くなってくる。

中学校時代の物はあらかた捨ててしまって、小学校のころの物が目立ち始めた。
アルバムが出てきたりして、見嵌ってしまいなかなか作業が進まない。
ノートよりも一回り小さい、自由帳や塗り絵絵本に取りかかった頃だった。
ファンシーな表紙で、ビニールのカバーが付いた物が出てきた。
小さな南京錠のようなものまで付いている。

「なんじゃこれ」

開けようにも、錠が外れず、見ることができない。

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最終更新:2011年01月21日 12:54
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