 1979年型NR500 |
1967年のシーズンを最後にグランプリから撤退していた
ホンダが、突如グランプリへの復帰を宣言したのは1977年12月のことだった。この年はスズキRGに乗るバリー・シーンが2度目のタイトルを獲得し、ヤマハが本格的にグランプリへの復活を果たした年である。一方で、かつてMVアグスタの顔として500ccクラスを支配した
ジャコモ・アゴスチーニが、マシンをヤマハにスイッチしたものの遂に1勝もできずにシーズンを終え、引退を決意した年でもあった。前年の1976年の最終戦で、雨のニュルブルクリンク旧コースというパワーよりも扱い易さがものを言う状況でアゴスチーニが勝利したのがMVアグスタの最後の勝利であり、この1977年という年はグランプリが2ストロークマシンによる戦いの場へと完全に移行したシーズンであるとも言える。ところが、ホンダが翌1978年から開発プロジェクトをスタートさせたグランプリ復活のための武器は、時代に逆行するかのような4ストロークエンジンだった上に1気筒あたり8本のバルブを備えたオーバルピストンという前代未聞のメカニズムを持つ
NR500だった。
1978年、ホンダは研究所内にロードレース専任の開発チームを発足させた。「New Racing」を意味する「NRブロック」と名付けられたそのチームの最初の課題は、4ストロークで2ストロークに勝つためのアイディアを搾り出すことだった。つまり、ホンダが新たな500ccのグランプリマシンを開発するに当っては、最初から2ストロークという選択肢はなかったのである。本田宗一郎の4ストロークエンジンへの拘りは、決して他の追随はしないという社風とともに半ばホンダという会社のアイデンティティとなっていたのかもしれない。とは言うものの、かつてホンダが東ドイツのMZの2ストロークマシンと鎬を削っていた頃のように、2ストローク機関というものが海のものとも山のものとも知れないまだまだ未知の要素が多かった時代ならいざ知らず、ホンダが不在だった10年の間に2ストロークエンジンの技術は大きな進歩を遂げていた。ホンダが500ccのコンストラクターズタイトルを獲った1966年の4ストローク4気筒の2RC181が85馬力程だったのに対し、ヤマハのYZRやスズキのRGといった2ストローク4気筒マシンは110馬力前後のパワーを叩き出していたのである。
クランクシャフトが1回転する毎に1回爆発する2ストロークエンジンは、単純に考えてクランク2回転毎に1回爆発する4ストロークエンジンに比べて簡単に大きなパワーを取り出すことができる。逆に、4ストロークで同じ排気量の2ストロークと同等のパワーを出すためには、回転数を上げて時間あたりの爆発回数を2ストロークのそれに近付けてやればよい。新たな4ストロークエンジンは2ストロークのライバルに匹敵する120psを目標とされたが、そのために必要な回転数は20,000rpmと試算された。これは、レシプロエンジンの限界とも言えるほどの回転数である。
最終更新:2014年08月04日 19:53