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#image(http://www13.atwiki.jp/rozensusi/?cmd=upload&act=open&page=%E3%81%B2%E3%81%84%E3%82%89%E3%81%8E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%AB&file=title004.JPG,width=700,height=351,center) #size(20){{{すっかり九州新幹線の列車として定着した「つばめ」。だが過去は国鉄の看板列車として本州を駆け抜けていたことがあった。今回はそんなつばめの生い立ちを語ってみようと思う。 **&sizex(6){アクロバティック超特急”燕”} 1929年、東京~下関間に1日2往復走ってた特別急行列車に公募により愛称が付けられることになり、結果得票数1位の&sizex(6){「富士」}と3位&sizex(6){「櫻」}が採用され、2位の&sizex(6){「燕」}はその後新設される特急列車まで温存されたのは第二回でも少しふれた。  そして翌年1930年、晴れて&strong(){特急「燕」}は東京~神戸でデビューする。 #image(DSC_0910.JPG,width=650,height=358,left) ▲最初の牽引機は東京~名古屋は主にC51、名古屋~神戸はC53が担当していた。  燕の恐ろしさはその速さにあった。  特急「富士」「櫻」は東京~大阪を&strong(){10時間50分}ほどで結んでいた。これに対して、燕は同区間をなんと&font(#ff0000){2時間30分早い8時間20分}で結んでいたのである。ちなみに東京~神戸の全区間の所要時間は&font(#ff0000){9時間}である。  この驚異的な早さから、人々は燕を&font(#ff0000){「超特急」}と呼んだが、その実現のために当時の鉄道省は相当な無茶をしていた。  東京~国府津は電化されていたため、通常ならば東京から国府津までは電気機関車、国府津からは蒸気機関車によって客車をけん引していたが、国府津での機関車交換の時間を惜しみ、東京から蒸気機関車の牽引とした。  途中の停車駅は絞りに絞って、下りは&strong(){横浜・国府津・名古屋・大垣・京都・大阪・三ノ宮}、上りは&strong(){上りは三ノ宮・大阪・京都・名古屋・沼津・横浜}のみであった。  特に国府津・沼津~名古屋は運転停車なしの完全なノンストップ。蒸気機関車は水を大量に消費するため&strong(){定期的に給水目的での停車が必要}だったが、燕では機関車と客車の間に&font(#ff0000){水槽車}を連結し、走行中の給水を可能にした。  また乗務員の交代要員をあらかじめ客車の前に待機乗車させ、走行中に交代を行うということもやっていた。機関車と客車には今述べた通り水槽車があるので、交代する乗務員は水槽車の外に設けられた小さな歩み板をつたって移動するという危険極まりないことをしていた。  さらに肝心なのが下りの国府津・大垣、上りの沼津停車である。 #image(map01.jpg,width=547,height=360,center)  この時の東海道本線の国府津~沼津の区間は今の &font(#ff0000){御殿場線}を経由していた。この区間は急こう配が続く難所。大垣~関ヶ原の下り線も同様に急な上りこう配があった。  そのため下りは国府津・大垣で、上りは沼津で補助機関車を連結するのだが、連結に要する時間はたったの&strong(){30秒}だった。  さらにとんでもないのが坂を登りきった後。国府津・沼津からの補助機関車は御殿場駅で、大垣からの補助機関車は柏原駅で&font(#ff0000){走行中に補助機関車を切り離していた。} これらのような荒技とも言える数々のありえない行いによってこの大幅な時間短縮が実現、燕は一躍人気列車となった。 #image(DSC_0906.JPG,width=717,height=398,left) ▲静岡停車になってからは東京~名古屋でもC53が使用されるようになった。最後尾には1等展望車が連結されている  ただし、1934年に丹那トンネルが開通したことにより東海道本線は今の熱海経由のルートに切り替わった。これによって国府津・沼津での補助機関車の連結がなくなり、さらに所要時間に余裕が出ることから静岡に給水目的の停車をすることで水槽車の連結も取りやめになった。 #image(DSC_0908.JPG,width=715,height=318,center) ▲C53にはこんな流線型の車両も。当時の流行のスタイルだ。 }}}
#image(http://www13.atwiki.jp/rozensusi/?cmd=upload&act=open&page=%E3%81%B2%E3%81%84%E3%82%89%E3%81%8E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%AB&file=title004.JPG,width=700,height=351,center) #size(18){{{すっかり九州新幹線の列車として定着した「つばめ」。だが過去は国鉄の看板列車として本州を駆け抜けていたことがあった。今回はそんなつばめの生い立ちを語ってみようと思う。 **&sizex(6){アクロバティック超特急”燕”} 1929年、東京~下関間に1日2往復走ってた特別急行列車に公募により愛称が付けられることになり、結果得票数1位の&sizex(6){「富士」}と3位&sizex(6){「櫻」}が採用され、2位の&sizex(6){「燕」}はその後新設される特急列車まで温存されたのは第二回でも少しふれた。  そして翌年1930年、晴れて&strong(){特急「燕」}は東京~神戸でデビューする。 #image(DSC_0910.JPG,width=650,height=358,left) ▲最初の牽引機は東京~名古屋は主にC51、名古屋~神戸はC53が担当していた。  燕の恐ろしさはその速さにあった。  特急「富士」「櫻」は東京~大阪を&strong(){10時間50分}ほどで結んでいた。これに対して、燕は同区間をなんと&font(#ff0000){2時間30分早い8時間20分}で結んでいたのである。ちなみに東京~神戸の全区間の所要時間は&font(#ff0000){9時間}である。  この驚異的な早さから、人々は燕を&font(#ff0000){「超特急」}と呼んだが、その実現のために当時の鉄道省は相当な無茶をしていた。  東京~国府津は電化されていたため、通常ならば東京から国府津までは電気機関車、国府津からは蒸気機関車によって客車をけん引していたが、国府津での機関車交換の時間を惜しみ、東京から蒸気機関車の牽引とした。  途中の停車駅は絞りに絞って、下りは&strong(){横浜・国府津・名古屋・大垣・京都・大阪・三ノ宮}、上りは&strong(){上りは三ノ宮・大阪・京都・名古屋・沼津・横浜}のみであった。  特に国府津・沼津~名古屋は運転停車なしの完全なノンストップ。蒸気機関車は水を大量に消費するため&strong(){定期的に給水目的での停車が必要}だったが、燕では機関車と客車の間に&font(#ff0000){水槽車}を連結し、走行中の給水を可能にした。  また乗務員の交代要員をあらかじめ客車の前に待機乗車させ、走行中に交代を行うということもやっていた。機関車と客車には今述べた通り水槽車があるので、交代する乗務員は水槽車の外に設けられた小さな歩み板をつたって移動するという危険極まりないことをしていた。  さらに肝心なのが下りの国府津・大垣、上りの沼津停車である。 #image(map01.jpg,width=547,height=360,center)  この時の東海道本線の国府津~沼津の区間は今の &font(#ff0000){御殿場線}を経由していた。この区間は急こう配が続く難所。大垣~関ヶ原の下り線も同様に急な上りこう配があった。  そのため下りは国府津・大垣で、上りは沼津で補助機関車を連結するのだが、連結に要する時間はたったの&strong(){30秒}だった。  さらにとんでもないのが坂を登りきった後。国府津・沼津からの補助機関車は御殿場駅で、大垣からの補助機関車は柏原駅で&font(#ff0000){走行中に補助機関車を切り離していた。} これらのような荒技とも言える数々のありえない行いによってこの大幅な時間短縮が実現、燕は一躍人気列車となった。 #image(DSC_0906.JPG,width=717,height=398,left) ▲静岡停車になってからは東京~名古屋でもC53が使用されるようになった。最後尾には1等展望車が連結されている  ただし、1934年に丹那トンネルが開通したことにより東海道本線は今の熱海経由のルートに切り替わった。これによって国府津・沼津での補助機関車の連結がなくなり、さらに所要時間に余裕が出ることから静岡に給水目的の停車をすることで水槽車の連結も取りやめになった。 #image(DSC_0908.JPG,width=715,height=318,center) ▲C53にはこんな流線型の車両も。当時の流行のスタイルだ。 }}}

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