井垣康弘の期待
井垣康弘は
元少年Aが少年院を退院した直後の2006年2月に『少年裁判官ノオト』で「自らの言葉で綴った『手記』を発表してほしい」と書いた。だが井垣康弘が
元少年Aに最後に会ったのは2003年で、2018年の段階で
元少年Aと連絡は取れていないという。
手記の編集
2012年冬、
元少年Aは幻冬舎の見城徹のもとに手記出版を希望する手紙を送った。封筒の裏には差出人名として「
元少年A(酒鬼薔薇聖斗)」と書かれていた。その文字は事件の際に犯行声明の字体と同じだったという。手紙の最後には今後の連絡のためにフリーメールのIDとアドレスを共有し、下書き欄でやりとりする方法が提案されていたという。
それから2年に亘って編集作業が行われた。見城は匿名で小説を書くことを提案したほか、
元少年Aが最初に書いた原稿が贖罪意識に乏しいとしてゼロから書き直させたり、まったく構成を変えて書かせたこともあったという。
2015年1月になると『週刊新潮』が手記出版の予定を報じた。土師守さんは取材に対し「本を出すとは、全く聞いておりません」「“メディアに出るようなことはして欲しくない”と、早い時期から要望してきた」と答えた。また幻冬舎も出版の予定はないと回答した。見城徹によれば、この時点で幻冬舎からは出版しないことを決めており、
元少年Aに対して太田出版を含む3社を提案していたという。
『週刊新潮』の報道で初めて手記出版の予定を知った青島多津子は
元少年Aに電話をかけ厳しく叱責したという。これに動揺した
元少年Aは見城徹に「もう出さなくていい」と言い出版を一度白紙にしたが、3月初旬、太田出版から出版すると伝えたという。手記を書くことに専念したいとして
元少年Aが見城徹から借りた金額は400万円以上になっていたという。
手記の出版
元少年Aが命日の近くに送ってくる手紙を読み、山下京子さんは2015年3月23日付の毎日新聞で、加害男性を崇拝するこどもたちが「男性の今の償いの気持ちを知れば、ふと立ち止まるのかな」と語った。また同年5月24日、土師守さんは報道各社に寄せた手記で、昨年までと異なり事件の真の原因について「彼なりの考えをつづっていたと思う」と記した。
2015年6月10日、手記
『絶歌』が出版された。書籍の最後には「被害者のご家族の皆様へ」という一文があり、遺族に対して無断で出版したことへの詫びの言葉を述べたのち、出版した理由として、少年院退院後の11年の自分は「虚像」であり「自分の言葉で、自分の想いを語りたい」とした。
一方で、6月22日にAから送られてきた手紙を読んだ山下京子さんは「B5用紙にほんの十行ほどが印字されており、まるで本の送付書のようでした。」とコメントした。
週刊誌への手紙
8月31日、
元少年Aは『週刊文春』に掲載された見城徹のインタビューが事実とは異なるとする手紙を同誌を含む複数の週刊誌に送った。それによると、太田出版以外の出版社の社名を聞いたことはなく、見城徹が3社のなかから任意で選ばせたという「みみっちい嘘」をつき「自分だけ無傷で逃げおおせたかった」と罵った。
この手紙を読んだ見城徹は、出版を手助けしたいという自分の想いが
元少年Aに対して「全く通じていなかった」とし「関わってはいけない人」「あまりに思い込みが激しすぎて相手にするに値しない」と周囲に語ったという。
最終更新:2019年03月28日 10:56