薔薇乙女寿史料館

ひいらぎレールジャーナル第四回

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healagi

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すっかり九州新幹線の列車として定着した「つばめ」。
だが過去は国鉄の看板列車として本州を駆け抜けていたことがあった。
今回はそんなつばめの生い立ちを語ってみようと思う。

アクロバティック超特急”燕”


1929年、東京~下関間に1日2往復走ってた特別急行列車に公募により愛称が付けられることになり、結果得票数1位の「富士」と3位「櫻」が採用され、2位の「燕」はその後新設される特急列車まで温存されたのは第二回でも少しふれた。

 そして翌年1930年、晴れて特急「燕」は東京~神戸でデビューする。

▲最初の牽引機は東京~名古屋は主にC51、名古屋~神戸はC53が担当していた。

 燕の恐ろしさはその速さにあった。

 特急「富士」「櫻」は東京~大阪を10時間50分ほどで結んでいた。
これに対して、燕は同区間をなんと2時間30分早い8時間20分で結んでいたのである。
ちなみに東京~神戸の全区間の所要時間は9時間である。


 この驚異的な早さから、人々は燕を「超特急」と呼んだが、その実現のために当時の鉄道省は相当な無茶をしていた。

 東京~国府津は電化されていたため、通常ならば東京から国府津までは電気機関車、国府津からは蒸気機関車によって客車をけん引していたが、国府津での機関車交換の時間を惜しみ、東京から蒸気機関車の牽引とした。

 途中の停車駅は絞りに絞って、下りは横浜・国府津・名古屋・大垣・京都・大阪・三ノ宮、上りは上りは三ノ宮・大阪・京都・名古屋・沼津・横浜のみであった。

 特に国府津・沼津~名古屋は運転停車なしの完全なノンストップ。
蒸気機関車は水を大量に消費するため定期的に給水目的での停車が必要だったが、燕では機関車と客車の間に水槽車を連結し、走行中の給水を可能にした。

 また乗務員の交代要員をあらかじめ前の方の席に待機乗車させ、走行中に交代を行うということもやっていた。
機関車と客車には今述べた通り水槽車があるので、交代する乗務員は水槽車の外に設けられた小さな歩み板をつたって移動するという危険極まりないことをしていた。

 さらに肝心なのが下りの国府津・大垣、上りの沼津停車である。


 この時の東海道本線の国府津~沼津の区間は今の 御殿場線を経由していた。
この区間は急こう配が続く難所。大垣~関ヶ原の下り線も同様に急な上りこう配があった。

 そのため下りは国府津・大垣で、上りは沼津で補助機関車を連結するのだが、連結に要する時間はたったの30秒だった。
 さらにとんでもないのが坂を登りきった後。
国府津・沼津からの補助機関車は御殿場駅で、大垣からの補助機関車は柏原駅で走行中に補助機関車を切り離していた。

これらのような荒技とも言える数々のありえない行いによってこの大幅な時間短縮が実現、燕は一躍人気列車となった。

▲静岡停車になってからは東京~名古屋でもC53が使用されるようになった。最後尾には1等展望車が連結されている

 ただし、1934年に丹那トンネルが開通したことにより東海道本線は今の熱海経由のルートに切り替わった。
これによって国府津・沼津での補助機関車の連結がなくなり、さらに所要時間に余裕が出ることから静岡に給水目的の停車をすることで水槽車の連結も取りやめになった。

▲C53にはこんな流線型の車両も。当時の流行のスタイルだ。

花形特急として君臨した戦後


 戦争が激化してくると特急列車は廃止され、戦後もしばらく特急列車が運転されない日々が続いた。

 そんな中、1949年に東京~大阪を結ぶ待望の特急列車が登場。
その名も「へいわ」という、文字通り平和を願ってつけられた名前だった。

▲戦後の非電化区間では国内最大級の蒸気機関車C62が牽引を担当、ヘッドマークも付けられるようになった

 しかし特急列車に慣れ親しんだ人には「へいわ」より「つばめ」が良かったのだろう。
翌年には「つばめ」に改称される。晴れてつばめ復活だがこの時からひらがな表記の「つばめ」となっている。


 また同じ年には僚友として特急「はと」が登場。シンボルともいえる一等展望車やリクライニングシート付きの特別二等車という豪華な車両を連結。

つばめの一等展望車

さらに「つばめガール」「はとガール」と呼ばれる女性の客室乗務員を配しれ車内サービスを行うという他の列車との差別化が図られた。

当時の有楽町のあたり

 この時東京~浜松が電化されていることから同区間は電気機関車、浜松~大阪は蒸気機関車が牽引することになったが、徐々に電化区間が拡大。


▲EF58が牽引する「青大将」編成


 1956年に東海道本線全線電化が完成し、全区間を電気機関車EF58が牽引することになった。
その際、外部塗装が「青大将」と呼ばれるライトグリーンに変更された。

 このまま東海道の花形列車としてつき進むかと思われていたつばめだったが1958年を機会にその座が危ぶまれることになった。
 この年に登場した国鉄発の特急型電車151系電車を用いた特急「こだま」の存在だ。

 「こだま」は新製時より全車冷房車、リクライニングシートを採用。さらに東京~大阪を6時間半で結ぶ俊足ぶりを見せる。
 客車これに比べてつばめは遅く、車内も古くて見劣りがするようになってきた。

 そこで「つばめ」も「こだま」同様151系電車に切り替えることにした。

▲今はなき東京駅の15番線にて

 客車時代のつばめの最後部に連結されていた展望車を電車でも再現すべく、1号車(下り側先頭車)には大型窓を採用し側面展望を実現した車両「パーラーカー」が登場。
定員わずか18名と言う特別な車両で「こだま」と差別化を図ろうとしたが後に「こだま」と共通運用になり差がなくなった。
 なお、一時つばめに吸収される形で消滅していた「はと」だったが「つばめ」同様の装備をもった特急として1961年に復活している。

 1962年に山陽本線が広島まで電化され、「つばめ」は運転区間を広島まで延長し東京~広島の900km弱を走破する長距離特急となった。
大阪~広島のダイヤスジはそれまで走っていた特急「へいわ」から吸収。
「へいわ」はこれで2度も「つばめ」に仕事を奪われることとなった。

 とは言ってもこの時の「つばめ」は増発が続き増えに増えた東海道特急の一列車に過ぎないポジションだった。


つばめは西へ


 ここからが本題と言えよう。

 1964年の東海道新幹線開業により、東海道本線を走る列車は大幅に左遷・リストラされた。

▲通称「セノハチ」と呼ばれる区間を補助機関車に押されてがんばるつばめ

 つばめも例外ではなく、僚友のはとと共に新大阪で新幹線と接続し九州を結ぶ特急という新しい仕事を与えられた。

その時のダイヤがこちら。

▲今回から背景を入れてみた

下り列車はつばめが東京8:00発のひかり5号、はとが東京9:00発のひかり7号から接続。
上り列車ははとが新大阪17:00発のひかり22号に接続し東京21:00着、つばめが新大阪19:00発のひかり26号に接続し東京23:00着であった。


 このつばめを走らせるにあたって、2つの問題があった。

 一つが広島乗り入れ時から起きていた問題だが、広島の東側、八本松~瀬野間、通称「セノハチ」という存在。
正確には「大山峠」という場所だが、長い急こう配区間が存在する。

 製造当初この区間を通ることを想定してなかった151系電車ではパワーが足りず、初代燕以来の補助機関車を連結してしのぐことになった。

 ちなみに、今も貨物列車がこの区間を通る時は補助機関車を連結している。


 もう一つの問題が九州内の電化方式が交流であったこと。
今までつばめが走っていた本州の電化は直流だったため、151系は直流専用の電車として造られた。
それゆえ交流電化の区間にそのまま乗り入れられず、下関で交直両用の電気機関車EF30に引っ張られて海を越え門司へ、門司で交流専用の電気機関車ED73に交換されて博多まで運転されていた。

 電気機関車に引っ張られている間は自力で車内電源が確保できないので、サヤ420と言う電源車を連結してまかなっていた。

▲交直両用481系電車による「はと」

 この変則的な運転は翌年、第一回で述べた特急「雷鳥」「しらさぎ」で実績を得た、交直両用の481系電車を投入することで解決した。

 この時、運転区間が名古屋~熊本と、つばめ史上最長の運転区間に延ばされている。

 1972年に、山陽新幹線が岡山まで開通したことでつばめは岡山~博多・熊本に、はとは岡山~下関の運転に改められた。
それと同時に本数が増やされつばめとはとは同系統の特急「しおじ」と共にエル特急に指定される。

 1973年には一部が西鹿児島(現・鹿児島中央)まで足を伸ばしている。

 そして1975年に山陽新幹線が全線開通したことで、「つばめ」「はと」は廃止された。

 この時代、すでにつばめは国鉄の主役から遠ざかっていたのであった。


そしてJR九州でよみがえるつばめ


 つばめの廃止から12年経った1987年、国鉄は分割・民営化されJRグループが発足した。

▲旅立ちJR西日本号、テールマークもつばめを模している

この時運転された記念団体列車「旅立ちJR西日本号」にはかつてつばめで使われていた一等展望車が連結されていた。
 つばめが廃止されて12年が経っても、やはり国鉄と言えば「つばめ」という印象が強かったのかもしれない。

 と、同時にこの車両で運転することは、つばめとの永遠の決別をも暗示していたのかという思惑を感じることもできた。

 しかしそんなことはなかった。

▲デビュー当初の783系電車

 1988年、JR発足後最初の特急型電車として、JR九州が783系電車、通称ハイパーサルーンをデビューさせた。

 この電車は博多~熊本・西鹿児島の特急「有明」に使用されることになったが、ほどなくして博多~西鹿児島の列車を別の名前にして独立させた。

▲デビュー当初の787系電車

 それが、1992年に登場した特急「つばめ」であった。

 写真の787系電車はつばめ型電車と言われるほど、「つばめ」のために造られた電車だった。

 食堂車はないが久々にビュフェ車を備え、「つばめレディ」という女性客室乗務員がサービスを行う。
 まさに現代版のつばめと呼ぶにふさわしかった。

 なお、つばめ設定当初は787系の数が少なく、783系も多く投入された。
783系に乗務する客室乗務員は「ハイパーレディ」と呼ばれていた。


こうして順調に新たに九州の顔となっていったJRのつばめ。
1993年には夜行の「ドリームつばめ」も登場した。


 しかし、進化はとどまることを知らなかった。


▲博多駅にて

 2004年、九州新幹線の新八代~鹿児島中央が暫定開業。
つばめの名は九州新幹線の列車に使用されることになった。

 博多~新八代は787系を使用した「リレーつばめ」が運転されたが、ビュフェ車は廃止。
代わりにDXグリーン車が新たに用意された。


 新幹線の名前になったことで、九州新幹線全線開通の暁にはつばめは再び東京に顔を出すのではないかと期待が寄せられていた。


 しかし、実際に山陽新幹線乗り入れを果たしたのはかつての寝台特急の名前である「さくら」「みずほ」であった。

 そればかりか、日中は運転区間が博多~熊本の各駅停車タイプに限定されてしまった。
(朝晩とか、一部は鹿児島中央まで走っているが本数的には小数派)

 つばめにしてみればさくらはかつて格下の特急だったので下剋上という感が否めなかった。
(さらに言えば、みずほもさくらより格下の寝台特急だったのでこれも下剋上感があった)


 こうして今は、博多で「のぞみ」や「ひかり」と接続し、遠くから来たお客様を運んでいる。


 2012年3月17日ダイヤ改正では「つばめ」にも動きがある。
一部列車が山陽新幹線に乗り入れ、小倉・新下関まで運転されるというものである。

わずか1・2区間の延長ではあるが、新下関行きが出来たことで定期列車の「つばめ」は実に37年ぶりに本州に乗り入れることになる。

2012年2月25日


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