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古事記(こじき、ふることふみ)は、その序によれば、和銅5年(712年)太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ、太安万侶(おおのやすまろ))によって献上された日本最古の歴史書。上・中・下の全3巻に分かれる。
概要
成立の経緯を記している序によれば、稗田阿礼が暗誦していた『帝紀』(天皇の系譜)・『旧辞』(古い伝承)を太安万侶が書き記し、編纂したものとされている。
『古事記』の書名は、もともと固有名詞ではなく古い書物を示す一般名であり正式名ではないと言われている。書名は安万侶が付けたのか、後人が付けたのかは明らかでない。読みは「フルコトブミ」との説もあったが、今日では一般に音読みで「コジキ」と呼ばれている。
『
日本書紀』のような勅撰の正史ではないが、序文に天武天皇が
撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉
帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り実を定めて、後葉に流(つた)へむと欲(おも)ふ
と詔していることから、勅撰と考えることも出来る。
『古事記』に登場する神々が、多くの神社で祭神として祀られ、今日に至るまで日本の宗教文化に多大な影響を与えている。
構成
『古事記』は、帝紀的部分と旧辞的部分とから成り、天皇系譜が『帝紀』的部分の中心をなし、初代天皇から第33代天皇までの名、天皇の后妃・皇子・皇女の名、およびその子孫の氏族など、このほか皇居の名・治世年数・崩年干支・寿命・陵墓所在地、およびその治世の大事な出来事などについて記している。これらは朝廷の語部(かたりべ)などが暗誦して、天皇の大葬の殯(もがり)の祭儀などで誦み上げるならいであった。それが6世紀半ばになると文字によって書き表わされた。『旧辞』は宮廷内の物語、天皇家や国家の起源に関する話をまとめたもので、同じ頃書かれたものである。
『帝紀』や『旧辞』は、6世紀前半ないし中葉頃までに、天皇が日本を支配するに至った経緯を説明するために、朝廷の貴族によって述作されたものであり、それらをもとにして作成されたものである以上、民族に伝わった歴史の伝承ではないとの主張もある。一方、広く民衆に受け入れられる必要もあったはずで、特に上巻部分は、それらを反映したものが『古事記』ではなかったかとの主張もある。
構成は、
上つ巻(序・神話)
中つ巻(初代から十五代天皇まで)
下つ巻(第十六代から三十三代天皇まで)
の3巻より成っている。内容は、神代における天地(アメツチと読まれる)の始まりから推古天皇の時代に至るまでのさまざまな出来事(神話や伝説等を含む)を収録している。また数多くの歌謡を含んでいる。
なお、日本神話での「高天原」という用語が多用される文書は、「祝詞」以外では『古事記』のみである。
表記
本文はいわゆる変体漢文を主体としつつも、古語や固有名詞のように漢文では代用しづらい微妙な部分は一字一音表記で記すという表記スタイルを取っている。一字一音表記の箇所には、まれに右傍に「上」「去」のように漢語の声調を表わす文字を配して、当該語のアクセントを示すこともある。いずれも、いかに正確にかつ効率よく記述するかで悩んでいた(序文参照)編者・太安万侶の涙ぐましいまでの苦心の跡である。歌謡部分はすべて一字一音表記で記されており、本文の一字一音表記部分を含めて、上代特殊仮名遣の研究に欠かせないものとなっている。
上代特殊仮名遣の「モ」の書き分けは『古事記』のみに見られるものである。
改竄説
『古事記』本文の記述以外には編纂の記録が直接は見当たらず、最古の写本も南北朝時代のもの(#写本を参照)であるため、それより以前の姿をそのままにとどめているかどうかに疑義を抱く改竄説も出されているが、考古学的反証も主張されている(#『古事記』偽書説も参照)。
『古事記』の研究
『古事記』の研究は、近世以降とくに盛んにおこなわれてきた。江戸時代の本居宣長による全44巻の浩瀚な註釈書『古事記伝』は『古事記』研究の古典であり、厳密かつ実証的な校訂は後世に大きな影響を与えている。宣長の打ち出した国学による「もののあはれを知る」合理研究は、漢式の構造的な論理では救済不能な日本固有の共感による心情の浄化プロセスの追及であった。しかし「からごころ」排撃は、のちに国粋主義的皇国史観、神話の絶対化に変容されたとの見方もある。
第二次世界大戦後は、倉野憲司や西郷信綱、西宮一民、神野志隆光らによる研究や注釈書が発表された。とくに倉野憲司による岩波文庫版は、1963年の初版刊行以来、通算で約100万部に達するロングセラーとなっている。
20世紀後半より、『古事記』の研究はそれまでの成立論から作品論へとシフトしている。成立論の代表としては、津田左右吉や石母田正があり、作品論の代表としては吉井巌・西郷信綱・神野志隆光がいる。殊に神野志の『古事記の達成』は、それまでの研究史を革新したといってよい。イザナミ神陵地の比較研究では、安本美典の「邪馬台国と出雲神話」などが有名である。
『古事記』偽書説
『古事記』には、近世以降、偽書の疑いを持つ者があった。賀茂真淵(宣長宛書翰)や沼田順義・中沢見明・筏勲・松本雅明・大和岩雄・大島隼人らは、『古事記』の成立が公の史書に記されていないことなどの疑問点を提示し、偽書説を唱えている。
偽書説には大体二通りあり、序文のみが偽書であるとする説と、本文も偽書であるとする説に分かれる。概要を以下に記す。
序文偽書説では、『古事記』の序文(上表文)において『古事記』の成立事情が語られているが、それを証する外部の有力な証拠がないことなどをもって序文の正当性に疑義を指摘し、偽書の可能性を指摘している。
本文偽書説では、『古事記』の神話には『日本書紀』より新しい神話の内容を含んでいるとして、より時代の下る平安時代初期ころの創作、あるいは岡田英弘のように伊勢国の国学者本居宣長によって改作されたものであるとする。
しかし偽書説は、上代文学界・歴史学界には受け入れられていない。上代特殊仮名遣のなかでも、『万葉集』・『日本書紀』の中ではすでに消失している2種類の「モ」の表記上の区別[2]が、『古事記』には残存しているからである。これは偽書説を否定する重要な論拠である[3][4]。
なお、序文偽書説の論拠の一つに、『古事記』以外の史書(『続日本紀』『弘仁私記』『日本紀竟宴和歌』など)では「太安麻呂」と書かれているのに、『古事記』序文のみ「太安萬侶」という異なる漢字表記になっているというものがあった。ところが、1979年1月に奈良市此瀬(このせ)町より太安万侶の墓誌銘が出土し、そこに
左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥
年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳[5]
とあったことが判明し、漢字表記の異同という論拠に関しては否定されることとなった。
内容
序を併せたり
撰者である太朝臣安万侶(おおのあそみやすまろ)が、天子に奏上する形式に倣って記した序文である。
序第1段 稽古照今(古を稽へて、今に照らす)
ここでは
天地開闢からはじまる『古事記』の内容の要点を挙げ、さらにそれぞれの御代の事跡は異なるがほぼ政治に誤りはなかった、と述べている。
臣安萬侶言す。それ、混元既に凝りて、気象未だ效(あらは)れず。名もなく為も無し。誰れかその形を知らむ。…(臣安萬侶言 夫混元既凝 氣象未效 無名無爲 誰知其形)
…歩驟(ほしう)各異(おのおのこと)に、文質同じくあらずと雖も、古を稽(かむが)へて風猷を既に頽れたるに縄(ただ)し、今に照らして典教を絶えむとするに補はずといふことなし。(雖歩驟各異 文質不同 莫不稽古以繩風猷於既頽 照今以補典敎於欲絶)
序第2段 『古事記』撰録の発端
ここではまず、天武天皇の事跡を厳かに述べた後、天武天皇が稗田阿禮に勅語して『帝記』・『旧辞』を暗誦させたが、時世の移り変わりにより文章に残せなかった経緯を記している。
…ここに天皇(天武)詔(の)りたまひしく「朕(われ)聞きたまへらく、『諸家のもたる帝紀および本辞、既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふ。』といへり。今の時に当たりて、其の失(あやまり)を改めずは、未だ幾年をも経ずしてその旨滅びなんとす。これすなはち、邦家の経緯、王化の鴻基なり。故これ、帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り実(まこと)を定めて、後葉(のちのち)に流(つた)へむと欲(おも)ふ。」とのりたまひき。時に舎人(とねり)ありき。姓(うぢ)は稗田(ひえだ)、名は阿禮(あれ)、年はこれ二八。人と為り聡明にして、耳に度(わた)れば口に誦(よ)み、耳に拂(ふ)るれば心に勒(しる)しき。すなはち、阿禮に勅語して帝皇日継(すめらみことのひつぎ)及び先代旧辞(さきつよのふること)を誦み習はしめたまひき。…(於是天皇詔之 朕聞諸家之所 帝紀及本辭 既違正實 多加虚僞 當今之時 不改其失 未經幾年 其旨欲滅 斯乃邦家經緯 王化之鴻基焉 故惟撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉 時有舍人 姓稗田名阿禮 年是廿八 爲人聰明 度目誦口 拂耳勒心 即勅語阿禮 令誦習帝皇日繼 及先代舊辭)
序第3段 『古事記』の成立
ここでは、元明天皇の世となって安万侶に詔が下り、稗田阿禮の暗誦を撰録した経緯を述べ、最後に内容の区分について記している。経緯では、言葉を文字に置き換えるのに非常に苦労した旨が具体的に記されている。
…ここに、旧辞の誤りたがへるを惜しみ、先紀の謬り錯(まじ)れるを正さむとして、和銅四年九月十八日をもちて、臣安麻呂に詔りして、阿禮阿禮の誦む所の勅語の旧辞を撰録して献上せしむるといへれば、謹みて詔旨(おほみこと)の随(まにま)に、子細に採りひろひぬ。然れども、上古の時、言意(ことばこころ)並びに朴(すなほ)にして、文を敷き句を構ふること、字におきてすなはち難し。…(於焉惜舊辭之誤忤 正先紀之謬錯 以和銅四年九月十八日 詔臣安萬侶 撰録稗田阿禮所誦之勅語舊辭 以獻上者 謹隨詔旨 子細採摭然、上古之時 言意並朴 敷文構句 於字即難)
…大抵記す所は、天地開闢より始めて、小治田(をはりだ)の御世に訖(をは)る。故、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)以下、日子波限建鵜草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあへずのみこと)以前を上巻となし、神倭伊波禮毘古天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと)以下、品蛇御世(ほむだのみよ)以前を中巻となし、大雀皇帝(おほさぎのみかど)以下、小治田大宮(をはりだのおほみや)以前を下巻となし、併せて三巻を録して、謹みて献上る。臣安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首。(大抵所記者 自天地開闢始 以訖于小治田御世 故天御中主神以下 日子波限建鵜草葺不合尊以前 爲上卷 神倭伊波禮毘古天皇以下 品陀御世以前 爲中卷 大雀皇帝以下 小治田大宮以前 爲下卷 并録三卷 謹以獻上 臣安萬侶 誠惶誠恐頓首頓首)
和銅五年正月二十八日 正五位上勲五等太朝臣安萬侶
上巻(かみつまき)
天地開闢から日本列島の形成と国土の整備が語られ、天孫が降臨し山幸彦までの神代の話を記す。いわゆる「日本神話」である。
天地開闢とともに様々な神が生まれたとあり、その最後にイザナギ、イザナミが生まれた。二神は高天原(天)から葦原中津国(地上世界)に降り、結婚して結ばれ、その子として、大八島国を産み、ついで山の神、海の神などアニミズム的な様々な神を産んだ。こうした
国産みの途中、イザナミは火の神を産んだため、火傷を負い死んでしまった。そのなきがらは出雲と伯耆の堺の比婆山(現;島根県安来市)に葬られた。イザナギはイザナミを恋しがり、黄泉の国(死者の世界)を訪れ連れ戻そうとするが、連れ戻せず、国産みは未完成のまま終わってしまう。
イザナギは、黄泉の国の穢れを落とすため、禊を行い、左目を洗った時に天照大御神(アマテラスオオミカミ)、右目を洗った時に月読命(
ツクヨミノミコト)、鼻を洗った時に須佐之男命(スサノオノミコト)を産む。その後、最初に生んだ淡路島の幽宮で過ごした。これら三神は、
三貴子と呼ばれ、神々の中で重要な位置をしめるのだが、月読命に関しては、その誕生後の記述が一切ない。スサノオノミコトは乱暴者なため、姉の天照大御神に反逆を疑われる。そこで、天照大御神とスサノオノミコトは心の潔白を調べる誓約を行う。その結果、スサノオノミコトは潔白を証明するが、調子に乗って狼藉を働いてしまう。我慢の限度を越えた天照大御神は、天岩屋戸に閉じこもるが、集まった諸神の知恵で引き出すことに成功する。
一方スサノオノミコトは神々の審判を受けて高天原を追放され、葦原中津国の出雲国に下る。ここまでは乱暴なだけだったスサノオノミコトの様相は変化し、英雄的なものとなって有名なヤマタノオロチ退治を行なう。次に、スサノオノミコトの子孫である大国主神が登場する。大国主の稲羽の素兎(
因幡の白兎)や求婚と受難の話が続き(
大国主の神話)、スクナヒコナと供に国作りを進めたことが記される。国土が整うと国譲りの神話に移る。天照大御神は、葦原中津国の統治権を天孫に委譲することを要求し、大国主と子供の事代主神はそれを受諾する。しかし、子の建御名方神は、始めは承諾せず抵抗するが、後に受諾する。葦原中津国の統治権を得ると高天原の神々は天孫ニニギを日向の高千穂に降臨させる。次にニニギの子供の山幸彦と海幸彦の説話となり、浦島太郎の説話のルーツとも言われる、海神の宮殿の訪問や異族の服属の由来などが語られる。山幸彦は海神の娘と結婚し、彼の孫の
神武天皇が誕生することをもって、上巻は終わる。
中巻(なかつまき)
初代神武天皇から15代応神天皇までを記す。神武東征に始まり、ヤマトタケルや神功皇后の話など神話的な説話が多く、神の世と人の世の間の時代であることを示している。2代から9代までは欠史八代と呼ばれ、系譜などの記述にとどまり、説話などは記載されていない。そのため、この八代は後世に追加された架空の存在であると説かれているが、実在説も存在する。なお、「神武天皇」といった各天皇の漢風諡号は、『古事記』編纂の時点では定められていないため、国風諡号のみで記されている。なお史実性が確認されているのは応神天皇以降である。神功皇后と卑弥呼を同一視ないし関連づける説もあるが、一般に受け入れられるには到っていない。
下巻(しもつまき)
仁賢天皇から推古天皇までは欠史十代ともいわれ、欠史八代と同じく系譜などの記述にとどまり具体的な著述が少ない。これは、書かれた当時においては、時代が近く自明のことなので書かれなかったなどと言われている。
歌謡
『古事記』は物語中心の記述法であるが、そのなかに多くの歌謡が挿入されている。これらの歌謡のなかには、もと民謡や俗謡であったものが、物語に合わせる形で適宜はめこまれたというものが相当数含まれている可能性が高い。
写本
現存する『古事記』の写本で最古のものは、1371年から翌1372年にかけて真福寺[6]の僧・賢瑜によって書写された真福寺本古事記三帖(国宝)である。奥書によれば、祖本は上・下巻が大中臣定世本、中巻が藤原通雅本である。道果本(上巻の前半のみ。1381年写)、道祥本(上巻のみ。1424年写)、春瑜本(上巻のみ。1426年写)の道果本系3本は真福寺本に近く、ともに伊勢本系統をなす。その他の写本はすべて卜部本系統に属し、祖本は卜部兼永自筆本(上中下3巻。室町後期写)である。
最終更新:2008年07月09日 06:14