内田樹『街場の大学論』
ニッポンの教育はどこへ行く
「誰が日本の教育をこんなにしてしまったか」という議論は不毛である。教育問題には被害者しかいないからだ。そこから脱却して、「誰がしたのか分からないが、たまたま現場に居合わせた以上は私がなんとかするしかない」と考える人たちを糾合して、手持ちの使える限りのリソースを動員して、できる限りのことをするしかない。「学ぶ」ことができない、「学ぶ」意味が分からない子どもたちがいま組織的に作り出されている。そんな大量の元・子どもを抱え込むコストは国民全体にとっても不幸なことである。彼らを学びへと動機付けるのは大人の責務である。「損か得か」という基準がいまの日本人たちの行動を決定する支配的なモチベーションになっている。この子どもでも分かる価値観から、どう学びを動機付ければよいか。
なぜ学力が低下するか。それは学力低下が主観的には利益を得ているように錯覚するからである。人間は利益のないことはしない。これがすべての社会問題を考える時の前提である。子どもたちは同学齢集団の中で競争する。偏差値と言うのは、その中の相対的な学力指数であって、絶対学力の低下は現象としては顕在化しない。相対的な学力を上げるのであれば方法は2通りある。自分の学力を上げること、そして他人の学力を下げることである。だから閉じられた集団で競争させれば、全員が「他人のパフォーマンスを低下させること」に努力を優先的に向けるようになる。学生の学力低下の原因は「日本の子どもたちの学力が低下することからは(少なくとも私は)利益が得られる」と考えている日本人が社会の相当数を占めているということにある。その暗黙の合意に基づいてお互い「他人の学力を低下させること」に努めてきた、その結果「こんな世の中」になってしまったのである。誰が悪いわけでもない。
学ぶというのは情報を増やすことではない。「自分が何を知らないか」について知ることである。学校と言うのは子どもに「自分は何を知らないか」を学ばせる場である。一方、受験勉強は自分が知っていることに特化することを子どもたちに強いる。「自分の知らない/できないこと」の中に位置づけられてはじめて「自分が知っている/できること」は共同体的に意味を持つ。仮に自分の知らないことは、自分には関係のないことだと思い込む子どもを組織的に作り出している教育機関があれば存在しない方がましである。
「国が教育に口を出さない方が国にとって良い」と思っている。教育のことはそれぞれの教育現場で好きにやってもらうのがよい。現に、教育を全国斉一的に管理する機関がなかった明治時代まで、日本の教育は当時の最高水準にあった。二百七十の藩にはそれぞれ藩校があり、全国に私塾があった。子どもを育てるシステムはできるだけ画一的でない方がシステム管理上安全であり、国民のうちに一定数の大粒の人間を出現が間歇的にではあれ担保されるシステムの方が、そうでないシステムよりも国がクラッシュする危険が少ないだろうと考えている。日本の教育は「子どもたちを均質化すること」一点において、ほかに類を見ないほど成功しすぎている。「みんなと同じであることを最優先に配慮し、みんなと違うことを心から恐怖する子ども」を作り出す努力をしてきた成果が今日の「世界一勉強しない子どもたち」なのである。だからこれを教育制度の「失敗」ととらえるのは間違いであり、問題があるとすれば成功しすぎたことにある。システムの過程で、必ず脱落したり逃亡したりするものがいる。そしてその少数のはぐれものが次のシステムを構築するという流れがある。しかるに日本の教育システムはあまりに「うまくゆきすぎた」ために、システムからドロップアウトする者は網羅的に排除され、病気になったり引きこもったり自殺したりして文字通り姿を消し、彼らがシステムの活性化に関与する機会をなくしている。もしこれに対処を講ずるのだとしたらもっとバグやノイズを注入してシステムの効率を下げるのがいい。最悪なのは斉一的に「勉強する子どもはどうやったら作り出せるか」の模範解答を施行することである。「ゆとり教育」も「スパルタ教育」も「愛国教育」も「民主教育」も「教育と言うのは平等に子どもを方向づけるものである」という了解においては双生児のように似ている。
「昔の子どもはもっと勉強した。あの時代に戻そう」という説を唱える人がいる。あの時代に戻すのならば、方法はある。一番簡単なのは勉強できない子どもを組織的に排除し、みんなでいじめることだ。成績の悪い子は差別待遇する。子どもたちは必死で勉強するであろうし、親だって額に青筋立てて勉強させるであろう。だって日本人にとって何より大切なのは「みんなと同じこと」だからである。「マークされること」「群れから抜けること」を日本人は恐れる。「私らが学生の頃は、『善の研究』や『人生論ノート』や『三太郎の日記』を読んだもんだ。それに比べて今どきの若いもんは本を読まん」という慨嘆老人たちは自分たちが「自分のとなりにいるやつ」と同じ本を読んでいないと大勢から脱落しそうで怖いという点において今どきの若いもんと同一の思考の生理に律されている。みんながそうしているからそうしている。みんなが塾に行くなら自分も行く。みんなと同じじゃないと怖いからだ。そういう他者志向の人間を日本社会は一生懸命に作りだしてきた。均質の努力を止めたいなら、まず自分の子どもが「みんなと同じでいなければ、生きていけないのではないか」という恐怖を感じずに生きていけるように、我が子の独自性を愛し、育み、守るというところから始めるほかないだろう。だが全国一斉に「個性を開花させる」教育改革をする発想は「日本的システム」を再生産することに過ぎない、ということは留意しておきたい。