主な反西日本運動

第二次大津事件(だいにじおおつじけん)

緊迫した世間の中で・・・

島田真北暗殺未遂事件から数日後、特に混乱が深刻になりがちだった大津市の柳川より北を西日本が、南を東日本が統治していた。
しかし、南大津で反西・反社会主義運動が発生し、「柳川の壁」を崩壊させ、大暴動へと発生した。

流血鎮圧

北上する南大津市民は西日本共産党本部など西日本の政治に関する建造物を次々と破壊しようとした。そこで、庭園国家主席は「格差社会の酷くなっている日本で、これ以上格差を拡大させるわけにはいかない。ニート、富豪など楽している者と失業者やフリーターなど苦労している者を交換させるべきだ」という声明を出し、社会主義のあり方を説いた。しかし、南大津市民はますますそれに反発し、暴動は再燃していった。
そこで西日本政府はついに武力鎮圧を断行。471人の犠牲者を出してしまった。

南大津の西有化

暴動が鎮圧されたが、東西統一に意欲的であった東日本の東雷児首相は西日本政府の対応を激しく非難した。しかしそれに対し庭園主席は統一に反対した。それどころか、庭園主席は「統一にはまず南大津市民の浄化が必要である」と言い、反対派を東へと送還し、南大津を西日本領とした。

淀川事件(よどがわじけん)

大阪府淀川区の淀川第八高校で、反社会主義団体の「緑翼賛団」の団員18人による生徒殺傷が行われた。死者39名(うち生徒34名)、負傷者172名。

鳥取事件

鳥取市で、ニートら59人が市内の若い女性を次々と殺害し、反社会主義を掲げ武装蜂起した事件。ニートらはその後鳥取市役所に火炎瓶などで破壊し、その後軍隊が出動し鎮圧するまで8日間蜂起が続いた。

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最終更新:2006年12月26日 22:52