 ホンダ・コレクションホール所蔵のelf 3 |
エルフ・プロジェクト
1978年、パリの旧バスチーユ駅構内で開かれていたレーシング・ショーに1台の独創的なオートバイが展示されていた。フランスの石油会社エルフ(elf)によって製作されたコンセプトマシン、elf Xである。
elf プロジェクトは、4輪のルノー・エルフのエンジニアでもあったアンドレ・ド・コルタンツとエルフ社レース部門のフランソワ・ギデール、アラン・ペランヌとの会話の中から生まれた。熱狂的なオートバイフリークでもあったコルンタンツは従来のオートバイのデザインは自動車に比べて遅れていると考えており、コルタンツが考える理想的な構造のオートバイを実現するためのチームがエルフ・プロジェクトだった。
elf X
エルフ・プロジェクトの1号機である
elf Xは、エルフ社から提供されたヤマハTZ750のエンジンを使って1977年から製作が開始され、完成までに5ヵ月以上を費やした。
elf Xの最大の特徴は、4輪車のコンセプトを2輪車に持ち込んだ車体構造にある。通常のオートバイはスチールやアルミのフレームがエンジンを抱え込み、フレームに前後のサスペンションが取り付けられる。しかし
elf Xはフレームを持たず、エンジンそのものが支持体を構成している。サスペンションはエンジンから直接伸びるように取り付けられ、フロントサスペンションは4輪車を思わせるダブルウィッシュボーンタイプにステアリング機構がリンクによって加えられた物が、フロントホイールを片側から支持していた。また、低重心化のためにフュエールタンクはエンジンの下に取り付けられ、排気管はエンジンの上を通されていた(ホンダのNSR500が同様のレイアウトを採用したのは1984年のことである)。
この未来的なコンセプトマシンは、航空力学を取り入れたカウリングでマシン全体を覆った美しいフォルムも相まって大きな反響を呼んだ。そして
ホンダが早くもこのプロジェクトに注目し、1979年にはいくつかの特許の使用契約に調印するとともに、耐久マシンRS1000のエンジンの提供を申し出た。
elf e
実験車であったelf Xに対し、RS1000のエンジンを得て生まれたelf eは耐久レースに出場するためのレーシングマシンだった。マシンの基本構成はelf Xを踏襲しているものの、各部に実戦を戦うための改良が加えられている。
もっとも特徴的だったフロントサスペンションはelf Xの設計から細部を改良するにとどまっていたが、リアサスペンションは再設計されて3kgのマグネシウムから鋳造された片持ちタイプのスイングアームとなり、耐久レースに不可欠なタイヤ交換のスピードアップに大きく寄与した。また、カーボンファイバー製のブレーキディスクやマグネシウム製のホイールが採用されていたことも注目された。
1981年に実戦デビューしたelf eはその後3シーズンに渡って世界耐久選手権の主なレースに出場し、徐々にスズキ、ホンダ、カワサキなどのレーサーと互角に戦えるまでに戦闘力を高めていった。1983年のル・マン24時間では予選5番手から一時は2位を走り、鈴鹿8時間では決勝はリアサスペンションのトラブルでリタイヤしたものの予選では9位を獲得している。そしてこの年の最終戦ムジェロ1000kmでは2台出場したelf eの1台が3位表彰台を獲得し、もう1台も9位入賞する速さを見せた。
しかし世界選手権を統括するFIMは、翌1984年からTT-F1の排気量上限を750ccとするレギュレーション変更を決定し、これによって1000ccのエンジンを持つelf eはTT-F1マシンで争われる世界耐久選手権に翌年から出場することができなくなってしまった。
elf 2
エルフ・プロジェクトはマシンを実戦開発する場を、耐久レースからWGPに移すことを決定した。HRCから市販レーサーRS500の3気筒エンジンが提供され、最初のGPマシンelf 2が1984年第6戦フランスGPの舞台となったポール・リカールで発表された。
elf 2は、これまでの基本コンセプトを受け継ぎながらも、elfのマシンの代名詞とも言える特徴的なフロントサスペンションには大きく手を加えられていた。これは、エンジンがそれまでのTZ750やRS1000用の並列4気筒からRS500のV型3気筒となったためのスペース上の制約によるもので、従来のステアリング機構を組み込むことができなくなったためにダブルウィッシュボーンの2本のアームのそれぞれに動きの制御と感度応答を受け取りを担当させるというものだった。また、フロントタイヤは17インチのものが使われていた。
1984年に発表されたelf 2だったが実戦デビューは翌1985年のフランスGPとなった。この年はカワサキの耐久チームなどでチームマネージャーを務めたセルジュ・ロセを監督に迎え、クリスチャン・ルリアールのライディングでフランスGP、スウェーデンGP、サンマリノGPに出場したが、ポイントを獲得することなくシーズンを終えた。
elf 3
1986年のelf 3は、同じV型3気筒でもワークスマシンNS500のエンジンを搭載していた。ホンダ・ワークスの主力は4気筒のNSR500に移っていたとはいえ、前年のダッチTTではランディ・マモラが優勝するなどNS500もまだまだ十分に上位を狙えるマシンである。そしてライダーには前年はそのNS500でランキング5位を獲得し、抜群のスタートダッシュで“ロケット・ロン”の異名をとったロン・ハスラムを新たに迎えた。
elf 3の最も大きな変更点は、これまでのエンジンそのものを支持体とする構成を捨て、アルミ角パイプ製のフレームが導入されたことである。フロントサスペンションの構造もダブルウィッシュボーンタイプから大きく変更され、フレームのステアリングヘッド位置から伸びたモノショックユニットに片持ち方式でフロントホイールが取り付けられ、フレーム下部からのサブアームでこれを支持するという構成となった。これは、これまでの複雑なリンクを介したステアリング機構が、タイヤからのフィーリングがダイレクトに伝わらないとしてライダーに不評だったことが大きい。また、アップサイドダウンのレイアウトはフュエールタンクがフレーム上に置かれ排気管がエンジン下を通るというオーソドックスなものに変更された。
これらの数々の実戦を戦うための改良を受けたelf 3を駆ってハスラムは緒戦のスペインGPで10位に入賞、elfにとって初めてとなるポイントを獲得した。その後もハスラムはダッチTTとフランスGPの7位を最高に度々入賞する走りを見せ、開発ライダーとしても多大な貢献をするとともに18ポイントを獲得してシーズンランキング9位という成績をチームにもたらした。さらにこの年は東洋有数の公道レースであるマカオGPにelf 3を持ち込み、ハスラムはNS500のディディエ・デ・ラディゲスを破って見事優勝を果たした。
elf 4
1986年の終わり、ホンダからNSR500のエンジンの提供が提案され、elf 4はついにV型4気筒エンジンを搭載することになった。しかしホンダからのエンジンの到着が遅れた上にV4エンジンが予想以上にスペースをとることが判明したためにelf 4の開発が遅れ、ハスラムは1987年シーズンの序盤をチームのイメージカラーであるブラックにカラーリングされたNSR500で戦うことになった。
第5戦オーストリアGPのフリープラクティス、雨のザルツブルクリンクに初めて姿を現したelf 4は、今やエルフのアイデンティティとも言える片持ちの前後サスを除けばオーソドックスなレーシングマシンの中にあってもほとんど違和感の無い姿だった。これはelf 4のジオメトリーがNSR500とほぼ同じになるように設計されたためで、これによりelf 3とほとんど同じ基本構造でありながらelf 4の各パーツはelf 3と互換性の無い新設計となった。
elf 4がelf 3から最も大きく変更されたのはフレームである。elf 3では当時のオーソドックスなロードレーサーの物によく似たアルミ角パイプフレームだったが、elf 4ではelf 3の物よりも一見華奢に見えるアルミ角パイプとスチールパイプの組立式となっていたのである。これは、通常のオートバイがブレーキング時の強大な力をフレームのステアリングヘッド部1点で受け止めなければならないのに対し、マクファーソンストラット式フロントサスペンションのエルフではステアリングヘッド部にはサスペンションの反力だけが架かり、ブレーキングの加重はフレーム下部から伸びたスイングアームへ分散されるため、フレーム上部に通常のような強度が必要とされなかったことによる。一方でエグゾーストパイプやラジエーターはNSR500のものがそのまま使用されており、そのこともelf 4にNSR500と近い印象を与える要因のひとつとなっていた。
オーストリアGPでお披露目されたelf 4はしかしフリープラクティスを走っただけでしまい込まれ、予選・決勝ではハスラムはそれまで通りノーマルのNSR500を走らせた。そしてその後もハスラムは予選でこそ両マシンを使い分けたものの、決勝レースではシーズンも終盤に入る第11戦チェコスロバキアGPまでelf 4に乗ることは無かった。これはelf 4がフロントブレーキに深刻な問題を抱えていたことに加え、NSR500を得たハスラムが表彰台に2度上る好調さでランキング4位という好位置につけていたことも影響していたのかもしれない。
特製のダブルディスクブレーキに替えることでブレーキの問題を解決し、チェコスロバキアで決勝デビューしたelf 4だったが、このレースでは完走こそ果たしたものの14位に沈んだ。そして続くサンマリノGPでは予選でハスラムが転倒、負傷し、決勝でも怪我の影響で早々にリタイヤした。その後はポルトガルGPで9位、最終戦のアルゼンチンGPで10位と入賞を果たし、この年elf 4が獲得したポイントは3ポイントに終わった。しかしシーズン前半にNSRで稼いだポイントが功を奏し、ハスラムはガードナー、マモラ、ローソンに続くランキング4位という過去最高の成績でシーズンを終えている。
elf 5
1988年型のelf 5は、elf 4の車体構成はそのままに各部の材質を最新のものに変更するなど正常進化させたものだった。一方でエンジンの方は1987年型NSR500の112°V4エンジンが搭載されたが、各メーカーが大量のワークスマシンを投入し新たな技術が次々と実現されていたこの時代のグランプリシーンにおいて1年落ちのエンジンは戦う上ではハンディとならざるを得ず、フロントサスペンションなどの独自の技術がエンジンのハンディを逆転するほどのアドバンテージとならない限りelf 5の苦戦は必至だった。
前年苦しんだブレーキの問題は解消され、各部のブラッシュアップによって信頼性を高めたelf 5は1988年シーズンの全15戦中12戦で完走し、この年から変更されたポイントシステムの恩恵もあって11戦で入賞を果たしたが最高位は7位にとどまり、シーズンランキング11位に終わった。そしてエルフ社におけるプロジェクト推進のキーパーソンの一人であったフランソワ・ギデールが引退したのを機に、10年間に渡ったエルフ・プロジェクトは幕を下ろした。
エルフ・プロジェクトにおける主要テーマのひとつに『ブレーキング時の姿勢変化(ノーズダイブ)を抑制し、重心移動を少なくする』というものがあり、その答えが特徴的なフロントサスペンションだった。そしてノーズダイブ抑制という点においては高レベルで実現され、高速コーナーでは安定性を発揮した上にステアリングへの入力に敏感に反応する特製によってS字コーナーの切り返しなどでは抜群の速さを発揮したという。しかしフルブレーキングから一気に倒しこむようなコーナーではこのノーズダイブしないという特性が逆に仇となり、倒しこむきっかけが掴めないというライダー泣かせのフィーリングとなってしまっていた。人車一体となって操縦し、ライダーが自身の体を動かすことで積極的に向きを変えるというモーターサイクルに、基本的に体を固定された状態で操縦する4輪車の方法論を持ち込もうとしたことで、エンジニアが考えるオートバイの理想形とライダーが望むものとの間に微妙なベクトルのズレが生じてしまっていたのかもしれない。
一方でエルフ・プロジェクトで試行錯誤された新技術が全て失われてしまったわけではない。プロジェクト終了後、プロジェクトが持っていたうちの13の特許がホンダに譲渡され、後に片持ちスイングアーム式のリアサスペンションは“プロアーム”の名でホンダの多くのロードレーサーやプロダクションモデルに受け継がれている。
参考資料
- 『月刊GRAND PRIX ILLUSTRATED』(1988年3月号、グランプリ出版)
- 『RACERS Volume01』(2009年、三栄書房)
- 『RACERS Volume04』(2010年、三栄書房)
最終更新:2013年11月13日 08:17