内田樹 『呪いの時代』
呪いとはなにか
「弱者」は救済を求めて呪いの言葉を吐き、「被害者」は償いを求めて呪いの言葉を吐き、「正義」は公正な社会の実現を求めて呪いの言葉を吐く。それが他者のみならず自身へ向かう呪いとしても機能していることにはあまりに無自覚です。ネット上ではもっとも少ない言葉で、もっとも効果的に他者を傷つけることのできる人間が英雄視されます。その「呪い」の言説が際だってきたのは、1980年代の半ば、「知性の冴え」がほとんど「攻撃性」や「辛口」、「毒舌」と同義になってきた頃からでした。「呪い」とは破壊することを目指します。それは破壊することがはるかに簡単だからです。身の丈に合わない自尊感情を持ち、癒されない全能感に苦しんでいる人間は創造的な仕事を嫌い、何かを破壊する生き方を選択します。破壊する者の側に回れば、創造した側と対等、あるいは上位に立つことさえ可能だからです。新しいものを創り出すことは、個人的であり具体的なことです。創造する側は匿名性にも忘却にも逃れられずに自分がどの程度の人間であるかをまるごと示してしまう。だから、全能感を求める人はものを創ることを嫌います。何も作品を示さず、他人の創り出したものに無慈悲な批評を下してゆく生き方を選ぶようになります。自分の正味の実力に自信がない人間ほど攻撃的になり、その批評は残忍なものになるのはそのせいです。
自己評価と外部評価
「呪い」がこれほどまでに瀰漫したのは、人々が自尊感情を満たされることを過剰に求め始めたからです。高い自己評価と低い外部評価の落差を埋めるためには、ふつうの人は外部評価を高めるために努力します。けれども中には違う努力で高い自己評価を維持しようと試みる人たちがいます。たとえば「引きこもり」は、自分に対して低い評価を与える外部を遮断して評価されない立場に逃げ込むという解決策です。「自分探しの旅」も、自己評価と釣り合うような格付けをしてくれる外部がこの世界のどこかにあるはずだという信憑に導かれてのものです。本当の私がどこかにいる。いずれ遠い未来か、ここではない場所で本当の私がなすべき仕事を果たしてくれるはずである。だから「私は子どもで、無力で、無能である」ことを正当化してしまった。市民的成熟のための努力を止めてしまったのです。僕たちの社会はフェアではありませんが、でも、それではどうやって社会的に平等を作り上げていくかという創造的な議論にとりかかるべきで、「努力しても報われない」という説明を自分に許してはならない。階層社会は努力することに対する動機付けの有無に基づいて二極化します。努力することの動機付けを傷つけるというのが社会的差別の効果的な部分なのです。この「呪いの時代」をどう生き延びたらいいのか。それは、生身の、具体的な生活のうちに捉えられた、あまりぱっとしないこの自分を受け入れ、承認し、懸命に努力することを祝福すること。自分の弱さや愚かさや邪悪さを含めて、自分を受け入れ、自分を抱きしめ、自分を愛すること。利己的で攻撃的な誤った自分の愛し方をしている人に、僕たちはまず「自分を愛する」ということを思い出させるところからもう一度始めるしかないと僕は思います。
本当の自分
「自分を愛する」間違った解釈は、自己利益を最優先にし、他人を考慮しないことです。たとえば、金儲けビジネスに熱中し、寝食を忘れて仕事に没頭し、家族を顧みず、友人とも会わないという人はまったく利己的とはいえません。彼が利したのは「金の多寡は幸福の多寡あるいは人間的価値と相関する」というイデオロギーと、「ある種の社会的立場」を他者から承認されたいという欲望です。「自分らしさ」というのは欠如感から生まれます。「私はここにる人間ではない」「私に対する評価はこんなに低いものではない」という現実の自分に対する身悶えするような違和感、乖離感、不充足感、それが「自分らしさ」の実体です。自分を探しているのではなく、自分を支えてくれる土台、壁、屋根を探している。この世にたった一つの自分の入れ物を求めて旅に出たり、転職したり、離婚したりする。就活を始めるに当たって最初に叩き込まれるのが「適職イデオロギー」です。自分が適職に合うために、自分の適性に対する情報と世の中にある職業の情報を必死で求める。しかし、実際に働き始めると、新入社員にはワクワクするようなクリエイティブな仕事が与えられるわけがありません。たいていは誰でもできるような面白くない作業を命じられる。「適職イデオロギー」にとりつかれ、ここが私の天職かと悩んでしまう若者は、「いつか出ていきたいが、今は出ていけないので我慢してここにいる」という就労態度を示すことになる。そんな態度の人が職場で上司に評価され、同僚に信頼され、部下に慕われることは起こりません。職場でのコミュニケーションは不調で、さらに適職を求めるようになります。これが婚活業界に適応されると「運命の人イデオロギー」に悩まされることになります。ですが、結婚というのは普通の人たちがそこそこ幸福に過ごせるようなシステムとして設計されている。「誰としたって、まあ、似たようなものだよ」とゆるい結婚観をひろく採用し、その上で、「どんな相手と結婚しても、そこそこ幸せになれる能力」に教育的資源を集中する。それが成熟した社会における結婚のありようではないか、と僕は思います。結婚が必要とする能力とは、「他者と共生する力」です。よく理解もできないし、共感もできない他人と、それにもかかわらず生活を共にし、支えあい、慰めあうことができる、その能力は人間が共同体を営んでゆくときの基礎的な能力に通じています。日本社会の深刻な問題の一つは、他者との共生能力が劣化していることです。想像力を駆使し、自分のそれとは違う論理の回路をトレースする能力を結婚は要求します。この能力を開発するうえで結婚とは極めてすぐれた制度ではないでしょうか。
草食系男子
性的衝動において積極的でないものを「草食系男子」と呼称します。ここまで集団化すると、誰かの個性と呼ぶことはできません。ある種の社会的ふるまいとして公的に登録されたパターンを彼らは学習し、それを再演している。ではこのような「草食的ふるまい」がもたらす生存戦略上の利点とはなんでしょうか。弱さをアピール出来た個体が、強い個体よりもしばしば多くの利益を得る。そういった実例が蓄積しないと、「弱者を選ぶ」というような不利な行動に生物は踏み切りません。ということは、現代では弱さをアピールする個体の方が利益を得ているということになるのでしょうか。当今の若者たちは決して感情が薄かったり、性的欲望がないわけではありません。そうではなく、傷つくのが嫌いなのです。大人になるというのは「だんだん人間が複雑になる」ということです。表情も感情も複雑になり、人格の層の厚みが増す。少年のような無垢さと、青年のような客気と、老人のような諦念が同居しているというのが大人の実情です。他者と共生するというのは他者に耐えるということではなく、他者を構成する複数の人格のうちにいくつか私との同類項を見出し、この他者は部分的には私自身であると認めることです。内なる彼らとの対話と協働とを経由して、彼らとの共生を果たし得たならば、そのノウハウを足掛かりに、外部にある他者たちとの共生の途も見出すことが出来る。そうして他者との共生は深まっていくのだろうと僕は思っています。オープンマインドとは自分の中の醜さ、臆病さ、狭量な部分もすべて受け入れられる人のことをいいます。こんなのは私ではないと言って切り捨てる人が、他人の欠点に寛容でありうるはずがありません。「自分らしく生きたい」人が、自分らしくない私を排除してしまうとき、他者と共生することは極めて困難です。
贈与経済
経済活動とはものをぐるぐる回すことです。ものをぐるぐる回すためにはまず社会的インフラが整備されていなければなりません。円滑な経済活動は共通の言語の習得を要請する。あるいは法律を必要とする。移動手段が必要となり、道路を整備し、船を造り、自動車を発明し、それを技術的に支援するには気象学や海洋学や航空力学の発達が要請される。それと、「ものをぐるぐる回す」ためには、それなりの「人間的資質」というものが必要になります。仕事ができる人間とは、円滑にパスを受け取り、送れる人のことなわけです。自立せよ、自分らしく生きよ、妥協するなというタイプの「自己決定・自己責任論」が80年代から展開されました。貧しくても自分らしい人生が素敵だというアナウンスが30年続いている。弱者は連帯しなければならない。その当たり前のことが言い落されている。これからの日本はどうなるか。僕の展望は「交換経済」から「贈与経済」にシフトしてゆくだろうと思います。贈与経済というのは自分のところに来たものは退蔵しないで次にパスするということ。消費には身体という限界があり、その分周りの人にパスしてあげたらいい。そのために、パスを送ったときに、「ありがとう」とにっこり言ってくれて、気まずさも、こだわりも残らないような人間的なネットワークをあらかじめ構築しておくことが必要です。貧乏なとき、困っているとき、落ち込んでいるときに、相互支援のネットワークの中で、助けたり、助けられたりということを繰り返し経験してきた人間だけがそのようなネットワークの中に自分を置くことが出来ます。その人が誰にも贈れないひとならば、誰からも贈与が届かない。例えば、世の中には優れた頭脳を持っている人たちがいます。でも、才能の絶対量は評価に値しません。それを自己利益のためにだけ排他的に使用する人間を僕は人間としては評価することができません。たくさんある人はそれを使って困っている人の荷物を持ってあげればいい。自分に例外的に与えらえた能力は、それを持たない人たちの役に立つように使うべきです。見下したり、有意さを利用して自己利益を増大させるために使うものではありません。
あとがき
村上春樹は『ノルウェイの森』がベストセラーになった後に、日本を脱出してしまったが、その最大の理由は業界から彼に向けて発信された組織的な「呪い」から逃れるためだった。それらの言葉を発した本人たちは「教化的善意」なり「批評的理想主義」なりに基づいて自分の攻撃性を正当化していたのだろうと思う。でも、彼らは作家がその批判によってさらに質の高い作品を書くだろうと思ってそうしていたわけではなく、「ものが書けなくなる」ような傷を負うことを願ってそうしていたのである。村上春樹は「バブルが崩壊したあとは、ネガティブなものが主流をとっていた。『こいつはバカだ』とか『こいつはダメだ』とか『こいつはくだらない』とか、今のメディアを見ていると、何か悪口ばかりじゃないですか。でも、そういうものというのは、人びとの心を淋しく虚しくしていくだけだろうという感じがしてならない。ネガティブなことを言ったり書いたりしているのは、簡単だし一見頭がよさそうに見える。実際、今のマスメディアでもてはやされているのは、それに適した頭の良さだったりする傾向があるけれど、僕はやっぱり、そろそろ新しい価値観を作るべき時期だと思うんです。」と言う。いかに鮮やかに相手を閉口させるか、傷つけるか、そのような言葉が瞬時に出る人は頭がよさそうではある。けれども、いったいそうすることで、彼らがいかなる「よきもの」を創り出そうとしているのか。私が問いたいのは、世の中を少しでも住みやすいものにするために、あなたは何をする気なのかということである。完膚なきまでに批判しぬくことが、効果的な改善実践であるという定型からもう抜け出すべきである。私たちは壊す時代から創る時代に踏み入るべきだろうと思う。批判から提言へ、破壊から創造へ、排除から受容へ、そして呪いから祝福へ。社会全体で、力を合わせて、ゆっくりと、しかし後戻りすることなくシフトする時期が来た。