もうじき夏を迎えようとする、初夏。
定期試験とその後に控える夏休みを間近に、既に夏の匂いを色濃く漂わせている路地を抜け、蒼衣は待ち合わせにしていた場所へと向かう。
少しの後に蒼衣が目的の場所にたどり着くと、そこには大型の旅行鞄を置いた少年と顔に包帯を巻いた少女、そして二人に連れられた颯姫と夢見子の四人が立っていた。
「よっ」
少年―――木之崎一真は蒼衣を見つけると、片手を挙げて蒼衣を出迎える。
「白野さん! 白野さん!」
颯姫がぶんぶんと大きく手を振る。
蒼衣は優しく笑って颯姫に手を振り返しながら、四人の立っているところに歩いて向かっていく。
「……」
四人の姿を目に捉えながら、蒼衣はこの数週間を頭の中に思い浮かべる。
あの「殺し合い」が終わってから、二週間が経とうとしていた。
総勢百人を超える参加者と、文字通り人智を超越した首謀者との抗争。奇しくもその奇妙な殺し合いに巻き込まれてしまった蒼衣は何とか生還し、この日常へと帰還することができていた。
しかし、だからといって手放しで喜べるかと言えばそうではない。何せこちらでは三日も行方不明となっていたのだ、色々と面倒なことは山積みだった。
幸いにもロッジの面々が蒼衣の両親に部活動の泊まりこみに行ったと説明していたために捜索願が出されることはなかったが、両親から見れば無断で数日家を空けたことになる蒼衣は、彼にしてみれば珍しいほど本気の説教を受ける羽目になったのだ。
とはいえ、両親とて頭ごなしに叱責することはなかった。というのも蒼衣の興味は他者との関わりにおける平凡さという一点のみで、人と会話を合わせる用途に使う以上の趣味は持ち合わせていなかった。
一事が万事その調子であったため、蒼衣の両親は断章保持者としての活動をごまかすいい訳である部活動を両親は喜び、蒼衣の帰りが遅くなる度に顔を綻ばせていたのだ。
そういう経緯もあってか、今回の件についても心配半分、「あの蒼衣が学校をサボってまで遊びに行くなんて」という喜び半分で捉えられており、早々に説教はお開きとなり再び学校に顔を出すことになったのだ。
流石の蒼衣も、自分の両親ながらどうなのだろうと複雑な心境であったとかないとか。
ともあれ蒼衣は無事に元の日常へと帰ってくることができたのだが、しかしそこには致命的な差異が確かに存在していた。断章や泡禍といったものの消滅、幻想の悉くが消えうせてしまっているのだ。
現に彼、木之崎一真の花の断章は完全に消えうせ、彼の断章により死を宣告されたクラスメートは封印されていた教室ごと解放されている。また、顔に包帯を巻いた少女―――海部野千恵の泡の断章も消えうせ、もう怪我をする心配はないそうだ。
これについては蒼衣にも心当たりがある。そもそも自分が起こした結果なのだから当然だ。最終決戦において蒼衣が紡いだ断章詩とそれによる神の殺害。大本となる《神》が死んだために、神の悪夢である泡禍や断章は消え去ったのだという事実。
無論、
藤井蓮の死想清浄・諧謔の流出の影響も皆無ではないだろうが、しかし決定的な引き金を引いたのは蒼衣自身だ。そこについては言い訳をするつもりはないし、その結果起こった全てを背負う覚悟もできている。
故に。
「……」
とある病院の一室で、虚ろな目でベッドに横たわる少女の姿を思い出し、誓う。
この結果も、自分が背負っていかなくてはならないのだと。
◇◇◇
神狩屋―――鹿狩雅孝は断章の消失を認知した直後、手に持った包丁を首に突き立て自害したらしい。
らしい、というのは蒼衣はその現場を見ていないからだ。蒼衣が古物商神狩屋に訪れた時には既に、通報を受けた警察によって現場は封鎖されていたのだ。
蒼衣も鹿狩の知人ということで警察から聴取を受けたが、何も知らないとだけ返して早々に家路に着いた。その後は詳しく聞いてはいないが、鹿狩の知人であった三木目医師がなんとか収めたそうだ。
鹿狩の境遇については人魚姫の事件の際に聞き及んでいる。愛する者に先立たれ、しかし自分だけは死ぬことのできない生き地獄。この世の全てを無価値と断じた彼にとって、現世に未練など欠片もなかったのだろう。
仮にも親しい間柄であった彼の死は悲しいものであったが、しかし蒼衣はこれでよかったのだとも思う。幻想となって苦しみながら永遠を生きるくらいならば、死に縋るほうがよほどマシであると、そう思うのだ。
葬儀屋―――瀧修司は自身の工房がある山奥に引きこもったという。常に彼の傍にいた女性は影も形もなく、たった一人孤独なまま。
蒼衣は初めて知ったことであるが、常に葬儀屋の傍にいた女性―――戸塚可南子は、葬儀屋の断章で生き返った死者だったらしい。加えて各地に葬儀屋に頼み込んで生き返らされた死者が少なからず存在していたということも聞かされた。
そして、可南子を含めた死者たちはある時を境に次々と消滅していった。そう、蒼衣が帰還する少し前から。
これは蒼衣による神殺しと死者を死に返す諧謔のどちらが先に作用したのかわからない。わかっているのは、各地で混乱と悲しみの渦が広がっているということだけ。
こんな時、あの刹那を愛した青年なら何と言うのだろうか。黒尽くめの少年は、自分たちを率いていたリーダーは、希望を愛した彼は、誰より優しかったあの少年は何と思うのだろうか。ふと、そんな取り留めのない思考に駆られてしまう。
泡禍が消失したことにより、悲劇といった類のものは明らかに減少してはいる。しかしそれは益ばかりをもたらすものではないと、蒼衣は痛感するのだった。
ともかく、鹿狩の死によって事実上消滅した神狩屋ロッジであるが、颯姫と夢見子の二人は一真のロッジに預けられることになった。
蒼衣と雪乃のどちらも、この二人を世話する基盤がない。それを引き受けたのが、一真だった。
蒼衣とほとんど年の変わらない一真だったが、一真は世話役であり、《騎士》こそいないものの二十人近い《保持者》の互助を取りまとめている。その人脈の中で二人を世話してくれる人を探してくれ、二人はそこで世話になっている。
「颯姫ちゃん、夢見子ちゃん」
蒼衣は満面の笑顔をした颯姫と、それからまるでそこらに居る普通の女の子のような服を着た、無表情の夢見子の手を取って、笑った。夢見子の抱く不思議の国のアリスのウサギのぬいぐるみは相変わらずで、手を繋いで上下に振る動きに揺すられて何か喋っているように揺れたが、何を言っているのかはわからなかった。
「白野さん……えっと、えーっと……お久しぶりです!」
颯姫は言った。蒼衣は笑う。
「久しぶりって、毎日電話してるのに」
「いいんです!」
颯姫はうれしそうに、首を振る。
引き取られてから、颯姫は毎日、夜の同じ時間に蒼衣に電話をかけてくる。今日起こったことをとても嬉しそうに、事細かに伝えてくるのだ。
颯姫もまた、断章から解放された一人だ。
彼女の断章『食害』は記憶を食らう蟲。今まではそれの副作用で長期記憶ができず、学校に通うこともできなかったが……断章が消えた今では普通に通学ができるようになったそうだ。今まで教育を受けられなかった関係上、特別学級の所属になるようだが。
颯姫には戸籍がないはずなのにどうやって通学をさせているのか気になったが、曰く伝手でなんとかなったと、酷く疲れた顔をした一真が言っていた。
蒼衣に言えることがあるとすればただひとつ、おそらく颯姫は「久しぶり」という言葉を、今まで数えるほどしか使ったことがないはずだ。
はしゃぐ颯姫は、そのまま夢見子の相手をしており、夢見子は無表情なままかくかくと揺すられている。
その姿を、くす、と笑いながら見て、そのあと蒼衣は振り返って、千恵に目礼する。
「……」
「ん」
千恵は素っ気無く頷く。人魚姫の件があって以来、蒼衣も千恵も、お互い気まずくて、あまり話をしていない。一応敵対も対立もしていないのだが、何しろ蒼衣は、彼女の家族を二人も殺してしまった人間なのだ。
とはいえこれからもこの状態を維持することは望ましくないだろう。一歩ずつでも千恵に歩み寄ることができればよいと、蒼衣は考えている。
「……さて」
そうしてひとしきり挨拶が終わると、蒼衣たちは待ち合わせていたその場所に向き直る。
皆で集まった用事―――神狩屋の墓参りをするために。
蒼衣たちは待ち合わせていた墓の前に立って、手を合わせる。
そのそれなりの年季を経た墓には『鹿狩家』とある。神狩屋の家の墓だ。この墓には神狩屋の父と母が入っていて、妻子のない神狩屋がいなくなった今では三木目医師が管理をしているのだそうだ。
蒼衣はただ、手を合わせる。隣では、千恵もまた手を合わせていた。先ほどまで再会の喜びに浸っていた颯姫も、この時ばかりは悲しそうな顔つきで手を合わせていた。
『神も幽霊も、僕は信じていません。しかし社会通念上そういった風習があるのならば、僕がそれを行わないことは、僕が故人のことをなんとも思ってないことになってしまいます』
ふと、神狩屋の言葉が頭に浮かんだ。泡禍として蘇るかもしれない想い人を恨まないために、全ての超常を存在しないものだと狂信した彼。
果たして、死後の世界は存在するのだろうか。存在するとしたら、彼は婚約者と再会することができたのだろうか。
それは誰にもわからない。最早幻想は無くなってしまったのだから。
だがそれでも、故人を偲ぶ気持ちは忘れたくないから。蒼衣は手を合わせ続けるのだった。
◇◇◇
一真たちと別れて、蒼衣は帰路へと着いた。
いや、正確にはこれから更に向かう場所があるから、帰路ではない。今蒼衣は一人であるため無言だが、かつて雪乃と二人で歩いた時も会話が弾んだ試しはないので平常だ。
制服を着た蒼衣の足音が、歩道に鳴る。
蒼衣が向かった先は、とある病院だった。
かつて蒼衣と共に在った少女―――時槻雪乃がいる場所だ。
蒼衣は病院の受付で面会を申し込み、雪乃がいる病室へと向かう。
3階の端の部屋、そこが雪乃の病室だった。
独特の香りが漂う廊下を抜け、蒼衣は目的の部屋へとたどり着く。
「やあ、今日も来たよ、雪乃さん」
「……」
果たして、そこには時槻雪乃がいた。
常の悪態は微塵も聞こえてこない。当然だ、今の彼女は喪失状態にあるのだから。
「結局、僕は君を本当の意味で助けることはできないみたいだ」
断章が無くなってからの雪乃の荒れ方は、尋常ではなかった。
蒼衣とて彼女の支えになろうとしたが、しかしそれは不可能だった。彼女を支えていた全ては、蒼衣がYHVHを倒した瞬間に失われていたのだから。
時槻雪乃の人生は復讐が全てだった。
泡禍に全てを奪われ、故に泡禍の全てを滅ぼすと誓った彼女は、只管に怪物であろうとした。
人の心を捨て、人の営みを捨て、全てを泡禍殲滅に費やす機械。それが彼女の理想であると蒼衣は理解している。
そんな彼女を、蒼衣は度々普通の側に引き戻そうとしていた。それは半ば歪んだ強迫観念のようなものだったが、純粋に彼女を案じていた心も確かにあった。
彼女はまだこちら側に戻れるのだと。普通の人間としての幸せを掴めるのだと信じて。
雪乃がこちら側に戻ったらこうなるのだと、蒼衣は実物を見て初めて知った。
現状、雪乃は外界に一切の反応を返さない。それは夢見子と似たような症状であり、しかし決定的に違うものだった。
夢見子のそれが恐怖による自閉だとしたら、雪乃のそれは虚無だ。
復讐に全てを費やし、しかしその復讐対象は忽然と存在しなくなったのだ。それは最早存在意義を奪われたに等しい。
全てを失った彼女は、更に支えを奪われた結果になる。
この有様を見て、白髪の少年は希望がないと、そう言うだろうか。
「あのさ、雪乃さん」
蒼衣は言う。
雪乃は相変わらず目線を虚空に投げやっているだけで、きっと蒼衣の言葉は届いていないだろう。
それでも、蒼衣は言葉を紡ぐ。
「僕は、さ。高校を出て、大学に入って。そして働くことになるだろうけど。そのときに―――ロッジを作ろうと思うんだ」
蒼衣は思う。
希望がないというなら、絶望しかないというなら。絶望を希望に変えるために努力するしかないのだと。
「本当は第一に雪乃さんを助けたいんだけど、それは難しいみたいだ。だから、僕は少しずつでも世界を普通にしようと思う」
たとえ泡禍が無くなったとしても、傷の癒えない被害者は数え切れないほど存在する。そしてそれは、十年や二十年では決して無くなることはないだろう。
だからこそ、ロッジという互助組織は必ず必要になってくる。誰かの助けを必要とする人が必ずいるだろう、たとえばこの雪乃のような。
自分は雪乃を普通の世界に引き戻したかった。その願いは今でも変わりないし、撤回するつもりもない。
今の雪乃に普通の世界を受け入れる準備が足りないというのなら、少しずつでも適応できるように環境を整えようと、そう思うのだ。
「だからね、雪乃さん」
たとえ経緯はどうあれど、雪乃をこうしてしまった原因は自分にあるのだから、せめて責任だけは取りたいと思う。
彼女は今まで絶望に慣れすぎたのだから、せめてこれからは希望の一片でも受け入れて欲しいと願いつつ。
こんな自分を素晴らしい仲間だと言ってくれた白髪の少年に報いるために。
こんな自分を友達だと言ってくれた傲岸不遜な少年に報いるために。
こんな自分を認めてくれた黒衣の少年に報いるために。
こんな自分を頼り慕ってくれた気弱な、しかし誰より強かった少年に報いるために。
そして何より、眼前の少女に救いを与えたかったから。
「ねえ、雪乃さん。そうしたら、僕がロッジを作ったら―――その時は、またみんなで一緒の時間を過ごそう」
ただそれだけを告げて、蒼衣は再び日常へと回帰する。殺し合いの果てに得た平穏をかみ締めながら、喜び学んで生きていく。
いつかの未来、雪乃とまた話せる日を願って。
◇◇◇
かくして世界は幻想から目覚めていく。
《アリス》はもう、何処にもいない。
【混沌ロワ 白野蒼衣 完】
最終更新:2014年06月26日 18:58