私は最低な女だ。見られたくなかった…彼に穢れに染められた私の姿を見られることが恐かった。甘んじている今の関係さえ、なくなってしまう気がして。
本当は、松本さんが危ない時も分かっていた。なのに…私は、彼の前で血が流れることに臆し。もしも私を追って来て、彼に…健太君に、危害が及んでしまったら……。
「…急いでやらなくちゃ」
待っててといったけれど、きっと彼ら―――いや、彼は後をついてくるだろう。だから、彼が私が追いつく前に…やらなきゃ。
―――やらなきゃ。やらなきゃ。


既に太陽は、水平線に掛かろうとしていた。それをも阻みかねない究極獣『バラン』の猛々しい咆哮、地を、海を震撼させるそれは大きな壁となって立ちはだかっていた。
「おい…こいつぁちょっと桁違いじゃねえか!」
信二が悪態づくのも無理はなかった。これまで相当量の攻撃を重ねているというのに、バランはまるで苦しんでいる様子がない。加えて、バランラバの頃から備え持つ俊敏さは健在―――まさに、死角なし。
ショックアンカーがバランを捕らえようと弧を描いて迫るが、バランは色の高揚した空に風のように舞い上がってそれをかわす。そして、その動作がそのまま衝撃波―――ソニックブームとして襲い掛かる。
「くっ…でかい図体の分際で!」
苛立つ静奈に気をよくしたのか、空中で小ばかにしたような声を上げるバラン。
「…あいつ、麗華並の性格の悪さだ」
「あら、カワイイじゃありませんこと?」
「はっ、性格が陰険なら趣味もジメジメ陰険ってか、根暗探偵さん?」
「ふふ、頭の悪そうな悪口ですこと。それと、水着のまま戦うような色モノさんに言われたくはありませんわね」
「こ、こいつっ……やはりあそこで片付けておくべきだった!」
「はい、二人共~!ケンカなら終わってからですよ」
どこまで行くかと思われた口論だが、瑞穂がぱんぱんと手を叩きようやく二人の眼が覚めた。

ともあれ、絶望的状況に変わりはない。ショックアンカー付属のメーサー小銃は、バランにとっては蚊に刺されたと同義、スナイパーメーサーをも見切る反応速度。これではプラズマグレネイドなど当たるはずもない。何より……戦力が足りなさ過ぎる!
「つかあれ、コンスタンでも無理じゃないか? 反応速度よすぎ」
「あれではMA‐プロトンミサイル020の追尾性能を持ってしても…万事休すかもしれません」
「ばかやろ、ネヴァーギヴアップだ!くたばってもらうぜ、このゴキブリ竜!!」
当たらない上に、鋼のような頑強な皮膚を持つバラン。信二のスナイパーメーサーは高出力故に砲身が焼きつくリスクまで背負っているというのに、鋼の皮膚には傷ひとつつかない。紙のような装甲だったバランラバからは想像もつかないような頑強さ。せめて、あの飛翔能力を生み出す皮膜にでも当たれば話は別だろうが…。

「いよいよ具体策がないと倒せないみたいだな…」
「過去の記録では口内に特殊爆薬を投じて撃退したようですが…今回の個体は皮膚の強度もその俊敏性も過去とは比べ物にならない…過去同様の方法で倒すことはおそらく無理でしょう」
「内部、か…」
だが、そんな装備ははっきり言ってフラットウィングにはない。プラズマグレネイドが直撃できれば話は別だろうが…。
「せめて松本が健在ならな…」
松本の魔断剣で敵の第一撃を防ぎ、技後硬直に乗じて静奈のショックアンカーで身体を拘束する。後は信二と尾崎で体勢を崩し、ユイがプラズマグレネイドで仕留める。何にせよ、第一波を抑えなければバランに傷ひとつ負わせることさえできないということだ。
「…ならば俺が受け止める」
そう言って一歩前にでたのは、尾崎だった。驚愕せざるを得なかった。カイザーという能力を有するとは言っても、その身は生身でありとても巨大な爪の一振りを受け止められるとは思えない。
「バカかお前!カイザーだからってそんな無茶は…!」
「何、部下にまかせっきりでただ飯食ってた分を働くだけさ」
―――かっこつけやがって。
だが、確かにこの中で最もその可能性があるのが尾崎であることも事実。ならば、今はその可能性にかけるしかない。
「行くぞ!」
尾崎の雄叫びと、バランの咆哮が重なる。それが合図となって、止まっていた時間が動き出した。
ユイが腕輪を翳し、そこから舞い散る金色の粒子が木の根状になって右腕を取り込んでいく。体と不釣合いなほどに長大に伸びた根先。最後に花びらの形を模した砲身が粒子から形を成し、プラズマグレネイドがその全容を現した。そのまま有機的な蔦からの光の流動と共にチャージが始まった。ユイがほとんど反射的に表情を歪める。しかし、今ばかりはそれに気に留めている場合ではなかった。
メーサーの雨がバランに向かって逆さに降り注ぐ。そのほとんどが黄昏色に染まった空に落ちていったが、その一端が触れたときバランは軌道を変えた。旋回の弧を逃れ、地上へ向けて一直線の降下。血を求める爪が流星の如く閃く。
尾崎が、ここを通すまいと仁王立ちでバランに対峙する。刹那にむき出しになる牙、硬質な皮膜のブレード。両手を掲げる尾崎。それで、真っ向から受け止めるつもりだ。振りかぶった腕の爪と、不釣合いなほど矮小な体がぶつかる―――
―――その刹那、その場にいた全てのミュータント達の顔が驚愕の様相に塗り替えられた。
バランは尾崎とぶつからなかった。通常とは違う何かを感じ取ったのか? バランは時計回り90度に体を捻り、バランは次なる獲物を眼孔に捕らえていた。その視線の先に在る者……根岸ユイの元へと。
「ま、まずい!」
自らの武器に拘束され、動けないユイはバランにとって恰好の標的だった。それだけではない。プラズマグレネイドは現戦力で最大の要―――もし今、それが消えてしまったとしたら…。
ここで希望の道を費えさせるわけにはいかない!
「ったく、単細胞がない知恵絞りやがって!」
「それは自分のことを言ってるのか?」
慌てて追いかけるが、届くはずもない。バランの飛行速度は水面をも切り裂く神速。対して、こちらは所詮人間の域を出ないミュータント。その差は歴然だ。
「ユイっち!もうチャージはいい、そっから逃げろ!!」
信二が叫ぶが……間に合わない!
咀嚼せんと開かれる、バランの大口。スローモーションのような光景。そのまま止まることを望むも、目の前の異界へのブラックホールから逃れることは出来そうにない。ユイは眼を伏せた。
1秒、2秒―――止められた時の中で。体の感覚が解き放たれるかのような錯覚…だが、右腕のプラズマグレネイドの締付が確かにまだ生きていることを実感させる。

恐る恐る眼を開くと共に―――
「ぁ……」
止まっていた時間が
「……」
動き出す!

バランの四つん這いの体が大きく仰け反っていた。今まで何の攻撃にもひるまず、何者をも寄せ付けなかったあのバランが。だが、誰がバランの神速に追いつけたと? 例えカイザーの尾崎であろうとそれは無理なはずだった。
一瞬後、ユイはその正体を知ることになる。
黄昏に舞う黄金の翼。それが溶け込むようにふわりと宙を駆け、天使のように砂の大地に足を添えた。それは救世主とも呼ぶべき神々しさ。そして、フラットウィングと云う名のシンボル。
「家城…? 何故ここに―――  !?」
だが、それは『天使』などと形容してはいけなかった。見開かれた彼女―――ゆみの瞳。ユイは…いや、誰しもが思わず言葉を失った。その、血に染まったような紅蓮の眼は、明朗快活で無垢な彼女からは想像もつかないほど、温度がなかったのだ。
「皆…何を、驚いているんですか?」
酷く、冷たい声だった。
「ああ……休んだはずの私が何でここにいるのか、って驚いているんですね? でも、どうでもいいじゃないですか、そんなこと」
そうじゃない。全員の心の内が一致する。それは、バランの存在さえも一瞬忘れてしまうほどに強烈な疑問と共に。

―――お前は、誰だ…?

『この』家城由美子に遭遇したのは、意外にも皆初めてであった。ゆみであってゆみでないその姿に、彼らは天使の姿さえ忘れて畏怖する。
もっとも、和泉怜がここにいたならもう少し別の感情を抱いたのだろうが。
と、その時、それまで存在を忘れられていたことに怒っているかのようにバランが咆哮した。そして、再度ユイへ突進してくる。
「くっ、ユイ!」
今度こそ、尾崎がその両腕でバランの体を押さえつける。だが、やはり力の差は歴然だ。バランの牙を真っ向から受け止める尾崎の体がみるみるうちに押されていく。踵が砂を盛り上げ、その度尾崎の体躯がビクッと震える。
「プラズマグレネイドを撃て、ユイ!」
「なっ…!?」
尾崎が叫ぶ。だが、彼が何を言っているのか、ユイには理解できなかった。このまま撃てと? 彼はプラズマグレネイドの威力を知っているはず…ならば、この状態で撃てば、自身がどうなるかもわかっているはずなのに。
「正気ですか大尉!今コレを撃ったら、大尉まで………!」
「何、これもある種の償いさ……大したことじゃない。…今まで、迷惑をかけたな」

そう、ハワイでのあの事件までの数年間…俺はユイ、お前にずっと重荷を背負わせてきた。俺という重荷を―――。それは決して許されることではないし、俺も許されようなどとは思っていない。ただ現実に還ることが恐くて…美雪のいない世界で、自分が何のために存在できるのかがわからなくて…俺は『抜け殻』となって無色の時間の中を彷徨った。何も感じず、何もかもが億劫で、無意味に見えていたあの時。そこから俺を救い出してくれたのは、他でもなくユイだった。あの、敵に非情で、感情を表に出さないユイが。無論彼女にとってそんなつもりは更々なかっただろうが。どちらにしても、助けられたことは事実だ。
(何の運命の悪戯かな、これは)
そういえば、ちょうどこんな浜辺だったな。…死に場所としては申し分ない。

「さっさと撃てユイ!カイザーだからって長くは持たないぞ!」
尾崎の怒声が飛ぶ。彼の言うとおり、バランは今にも尾崎の体を跳ね飛ばしそうだった。だが、返ってきたのは意外な言葉だった。
「バカを言うなっ!」
「へ…?」
呆気に取られ、思わず声が出てしまった。だがまぁ無理もない…まさかユイが、あのユイが上司に敬語も忘れて叫ぶとは思ってもみなかったのだ。
「さっさとするのはキサマのほうだろうがっ!それとも、まさかそれで自分の過去が精算されるとでも思っているのか!?冗談じゃない!それと、貴方にはこの後しっかり反省してもらう!先程の軽はずみな発言と……今頃私に謝ったことを」
「ユイ……」
「わかったらさっさとどいてください…正直、私の腕も限界に近いのですから」
それまでにない、静かな、穏やかな囁きだった。
―――ありがとうと、いいたい。

「よし、いくぞ!!」
辛抱たまらないバランがついに尾崎の抑制を振り切って飛び出す。だが、もちろんそれを逃すはずはない。尾崎の、カイザーとしての拳の鉄槌が炸裂する。しかし、それはバランとは別の標的に放たれた。それはすなわち、足元を掬うこの砂浜。砂塵が、オレンジに染まる浜辺に瞬きを持って四散する。意図を汲み取ってか、ゆみも同時に同様の行動を取った。モロに突っ込み、文字通り足元を取られるバラン。アリジゴクの作ったような砂地獄にはまってしまったバランが必死にもがくが、脱出しようという意思とは裏腹にむしろその前脚は砂の地面に飲み込まれていく。ならば、と腕の皮膜を広げ上空への脱出を試みる。だが……。
「ガラ空きだぜ…!」
「素早さを欠いたバランなど、恐れるに足りん」
いつの間にか回り込んでいた信二と静奈のWメーサーによる挟み撃ち。これまで彼らを苦しめ続けたブレードの皮膜が、見る見る無惨な姿に成り変わっていく。
「Yes! やっぱヒーローは、遅れてやってくるもんだぜ!」
「誰がヒーローだよ、誰が」
ジト目の視線はさておき、これでバランの飛翔能力は失われた。ついに天啓が下ったのだ。
「ターゲット、ロック…!」
「いけぇっ!!」
―――本当は、もっと早くからこうでありたかった。
こうであるべきだったんだ。今更になって、尾崎は空虚にした時間の意味を知った。
今、想う。ユイは、ずっと待っていたのだと。いつまでも失墜の泥沼から抜け出せない彼を。哀れむほど落ちぶれた彼を、ずっと。諦めずに。

その瞬間、閃光が視界全てを無色に変えた。

「…ユイ、大丈夫か?」
肩膝をつくユイにすっと手を差し伸べる尾崎。後ろに見えるバランは、原型を留めてはいるものの、プラズマグレネイドの直撃を受けて完全に動かなくなっていた。
「…一人で立てますよ」
その手をのけて少々乱暴に立ち上がるユイ。尾崎は肩をすくめた。
「あなたも、ようやく立つことができたのですね」
感情を隠すような、くぐもった声でユイは不器用に尾崎を見つめた。なんだか睨みにも近かったが、憤怒や軽蔑という念ではないことははっきりわかった。
「すまない……ずっと、待たせてしまって」
ずっと―――それは随分と長い年月だった。美雪を失ってから現実に逃げ纏った、長い長い、歳月。だから今は、素直に謝りたい。決して美雪のことを忘れるのではなく。かといって、もう一度喪に服すわけでもなく。
「多少時間は掛かりすぎたとはいえ、あなたは自分ひとりで立った……それで、今までの事はチャラにしておきますよ」
改めて顔を合わせるのが恥ずかしかったのか、ユイはついと尾崎に背を向けた。だが、背中からでも、彼女が微笑んでいることは、なんとなくわかった気がした。

―――失ってしまった、大切な人のこと。でも、周りが何も見えなくなるほど塞ぎこんでも、その人は帰ってこないし、その人がそれを喜んだりもしない。だから…

例えば、こんな綺麗な夕焼けの日に。『あの頃は―――』って、一人語ってみたり。
例えば、こんな静かな海岸線で。ユイは風間を、俺は、美雪を心に描いて、追憶に耽ってみたり。
例えば。
何かをきっかけに、ささやかに、想う。失ってしまった人のことは…そのくらいが、ちょうどよかったんだ。
「ユイ」
だから、美雪じゃなくて、ユイの名を呼んだ。彼女は、ぶっきらぼうに「?」とこちらを向いて首を傾げる。
「今まで、ありがとう」
「な、なんですか、急に…」
急ではない。ずっと、言わなくてはならない言葉を、ようやく言えた。ただそれだけのこと。
「それと……これからも、頼むな」
何を一人納得しているんだろうか…とでも言いたげな面持ちで一瞬眉をひそめるユイだったが、やがて彼女は考えることが意味を成さないと悟った。そして、ただ一言。
「……はい」
今はただ、それだけでいい。


しかし、この長い休日はこれだけでは終わらなかった。そして、こんな美しい終息でもなく。






―――くそ、完全に見失った。
体に任せるままゆみさんを追ってはみたものの、人間離れしたミュータントの足に追いつくはずはなく、僕は両手を膝について荒っぽい息を吐いた。バカみたいにだらだらととめどなく溢れる汗が体中に纏わりついて気持ち悪い。さらに普段運動しないことも相まってか、太ももがはちきれんばかりの悲鳴を上げている。いつも運動に億劫な僕も、このときばかりは自分を恨んだ。
「それにしてもどこまでいったんだろう…もうすぐ端っこじゃないか」
仕方なく、再び棒みたいになった足で歩みを進めることにした。もう日はほとんど沈みかけていて、ぽつぽつと街灯の光が浮かびだしている。
「ふぅ、早いトコ見つけないと、幹也たちにも何言われるか…」
と、その時…ぽつりと、何かの影が見えてきた。随分遠くだ。それが段々近づくに連れて、割と巨大なものであることに一瞬この身がたじろいだ。生の『怪獣』という奴は、ぷちへどのような生易しいものではないと思い知らされる。そしてそれと同時に、怪獣の周りにまばらにある人影にも気づくことができた。怪獣は、たった今事切れたというように生々しい緑の鮮血を垂らしながら横たわっている。つまり、周りにいるのはそれを成した要因…それができるのはミュータントだけだ。と、いうことは……?
案の定、僕がそこに駆け寄ると、幾つかの人影の中に見慣れた背中を見つけることができた。
「ゆみさん!」
手を振るのはさすがに恥ずかしかったので、肩を叩こうと彼女に近づく。が、直後―――
「少年!今のゆみっちに近づくな!」
一気に、顔から血の気が引いた。
肩に触れるより先に、気配で僕のほうへ振り向くゆみさん。―――いや、それはもうゆみさんではなかった。性格がにじみ出たかのような琥珀色の穏やかな形の瞳は、今は攻撃的に吊り上り、更に血のように紅く染まっている。目つき一つで人の印象はここまで変わるものなのか?
いや、多分それだけじゃない。それは…
放つ、身をも焦がすような―――殺気。
「え、あ…」
思わず言葉を飲み込んでしまう。一歩二歩、背中を引っ張られるような感覚。
彼女は何も言わず、ただ現れた僕を詰るように見つめる。邪魔とでも、いいたげに。
これは…誰?
それはまさに、精密に姿を模した全くの別人でしかなかった。

その時、それまでピクリとも動かなかった『本物の怪獣』が突然牙を剥いた。誰もが驚愕の表情を浮かべている辺り、死んだと思っていたのだろう。その牙は、まっすぐ僕に向かって迫ってくる。え、僕? どう考えても恨みを晴らすべきは僕ではないだろうに。って、いやそんな冷静に考えている場合でなく。周りの人たちは呆気に取られているのか、動こうとする気配はない。ひょっとして、いやひょっとしなくても―――まずい!
「うわあああああああっっ!!?」
あまりに巨大な畏怖。ゆみさん、いつもこんなのと戦っているのか? 畏怖は、体を少しでも動かすことを許さなかった。眼を伏せることさえ敵わないまま、僕はその牙を受け入れようとしていた。
だが。
「――――――――」
「え………?」
何かが聞こえた。切り裂かれ、肉片の飛び散る汚らしい音の中に、何か。それは、小さな、小さな
――――――囁き。
怪獣の頭は、原型を忘れてしまうほどグチャグチャにひしゃげてしまった。僕が見ていた前で、一瞬のうちに。腰が抜けた。思わず、砂に尻餅をついてしまう。
その張本人は、紛れもなくさっきまで僕の目の前にいたはずの夕焼け色をした髪の彼女…
血に濡れた腕を死体に突き刺したまま、彼女はさっきと同じように、僕に視線を向けた。
…今度は、僕の知る琥珀色の瞳だった。でもそれは、何故か雫に潤んでいて。何故か、震えた声で。
―――何故か、とても悲しい顔をしていた。
「…待っててって、言ったのに」
ひとつ、雫が頬を伝った。
「……あなたにだけは、見られたくなかった、のに」





美里と幹也の元へ帰ってから、二人は一言も喋らなかった。ただじっと口を真一文字に結んで、お互い眼をあわさないようにうな垂れているばかり。そんな様子に幹也たちはどうしたものかと目を合わせ、首を傾げた。
「ゆーみ、元気ないぞ」
沈黙を破ったのは、美里だった。座り込んで、日の沈む海をぼうっと見つめるゆみに並んで腰を下ろす。
「えっと……何があったかは聞かない。きっとよっぽどのことがあったんだと思うし」
「………」
「…。泣きたかったら、今泣いちゃってね」
「え…?」
「ゆみ、ホントはいつも我慢してるでしょ? お父さんが亡くなった頃から」
ゆみが少しだけ目を見開いた。何故わかるんだろう、と言いたげな顔で美里を見る。
父が亡くなって、それからすぐに怜と出会った。怜は、面倒見のいい性格からかしばらくゆみを慰めてくれた。それから、ゆみが毎日怜について回るようになると、彼女はこう言った。
―――私を心の埋め合わせにしないで。
それからゆみは、強くなろうと決めた。外側ではなく、内側を。でも、どうやって鍛えたらいいのかわからなかった。それで、思いついたのが『泣かないこと』。我慢して我慢して、ちょっとのことじゃ泣かない、強い人間になろうと思った。きっと、本人が聞けば『子供っぽい考え』とか『単純』とか言うのだろう。
ゆみが驚いたのは、美里にもそのことは話していなかったからだった。
「辛いこと溜め込んでるゆみ見てるとね、何だかこっちも辛くなってきちゃうの。だからさ、今は泣いていいよ。健太君に聞かれたくないなら、隠れてでもいいからさ。その時は付き合ってあげるし」
「美里ちゃん……」
「それで、大丈夫になったら笑って! 笑ってるゆみって、太陽みたいに暖かいの。それから、皆に元気をくれる。だから、私は笑ってるゆみのほうが好き。それに、健太君もそんなゆみとなら、すぐ仲直りしてくれると思うしね。うん、確実に♪」

ああ、多分私は、この親友には一生頭があがらないだろうな。彼女の胸の中で、ゆみはそんなことを想っていた。彼女は、私なんかよりもずっと自分のことを見ている。自分自身の知らないところまで、見てくれている。私にはとても真似できることじゃなかった。そして、そんな美里ちゃんが自分の親友であったことに、心底感謝したのだった。


「ちょっと、飲み物勝ってくるね。喉、渇いたでしょ?」
「うん」
少しだけ紅く腫れた目をこすりながら、ゆみは笑顔で頷いた。その笑顔、グッジョブなどと返しつつ、美里は少し離れた自動販売機に向かって歩いていく。
―――しかし、ようやく辿り着いた自動販売機の前をそのまま通り越し、美里は更にずんずんと進んでいった。そこは、既に人気のない林道。蟋蟀の声ばかり耳につく何もない一本道のど真ん中。そこで、美里は突然歩みを止めた。
「……どういうつもり? 監視は、私の役割のはず」
誰もいないはずのその空間に、美里の声が静かに響く。いつもの美里からは想像もつかないような、感情を押し殺した抑揚のない声。研ぎ澄まされた冷徹な視線。
それはまるで―――被っていた皮を、脱ぎ捨てたかのように。
「おや、気づいていたのか。相変わらず表情(カオ)に出ないな、君は」
と、突如林道の無音に男性の声が干渉する。しかし、美里は全く動じることなく目を細める。
「ま、どちらにせよ僕が監視していたのは『彼女』ではないよ」
「ならば何を……?私には、カイザー以外の監視対象は命令されていない」
カイザー。まさか、美里からそんな単語が出るとは。そして、彼女は『監視』とも言った。
「それはそうさ。何しろ、監視対象っていうのは…」
周囲の木々がざわめく。まるで、響く声に抵抗し、怯えているかのように。
「―――君の事なのだからね、ミサト………いや、死刑囚3310」
いつの間に現れたのか。彼女の背後の影―――樋室ジンが鋭い声で言った。
美里はそれも微動だにせず、ただ言葉だけを背後の少年に投げかける。
「……?」
「これは統制官のご意向でしてね…。あなたが変な行動を起こすようだったら連れて帰ってこいと、ね」
目の前から、リオ・レオリナのやたらと体に纏わりつく敬語が降りかかる。
「統制官の……」
「ええ、2度の独断行動に加えて最近のあなたの普段の姿に多少なりとも不安を抱かれているようで」
「それを確かめて来いと言われたのさ」
「まぁあなたのX星での前科を見れば、これくらいは当然と言えましょう?」
美里はピクリと眉をひそめた。

―――第16地区・大量無差別殺人事件。
当時X星全土を震撼させたこの事件は、3310人の死全てが一人の少女の手によって執行されたという事実を以って終局を迎えた。犯人の名はミサト・シュトゥルムハウンド。動機は何らかの薬物による破壊衝動の暴走。
狂人と化したミサトは牢獄に収容され、弁護の余地もなく死刑が決定された。だが、その取り決めを覆したものがいた。それこそ、この地球で今静かに動く侵略作戦の現・統制官であった。統制官は言った。その狂気の刃こそ、あの青き星を鮮血の朱に染めるに相応しい―――と。
こうして、統制官への永遠なる忠誠と服従を誓い、死刑囚は牢獄を抜け出した。

「―――恩を仇で返すような真似は、しないだろうな?」
ジンの声と共に、一陣の疾風(かぜ)がざあっ、と木々を揺らした。その風が、まるで時を止めたような錯覚を生み出す。
―――目を伏せていた美里は、やがて静かに口を開いた。氷のような、冷たい声で。
「……まさか」
リオから笑みが漏れた。まるで、そう言うと初めからわかっていたような満足のいった笑みに見えた。
「この身は統制官に従う物…万に一つ、裏切るような真似はないと、断言する」
それを聞くとジンは、道を開けるようにすっと右側に木に寄りかかった。
「ならいい。時間をとらせてすまなかった。今後も、引き続き家城由美子の監視を頼むよ」
「……了解」
踵を返し、寒気のするリオの紳士的笑みに背中を向けて立ち去ろうとする美里。
「待てよ、忘れモンだぜ」
木の頂点から、レイセフォー・ジョルドットの声と共に何かが美里に勢いよく放られた。それを片手で受け止める美里。それは、サンバイザーのような形の、闇の色をした仮面。
フェイクシルエットバイザー。かけることによって髪の色や容姿を偽ることの出来る美里専用の道具。松本と闘った時も、これのおかげで正体を明かさずに戦うことができた。
美里はそれを受け取ると、何事もなかったかのように元来た林道を下っていった。
「従うもの、か……」
ジンが空を仰ぐと、もう一番星が輝きを見せていた。



「随分遅かったな、美里」
「ごめんごめん、どれ買おうか迷っちゃって」
苦笑する私に安堵の表情を浮かべる幹也。しかし、まさか自分が『ミトコンドリアが切れたときの保険』だとはこれっぽっちも思っていないだろう。
「それじゃ、そろそろ帰ろうか。バスももうすぐ来るみたいだし」
健太がそう促す。まだ少し戸惑っているようだが、それでもさっきよりは大分平静を保っているようだ。
そして。
「美里ちゃん、いこっ♪」
―――監視対象、家城由美子。私の手を握り、満面の笑みを見せる。多分、さっき私が言ったことを真に受けているのだろう。
これから先も、この子は何も気づかないまま私と付き合っていくのだろう。学校での他愛のない会話…M機関の内部情報が、そんなところから敵に伝わっているということさえ知らずに。
「…うん♪」
私は、彼女の太陽のような笑みに応えるべく笑って見せた。
―――ハリボテのような、貼り付けた笑みを。




最終更新:2008年06月27日 06:37