平成21年3月14日~16日 和歌山・河内へ

平成21年3月14日① 海南市・和歌浦


木の国、和歌山へ初めて行ってきました。

いつものように仙台空港から伊丹空港まで飛行機に乗ります。

この日の天気は不安定で、伊丹に着いた時も大雨が降っていました。

しかし今回も心強い味方が旅に協力してくれたので、車で楽に移動できることになっていました。

空港を出発し、高速道路を南へ進みます。

途中、岸和田のサービスエリアで昼食をとり、予定していたより1時間も早く、最初の目的地である紀州漆器伝統産業会館に到着しました。

ここでは蒔絵の絵付け体験ができます。

雨が降っているので、屋内での体験作業は逆に幸運でした。

最初に予約していた時間より早く着きそうだったので、断られるのを覚悟で変更の申し出の電話をしたところ、了解してくれました。

入口には、漆の木が植えられていました。

体験は、蒔絵の実際の材料に似せたものを使うので、正しくは疑似体験と言うべきところでしょう。

工程もかなり簡単に要約されているとのことです。

しかし、素人にはそれでも非常に新鮮な体験でした。

選ぶ器の大きさや模様にもよりますが、あまり凝らなければ30分程度で作業は終了です。

こちらが完成品。

グラデーションを付けたのが見えるでしょうか?

館内には紀州塗のおみやげが豊富に取り揃えてある他、伝統的な蒔絵の作品も見ることができます。

駐車場には漆塗りの守護神を祀るお宮や石碑などが並んでいます。

絵付け体験を終えて次へ向かったとたんに、雨はあがってみるみる空は晴れて来ました。

次に向かったのは紀州東照宮。

初代紀州藩主徳川頼宣公が、父である家康公を祀るために元和7年に創建しました。

頼宣公は死後、南龍大神として合祀されました。

和歌の浦を見渡せる雑賀山の上に鎮座する社殿まで、108段の石段を登って行くことになります。

拝観料を支払い、社殿の近くまで見学させていただきました。

日光の東照宮と同じ、極彩色の彫刻を施した権現造りで、「紀州の日光」とも呼ばれています。

写真撮影は禁止と言われ、がっかりもしましたが、かえって眼に焼き付けるようにじっくりと見学できたことはよかったのだと思います。

金箔や漆塗りなどで芸術の粋を極めた外観に、菊の御紋がさらなる格式を具えさせています。

これは当時、皇室が太平の世を実現した徳川家を篤く信任されていたことの証なのです。

平成21年3月14日② 和歌山城


次に和歌山城へ向かいました。

城内には和歌山県護国神社が鎮座しているので、まずはそちらに参拝。

戊辰の役以降に国難に殉じられた和歌山県出身の御英霊、3万6千余柱が合祀されています。

昭和12年に創建された御社殿は戦火を免れることができましたが、昭和62年に不審火によって焼失してしました。

近頃も、精神的・歴史的な建造物に対する放火のニュースが時々聞かれますが、戦後教育によって英霊に顔向けできない日本人が多く生まれてしまったことを真摯に反省し、歴史や祖先を尊ぶという当たり前の心を育てて行かなければならないと思います。

道案内の標識が見つからないため、どちらに進んでよいものか分かりません。

天守閣も神社からは見えず、とりあえず広い道をたどることにしました。

そして通りかかったのが、西ノ丸庭園。

藩主の隠居所としてつくられ、滝や鳶魚閣などがありましたが、戦災によって焼失してしまいました。

残された図面などを参考に復元され、最も新しく復元されたのが御橋廊下です。

藩主と側近だけが二の丸と西の丸を行き来するためにつくられた橋で、外から見えないように壁と屋根が備えられています。

全体に傾斜しており、全国的にも珍しいつくりなのだそうです。

西ノ丸庭園から天守閣が見えたので、そちらに向かって歩くことにします。

予想はしていましたが、かなり高い位置にあるため、どこまでも階段を上らなければなりません。

大勢の中国人観光客とすれ違ったりしながら、ようやく天守閣のある場所までたどり着くことができました。

和歌山城は紀州徳川家の居城ですが、もともとは豊臣秀吉公の命によって藤堂高虎らが建てた城で、桑山家・浅野家の次に入城したのが、家康公十男の頼宣公です。

明治維新後は天守閣などが国宝に指定されましたが、先の大戦により焼失。現在の城郭は鉄筋コンクリートによる復元です。

復元ではありますが、日本名城100選に選ばれた城郭の姿はとても美しいものでした。

天守閣では徳川家ゆかりの品々を展示公開しており、最上階からは紀ノ川の流れと和歌山の市街を見渡すことができます。

城の南側には和歌山県立近代美塾館があり、その入口近くに徳川吉宗公の騎乗像が置かれています。

8代将軍吉宗公は紀州徳川家の5代目藩主でもあり、享保の改革によって破綻寸前だった幕政を立て直したことで有名です。

なお、紀州出身の将軍はもう一人、14代将軍家茂公がおります。

結果的に最後の将軍慶喜公が就任するまでのクッション役として将軍職を全うしますが、幕末の混乱期に家臣たちからの信頼を集めつつ未曾有の混乱を乗り越えた功績は、称賛に値するものであると思います。

平成21年3月14~15日 五瀬命関連史跡


両日にかけて神武天皇の皇兄にあたられる五瀬命にまつわる史跡を訪れました。

和歌山城登城を終え、14日の最後の目的地は水門吹上神社。みなとふきあげ神社と読み、湊本ゑびすと親しまれています。

御祭神は御子蛭児神と大己貴神。

もともとは独立した2社でしたが、戦後同床共殿でお祀りを始めたとのことです。

もともとは水門神社が戎様、吹上神社が大国様を御祭神としていました。

現在の鎮座地は、神武天皇御東行の折、和泉で長脛彦の流れ矢に当たった皇兄である彦五瀬命が崩御された場所にあたり、古事記には「男水門(おのみなと)」と記録されています。

境内には彦五瀬命の顕彰碑が建てられていました。

神職の方によると、もともとは上陸された場所にも碑が建っていたらしいのですが、開発によっていつの間にか失われていたとのことです。

地形の変化は自然現象でもあるので、仕方の会ことと言うこともできますが、日本建国神話の記憶を後世に伝えるためにも、再建運動が起こることに期待したいと思います。

翌日、日前・國懸神宮の参拝の後、竈山神社に参拝しました。

こちらは彦五瀬命を御祭神としてお祀りしています。

寛政6年、本居宣長が参拝した時に詠んだ和歌は


をたけびのかみよのみこゑおもほへて
あらしはげしきかまやまのまつ


それより前、天正13年には豊臣秀吉公が根来寺を伐つに際し、社地社領を没収、社殿を含め宝物や古文書などを全て焼き払うという暴挙に及びました。

全国の神社を巡り歩いていると、関西地方には秀吉公によって失われた文化的財産が非常に多いことに驚かされます。

先の大戦での空襲による焼失と秀吉公による破壊と、どちらの被害の方が大きいのか、調べてみるだけの価値はあるのかも知れません。

その後寛文9年、和歌山城主徳川頼宣公が神社を再建し、歴代の尊崇を捧げました。

織田信長公の意思を受け継いで天下統一を果たした豊臣家は一瞬にして瓦解したのに対し、徳川家による太平の世が永く続いたことは、両者の精神の差によるものが大きいと言えるのではないでしょうか。

そのことは、日本国中の文化財を空襲によって焼き払ったアメリカが、今後も繁栄を保って行けるはずがないことも暗示していると思います。

竈山神社の裏手には、彦五瀬命の陵墓があります。

神武天皇は4人兄弟の末弟で、このうち御毛沼命は常世国へ、稲泳命は母の国である海原へ行かれました。

残った彦五瀬命と若御毛沼命(後の神武天皇)は、大八洲を統治するに相応しい土地に移るため、九州高千穂から西に向けて出発されるのでした。

しかし「男水門」から上陸して進む途中、長脛彦によって彦五瀬命は命を失います。

戦死されてすぐこの地に葬られ、神社が建てられたのだということです。

その後、若御毛沼命は海を東へ迂回して熊野で上陸し、彦五瀬命の加護を受けながら無事に大和を平定、初代天皇として即位されるのでした。

平成21年3月15日① 紀伊国一之宮


紀伊国には一之宮とされる神社が3社あります。

それら全てを午前中に参拝したいので、和歌山市内から高野山に向かう道のりで巡礼することにしました。

まずは、和歌山城からほど近い場所に鎮座する日前神宮・國懸神宮へ。ひのくま神宮、くにかかす神宮と読みます。

きっと神武天皇の御東行の頃から変わっていない、うっそうと茂る森の中に、2社が左右に並び配されています。向って左が日前神宮、右が國懸神宮です。

こちらの宮司さんは紀国造家の末裔で、日本において神話から系図が残っている家系は、皇室と出雲国造家とこちらの3家だけなのだそうです。

もっとも、「だけ」というのはおかしいかも知れません。世界中を見ても、日本以外にこれほど歴史を重んじる国は存在しないのですから。

ちなみにこの神社も豊臣秀吉公に攻め込まれ、破壊行為を受けています。

向って左が日前神宮。

こちらの御神体は日像鏡(ひがたのかがみ)。主祭神、日前大神の他に、思兼命と石凝姥命をお祭りしています。

日前大神は天照大御神の前霊で、日本書紀にも名前が見られます。

他の2神は天照大御神の天岩戸隠れ神話の中心となった神々で、思兼命は岩戸から連れ出すための策を考えた知恵の神、石凝姥命は天照大御神を驚かすための鏡を作った神です。

向って右が國懸神宮。

御神体は日矛鏡(ひぼこのかがみ)。主祭神、國懸大神の他に、玉祖命、明立天御影命、鈿女命をお祭りしており、やはり天岩戸神社に関わる神々となっています。

天孫降臨の際に八咫鏡とともに奉戴された御神体の2枚の鏡は、紀伊国造家の祖である天道根命に授けられ、その子孫によって現在まで祭祀が続けられているのです。

次に竈山神社を訪れましたが、そのことについてはもう書きました。

その次に伊太祁曽神社を参拝。こちらも紀伊国一之宮。

もとの鎮座地は現在の日前・國懸神宮の社地であったのですが、垂仁天皇の御代に現在地に遷座したと伝えられています。

御祭神は五十猛命(別名大屋毘古神)と、大屋津比売命・都麻津比売命の妹神2柱。

五十猛命は素戔嗚尊の御子神で、父神とともに天降られた際に様々の樹木の種をお持ちになりました。

紀伊国がもともと「木の国」と呼ばれていたのも、樹木の神である五十猛命がお鎮まりの国であるためです。

また、素戔嗚尊の子孫である大国主神の神話に、八上比売をめぐって八十神に命を狙われた逸話があります。

母の助けによってこの地に逃れた大国主神は、大屋毘古神の助言で木の俣をくぐり抜け、難を逃れることができました。

この神話にもとづき、参拝者たちの間で、厄難を逃れるために御神木の木の俣をくぐることが行われて来たそうです。

平成21年3月15日② 紀伊国一之宮


伊太祁曽神社参拝を終え、高野山に向けて車を走らせます。

かなり遠い道のりとなり、協力してくれた友人にはただ感謝あるのみとなりました。

ここまで来たら、高野山に登るのが普通なのですが、今回は河内に入るという目的があるため、高野山入口にあたる丹生都比売神社に参拝するだけにしました。

紀伊国にある3社の一之宮のうちの、最後の1社です。

駐車場からは、池にかかる太鼓橋の眺めを楽しむことができます。

丹生とは朱色の顔料や水銀のもととなる朱砂が採れる場所の意味で、社殿や鳥居なども朱色で統一されています。

空海が開いた高野山金剛峯寺は、もともと丹生都比売大神から神領を借りて、守護神として祀ったのが始まりでした。

そのことから金剛峯寺とのご縁は深く、神仏が共存する聖なる場所でありました。

高野山を参拝する人は、必ずまず先にこの丹生都比売神社を参拝するという習慣があったのだそうです。

平成16年に「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として、世界遺産に登録されました。

山奥の神社なので、参拝客でにぎわうような雰囲気ではありませんが、ぽつりぽつりと現れる参拝者の姿が途切れることはないようです。

御本殿は4殿が横に並ぶ、日本一の一間社春日造で、第1殿に丹生都比売大神、第2殿に高野御子大神、第3殿に大食都比売大神、第4殿に市杵島比売大神が鎮座しています。

丹生都比売大神は天照大御神の妹神で、稚日女命とも呼ばれています。

また高野御子大神は丹生都比売大神の御子で、弘法大師を高野山へ導いた神と伝えられています。

鎌倉時代に大食都比売大神と市杵島比売大神が勧請され、現在の祭祀の形となりました。

第2殿の神以外はすべて女神で、そのこともあってか歴史上活躍した女性から崇敬されています。

神功皇后は三韓征伐の際、丹生都比売大神の託宣によって武具類をすべて朱塗りにし、戦に勝つことができました。

また鎌倉時代に社殿を寄進して現在の形にしたのは北条政子です。

平成21年3月15日③ 観心寺


和歌山県から大阪府に入りました。

ここ河内は楠木正成公のふるさとであり、建武中興のために鎌倉幕府の軍勢を引き付けた場所でもあります。

まずは歓心寺へ。

入ってすぐの所に、後村上天皇御旧跡の碑が見えました。

第97代後村上天皇は後醍醐天皇の皇子で、御名は義良親王。

後醍醐天皇が建武中興に際して、(崇仁天皇に倣って)日本の四方に遣わされた「四道将軍」のうち、北畠父子の補佐のもとで奥州の経営に赴かれたのが義良親王です。

東北鎮撫のための行在所は宮城県の多賀城に残されており、この旅行の直前にも訪れ、後村上天皇が祀られる多賀城神社に参拝して来ました。

建武中興は足利氏をはじめとする利に敏い武将たちの謀叛によって失敗しますが、義良親王は後醍醐天皇が崩御する直前に譲位され、理想を貫くために戦い続けるのでした。

この場所は、後村上天皇が約10ヵ月間、住まわれた場所です。

後醍醐天皇の御信任が最も厚かった楠木正成公も、この寺にゆかりがあります。

中院への門の脇に、楠公学問所の碑が立っておりました。

中院は楠木家の菩提寺で、正成公が8歳から15歳までの間に学んだ場所であり、また嫡子正行公がまだ幼い時、足利から送れらた父の首級を見て切腹しようとした場所でもあります。

国宝に指定されている金堂は、後醍醐天皇が正成公を奉行として造営の勅を発せられ、建てられたものです。

金堂から東の方に、更に山を登る階段が備えられていました。

ここを登ると、後村上天皇陵にたどり着きます。

賊軍と京の争奪戦を繰り返し、一時的な奪回は何度かできたものの賊軍の平定には至らず、理想の政治を実現できないまま、正平23年に住吉行宮で崩御しました。

後村上天皇陵へ向かう階段の昇り口には、大楠公の首塚もあります。

時期的には、こちらが建てられたのが先になります。

湊川で討死した大楠公の御首級は、足利側から楠公の婦人のもとへ送られました。

ただ送られたのではなく、嫡子正行公が宮方から幕府側に寝返ることを、報償をちらつかせながら迫る目的からでした。

しかし、利よりも義を重んじた大楠公のその嫡子のことだけはあり、父の首級のみを受け取って、使者を丁重に送り返しました。

「七生滅賊」の精神は、確実にこの後継ぎによって受け継がれたのでした。

平成21年3月15日④ 水分


楠公生誕の地は水分という珍しい地名です。

現在の大阪府千早赤阪村にあるこの場所は、山の中にある小さな集落といった感じの場所ですが、大楠公は村人たちからも慕われる慈悲深い領主だったのではないかと想像できます。

その出自や生年は詳しくは伝わっておらず、日本の歴史において危機的な時代に、まさに流星のように現れて散った一人の英雄でした。

生誕地の石碑は、大久保利通が建てたものです。

小さな男の子を連れた父親が、楠公さんを顕彰する石碑を子供に見せて、偉大な人物なんだよと説明している姿を見かけました。

楠公さんが命がけで追い求めた理想に対し、はたして今の世が少しでも近づいているのかを考えると、申し訳ない気持ちでいっぱいになります。

しかし逆に考えると、理想は実現してしまえば理想ではなくなるということもできます。

理想を実現できないことが問題ではなく、理想を求めたり追ったりすることができない社会にしてしまったことが、いまの一番の問題なのかも知れません。

楠公さんが崇敬していた建水分神社がすぐ近くにあるので、参拝しました。

たけみくまり神社と読み、富田林市に鎮座する下水分宮と一対の神社なのだそうです。

御祭神は天御中主神をはじめとする5柱の神で、水に関係する神々です。

第10代崇神天皇5年に創建され、後醍醐天皇の御代に大楠公によって再営されました。

神社は金剛山の総鎮守で、楠木氏の氏神でもあります。

大楠公は勅を奉じて鎌倉幕府打倒の旗揚げをする際、戦勝祈願を行ったと伝えられています。

その際に詠んだ歌は


久方の天津朝廷(あまつみかど)の安かれと
祈るは國の水分(みくまり)の神


大楠公が、後醍醐天皇に背いた足利軍に敗れて湊川に戦死すると、後醍醐天皇は楠公の死を悼み、生前の姿を偲ばせる像を刻ませて、ゆかりの深いここ建水分神社に祀られました。

そして後村上天皇によって「南木明神」の神号を賜ることになったのでした。

南木神社は、建水分神社より少し低い場所に鎮座しています。

また社務所では、大楠公が籠城した際に、敵を欺くために考案した藁人形を模した土鈴が売られていました。

平成21年3月15日⑤ 下赤坂城


後醍醐天皇の挙兵を知ると、大楠はそれに呼応して下赤坂城に兵を挙げます。

下赤坂城跡は現在、中学校の敷地を通って行かなければならない場所にあります。

武運尽きた後醍醐天皇が幕府によって隠岐に遷されると、大楠公は死を装って姿を隠します。

これは、危険分子が生きていることが後醍醐天皇の玉体を危うくすると考えた彼の計略でした。

激戦の地、下赤坂城の周辺は、今は美しい棚田が広がる景勝の地となっています。

こののどかな風景は、いつの時代にできたものか、大楠公も見ることができたものなのかと、ふと考えてみました。

棚田百選にも選ばれるこの場所は、河内に入って最も多くの人を見た場所でした。

大楠公の偉大な事績を知ることもなく、美しい風景に見とれて日常生活を忘れることも、人間が持つ一つ真実の姿のなのかも知れません。

楠公が見た幸福と現代人が見る幸福の間は、遠く隔たっているようで、実は意外に近いような気がするのでした。

平成21年3月15日⑥ 金剛山


次に金剛山へ向かいます。

金剛山の名前も、太平記には何度も登場します。

現在は登山家や自然愛好家たちが訪れる観光地となっており、日本国内で唯一の村営のロープウェイが山頂近くまで通じています。

せっかく来たので、ロープウェイに乗ることにしました。

ロープウェイ乗り場に最も近い駐車場から、更に坂道を徒歩で登らなければなりません。

ロープウェイで行く先には、きっとすばらしい眺めと見物できる施設などがあるのだろうと期待していました。

しかし、すばらしい眺めはあったものの、それ以外の施設はほとんど見当たりません。

おまけに前日の荒天で積もったと思われる雪が溶け出しており、通常の靴では散策すらできないような状況でした。

もう少し下調べをしっかりしてから来ればよかったと反省し、せめて山なみでも写真に残そうとカメラを覗くと、レンズに黒い点。

ハンカチで拭いて、さて撮影しようとしても、なぜか黒い点は消えていません。

不思議に思って友人に尋ねると、カメラの内部にホコリが入ったのではないかとのこと。

ここに来て、不運が連続して起きてしまったのでした。

平成21年3月15日⑦ 千早城


金剛山の散策は思ったより早く終わった、というよりほとんど何もできなかったので、時間に余裕が生まれました。

そこでせっかくなので、金剛山中腹に大楠公が築いた千早城跡へ登ることにしました。

千早城は、たかだか千人の兵で幕府軍を100日にわたって引きつけたことで、新田義貞による鎌倉攻めを可能にしたのでした。

城へ続く階段の脇に、復元された藁人形がぽつんと立って、出迎えてくれました。

しばらく上ると鳥居が見えました。

間もなく本陣のあった場所にたどり着くのだろうと思ったのですが、それは甘い見当違いでした。

なにせ数十万の幕府軍が押し寄せても落ちることのなかった城です。

ちょっと登ったくらいで本陣にたどり着くわけがありません。

途中で一人、上から下りて来た人とすれ違いましたが、この人は目的地まで行けたのでしょうか。

また、もう少し登ると、女の子の声が聞こえてきました。

まだ幻聴がするほど疲れてもいないはずなのに…。

汗だくになり、肺に入る空気もとても重く感じながら、ひたすら足だけは前に進め続けたのでした。

ようやく少し広い所に出ました。

女の子が父親らしい人と遊んでいます。

やっぱり幻聴じゃなかった。よかった…。

いままで多くの山城跡に登りましたが、最も険峻な山城であると自信をもって言うことができます。

千早城は日本100名城にも挙げられています。

ここで引き返さずもう少し歩くと、千早神社の社号標が見えました。

このまま進めば、先ほどロープウェイで登った金剛山に行きつくことができるはずです。

またその途中には、大楠公の三男、正儀公の墓所があるようです。

正儀公は北朝へ投降したり南朝へ帰順したりと、乱世を揺れ動いた人物のようですが、まだ詳しくは知りません。

千早神社は、もともと千早城の鎮守として八幡大菩薩をお祀りしていましたが、その後正成公・正行公、そして正成公の婦人である久子刀自を合祀して、名前も千早神社となりました。

乱世にあって、それぞれが苦難に向かわねばならなかった父・母・子の3人は、生前ついに実現しなかった安らぎの時間を、この険しい山奥でようやく手にすることができたのでした。
最終更新:2009年08月26日 13:14
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