平成20年5月24日 但馬
これまで旅行が雨の日にぶつかったことはなかったのですが、今回は予報によると間違いなく降られそうです。
伊丹空港を出ると、今にも降り出しそうなどんよりとした空模様。
今回は京都・兵庫の北部を一回りする旅程ですが、右回りにするか左回りにするか、決断の時は迫っています。
なぜなら、雨が降っても耐えられる観光地とそうではない場所があり、降水の時間を考えて移動すれば、充分に旅を満喫できると考えたからです。
分岐点となる篠山口に着いた頃には、既に本格的な雨となっていました。
翌日に雨があがることを祈り、ついに右回りの行程に決断しました。
その決断が正しいか誤りかは、翌日になって明らかになるのです。
まず訪れたのが、但馬国一之宮の粟鹿神社。
御祭神の日子坐王命は開化天皇の第3皇子で、崇神天皇の御代に山陰地方を平定した四道将軍の一人丹波道主王命の父。
戦国大名の朝倉氏は本姓日下部氏で、彦坐王の子孫を名乗っています。
また、大国主命の子と伝えられる阿米祢佐利命も祀られており、本殿背後の丘陵はその御墳墓と見られます。
御朱印をいただき、周辺の名所をお訊ねしたところ、有名な山城竹田城への近道を教えていただきました。
早速向かったのですが、途中で道がわからなくなってしまい、雨はますます強くなって来たため、今回は諦めることにしました。
次の目的地、出石にて腹ごしらえ。
出石といえば蕎麦。
たくさんの蕎麦屋の中から一軒を選ぼうと地図を広げると、桂小五郎潜居跡に隣接する店を発見。
元治元年の蛤御門の変に敗れた長州藩は朝敵となりましたが、京都に住む出石の兄弟の助けによって京を脱出し、ここに9ヶ月間潜んでいたとのこと。
新撰組が探索のために訪れもしたそうです。
歩いてすぐの所に、出石のシンボル辰鼓楼がそびえています。
辰の刻の城主登城を知らせる太鼓を叩く櫓であったものを、旧藩医の池口忠恕が明治14に時計台として設置したもので、日本最古の時計台です。
出石城跡に登る途中に、諸杉神社がありました。
御祭神は多遲摩母呂須玖神、天日槍命の御子です。
天日槍命は新羅出身の王子で、次の目的地出石神社の御祭神です。
もともとは有子山に鎮座していたのを、天正2年に但馬国守護山名氏が居城を移すにあたり、城の守護神として現在の地に遷座したとされています。
参拝を終えて石段を更に登ると、出石の町が一望できる本丸跡までたどり着きました。
織田軍の但馬遠征によって此隅山城を失った山名氏が、復帰して有子山に城を築きましたが、毛利方についたため秀吉公による第二次但馬征伐で滅亡し、関ヶ原の戦いの後に小出氏によって出石城が建てられました。
しかし元禄9年、後継ぎのない小出氏に代わり藤井松平、仙石と城主は変わります。
出石で蕎麦が名物になったのは、信州上田藩から転封となった仙石政明公が大の蕎麦好きで、信州一の蕎麦打ち名人を伴って移り住んだことに発するのだそうです。
次に、こちらも但馬国一之宮を名乗る出石神社へ。
御祭神は天日槍命。
『
古事記』や『日本書記』による八種の神宝を持って渡来し、但馬国に定住した新羅の王子なのだそうです。
『古事記』によると、八種の神宝とは玉二貫・振浪比礼・切波比礼・振風比礼・切風比礼・奥津鏡・辺津鏡。
これら神宝は、出石八前大神として祀られています。
泥海であった但馬の濁流を日本海に流して肥沃な但馬平野を整地した治水・灌漑の神は、大陸の土木技術を日本に伝えたのでしょうか。
雨はまだやむ気配がありません。
車でそのまま北上し、豊岡の玄武洞に到着しました。
道路をはさんで向かい側に建てられている玄武洞ミュージアムでは、天然石のおみやげがたくさん売られていました。
大理石でできたとっくりの重さにはびっくり。
ちょっとしたおみやげを購入。
玄武洞への坂道を歩いていると、アンモナイト発見…
と思いきや、なんと巨大なカタツムリでした。
雨に誘われて出てきたのですね。
玄武洞は5つある洞窟の一つで、実際は北から、北朱雀・南朱雀・白虎・玄武・青龍と並んでいます。
六角形の玄武岩が積み重なる柱状節理で、玄武岩の日本名を制定する際、ここ玄武洞の名に因んで命名されました。
国の天然記念物、日本の地質百選にも認定されています。
日が暮れてきたので車で東へ。
丹後半島付根にある峰山に宿泊しました。
平成20年5月25日① 丹後半島
雨は霧雨に変わっていました。
当初の予定では、天橋立に直行するつもりでしたが、もう少し時間が経てば雨があがるかも知れないので、丹後半島を海沿いに走ることにしました。
車を走らせていると、道路沿いで草むしりや清掃をしている地元の方たちの姿が見えました。
ちょうど場所は丹後松島。
日本三景の一つ、宮城県の松島を彷彿させる海の景色が見渡せます。
車を降りて展望台から眺めていると、清掃していた小母さんが話しかけて来てくれました。
田植えを終え、今日は集落挙げてのお祭りなのだそうです。
午前中は奉仕活動を行い、午後は子供から年寄りまで総出で田植えの終わりを祝うのだそうです。
変わらぬ風景に変わらぬ人情が今も生きていることを実感しました。
しばらく進み、浦嶋神社に到着。
水之江の里浦嶋公園として整備されており、海産物を食べられるレストランもありました。
朝食がまだだったことを思い出しましたが、どうやら営業時間ではないようです。
いわゆる浦島太郎はおとぎ話として、日本人には知らない人がいないくらい広く知られていますが、原典は丹後国風土記や万葉集など古代に遡り、その内容も現在知られる説話とは多少異なります。
浦嶋子伝記によると、雄略天皇22年7月7日、水之江に住む浦嶋子が海上で釣りを楽しんでいました。
3日間全く釣れないため諦めて竿を上げようとしたところ、一匹の五色の大亀を釣り上げました。
船に揚げて眺めているうちに居眠りをしてしまい、目を覚ますと、亀は美しい乙女に姿を変え、嶋子を常世の国の宮殿に連れて行きました。
二人はそこで夫婦となり、毎日楽しく暮らしていたのですが、3年経ったある日、嶋子は故郷へ帰って父母に知らせたいと思い立ちました。
亀姫は嶋子に自分の分御霊が入った玉櫛笥(玉手箱)を預け、再び会いたければ決してそれを開けてはいけないことを告げ、水之江に送りました。
そこで嶋子は、人跡が絶え変わり果てた故郷を目の当たりにするのでした。
川で洗濯をしている老婆から、三百年前に嶋子という人が海に釣りに出てから帰らないという言い伝えを聞きました。
故郷の人々に会うこともできず、また亀姫に会いたい気持ちが募り、ついに約束を忘れて玉櫛笥を開けたところ、紫の煙が立ち上って常世の国の方へたなびきました。
嶋子は煙を追っているうちに、白髪の老人となり、ついに亡くなったのでした。
淳和天皇の天長2年(浦嶋子が帰って来た年)に、浦嶋子を筒川大明神として祀った宇良神社が、現在の浦嶋神社です。
浦嶋子は日下部首(おびと)の祖先とされ、粟鹿神社の日子坐王命との関係が考えられます。
また、近くには嶋子の両親を祀る大太郎嶋神社、嶋子の兄弟の家敷跡などがあるようです。
それからしばらく進むと、ついに丹後国一之宮、元伊勢籠神社に到着です。
幸いなことに、雨はあがりました。やはり右回りの選択は間違いではありませんでした。
天橋立の北にあるこの神社は、非常に神秘的な由緒のある神社です。
伊勢神宮は20年に一度の遷宮を繰り返していることは有名ですが、現在の伊勢の地に鎮まるまでは、各地を転々と移動していました。
皇居で祀られていた天照皇大神がを2番目に移動されたのが、籠神社なのです。
御祭神は彦火明命。
饒速日尊とも呼ばれ、天孫瓊瓊杵尊の兄として、また尾張氏や海部氏の祖先として崇敬されています。
神代は豊受大神を祀っていましたが、天照皇大神が大和の笠縫邑からお遷りになり、吉佐宮として一緒にお祀りしました。
天照皇大神は垂仁天皇の御代に、豊受大神も雄略天皇の御代に伊勢にお遷りになったため、天孫彦火明命を主祭神としてお祀りすることになりました。
社殿は伊勢神宮とほぼ同じ様式の唯一神明造り。
高欄上には神宮御正殿と同じ青・黄・赤・白・黒の五色の座玉が置かれています。
また狛犬は鎌倉時代の作で重要文化財。
余りの出来栄えに動き出し、天橋立に出現したのを、岩見重太郎が刀で狛犬の足を切断し、それ以来静まったとのことです。
向って右側の狛犬の足は、たしかに切られているように見えます。
平成20年5月25日② 天橋立
代々籠神社に仕えるのは彦火明命の子孫、海部氏。
現在82代目とのことですが、初代からの系図が伝わっており、国宝にも指定されています。
4代目の祖である倭宿禰命(天忍人命)は、
神武天皇の御東征の際に明石海峡に亀に乗って現れ、大和国に導き仕りました。
国宝の海部氏系図以上に重要なものとして伝えられているのが、息津鏡と邊津鏡です。
2千年以上も昔に作られた日本最古の鏡で、初公開されたのは昭和の後期でした。
出土したものではなく、天祖から授けられた神宝として代々大切に受け継がれて来たもので、海部氏の権力の象徴であったようです。
観光名所となってしまった籠神社は、ひっきりなしに人が往来していますが、ほとんどの人は笠松公園行のケーブルカー乗り場へそのまま流れます。
しかし、敢えて逆方向へ歩いて行きました。
その理由は、奥宮真名井神社に参拝するためです。
はじめ豊受大神が祀られ、後に天照大神が遷座されたの吉佐宮とは、この真名井神社のことなのです。
参道では、狛犬ではなく一対の龍が迎えてくれました。
社殿は小さいのですが、すぐ裏手に磐座が昔の姿のまま残されています。
境内には、伊射奈岐大神と伊射奈美大神が天照皇大神を御産みになったとされる磐座もあります。
籠神社を出て、近くの売店で自転車を借り、天橋立を縦断することにしました。
途中、天橋立神社に参拝。
神話によると、天橋立は伊射奈岐大神が天から地上へ通われるハシゴ(天浮橋)が倒れ伏してできたものとされています。
後には元伊勢への参道として、幕末のころにはお蔭参りの人々で埋め尽くされたそうです。
剣豪岩見重太郎が、父の敵である三人を斬って本懐を遂げた場所も、この天橋立です。
岩見重太郎は、籠神社の狛犬の足を斬った剣豪です。
自転車は、反対側の店で返却できるものにしました。
せっかくなので、帰りは観光船に乗り、海の上から天橋立を眺めました。
すっかり晴れたので、リフトに乗って笠松公園へ。
日本三景のひとつ天橋立、さすがに絶景です。
この眺めを、国生みの神話とともに、未来永劫日本の宝として残して行かなければならないと感じました。
平成20年5月25日③ 大江・元伊勢三社
今回の旅の最後に、もう一つの元伊勢伝説の地も訪れることにしていました。
地図に小さく場所が記されているだけで、観光ガイド本などには出ていない、日本の秘境とも言うべき大江町の元伊勢三社です。
天照皇大神は雄略天皇の時代、宮中から笠縫へ、その次に丹後の吉佐に遷座されました。
先ほど参拝した籠神社こそが、その吉佐宮であると見られていますが、大江町にも外宮にあたる豊受大神社と、内宮にあたる皇大神社が鎮座しています。
まずは豊受大神社へ。
観光客の姿は一人も見えません。
階段を上り、木の皮を残したままの木材で建てれた黒木鳥居をくぐりました。
調べたところ、この小高い山(舟岡山)そのものが前方後円墳に似た形をしているようです。
お宮はその後円部に位置します。
御由緒の書かれたパンフレットなどがあればよいと思ったのですが、残念ながら置いていないとのことでした。
次に皇大神社へ。
社号標から続く参道は、しばらく階段が続いています。
参道には癌封じの瘤木や麻呂子親王御手植の杉などがあります。
麻呂子親王は聖徳太子の弟で、大江山に住む英胡・軽足・土熊という鬼を退治した伝説があり、戦勝祈願のために内宮外宮を勧請したとも伝えられています。
大江山鬼退治伝説は他にもあって、日子坐王命が陸耳御笠という土蜘蛛を退治した伝説もあります。
あとは有名な、源頼光による酒呑童子退治の伝説です。
外宮と同じ黒木鳥居が見えて来ました。
本殿を囲むように小さな無数の祠があり、ひとつひとつにお参りしている人の姿がありました。
これらの祠には、全国の一之宮の神々が祀られているのだそうです。
内宮での参拝を終え、裏参道を歩いて行くと、目の前になんとも美しい形をした山が見えて来ました。
日室嶽遥拝所からその神々しい姿を望み、手を合せました。
その形状や、古代から現代まで続く信仰の対象であることを考えると、日本のピラミッドと呼べるのではないかと思います。
禁足地であるため、山に入ることはできませんが、調べたところ、垂仁天皇の皇女で天照皇大神の御霊とともに各地を移動した倭姫命の祭祀跡が残されているそうです。
それまで宮中で祀られていた天照皇大神が、なにゆえ遷座を繰り返すことになったのか、それもこのような山奥まで。
歴史好きな自分にとっては大きな疑問でしたが、倭姫命が見て歩いたとされるこの地に実際に来て、謎は解けなくても心に感じるものがあったのは大きな喜びです。
夏至の日には、山頂に日が沈む様子を見ることができるそうです。
更に裏参道の坂道を降りて行くと、天岩戸神社の看板が見てました。
宮川のせせらぎを足元まで感じる所まで降りて行かなければなりません。
つい先ほどまでの雨で狭い石段は湿っており、非常に滑りやすくなっていました。
雨が降っていたら、降りることは不可能だったでしょう。
宮川は日室嶽のすぐ麓を流れており、苔むした巨岩が点在する場所の、急な斜面の上に、小さな社殿が乗っているのです。
素朴な疑問ですが、どうやってそこに建てたのだろうと不思議に思いました。
ここまで来た感動を充分に味わい、心をこめて参拝して、この場をあとにしました。
帰り道、猿田彦神社の看板を見つけ、通り過ぎることもできずに立ち寄ることにしました。
伊勢神宮でも内宮と外宮の中間に猿田彦神社が鎮座していますが、こちらもちょうど中間あたりでしょうか。
場所が分からず、ゲートボールをしていた方に訊いてようやくたどり着きましたが、あまりにうっそうとしていて、鳥居より先に進むことはできませんでした。
天孫降臨の導き役の猿田彦・神武天皇御東征の導き役の倭宿禰命、今回の旅の行く先ごとに姿を見せる日子坐王命。
古代へ通じる道の先でより多くの謎を背負い、再び日常生活に戻ることになりそうです。
最終更新:2008年12月14日 16:00