スタジオから帰ってきてから、翠星石はぼんやりとテレビの前でソファにだらんと寝そべって、テレビの音量が小さいままだからとりあえずつけているだけといった感じで、実際時々姿勢を変えて天井を眺めたりしていた。
「翠星石、ご飯にしよっか」
コンロの火を切って、蒼星石はキッチンから翠星石を呼んだ。
じゅうじゅうと音を立てるフライパンからハンバーグと目玉焼きを皿にうつしていると、「いまいくですー」と気の無い返事が聞こえて、のろのろと起き上がった背中が左右にねじれてこきっ、かきっ、と関節の鳴る音がした。
続いて立ち上がり首もぐるぐると回してごききといわせた後、こっちに来ると、キッチンとリビングを仕切るカウンターを回りこんできて、蒼星石が空いたフライパンを流している横で今日のメインディッシュを発見して「ハンバーグです!」とちょっと嬉しそうに言った。
二人で食器や料理をテーブルに並べて、のり直伝はなまるハンバーグとポテトサラダにコンソメスープの夕食になった。
「ほわ~、とってもうまそうです」
「うん、おかわりあるから、いっぱい食べてね」
ほくほくと湯気のたつ、好物ばかり並んだ食卓を前にして、翠星石がテーブルの下でスリッパをパタパタさせる音がした。少し明るさが戻ってきたようだった。
「いただきます」
「いただきますです」
揃って手を合わせてから食べ始めた。
翠星石は「んん!」「んまいです」「最高です」としきりに料理をほめてくれながら食べていて、スタジオのことで食欲まで落ちているというわけでもなかったらしく、蒼星石は少しほっとした。
よく考えたら翠星石がちゃんと食事を食べなかったことというのも、中等部の頃にダイエットにはまった二日半の間と、ずっと昔のおたふく風邪でものが噛めなかった時ぐらいしか記憶になかった。
「蒼星石ー」
翠星石がひょいひょいと料理を口に運びながら話しかけてきて、
「食べるか喋るか……」と一応言おうかと思って、やっぱり「何?」とだけ応えた。
「気をつかわせてすまんですねー」
こちらを見ずに、あえて淡々とした言いかたをしていると思った。
「ううん、別に……でも、珍しいね、あんな、」
あんな風にドラムが合わないなんて、と言いかけて、責めているような言い方になるだろうか、と思い直した。
実際は責めるつもりなんて全然無くて、ただ翠星石が、真紅の新曲に対してどんなひっかかりを感じているのかだけが気になっていた。
「すまんです……食べながら聞いてくれるですか」
翠星石が顔を上げて、話を切り出した。
「翠星石も考えながらしゃべるですから……げほ、っく、ぐ、うぇっふぉ」
いきなり翠星石がむせ始めて、ばしばしと胸を手で叩いた。
箸を持ったままの手を伸ばした先のグラスはしかし空で、慌てて蒼星石がガラスポットから水を注ぐと、まだ注いでいる内に水がこぼれるのもかまわず翠星石はグラスをひっつかんで、
「んぐ、んぐ……ぷは、し、死ぬかと、思ったです」
「……大丈夫?」
一息に飲み干してまた空になった翠星石のグラスにまた水を注ぎながら、やっぱりさっき言っておけばよかったと蒼星石は思った。
◇
ノックの音に「なんだー」と返事。
ドアを開けると、ジュンのパソコンに向かう横顔が見えた。
「ジュン、ちょっといいかしら」
「んー……どうしたんだ」
ジュンはモニタから目を離さずに言ったが、用を訊かれたということは、今は大丈夫ということだ。
ドアを閉めて、ジュンの背中を通り過ぎ、真紅がベッドに腰を下ろすと、しばらくマウスやキーボードをカチカチと鳴らしていた手を離し、ぎっ、と椅子を回してジュンがこちらに身体を向けた。
「スタジオ行ってきたんだろ、面白かったか?」
ライブの予定や練習での出来事などバンドのことは普段からジュンにもいくらか話していて、今日の練習についても家を出る前に伝えてあった。
だから今こうして訊かれるのは自然な流れではあったし、真紅の話したいこともまさにそのことだったのだが、自分から話そうと思っても気の重い話題が、相手の口から先に話に出たとしても、そこから肝心のことをどのように切り出すべきかはうまくまとまっていないのだった。
「そう……ね、練習は久しぶりだったけどなかなか上出来だったわ」
「ふん」
「それで……ああ、そう、金糸雀ったら、また録音用のMDを間違えて、自分のお気に入りを消してしまって」
「ドジだな」
「相変わらずだわ。それで、雛苺が……」
そんな風にしばらくとりとめもない話をしていた。ジュンは机に頬杖をついて、頷いたり、短い感想を口にしたりした。
お互い目を見て話すような雰囲気でも話題でもなくて、時々顔を見たりはしても、ジュンの目線はだいたい真紅の膝あたりにあって、真紅もジュンの肩のあたりや、そうでなければベッドの枕元に置かれた名前を良く知らないスポーツカーのミニチュアを眺めたりしていた。
枕に二、三本短い髪の毛がついているのを見つけて、つまんでくるくると回してみた。
「こないだ言ってた新しい曲はどうなったんだよ」
何気なくジュンが言った。
「うまくいかなかったわ」
「ふうん、まあそういう時もあるよな」
「それが……」
「また翠星石と揉めたのか?ツーバス入れたいとか」
「翠星石と言えば翠星石なのだけど、そうじゃないの」
真紅が翠星石の新曲に対する反応を話している間、ジュンの視線は主に真紅の顔を見ていた。
「なんだよ、それじゃほとんどなんにもわからないじゃないか」
話を聞いたジュンの感想はもっともで、翠星石自身、曲について自分の言いたいことがわかっていなかったのだから、それは真紅も承知していた。
だから翠星石やメンバーと話し合っていくしかない……のだが、そこにこそ真紅は不安を感じていた。
話し合って、解決することであればいいと。
これまでバンド内で曲について揉めることはもちろん、あった。
例えば真紅と蒼星石の案にメンバーが「ここはテンポを上げて」とか「こういう音で」とか意見を出し合って、その意見が互いにぶつかること。
翠星石とは特に何度もそういうぶつかりあいがあった。バンドを結成したばかりの頃はお互いの趣味というか美意識の違いがもろに出て、今にして思えばよく一つの曲になったものだが、それでも全員で作り上げた曲はむしろありきたりのものにならず、その特異さが自分達の中で、やがて聴いてくれる人たちにもバンド独自の音として認識されるようになっていったのだった。
だが今日の翠星石は、そういう風にぶつかりあってきたこれまでとは様子が違った。
真紅の見る限り、翠星石は戸惑っていた。
ことバンドの曲に関して、はっきりとした意見以外口にしたことの無い彼女の、あんな反応は初めてのものだった。
まるで『生理的に受け付けない』とでも言うかのような、理由の無い拒絶。
理由が無いから、翠星石自身、戸惑っていた。
理由が無いから、手がかりがない。
まして新曲は真紅にしても難産の代物で、もちろん曲全体の案ができた時には自分なりの達成を感じて、これまでもそうしてきたのだが、それが今回に限ってひとりよがりのものだったのではないかと思えてくる。
つまり、曲自体に何か真紅の気づいていない根本的な欠陥があって、そのために翠星石はあんな反応を見せたのではないかという疑念……
そういった諸々を、こうしてジュンに話すまで、はっきりと意識していたわけではなかったが、やはり誰かに聞いて欲しくて、ただその相談以下の内容に、わざわざ話すようなことではないかもしれないと思っていたことを、気づいたら話してしまっていた。
「ふうん……」
ジュンは話を聞いている間黙っていて、聞き終わると息をひとつついて、頬杖を外して身体をこちらに向けたまま椅子の背もたれに寄りかかると、片足を上げて膝の上に置き、その足に手をかけて、
「あのさあ真紅」
「何かしら」
「その曲……ちょっと聴かせてくれないか」
◇
聴いてみれば何かわかるかもしれないというジュンの意見はもっともだったが、これまでジュンにライブのステージ以外で演奏を見せたことは一度も無かった。
だから、ライブとなれば数十人、多ければ数百人の前で歌うこともある真紅が、思いがけず落ち着かない気持ちになっているのは、自分の部屋からギターを持ってきてまたジュンのベッドに座って実際にギターをこうして構えてみた、そのいつものライブハウスの暗い、フロアより一段高いステージの上から見るのとはまるで違う部屋の明るさとジュンとの近さのせいだと思った。
「……ジュン」
「何だよ」
「そっちを向いていなさい」
「何でだよ」
「そっち」
「……わかったよ」
真紅が指差した机の方にジュンは向き直って、まったく、と言って肘をついた両手の上にあごをのせた。
「……さすがに恥ずかしいわ」
「何か言ったか?」
「何でも無いわ」
またこっちに向いたジュンを、目線と顎を振ってまたまっすぐ机の方に向かわせて、
(一度だけ……一曲全部でなくても、途中まででも聴かせれば)
「途中までとかじゃなくて一曲全部一応聴かせてくれよ。でなきゃわかんないし」
考えているそばからジュンが言った。
「……生意気だわ」
「何か言ったか?」
「何でも無いわ」
(一曲だけ、一曲だけ)
と自分に言い聞かせて、真紅は大きく息を吸った。
ちらと左手の窓を見ると、外は空が高く晴れ渡った天気で、その爽やかな青さはこの状況に全然そぐわない気がして、かといって他の天気ならいいかと言うとやはりそんなことも無いという気がした。
「じゃあ、聴いて頂戴」
と真紅はピックを握り、ギターの位置を直して、なるべくジュンの方を見ないように曲の演奏を始めた。
最終更新:2008年06月19日 01:19