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プロイセン年表 - (2010/07/03 (土) 03:53:56) の最新版との変更点

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|&bold(){世紀}|&bold(){年代}|CENTER:&bold(){日付}|CENTER:&bold(){歴史}|CENTER:&bold(){ヘタリア漫画}| |12||||| |  |1127||とあるドイツ人夫妻により、エルサレムにドイツ館と呼ばれる病院が開かれる|| |  |1143||ローマ教皇ケレスチヌス二世がドイツ館をヨハネ騎士団の下部組織であると確認する文書を発行|| |  |1190|11月19日|&bold(){聖母マリア病院修道会設立}|| |  |  ||&blankimg(P04-05.jpg,width=102,height=76)(クリックで大きくなります)|| |  |1191|2月6日|聖母マリア病院修道会がシュバーベン公とエルサレム王によって正式承認される|| |  |1198||&bold(){騎士修道会へ昇格}。&br()初代総長ハインリッヒ・ワルポット・フォン・バッセンハイム就任|| |  |1199||ローマ教皇インノケンティウス3世がドイツ騎士修道会を承認|| |  |1200||第2代総長にオットー・フォン・ケルペン就任|| |13||||| |  |1209||第3代総長にハインリヒ・バルトが就任|| |  |  ||第4代総長にヘルマン・フォン・ザルツァが就任|| |  |1211||ハンガリー王アンドラーシュ二世からハンガリーへの進駐要請|リヒテンシュタインとふしぎなお兄様3| |  |1218||教皇使節ペラギウス率いる第5次十字軍に参加|| |  |1220||総長はフリードリヒ2世の戴冠式に出席|| |  |  ||ローマ教皇ホノリウス3世からハンガリーのブルツェンランドに関する特許状を貰う|| |  |1221||マンスーラの戦いに敗退、降伏。総長が捕虜に(同年内に釈放)|| |  |1224||プルツェンラントは俺のもの宣言|リヒテンシュタインとふしぎなお兄様2| |  |1225||ハンガリーに追い出される|| |  |1226||マソヴィエン公コンラートからプロイセンへの進駐要請。ポーランド領へ|| |  |  ||神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世から特許状(リミニ金印勅書。偽物の可能性あり)を貰う|| |  |1228||アッコンの近くに本部としてモンフォール城建設|| |  |  ||マソヴィエン公コンラートからクルム地方の正式な贈与状を受ける|| |  |1229||「ヤッファ条約」締結。&br()フリードリヒ2世がエルサレム王に即位し、ドイツ騎士団はこれを支持する|| |  |1230||他の十字軍士と供にプロイセンへ進駐|| |  |1234||ローマ教皇グレゴリウス九世からプロイセンにおける特許状(リエティ勅書)を貰う|| |  |1235||ドブリン騎士団を併合|| |  |1237||リヴォニア帯剣騎士団を併合し、リヴォニア(リヴラント)を入手|| |  |1239||第5代総長にコンラート・フォン・チューリンゲンが就任|| |  |1240||第6代総長にゲルハルト・フォン・マールベルクが就任|| |  |1241||リーグニッツの戦いに参戦(敗北)|| |  |  ||ボッホ・フォン・オステルナがプロイセン長官名代となり、部隊を指揮|| |  |1242||チュード湖の氷上の戦い(敗北)|| |  |  ||20名の戦死者と6名の捕虜を出す|| |  |  ||ポメラニアの支配者スヴァントポルクが反乱、プロイセン人がこれに呼応して蜂起(第1次反乱)|| |  |1244||第7代総長にハインリッヒ・フォン・ホーヘンローエが就任|| |  |1245||オーストリア公、リヒテンシュタイン、カジミェシュ公の十字軍がポメラニアに侵攻、&br()スヴァントポルクを敗る。|| |  |1246||デンマーク領リヴラントをデンマークから譲られる|| |  |1249||プロイセン人とクリストブルク条約を結び講和(第1次反乱終結)|| |  |  ||第8代総長にグンター・フォン・シュワルツベルクが就任|| |  |1252||第9代総長にボッホ・フォン・オステルナが就任|| |  |  ||ブランデンブルク辺境伯の十字軍がプロイセンに来訪|| |  |1253||ポメラニアの支配者スヴァントポルクと和平条約締結、反乱終結。&br()プロイセン全域の支配を確立。|| |  |1255||ベーメン王オタカル2世の支援でケーニヒスベルクを建設|| |  |1256||第10代総長にアンノ・フォン・ザンガースハウゼンが就任|| |  |1259||クールラントにてショーテンの戦い(敗北)|| |  |1260|7月13日|クールラントにてドゥルベの戦い(敗北)|| |  |  ||プロイセン人が蜂起(第二次反乱)&br()ドイツ騎士団はクリストブルク条約の失効を宣言|| |  |1264||リトアニア軍がザムラントへ侵攻|| |  |1271||モンフォール城陥落、本部をアッコンに|| |  |1273||第11代総長にハルトマン・フォン・ヘルドルンゲンが就任|| |  |1274||プロイセン人を一時鎮圧(すぐに大規模な反乱発生)|| |  |1276||マリエンブルク建設|| |  |1277||リトアニア・プロイセン連合軍クルマーラントに侵攻|| |  |1283||リトアニア軍によるザムラント侵攻|| |  |  ||プロイセン人を鎮圧、プロイセン全土を平定|| |  |  ||第12代総長にブルヒャルド・フォン・シュヴァンデン就任|| |  |1290||総長がヨハネ騎士団に鞍替え|| |  |  ||第13代総長にコンラート・フォン・フォイヒトヴァンゲンが就任|| |  |1291|5月18日|アッコン陥落(中東最後の十字軍国家滅亡)、本部をヴェネチアに|| |  |1295||リガ市で内戦が勃発|| |  |1297||第14代総長にゴットフリード・フォン・ホーヘンローエが就任|| |  |1299||リガ市がリトアニアと組み、リガのドイツ騎士団の司令部を破壊|| |14||||| |  |1303||第15代総長にジークフリート・フォン・フォイヒトヴァンゲンが就任|| |  |1308||ポーランドとブランデンベルク辺境伯との戦いにポーランド側として参加、&br()東ポメラニアを占領|| |  |1309||本部をヴェネチアからマリエンブルクへ|| |  |1311||第16代総長にカール・フォン・トリアーが就任|| |  |1317||ミヒェラウ地方を購入|| |  |1322||リトアニアによるドルパット破壊|| |  |1323||リトアニアにメーメルを奪われる|| |  |1324||第17代総長にヴェルナー・フォン・オルセルンが就任|| |  |1327||ポーランドとの国境紛争|| |  |1329||リトアニア軍にリガを奪われるが、ボヘミア王ヨハンの十字軍が来援し、リガを奪還|| |  |1330||ポーランドと休戦|| |  |1331||第18代総長にルター・フォン・ブラウンシュヴァイクが就任|| |  |1335||第19代総長にディートリッヒ・フォン・アルテンブルクが就任|| |  |1342||第20代総長にルードルフ・ケーニヒ・フォン・ヴァイツァウが就任|| |  |1343||ポーランドと講和成立、ポーランドが東ポンメルン放棄を決定|| |  |1345||リトアニアがザムランとリブラントを攻撃|| |  |  ||第21代総長にハインリッヒ・デューゼマー・フォン・アルフベルクが就任|| |  |1346||デンマーク王からエストニア公国(エストランド)を19,000ケルンマルクで購入|| |  |  |11月1日|デンマークからドイツ騎士団へエストニア公国の統治権が移譲される|| |  |1352||第22代総長にヴィンリッヒ・フォン・クニップローデが就任|| |  |1360||第1次デンマーク戦争。ドイツ騎士団はハンザを支持|| |  |1370||第1次デンマーク戦争終結|| |  |  ||ルダウの戦いでリトアニアを敗る|| |  |1377||オーストリア大公アルブレヒト3世の十字軍が来訪|| |  |1380||前リトアニア大公の息子ヤギェウォと同盟|| |  |1382||第23代総長にコンラート・ツェルナー・フォン・ローテンシュタインが就任|| |  |  ||ヴィツナ地方を購入|| |  |1384||ツァウジュ地方を購入|| |  |1385||(ポーランド・リトアニア連合成立)|| |  |1391||第24代総長にコンラート・フォン・ヴァレンロードが就任|| |  |1393||第25代総長にコンラート・フォン・ユンギンゲンが就任|| |  |1398||ザリンヴェルダーの和約。リトアニアと休戦|| |  |1399||ドイツ騎士団・リトアニア連合軍がヴォルスクラ河の戦いでキプチャク汗国に敗退|| |  |  ||海賊同盟ヴィタリエン兄弟団をデンマーク領のゴトランド島から駆逐、ゴトランドを占領|| |  |  ||ドブリン地方を購入|| |15||||| |  |1404||ローマ教皇がリトアニアに対する戦闘の禁止を宣言|| |  |  ||サマイテン地方を購入|| |  |  ||ポーランドとラキアンツの和約締結、ポーランドがノイマルク地方に対する要求を撤回|| |  |1407||第26代総長にウルリッヒ・フォン・ユンギンゲンが就任|| |  |  ||ゴトランド島をデンマークに返還|| |  |1409||サモギティア人の反乱|| |  |  ||ドイツ皇帝ジギスムントと同盟|| |  |  ||ポーランドに宣戦布告|| |  |1410|7月15日|タンネンベルクの戦い&br()ポーランド・リトアニア連合軍に敗退&br()マリエンブルク城に篭城、包囲される|スウェーデン・ポーランド戦争&br()タンネンベルクの後の話| |  |  ||第27代総長にハインリッヒ・フォン・プラウエンが就任|| |  |1411||第一次トルニの和約締結。領土を戦前の状態に戻すと言う条件で休戦|| |  |1414||総長が他幹部のクーデターにより罷免、エルビングの代官に|| |  |  ||第28代総長にミヒャエル・キュヒマイスター・フォン・シュテルンベルクが就任|| |  |  ||飢餓戦争。ポーランド軍がプロイセンへ侵攻|| |  |1422||第29代総長にパウル・フォン・ルスドルフが就任|| |  |  ||ポーランド・リトアニア連合軍がプロイセンへ侵攻&br()メルノゼーの講和でリトアニアがサマイテン地方を取得|| |  |1426||対フス派十字軍に参加|| |  |1431||リトアニアとポーランドが対立。リトアニアと同盟を結びポーランドと戦う|| |  |1435||ヴィウコミエシュの戦い(敗北)。ブレストでポーランドと講和条約|| |  |1440||プロイセンの諸都市が騎士団に反発し、プロイセン同盟を締結|| |  |1441||第30代総長にコンラート・フォン・エルリックスハウゼンが就任|| |  |1450||第31代総長にルードヴィッヒ・フォン・エルリックスハウゼンが就任|| |  |1454||13年戦争勃発|| |  |1462||プックの戦いでシュテンデに敗北|| |  |1464||エルビング海戦でシュテンデに敗北|| |  |1466||第2次トルニの和約。&br()首都マリエンブルクや東ポメラニアがポーランドへ割譲され、ポーランド領プロシアに。&br()総長はポーランドの封建家臣になることで13年戦争終結|| |  |  ||本部をマリエンブルクからケーニヒスベルクへ|| |  |1469||第32代総長にハインリッヒ・ロイス・フォン・プラウエンが就任|| |  |1470||第33代総長にハインリッヒ・レフレ・フォン・リヒテンベルクが就任|| |  |1477||第34代総長にマルチン・トルホゼス・フォン・ヴェッツハウゼンが就任|| |  |1482||リガ市との戦争開始|| |  |1489||第35代総長にヨーハン・フォン・ティーフェンが就任|| |  |1491||リガ市との戦争終結|| |  |1497||ポーランド王の対トルコ十字軍に参加|| |  |1498||第36代総長にヘルツォーク・フリードリヒ・レフレ・フォン・ザクセンが就任|| |16||||| |  |1511||第37代総長にヘルツォーク・アルプレヒト・フォン・ブランデンブルクが就任|| |  |1517||ロシア大公ワシーリと対ポーランド同盟を交わす|| |  |1520||ポーランドと開戦、敗北|| |  |1521||ドイツ皇帝カール5世の斡旋により、トルンでポーランドと休戦条約を結ぶ|| |  |1523||総長がルター派(新教)に改宗|| |  |1525|4月10日|ポーランドを君主とする&bold(){プロイセン公領が成立}&br()(以降のドイツ騎士団総長は[[こちら>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E9%A8%8E%E5%A3%AB%E5%9B%A3]]で確認可能)|| |  |1568||アルブレヒト・フリードリヒが公位を継承|| |17||||| |  |1618|8月27日|ヨーハン・ジギスムントが公位を継承。ブランデンブルク選帝侯領と同君連合になる|| |  |  ||三十年戦争開始|| |  |1619|11月3日|ゲオルク・ヴィルヘルムが公位継承|| |  |1640|12月1日|フリードリヒ・ヴィルヘルム(大選帝侯)が公位継承|| |  |1648||三十年戦争終結|| |  |1655||大選帝侯、公国の宗主国をポーランドからスウェーデンへ|| |  |  ||大洪水時代(~1640)。ワルシャワの戦い(勝利)&br()大選帝侯、リビアウ条約でプロイセンの主権を獲得|| |  |1660|4月23日|オリヴァ協定によりポーランド・リトアニア共和国から正式に独立、&bold(){プロイセン公国となる}|| |  |1675|6月18日|フェールベリンにてスウェーデンに勝利|| |  |1688|5月9日|フリードリヒ3世(猫背のフリッツ)公位継承|| |18||||| |  |1701|1月18日|&bold(){プロイセン王国成立}&br()フリードリヒ3世がケーニヒスベルクで戴冠、フリードリヒ1世となる|| |  |1712|1月24日|フリードリヒ2世(大王。フリッツ親父)誕生|| |  |1713|2月25日|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(兵隊王)即位|| |  |1730|8月5日|フリッツ親父、旅行先の宿舎からイギリスへ逃亡する計画を実行。&br()が、その日のうちに連れ戻される|| |  |  |11月6日|ハンス・ヘルマン・フォン・カッテ、フリッツ親父の逃亡を幇助した事で処刑|| |  |1733|6月12日|フリッツ親父、エリーザベト・クリスティーネと結婚|| |  |1740||フリッツ親父の著作『反マキャヴェリ論』がヴォルテールによりオランダで出版される|| |  |  |5月31日|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世崩御。フリードリヒ2世即位|| |  |  |12月16日|オーストリア継承戦争(~1748)|オーストリア継承戦争&br()オーストリア継承戦争のまとめ| |  |1745|12月25日|ドレスデンの和議|| |  |  ||サンスーシ宮殿完成|| |  |1756|8月29日|ザクセンに侵攻。7年戦争開始(~1763)|7年戦争| |  |1772|8月5日|第一次ポーランド分割。ポーランド領プロシア(西プロイセン)を獲得|| |  |1778|7月|バイエルン継承戦争(俗称じゃがいも戦争)|| |  |1779|5月|テッシェン条約によりバイエルン継承戦争終結|| |  |1785|6月|プロイセン主導で君侯同盟締結|| |  |1786|8月17日|フリードリヒ2世、老衰にて崩御。&br()フリードリヒ・ヴィルヘルム2世(でぶの女たらし、肉の機械)即位|| |  |1793|1月23日|第二次ポーランド分割|| |  |1795|10月24日|第三次ポーランド分割:ポーランド消滅|| |  |1797|11月16日|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世(不定詞王。プロイセンの雌豹ルイーゼの夫)即位|| |19||||| |  |1803||ナポレオン戦争(~1815)|| |  |1806||神聖ローマ帝国解体。&br()ブランデンブルク辺境伯領がブランデンブルク州として正式に王国に編入される|| |  |1807|7月7日|ティルジット条約締結により、領土の半分を失う|| |  |1814||ウィーン会議(~1815)|| |  |1815||ワーテルローの戦い|| |  |  ||四国同盟成立|| |  |1840|6月7日|フリードリヒ・ヴィルヘルム4世(あだ名:ひらめ)即位|| |  |1848|12月8日|プロイセン欽定憲法制定|| |  |1849|3月28日|4世、フランクフルト国民議会からの「ドイツ皇帝」の称号贈呈を拒否|| |  |1861|1月2日|4世崩御、ヴィルヘルム1世(榴弾王子)即位|| |  |1862||オットー・フォン・ビスマルクが宰相に着任|| |  |1864||シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争|| |  |1866||普墺戦争|| |  |1870||普仏戦争(~1871)|| |  |1871|1月18日|&bold(){ドイツ帝国成立}&br()ヴィルヘルム1世、初代ドイツ皇帝に即位|| |  |1888|3月9日|フリードリヒ3世(百日皇帝)即位|| |  |  |6月15日|フリードリヒ3世崩御。ヴィルヘルム2世即位|| |20||||| |  |1914||第一次世界大戦(~1918)|| |  |1918||ドイツ革命:王政廃止・プロイセン王国滅亡|| |  |1939||第二次世界大戦(~1945)|| |  |1947||プロイセン王国解体||
|&bold(){世紀}|&bold(){年代}|CENTER:&bold(){日付}|CENTER:&bold(){歴史}|CENTER:&bold(){ヘタリア漫画}| |12||||| |  |1127||ドイツ人の夫妻によって、エルサレムにドイツ館と呼ばれる病院が開かれる|| |  |1143||ローマ教皇ケレスチヌス二世がドイツ館をヨハネ騎士団の下部組織であると確認する文書を発行|| |  |1190|11月19日|&bold(){聖母マリア病院修道会設立}|| |  |  ||&blankimg(P04-05.jpg,width=102,height=76)(クリックで大きくなります)|| |  |1191|2月6日|聖母マリア病院修道会がシュバーベン公とエルサレム王によって正式承認される|| |  |1198|春|&bold(){騎士修道会へ昇格}。&br()初代総長ハインリッヒ・ワルポット・フォン・バッセンハイム就任|| |  |1199|2月19日|ローマ教皇インノケンティウス3世がドイツ騎士修道会を承認|| |  |1200||第2代総長にオットー・フォン・ケルペン就任|| |13||||| |  |1209||第3代総長にハインリヒ・バルトが就任|| |  |  ||第4代総長にヘルマン・フォン・ザルツァが就任|| |  |1211||ハンガリー王アンドラーシュ二世からハンガリーへの進駐要請|リヒテンシュタインとふしぎなお兄様3&br()おれさまメモリアル(APH3巻)| |  |1218||教皇使節ペラギウス率いる第5次十字軍に参加|| |  |1220||総長がフリードリヒ2世の戴冠式に出席|| |  |  ||ローマ教皇ホノリウス3世からハンガリーのブルツェンランドに関する特許状を貰う|| |  |1221||マンスーラの戦いに敗退、降伏。総長が捕虜に(同年内に釈放)|| |  |1224||プルツェンラントは俺のもの宣言|リヒテンシュタインとふしぎなお兄様2&br()おれさまメモリアル(APH3巻)| |  |1225||ハンガリーに追い出される|| |  |1226||マソヴィエン公コンラートからプロイセンへの進駐要請。ポーランド領へ|| |  |  ||神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世から特許状(リミニ金印勅書。偽物の可能性あり)を貰う|| |  |1228||アッコンの近くに本部としてモンフォール城建設|| |  |  ||マソヴィエン公コンラートからクルム地方の正式な贈与状を受ける|| |  |1229||「ヤッファ条約」締結。&br()フリードリヒ2世がエルサレム王に即位し、ドイツ騎士団はこれを支持する|| |  |1230||他の十字軍士と供にプロイセンへ進駐|| |  |1234||ローマ教皇グレゴリウス九世からプロイセンにおける特許状(リエティ勅書)を貰う|| |  |1235||ドブリン騎士団を併合|| |  |1237||リヴォニア帯剣騎士団を併合し、リヴォニア(リヴラント)を入手|| |  |1239||第5代総長にコンラート・フォン・チューリンゲンが就任|| |  |1240||第6代総長にゲルハルト・フォン・マールベルクが就任|| |  |1241||リーグニッツの戦いに参戦(敗北)|| |  |  ||ボッホ・フォン・オステルナがプロイセン長官名代となり、部隊を指揮|| |  |1242||チュード湖の氷上の戦い(敗北)|ロシアとおともだち(APH4巻)| |  |  ||20名の戦死者と6名の捕虜を出す|| |  |  ||ポメラニアの支配者スヴァントポルクが反乱、プロイセン人がこれに呼応して蜂起(第1次反乱)|| |  |1244||第7代総長にハインリッヒ・フォン・ホーヘンローエが就任|| |  |1245||オーストリア公、リヒテンシュタイン、カジミェシュ公の十字軍がポメラニアに侵攻、&br()スヴァントポルクを敗る。|| |  |1246||デンマーク領リヴラントをデンマークから譲られる|| |  |1249||プロイセン人とクリストブルク条約を結び講和(第1次反乱終結)|| |  |  ||第8代総長にグンター・フォン・シュワルツベルクが就任|| |  |1252||第9代総長にボッホ・フォン・オステルナが就任|| |  |  ||ブランデンブルク辺境伯の十字軍がプロイセンに来訪|| |  |1253||ポメラニアの支配者スヴァントポルクと和平条約締結、反乱終結。&br()プロイセン全域の支配を確立。|| |  |1255||ベーメン王オタカル2世の支援でケーニヒスベルクを建設|| |  |1256||第10代総長にアンノ・フォン・ザンガースハウゼンが就任|| |  |1259||クールラントにてショーテンの戦い(敗北)|| |  |1260|7月13日|クールラントにてドゥルベの戦い(敗北)|| |  |  ||プロイセン人が蜂起(第二次反乱)&br()ドイツ騎士団はクリストブルク条約の失効を宣言|| |  |1264||リトアニア軍がザムラントへ侵攻|| |  |1271||モンフォール城陥落、本部をアッコンに|| |  |1273||第11代総長にハルトマン・フォン・ヘルドルンゲンが就任|| |  |1274||プロイセン人を一時鎮圧(すぐに大規模な反乱発生)|| |  |1276||マリエンブルク建設|| |  |1277||リトアニア・プロイセン連合軍クルマーラントに侵攻|| |  |1283||リトアニア軍によるザムラント侵攻|| |  |  ||プロイセン人を鎮圧、プロイセン全土を平定|| |  |  ||第12代総長にブルヒャルド・フォン・シュヴァンデン就任|| |  |1290||総長がヨハネ騎士団に鞍替え|| |  |  ||第13代総長にコンラート・フォン・フォイヒトヴァンゲンが就任|| |  |1291|5月18日|アッコン陥落(中東最後の十字軍国家滅亡)、本部をヴェネチアに|| |  |1295||リガ市で内戦が勃発|| |  |1297||第14代総長にゴットフリード・フォン・ホーヘンローエが就任|| |  |1299||リガ市がリトアニアと組み、リガのドイツ騎士団の司令部を破壊|| |14||||| |  |1303||第15代総長にジークフリート・フォン・フォイヒトヴァンゲンが就任|| |  |1308||ポーランドとブランデンベルク辺境伯との戦いにポーランド側として参加、&br()東ポメラニアを占領|| |  |1309||本部をヴェネチアからマリエンブルクへ|| |  |1311||第16代総長にカール・フォン・トリアーが就任|| |  |1317||ミヒェラウ地方を購入|| |  |1322||リトアニアによるドルパット破壊|| |  |1323||リトアニアにメーメルを奪われる|| |  |1324||第17代総長にヴェルナー・フォン・オルセルンが就任|| |  |1327||ポーランドとの国境紛争|| |  |1329||リトアニア軍にリガを奪われるが、ボヘミア王ヨハンの十字軍が来援し、リガを奪還|| |  |1330||ポーランドと休戦|| |  |1331||第18代総長にルター・フォン・ブラウンシュヴァイクが就任|| |  |1335||第19代総長にディートリッヒ・フォン・アルテンブルクが就任|| |  |1342||第20代総長にルードルフ・ケーニヒ・フォン・ヴァイツァウが就任|| |  |1343||ポーランドと講和成立、ポーランドが東ポンメルン放棄を決定|| |  |1345||リトアニアがザムランとリブラントを攻撃|| |  |  ||第21代総長にハインリッヒ・デューゼマー・フォン・アルフベルクが就任|| |  |1346||デンマーク王からエストニア公国(エストランド)を19,000ケルンマルクで購入|| |  |  |11月1日|デンマークからドイツ騎士団へエストニア公国の統治権が移譲される|| |  |1352||第22代総長にヴィンリッヒ・フォン・クニップローデが就任|| |  |1360||第1次デンマーク戦争。ドイツ騎士団はハンザを支持|| |  |1370||第1次デンマーク戦争終結|| |  |  ||ルダウの戦いでリトアニアを敗る|| |  |1377||オーストリア大公アルブレヒト3世の十字軍が来訪|| |  |1380||前リトアニア大公の息子ヤギェウォと同盟|| |  |1382||第23代総長にコンラート・ツェルナー・フォン・ローテンシュタインが就任|| |  |  ||ヴィツナ地方を購入|| |  |1384||ツァウジュ地方を購入|| |  |1385||(ポーランド・リトアニア連合成立)|| |  |1391||第24代総長にコンラート・フォン・ヴァレンロードが就任|| |  |1393||第25代総長にコンラート・フォン・ユンギンゲンが就任|| |  |1398||ザリンヴェルダーの和約。リトアニアと休戦|| |  |1399||ドイツ騎士団・リトアニア連合軍がヴォルスクラ河の戦いでキプチャク汗国に敗退|| |  |  ||海賊同盟ヴィタリエン兄弟団をデンマーク領のゴトランド島から駆逐、ゴトランドを占領|| |  |  ||ドブリン地方を購入|| |15||||| |  |1404||ローマ教皇がリトアニアに対する戦闘の禁止を宣言|| |  |  ||サマイテン地方を購入|| |  |  ||ポーランドとラキアンツの和約締結、ポーランドがノイマルク地方に対する要求を撤回|| |  |1407||第26代総長にウルリッヒ・フォン・ユンギンゲンが就任|| |  |  ||ゴトランド島をデンマークに返還|| |  |1409||サモギティア人の反乱|| |  |  ||ドイツ皇帝ジギスムントと同盟|| |  |  ||ポーランドに宣戦布告|| |  |1410|7月15日|タンネンベルクの戦い&br()ポーランド・リトアニア連合軍に敗退&br()マリエンブルク城に篭城、包囲される|スウェーデン・ポーランド戦争&br()タンネンベルクの後の話&br()北欧の覇者と東欧の王者(APH3巻)| |  |  ||第27代総長にハインリッヒ・フォン・プラウエンが就任|| |  |1411||第一次トルニの和約締結。領土を戦前の状態に戻すと言う条件で休戦|| |  |1414||総長が他幹部のクーデターにより罷免、エルビングの代官に|| |  |  ||第28代総長にミヒャエル・キュヒマイスター・フォン・シュテルンベルクが就任|| |  |  ||飢餓戦争。ポーランド軍がプロイセンへ侵攻|| |  |1422||第29代総長にパウル・フォン・ルスドルフが就任|| |  |  ||ポーランド・リトアニア連合軍がプロイセンへ侵攻&br()メルノゼーの講和でリトアニアがサマイテン地方を取得|| |  |1426||対フス派十字軍に参加|| |  |1431||リトアニアとポーランドが対立。リトアニアと同盟を結びポーランドと戦う|| |  |1435||ヴィウコミエシュの戦い(敗北)。ブレストでポーランドと講和条約|| |  |1440||プロイセンの諸都市が騎士団に反発し、プロイセン同盟を締結|| |  |1441||第30代総長にコンラート・フォン・エルリックスハウゼンが就任|| |  |1450||第31代総長にルードヴィッヒ・フォン・エルリックスハウゼンが就任|| |  |1454||13年戦争勃発|| |  |1462||プックの戦いでシュテンデに敗北|| |  |1464||エルビング海戦でシュテンデに敗北|| |  |1466||第2次トルニの和約。&br()首都マリエンブルクや東ポメラニアがポーランドへ割譲され、ポーランド領プロシアに。&br()総長はポーランドの封建家臣になることで13年戦争終結|| |  |  ||本部をマリエンブルクからケーニヒスベルクへ|| |  |1469||第32代総長にハインリッヒ・ロイス・フォン・プラウエンが就任|| |  |1470||第33代総長にハインリッヒ・レフレ・フォン・リヒテンベルクが就任|| |  |1477||第34代総長にマルチン・トルホゼス・フォン・ヴェッツハウゼンが就任|| |  |1482||リガ市との戦争開始|| |  |1489||第35代総長にヨーハン・フォン・ティーフェンが就任|| |  |1491||リガ市との戦争終結|| |  |1497||ポーランド王の対トルコ十字軍に参加|| |  |1498||第36代総長にヘルツォーク・フリードリヒ・レフレ・フォン・ザクセンが就任|| |16||||| |  |1511||第37代総長にヘルツォーク・アルプレヒト・フォン・ブランデンブルクが就任|| |  |1517||ロシア大公ワシーリと対ポーランド同盟を交わす|| |  |1520||ポーランドと開戦、敗北|| |  |1521||ドイツ皇帝カール5世の斡旋により、トルンでポーランドと休戦条約を結ぶ|| |  |1523||総長がルター派(新教)に改宗|| |  |1525|4月10日|ポーランドを君主とする&bold(){プロイセン公領が成立}&br()(以降のドイツ騎士団総長は[[こちら>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E9%A8%8E%E5%A3%AB%E5%9B%A3]]で確認可能)|おれさまひっし(APH3巻)| |  |1568||アルブレヒト・フリードリヒが公位を継承|| |17||||| |  |1618|8月27日|ヨーハン・ジギスムントが公位を継承。ブランデンブルク選帝侯領と同君連合になる|| |  |  ||三十年戦争開始|| |  |1619|11月3日|ゲオルク・ヴィルヘルムが公位継承|| |  |1640|12月1日|フリードリヒ・ヴィルヘルム(大選帝侯)が公位継承|| |  |1648||三十年戦争終結|| |  |1655||大選帝侯、公国の宗主国をポーランドからスウェーデンへ|| |  |  ||大洪水時代(~1640)。ワルシャワの戦い(勝利)&br()大選帝侯、リビアウ条約でプロイセンの主権を獲得|| |  |1660|4月23日|オリヴァ協定によりポーランド・リトアニア共和国から正式に独立、&bold(){プロイセン公国となる}|| |  |1675|6月18日|フェールベリンにてスウェーデンに勝利|| |  |1688|5月9日|フリードリヒ3世(猫背のフリッツ)公位継承|| |18||||| |  |1701|1月18日|&bold(){プロイセン王国成立}&br()フリードリヒ3世がケーニヒスベルクで戴冠、フリードリヒ1世となる|| |  |1712|1月24日|フリードリヒ2世(大王。フリッツ親父)誕生|| |  |1713|2月25日|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(兵隊王)即位|| |  |1730|8月5日|フリッツ親父、旅行先の宿舎からイギリスへ逃亡する計画を実行。&br()が、その日のうちに連れ戻される|| |  |  |11月6日|ハンス・ヘルマン・フォン・カッテ、フリッツ親父の逃亡を幇助した事で処刑|| |  |1733|6月12日|フリッツ親父、エリーザベト・クリスティーネと結婚|| |  |1740||フリッツ親父の著作『反マキャヴェリ論』がヴォルテールによりオランダで出版される|| |  |  |5月31日|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世崩御。フリードリヒ2世即位|| |  |  |12月16日|オーストリア継承戦争(~1748)|オーストリア継承戦争&br()オーストリア継承戦争のまとめ&br()ひっさつわざは漁夫の利(APH1巻)&br()夜明けのカオス(APH1巻)&br()新大陸争奪戦ファッキンお前(APH2巻)| |  |1745|12月25日|ドレスデンの和議|| |  |  ||サンスーシ宮殿完成|| |  |1756|8月29日|ザクセンに侵攻。7年戦争開始(~1763)|7年戦争&br()マリア・テレジアと七年戦争(APH4巻)| |  |1772|8月5日|第一次ポーランド分割。ポーランド領プロシア(西プロイセン)を獲得|| |  |1778|7月|バイエルン継承戦争(俗称じゃがいも戦争)|| |  |1779|5月|テッシェン条約によりバイエルン継承戦争終結|| |  |1785|6月|プロイセン主導で君侯同盟締結|| |  |1786|8月17日|フリードリヒ2世、老衰にて崩御。&br()フリードリヒ・ヴィルヘルム2世(でぶの女たらし、肉の機械)即位|| |  |1793|1月23日|第二次ポーランド分割|| |  |1795|10月24日|第三次ポーランド分割:ポーランド消滅|| |  |1797|11月16日|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世(不定詞王。プロイセンの雌豹ルイーゼの夫)即位|| |19||||| |  |1803||ナポレオン戦争(~1815)|俺様偉人伝(APH6巻)| |  |1806||神聖ローマ帝国解体。&br()ブランデンブルク辺境伯領がブランデンブルク州として正式に王国に編入される|| |  |1807|7月7日|ティルジット条約締結により、領土の半分を失う|| |  |1814||ウィーン会議(~1815)|| |  |1815||ワーテルローの戦い|| |  |  ||四国同盟成立|| |  |1840|6月7日|フリードリヒ・ヴィルヘルム4世(あだ名:ひらめ)即位|| |  |1848|12月8日|プロイセン欽定憲法制定|| |  |1849|3月28日|4世、フランクフルト国民議会からの「ドイツ皇帝」の称号贈呈を拒否|| |  |1861|1月2日|4世崩御、ヴィルヘルム1世(榴弾王子)即位|| |  |1862||オットー・フォン・ビスマルクが宰相に着任|| |  |1864||シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争|| |  |1866||普墺戦争|ドイツさんができるまで。(WS1巻)| |  |1870||普仏戦争(~1871)|| |  |1871|1月18日|&bold(){ドイツ帝国成立}&br()ヴィルヘルム1世、初代ドイツ皇帝に即位|俺様偉人伝(APH6巻)| |  |1888|3月9日|フリードリヒ3世(百日皇帝)即位|| |  |  |6月15日|フリードリヒ3世崩御。ヴィルヘルム2世即位|| |20||||| |  |1914||第一次世界大戦(~1918)|| |  |1918||ドイツ革命:王政廃止・プロイセン王国滅亡|| |  |1939||第二次世界大戦(~1945)|兄弟よ!俺達は…!!(APH5巻)| |  |1947||プロイセン王国解体||

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