「ごめんね」
──少しだけ、悔しそうな、声だった。
──それは、唯一の心残りだったのかもしれない。
──彼女の世界で待つ、大切な人たち、彼女を愛した観客たち。
それでも、彼女は──北島マヤは。
*
紅い華が踊る。
『あら、あなたなのね。知っていたわ』
騎士の剣の、銀の狂気が煌めく。
『……ああ 僕の、愛しい人……
愛してると言っておくれ!
それだけでいい!
僕のこの手に殺させないでくれ!
お前のいのちと、僕自身とを救わせてくれ!!』
女の、紅い唇が、ふ、と笑う。
『───いいえ
かつて愛したあなた
できないわ
私はどこまでも自由なのよ 私は自由に生きて──自由に死ぬのだから』
蒼い空に、闘牛舞台の、昂った鬨の声が響く。
その声に重なるように、騎士の激情がさっと蒼く染まった。
横に長く伸びた、山羊に似た瞳。
『……血を流してでも おまえを行かせはしない!』
騎士は迫る。女は後ずさる。
女の唇は、紅い華は、震えながら、言葉を吐く。
『いいえ いいえ 私はゆくわ!!
どこまでも、きっと──』
青空を映した、銀の刃が、
『ならば 行くがいい──お前を愛した地獄へと!』
紅い華へと、吸い込まれていく………。
*
その場の全ての者達が、刹那顕現した「カルメン」のクライマックスに呑まれる中。
夜凪景だけが、その声を聞いた。聞くことができた。
マヤと同じ舞台で、共に立ち、その魂を食らい合った彼女だけが。
「ごめんね」
──少しだけ、悔しそうな、声だった。
きっと、景の中に、一生残って、消えない。
それは、そんな声だった。
そして──
騎士の剣が、彼女を刺し貫くその瞬間。
スポットライトの下で、マヤは。
──笑ったのだ。
全ての役者たちを。
全ての観客たちを。
舞台そのものを。
万雷の天の喝采の下で、奮い立たせ、勇気づけ、祝福するかのように。
それは、北島マヤ自身の笑顔でありながら、紛れもなく「カルメン」の──自由に生き、歌い、愛を求め続けた女の、誰も知らなかった表情で。
その人生の幕引きを、心に焼きつけられるような、鮮やかな笑顔だった。
───
時間すらも息を止めたかのような永遠は、しかし、残酷なほどに短かった。……
「マヤさん!!」
景のその叫びが──目に見えぬ幕を引き裂いて、時が動き出す。
引き抜かれた剣から紅の雫が散り、ゆっくりと、マヤが倒れていく。
ブローチが、景の贈った星の光が、ばらばらに砕けて、散っていく。
その姿すらも──花弁を散らして召されゆく、紅いカルメンそのもので。
悪戯っぽく舌を出してみせるマヤの姿と、舞台の上で取り合ったその手のぬくもりと。
マヤの見せた最期の演技と、景にだけ聞こえた「ごめんね」の言葉と、カルメンの笑顔と。
全てが混じり合いながら流れ込んできて──駆け寄る景の眼からは、透明な涙がとめどなく溢れ出していた。
景だけではない。
グレイ──劇場に福音齎す悠久の亡霊〈灰色の服の男〉も。
アマイマスク──仮面の狭間で傷だらけの正義を演じんとする英雄も。
ヒカルド──仮面の奥で慟哭し引き裂かれた、悲劇の超人も。
そして、その剣を振るったデオン・ド・ボーモン──永遠の殺人舞台に囚われた、血華の騎士すらも。
カルメンの終幕に。一人の女優の終幕に。
今、終わってしまった物語に。
透き通った涙を、その双眸から流していた。
ただ一人、破滅を祝う呪いの徒──
五頭応尽だけが。
相容れぬ光を目の当たりにさせられたような、奇妙に歪んだ顔で。
尻餅をついたまま、舞台の上、夢のあとを、唖然と見つめている。
再び時が動き出したとしても、死と滅びの舞台へと、マヤがかけた魔法は、もはや永遠に解けないのかもしれなかった。……
最終更新:2020年05月19日 22:08