平成21年10月24日~26日 琵琶湖東へ

平成21年10月24日① 竹生島


琵琶湖の周辺には、戦火をまぬがれた名所がたくさん残っています。

今回は、これまで通り過ぎることが多かった琵琶湖の東側の名所を巡ることにしました。

伊丹空港から高速道路を利用して滋賀に入りますが、やはり割引の影響でかなり渋滞していました。

まず彦根に入り、彦根港から竹生島へ観光船に乗って上陸する予定を組んでいましたが、昼食もとらずに急いだおかげで、なんとか12時30分発の汽船に間に合いました。

運行会社はオーミマリンで、彦根港と竹生島の間を1日に4往復しています。

天気は曇り。

紅葉にはまだ少し早いかと思いつつ、竹生島の美しい景観を楽しみに、40分の船旅を楽しみました。

そしてようやく見えて来た竹生島の、無残な姿。

まるで白骨のように枯れた木々が、並んで地面に突き刺さっているのです。

手入れが行き届いていないのか、それとも気候変動のせいなのか。

どちらにしても、琵琶湖で最も美しいと言われる景色がこのように変貌してしまっていることは、非常に残念でもあり、心配でもありました。

その竹生島に上陸。

拝観料を支払って聖地へと足を踏み入れます。

階段の途中で右に曲がり、まずは竹生島神社を参拝。

都久夫須麻神社と表記することもあります。

雄略天皇3年に創建され、浅井姫命が祀られました。

浅井姫命は滋賀県で2番目に高い山である浅井岳(金糞岳)の神で、1番高い息吹山の神である多多美比古命の姪です。

『近江国風土記』は、2神が背比べをしたところ浅井姫の方が高く、怒った多多美比古命は浅井姫の首を切ってしまい、その首が琵琶湖に落ちて竹生島になったと伝えています。

竹生島と金糞岳の高さを足すと、ちょうど息吹山の高さになるそうです。

その浅井姫が祀られた竹生島に、聖武天皇の勅命によって弁財天が祀られ、神仏習合の祈りの島となりました。

木曽義仲追討の祈願を行った平経正公や織田信長公なども参詣に訪れています。

国宝に指定された本殿は、太閤秀吉公が天皇をお迎えするために伏見城内に建設した「日暮御殿」を神殿として寄進したものです。

竹生島神社から、船廊下という空中回廊を通ると、西国第三十番の札所である観音堂に到ります。

船廊下は、豊太閤の御座船「日本丸」の船櫓を利用して作られた廊下で、急斜面の崖に足組みをして作られています。

観音堂では、札所巡礼の人々が経を読んで祈りを捧げていました。

唐門は、京都東山の豊国廟の極楽門を移築したもので、こちらも国宝に指定されています。

そこからまた階段を登ると、弁財天が祀られる本堂が見えて来ます。

江ノ島・宮島と並ぶ日本三大弁財天の一つで、聖武天皇の勅命を受けた僧行基が開眼したものです。

弁財天は神道の宗像三女神と同一とされ、海や陸の交通安全の神として信仰されて来ました。

竹生島神社は三大弁財天の中で最も古く、弁財天発祥の地とされています。

竹生島で最も高い所に建っているのが、鮮やかな朱色の宝厳寺三重塔です。

文明16年に建てられましたが江戸初期に焼失し、その後再建されました。

ここから見下ろす琵琶湖の風景も格別でした。

鎌倉時代のものと思われる五重石塔もあり、こちらは重要文化財に指定された七基の五重石塔の一つです。

復路の出発時間まで70分間、竹生島の全てをめぐることができました。

売店では、土産物やちょっとした食事が置いてありましたが、そこで食べたじゃがいも原料の串餅が、味といい食感といい、大変美味しいものでした。

平成21年10月24日② 多賀大社


曇り空はなかなか晴れず、そのままこの日最後の目的地である多賀大社に向かいました。

多賀大社には伊邪那岐大神・伊邪那美大神の二柱の神が祀られています。

国産みを終え、神産みの途中、火の神を産んだところで伊邪那美大神はその炎によって火傷を負い、死んでしまいました。

その後、伊邪那岐大神は黄泉の国へ妻に会いに行くのですが、そこで見たのは恐ろしい姿に変貌した妻の姿であり、急いで地上へ帰りついた後、穢れを祓うために禊をした際に産まれたのが、天照大御神や素戔嗚です。

その後、伊邪那岐大神が鎮まった地には2つの説があり、『古事記』では近江の多賀としているのに対し、『日本書紀』では淡路国としています。

『古事記』は、写本の過程で、誤って淡路が淡海とされてしまったという説が有力ですが、ここ多賀大社は古くから現在まで変わらぬ崇敬を集めています。

境内に駐車場はなく、多賀町役場向かい側にある大駐車場に車を停め、細い道を5分ほど歩くと、大鳥居が見えて来ます。

大鳥居のすぐ後には太閤橋がかかっています。

正式には太鼓橋ですが、豊太閤の多賀信仰の篤さから、太閤橋と呼ばれています。

古例大祭では、この急な橋を神輿が渡ります。

実際に渡ろうとすると、上りはそれほどでもないですが、下りは足元に注意が必要でした。

太閤橋を渡り、神門をくぐると、横に広く広がった拝殿が見えて来ます。

その奥には幣殿と、千木を戴く本殿があり、更に奥には神の森がうっそうと茂り、正面から見ると奥ゆきのある重層的な構造に目を奪われます。

昇殿参拝等の受付終了時刻も近く、境内にはそれほど多くの人はいませんでしたが、車いすに乗った方たちが揃って参拝していました。


お伊勢参らばお多賀へまいれ
お伊勢お多賀の子でござる


お伊勢七度 熊野へ三度
お多賀さまへは月参り


などと言われて、全国から多くの崇敬者が参拝に訪れています。

受付終了にぎりぎり間に合い、奥書院と庭園の拝観をさせていただきました。

天正16年、豊太閤は母の病の平癒祈願を多賀大社で行い、小康を得たお礼として、1万石の寄進を行いました。

その際に築かれたのが、先ほど渡った太閤橋と、この奥書院庭園です。

鶴島・亀島・三尊石を池中に配しています。

奥書院は、かつての別当寺である不動院建て物で、江戸時代に再建されたものです。

豊太閤だけでなく、多くの大名による崇敬も篤く、室町時代に足利義政公から翁面、戦国時代に浅井氏と佐々木氏から梵鐘、江戸時代の大造営の際には徳川幕府から大釜が2基など、様々なものが奉納されています。

参拝を終え、絵馬通りと呼ばれる表参道で、土産物を探しました。

多賀大社の名物といえば、糸切餅。

買って帰ろうとしたのですが、残念なことに賞味期限は当日限りということだったので、お茶を飲みながらその場でいただくことにしました。

赤と緑の線の入った模様は、元寇の戦勝品として多賀大社に奉納された「船印」に由来するのだそうです。

漉し餡が入っていてほんのり甘い上品な味でした。

平成21年10月25日① 彦根城


2日目は、少し早起きをして彦根城へ向かいました。

築城400年祭のイベント期間中とあり、かなりの数の観光客が休日は押しかけていると聞いていたので、できるだけ観光客の少ないうちに見学して回りたいと思い、早起きをして向かいました。

メインストリートの夢京橋キャッスルロードを通りかかると、なにやら設営作業をしている人々の姿が見えます。

400年祭イベントとは別に、「ゆるキャラまつり」というのが偶然にも開催中でした。

彦根城の南側、いろは松の近くの駐車場に車を停めることができました。

彦根城は、井伊直政公の子、直勝公によって築城されました。

初代直政公は、徳川四天王の一人で、関ヶ原の戦いによる軍功で北近江に封ぜられ、西軍の将であった石田光成公が治めていた佐和山城に入りました。

その息子の代に彦根城は築かれましたが、その建築資材には佐和山城など近隣の城の一部が再利用されています。

金亀山と呼ばれる山に建てられたことから、「金亀城」とも呼ばれ、明治の廃城令や戦火などに遭うこともなく、天守閣は当時の姿をとどめる貴重な城郭として国宝に指定されています。

天守閣はもちろん、天秤櫓や時報鐘などの見所も多いですが、特に優れた景観を持つのは、4代目藩主直興公による造営の玄宮園です。

池を中心地する庭園は、シナの瀟湘八景になぞらえて選ばれた「近江八景」を模しており、遠く天守閣を望むことができます。

次に、井伊直弼公が300表の捨扶持で青春時代を過ごした埋木舎を訪れました。

権力者の身内であるため、下手に動けば有りもしない政治的な野心を勘ぐられてしまうため、自らを埋れ木に見立てて隠居のような生活を送っていたのです。


世の中をよそに見つつも埋れ木の
埋もれておらむ心なき身は


生涯の親友であり助言者であった長野主膳と幾日も語り合ったのも、この埋木舎です。

13代藩主直中公の14男として生まれた直弼公は、他家の養子となるのが遅れたことが幸いし、早世した兄が継ぐはずであった当主の座が転がり込んで来ました。

その後、攘夷派の水戸斉昭公との対立を深めながらも大老に就任し、孝明帝の勅許を得ずに日米修好通商条約を締結します。

聖上をないがしろにする暴挙として尊皇攘夷派の怒りは頂点に達しますが、その頃の朝廷は政治機関として機能しておらず、政権を一任された幕府が自らの責任で重大事を決定することを、直弼公は反発を恐れずに粛々と実行したのです。

孝明帝に対して僅かでも叛逆心を抱いていなかったことは、次の和歌からも容易に理解できます。


あふみの海磯うつ浪のいく度か
御世にこころをくだきぬるかな


直弼公の決断が、日本を世界に開くという意味で近世という時代を終わらせ、アメリカによる武力開港という最悪の事態を回避したことは間違いありませんが、安政の大獄によって多くの有能な日本人が粛清されたことも事実です。

襲撃計画の噂を聞きながらも、警護を強化することもなく、従者たちの刀の柄に雪よけのための袋をつけたまま登城していた直弼公は、既に責任をとるつもりで死を覚悟していたものと思われます。

極限の状況の中で、極限の選択をしなければならないこともあるという教えを、激動の幕末史は教えてくれます。

その足で滋賀縣護國神社を参拝しました。

戊辰の役以来、国事・国難に殉じた滋賀県出身の英霊3万4千余柱が祀られています。

桜田門外の変で大老井伊直弼公の命を奪ったのは水戸浪士で、その後、彦根と水戸の対立は長く続いていました。

主君の首級を取られた彦根藩士たちにとって水戸藩は不倶戴天の敵となり、その思いが爆発したのが、天狗党の投降者たちに対する酸鼻極まる虐殺でした。

しかし大戦後、井伊家と水戸家は互いに和解し、その記念として、水戸から梅が送られ、ここ護國神社の拝殿白砂前に左右対になって植えられています。

彦根城の見学を終え、買い物がてらキャッスルロードをぶらつこうかと思ってそちらに向かうと、人だかりが出来ているのが見えました。

どうやら、ゆるキャラまつりが始まっているようです。

日本全国?各地からやってきたマスコットキャラたちが路上のあちこちに配置され、子供たちと仲良く写真撮影しています。

もちろん商業的な効果が目的なので、各地の特産品やキャラにちなんだ商品も即売されているのですが、お父さんお母さんたちは我が子の写真撮影に夢中で、あまり売れている様子ではありませんでした。

各地から集まった百体近いキャラの中で、やはり最も人気があるのが、ここ彦根のマスコット「ひこにゃん」です。

天守閣広場でのお披露目を終え、ちょうどキャッスルロードの「パトロール」に来るところでしたが、人力車に後ろ向きに乗せられてあっという間に右から左に通り過ぎてしまいました。

猫の姿をしたひこにゃんにも由来があり、2代目藩主直孝公が世田谷の豪徳寺でにわか雨に遭って大木の下で雨宿りしていましたが、手招きをする猫を見つけたので近寄ってみたことろ、その大木に雷が落ちたのです。

直孝公はこの猫に感謝し、豪徳寺を菩提寺としたのでした。

ひこにゃんがかぶっている兜は、小牧長湫の戦いで秀吉軍を震え上がらせた井伊の赤備えにちなんで、赤い色をしています。

平成21年10月25日② 安土・近江八幡


これから帰り道は、琵琶湖東湖岸に沿って史跡を訪れながら、関西中心部に向かうことになります。

まず最初に安土城跡へ。

安土城は、織田信長公が天正4年に丹羽長秀を総普請奉行に据えて築城させ、7年から信長公自身が居城した城で、日本初の天守閣を持った城郭です。

当時は南側を除く周囲が琵琶湖の内湖に囲まれ、内湖に浮かぶ安土山に聳える五層七階の絢爛たる天守閣は、イエズス会のルイス・フロイスも西洋で見たこともない程の壮大な大きさと美しさを持つものであったと伝えられています。

しかし、信長公がここを拠点に天下統一事業に尽力できたのもわずかな期間でしかなく、天正10年に本能寺の変で明智光秀の軍に囲まれて自刃した後、原因不明の出火によって一夜にして焼失してしまいました。

現在は石垣や石段が残されており、大手門のあった入口に立つと、どこまでも続くように見える石垣からも、この城の規模の大きさが実感できます。

石段のところどころには、築城に際して徴用された石仏も含まれており、それを踏まないように慎重に歩かなければなりません。

信長公が築城と同時に移築した摠見寺は、落城の際にも焼け残りましたが、安政元年に火災によって焼失してしまい、昭和7年に徳川家康邸跡と思われる場所に本堂が再建されました。

幸い特別拝観の期間であったので、信長公像に手を合わせて来ました。

信長公所用の鉄鰐や陣羽織などが収蔵されています。

入山料とは別料金での拝観となるため、こちらは観光客の姿が少なく、提供される抹茶を静かにいただくことができました。

天主までの400段にも及ぶ石段を登りますが、高さや幅がまちまちなのはどの城も共通で、登るのに非常に難儀します。

だからこそ、頂上まで登る甲斐もあるというものですが。

大手道周辺には、摠見寺の建つ徳川邸跡をはじめ、前田家や羽柴家の低跡と伝えられる場所があり、信長公の信頼の厚い家臣は大手道を守るように配置されていたことが分かります。

しばらく登ると、二の丸跡の信長公廟に到着しました。

焼けた本能寺から、ついに信長公の亡き骸は発見されず、信長公ゆかりの太刀や烏帽子、直垂などの遺品を埋葬して本廟としたのでした。

この法要を執り行ったのが秀吉公で、そのことによって天下統一の意思の継承者としての地位を日本中に知らしめることとなりました。

更に登ると、本丸跡と、最上部である天主跡に到り、琵琶湖を見渡すことができます。

琵琶湖の対岸にはすぐ京があり、京の守りとしてこの地を天下布武の拠点とした信長公は政治的にも芸術的にも天才であったことが伺えます。

安土城跡からすぐの所には、復元された天守閣の一部を展示する、信長の館という施設がありますが、今回は時間の都合で通り過ぎることになりました。

しかし、自分の頭の中には、安土山に堂々と聳える壮麗な姿の天守閣をイメージすることができました。

次に、商人の町として栄えた近江八幡市へ向かいました。

早速、日牟禮八幡宮に参拝。

第13代成務天皇の即位の際に、武内宿禰に命じて大嶋大神を祀られたのが創始で、應神天皇は近江行幸の際にお立ちよりになり、そのご縁で八幡大神を祀ることになったという経緯があります。

左義長祭と八幡祭の二大火祭で有名です。

境内から少し進んだ所からは、ロープウェイに乗って八幡山に登ることができます。

そこにはかつて八幡城があり、秀吉公の姉の子である三好(羽柴)秀次が居城としていました。

豊太閤の嫡子が早世し、太閤の後継者として養子入りをして政務をとりますが、実子の秀頼が生まれたことから次第に遠ざけられ、高野山に追放され、ついに切腹を命じられました。

八幡城は廃城となりましたが、城下町は商人の町として栄えたということです。

次に兵主大社へ。

八千矛神大国主神)を主祭神とし、手名椎神・足名椎神を配祀しています。

歴史の深みの色を持つ朱の楼門が印象的で、社殿手前の狛犬には、なぜか白い布があちこちに巻きつけられていました。

神職の方に尋ねると、病気やけがをした方が参拝の際に患部と同じ場所に布を巻きつけるそうで、きっと重い怪我もなどにも御利益があるのでしょう。

養老2年の創始で、名神大社に列せられています。

平成21年10月25日③ 野洲・瀬田


次に御上神社へ。

第7代孝霊天皇の御代に、天照大御神の孫神である天之御影神が三上山に降臨され、元正天皇の養老2年に藤原不比等が勅命を奉じて現在の地に遷座しました。

天之御影神は天津日子根命の子で、鍛冶の神である天目一箇神と同一神であるとされています。

本殿は国宝に指定されています。

天之御影神が降臨されたという三上山は、御上神社からすぐ見える所にあります。

その形象から、近江富士とも呼ばれています。

二つ並んだ山のうち、南側の山が三上山で、北側の妙光寺山よりも標高は低いものの、見事な形をしています。

三上山は田原藤太による百足退治の伝説の舞台です。

朱雀天皇の御代に、田原藤太秀郷という者がいて、瀬田の橋に横たわる大蛇をものともせずに踏み越えたところ、その晩に大蛇が化けた男が、自ら龍神であることを告白し、三上山に七巻き半巻いている大百足の退治を依頼して来ました。

田原藤太はその依頼を承諾し、瀬田の橋から矢を放ち、2射目にして大百足を倒したのでした。

その瀬田の橋からほど近いところに鎮座しているのが、近江国一之宮の建部大社です。

東国平定の功績があった日本武尊が32才にして薨去された際、父君である景行天皇がその死を嘆かれて建部大神として祀られたのが、建部大社の始まりです。

平家に囚われの身となっていた源頼朝公が伊豆配流への途中で参籠したと伝えられ、建久元年には源氏再興の御礼として、上洛の際に参拝し、神宝や神領を寄進したのでした。

滋賀県には多賀大社や日吉大社などの規模の大きな神社が多数鎮座していますが、その中で一之宮に選ばれたのは、源氏とのゆかりと、瀬田の橋という交通の要衝に近い地理的な要因があると思われます。

その瀬田の橋は、日本三名橋・三古橋に数えられる瀬田の唐橋として、車が通れるものに整備されながらも当時の姿をとどめています。

琵琶湖から流れる瀬田川は、京都・大阪へ入るとそれぞれ宇治川・淀川と名前を変えます。

古代は東海道から京に入るためには瀬田川を渡る瀬田の橋しか手段がなく、壬申の乱や恵美押勝の乱など、大きな戦いの舞台になっています。

夕刻とあって、瀬田大橋の付近はかなり渋滞しており、近江八景のひとつ「瀬田夕照」の眺めをゆっくりと味わうことはできませんでしたが、車中からの眺めでも満足することにしました。

瀬田の唐橋より西側は、別な機会にめぐりたいと思います。

平成21年10月26日 多田


今回の旅の最終日。

神戸の宿で迎えた朝は、あいにくの雨でしたが、せっかく帰りの飛行機までに時間があるので、一か所だけ目的地を定めて向かうことにしました。

兵庫県川西市に鎮座する多田神社。

清和源氏発祥の地と言われる場所です。

尼崎経由で川西能勢口駅へ向かい、そこから能勢電鉄に乗って多田駅まで向かいます。

能勢電鉄は初めての乗車でした。

多田駅からまっすぐのびた細い参道を、傘を差しながらおよそ20分歩くと、多田神社の社号標と、参道の橋が見えて来ました。

多田神社の御祭神は、源満仲・頼光・頼信・頼義・義家の5公で、源氏の祖廟といえます。

源満仲公が摂津の国司として住吉大社に参籠した際、神託によって多田に入部し、開拓や治水を行いました。

その長子頼光公は摂津源氏の祖で、以前に訪れた大江山の鬼退治などの逸話が残されています。

鵺退治で有名な頼政公は、頼光公の4世の孫です。

三男頼信公は河内源氏の祖で、頼義公・義家公と続き、源氏の主流となって行きます。

なお、次男の頼親公は大和源治の祖ですが、永承4年の興福寺との戦いが原因で土佐に配流されたためか、合祀されていません。

神職の方にうかがったところ、頼親公を祀る神社は全国に存在しないとのことで、大和源氏の末裔である自分にとっては非常に残念なことでした。

多田神社の境内には、宝物殿や、頼光公が酒呑童子の首を洗ったと伝えられる鬼首洗池などがあります。
最終更新:2009年12月02日 08:46
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