年度単位で作られたカレンダーの残り枚数が、もうあと二枚になった。教室の後ろの黒板には、黄色のチョークでこれみよがしに大きく描かれた「卒業まであと26日」の文字が躍る。「26」の部分は、前回の登校日から書き換えられていない。今日は本来なら、その数字は、もう十ばかりマイナスされていなければならない。
僕はその日、国公立大学の二次試験まで二週間を切ったということもあって、一人黙々と過去問題集に向かっていた。二月に入ってからは、登校してくる三年生はめっきり減ってくる。数度ある登校日を除いては、出席必要日数にカウントされなくなるからだ。とは言え、試験に向けて「アキレス腱」となる科目を抱える者にとっては、家で安穏と机に向かっているわけにはいかない事情がある。僕のそれは、英語だった。今さら予備校に行く気にもなれず、ここぞとばかりに英語教師を利用する僕は、ともすれば鬱陶しい生徒になっていたのかも知れなかった。
さっき一瞬目に付いたカレンダーに目を移す。三月一日まで、あと十六日。二月十三日かと思ったが、担任が前回の登校日の時に口にした、こんなクサいセリフを思い出した。
「今年は閏年やからな。お前らは、他の年より一日だけ長く、うちの生徒でおれるんやぞ」
この、もう中年と呼ばれるに何らの差し支えもない社会科の教師は、多分四年前にも同じことを言い、四年後にもまた、同じことを言うのだろう。ということは二月十四日か、と納得した。世間はバレンタインに湧いているのだろうが、僕には何の関係もないことだ。
再び、過去問題集に目を落とす。
「It's high time to face the issue on a global scale.」
何が書いてあるのか、さっぱり分からない。英語教師はもとより、他の国語、社会の二教師にも、英語で六割は確保したい、ということを言い含められている。六割、即ち合格スレスレのライン。「英語だけで落とされることがないように」という配慮は、痛いほど分かった。そのラインを目指す僕の前に、相変わらず、「イッツ ハイ タイム トゥ フェイス……」が立ちはだかる。
悩みながら、僕はふと、一ヶ月くらい前にここで勉強していた夕方のことを思い出した。
センター試験前々日の木曜日、その日も僕は一人、こうやって机に向かっていた。もしかしたら国公立狙えるかもしれんな、と担任からも進路部長からも言われていた。僕自身、最近の数度の模試で、何となく手応えはつかみ始めていた。年度当初は、中堅やや上の私学さえ絶望視されていた成績だったのが、夏を過ぎた辺りから面白いように伸び始めたのである。
「まあそれでも、試験は水物やけどな。油断するなよ。前原、お前のことやぞ。」
何度か失敗した生徒を見てきたのだろう。担任は、戒めるように何度も繰り返した後で、必ず名指しで僕を呼んだ。しかし、僕にとってその言葉は、何らの戒めにもならなかった。自分にチャンスがあるとすれば、その「水物」の所にしかなかったからだ。今している勉強は、どんな「水物」が来ても、それを受け流さずに如何に自分のものにしていくかという、それだけのためのものである。
五時を回ると、周囲の田んぼを浮かび上がらせていた日も、その姿を隠してしまう。僕は忙しく動かしていた手を止め、大きく息を吐いた。その時不意に、教室の前の廊下に立つ人影に気付いた。見慣れた制服―自分の学校だから当然なのだが―の女子が一人、所在なさげに立っていた。
「高神さん……」
僕は、相手に聞こえたかどうかも分からないような声で、そう呟いた。相手も、呼ばれたことに気が付いたのか、一瞬目を逸らしたが、すぐに向き直り、そのまま教室に入ってきた。
「図書館、終わっちゃって……」
彼女はそう言いながら、自分の席の方へと歩いていった。どうやら、置いてあった鞄を取りに来たようだった。僕は、その動きをあまり目で追わないように、もう真っ暗で何も見えなくなった中庭の方に目を遣った。
高神理絵。ほんの数ヶ月前までは、名前だけを知っている存在だった。呼びにくい苗字からか、周りにいる他の女子からは、りえちゃんとか、たかちゃんと呼ばれていた。
彼女の、名前以上のものを初めて知ったのは、忘れもしない、十月十日の放課後。
その日、補習が終わって駅へと向かって歩き始めた僕は、たまたま前を歩く彼女の背中を見つけた。同じクラスだということ、そして名前だけは知っていたが、それ以外は本当に何も知らなかった。話題は、あった。ついさっきまで、恐らく同じ教室で受けていた英語の補習。その最後に行われた、単語テスト。当然僕の出来映えは目も当てられなかったが、それはむしろ、話題になる。
僕の容姿は、お世辞にも格好良いとは言えない。それは遡れば、小学生の頃からのコンプレックスだった。自分から女の子に声をかけるなんておこがましい。後で、どんな風に言われるか分かったものじゃない。馬鹿な話だが、真剣に、そんな風に思っていた。
その時僕の背中を押したものは、一体何だったのだろうか。僕の足は、自然と彼女の背の方に向かい、口からはごく自然に、言葉がすべり出た。
「さっきの単語テスト、どうやった?」
時間にしてみれば、十秒にも満たない、短い短い言葉。その、溶けてしまいそうなほど淡い一瞬の言葉が、僕と彼女の間に小さな架け橋を作った。こういった関係を築くことに対して、晩生でもあり、また臆病でもあった僕の、何かが変わった瞬間だった。
話してみると、拍子抜けするほど、会話は弾んだ。その日以来、木曜日の放課後が待ち遠しくてならなかった。英語が得意な彼女と、少しでも話題の内容を共有できるようにと、単語テストの勉強に念が入るようになった。
もちろんこの件だけではないだろうが、僕の偏差値が目に見えて伸び始めたのは、ちょうどこの頃からであった。三ヶ月につき、1か2ずつ程度しか伸びていなかったものが、十一月の模擬試験で、前回の八月から7も伸びていた。
しかし、その結果が帰ってくるくらいから、彼女との間に少しずつ距離が出来始めた。原因は、他でもない僕にある。小さく脆い架け橋に、何を勘違いしたのか、大きな期待をかけすぎてしまったのだ。分相応、という言葉は、初めての経験ですっかり舞い上がってしまった僕の頭からは、ぽっかりと抜け落ちてしまっていた。橋脚を繋ぎ止める綱は、その負荷に耐えられえず、少しずつきしみ始めていた。
クリスマスに正月、一般に「受験生にはそんなものはない」といわれる種々のイベントを含んだ短い冬休みを経ても、僕と彼女の関係は元には戻っていなかった。それでもお互いに、もうそんなことを気にしている余裕はなくなっている。僕たちは、と言うより多分僕だけだろうが、そのことを上手く記憶の片隅に追いやりながら、志望の大学へ向けての追い込みに入っていた。そんな中で、この日、センター試験前々日の一月十五日の放課後を迎えた。
気まずい関係は、お世辞にも修復されているとは言えない。それでも、冬休みに入る前には完全に没交渉状態になっていた会話が、たった一言であっても成立した。そのことが嬉しかった。
何も見えない中庭の闇にしばらく目を泳がせていたが、彼女が帰る気配は一向にない。持っていた参考書とノートを鞄に入れるだけで済むはずなのに、いつまでもごそごそやっている音がする。僕はとうとうしびれを切らし、音の方にほんの少しだけ視線を向けた。
その時、何の悪戯か、彼女と完全に目が合ってしまった。彼女の方も、僕の様子を伺っていたのである。ここまでは、さっき彼女が教室に入ってきた時の様子と同じようなものだ。ただ、この後がさっきまでとは違った。僕たちは互いに目を逸らすことなく、見つめ合った。
「あ……」
何か言いかけて、音が重なる言葉。その一瞬の和音の後、すぐに訪れる静寂。それでも僕たちは、目を逸らすことはなかった。何ヶ月か前、一度は手に入れ、そして一度は手放してしまった時間を手繰り寄せるかのように。
「なんか……その……ごめん」
何について謝ったのか、当の僕にも分からなかった。また彼女と同じ時間を過ごしたい、という思いだけがあり、それが自然に言葉になって出てきたのだと思うしかなかった。
そしてこれは、不思議なことだと言うしかないが、その一言の謝罪だけで、僕と彼女の間にしばらく横たわっていた溝は、一瞬の内に塞がってしまった。僕たちは見つめ合ったまま小さく笑い、しばらく二人で勉強して、一緒に帰ろうか、という平凡すぎる結論に達してしまう。
「それやったらさ、ここ教えてくれへん? 現代文なんやけど、解答見てもさっぱりで……」
彼女はそう言って、さっきまで鞄に入れるのに手間取っていた参考書とノートを僕に示した。国語、こと現代文においては、僕の右に出る者はこの学校にはいない。あの、何かにつけて戒める担任の教師でさえも、その点だけは認めている。国立の
トップ校の問題でも、僕にとってはさして難しくない。何故か、と聞かれると困る。ただ、分かる、としか言えない。
彼女が差し出した参考書に書かれた大学は、僕の目指す大学とは随分離れた所にある。だから何だというわけでもないのに、彼女はこの街を出て行くのか、と思うと、無闇に寂しい気分になった。
「ここ、第一志望なん?」
僕は、何となくそう聞いてしまった。彼女は少し逡巡した後、言葉を選ぶように言った。
「うーん、私学も受けるから、迷ってる。ここやったら家出なあかんし」
彼女が地元の私学に受かっている話は、何となく耳にしていた。そうか、迷ってるのか、と適当に自分を納得させた。
彼女に一通り国語を教えてあげた後、僕も英語を教えてもらった。彼女も、僕の国語と同様に、英語に関しては絶対の自信を持っている。そういう棲み分けが出来ている人と勉強するのは、効率も良く、何より楽しい。今この瞬間だけは、異性としてではなく、単純にそういう良きパートナーだとして意識した。
そうこうしている内に、時計の針は七時を回った。このくらいの時間になると、巡回の教師が回ってきて半ば強制的に校舎から出されてしまう。僕たちは、その憂き目に遭う前に、自発的に荷物をまとめて外に出た。夕日の残した微量の暖かささえとうに失った空気は、凍り付くほど冷たい。どちらから言い出すともなく、駅までのちょうど中間くらいにあるコンビニに寄り、そこで温かい中華まんを買った。かじかんだ指には、熱すぎるほどの肉まんの熱も、温かく感じられた。彼女が買ったのはあんまんで、肉まんよりも一回り小さかったが、彼女の小柄な身体にそれは、驚くほど合っていた。
「いよいよ、センターやな」
「うん……」
分かり切った会話は、長くは続かない。中華まんを頬ばる息づかいに混じって、沈黙が僕たちの間に流れる。途中、車道の横のわずかなスペースを通らなければならない場所を、僕たちは縦に並んで歩いた。後ろを歩いた僕には彼女の小さな背中が見えた。
できることなら、駅までの距離がもっと長ければ良いと思った。そうすれば、まだ彼女といられる。塞がった思ったと溝は、まだ案外残っている。できれば、もしかするとこれが最後になるのかも知れないのだから、完全に塞ぎきってしまいたい。それ以上に近づきたいなどというおこがましいことは言わない。ただ、もうこれ以上、離れたくはない。
駅の地下道に続く階段が、少しずつ近づいてきた。地下道には、二つの改札口がある。僕と彼女は、そのどちらかの改札を一緒にくぐった所で、別れなければならない。それぞれ反対側のホームに別れ、別々の方角に向かう電車に乗る。その時間はもう、すぐそこまで迫っている。
「……ありがとう」
何も言えなくなっている僕に代わって口を開いたのは、彼女の方だった。僕は、何に礼を言われているのかも分からないまま、何となく、いや、こちらこそ、と言った。
「私、前原君おらんかったら、ここまで成績伸びたか分からへん。他の人から聞いたんやけど、前原君って十一月くらいからめっちゃ成績伸びたんやろ? それって、ほんまにすごいことやと思うわ」
そう言って、私も実は同じくらいから急に伸び始めてん、と続けた。
志望校に急激に近づいていったのは自分ばかりではなかった。彼女の偏差値もまた、上昇カーブを描いていたのだ。彼女はそれを、僕のおかげだという。嬉しいと言うよりも、気恥ずかしさばかりが先に立った。
俺の方こそ、高神さんのおかげで、と言いかけて止めた。また、大きすぎる期待をかけようとしている。そんな自分が嫌で、その気持ちが、すんでの所で口をつぐませた。僕は、へぇ、とありきたりすぎてどうしようもない返答をした。返答にすらなっていないような、掠れた声だった。
「学校でさ、私が図書館から帰ってきた時、謝ったやんか? ……あれ、なんで?」
僕の足は止まった。その理由だけは言えない。それを言うと、必然的に、僕の気持ちまで言わざるを得なくなる。僕は卑怯にも、何も言わずにその問いを黙殺しようとした。
「私、びっくりしてん。何も謝られるようなことされてないのになぁって。それで、なんか笑っちゃった」
彼女は多分、全て分かっていたのだろう。その上であえて、こんな問いを僕にぶつけているのだ。それは別に意地悪でもなんでもなく、純粋に僕の口から聞きたいという、ただそれだけなのだろう。もしかしたら彼女は、その「気持ち」の部分さえ、聞きたかったのかも知れない。
「……ううん。なんか、あの黙ってる感じが気まずくて言っちゃっただけ。ごめん、変なこと言って」
そう言いながらまた謝っているのもおかしなことだが、僕にはもう、そんなことを気にかける余裕さえなかった。最後の言葉、それに、おつかれ、という一言を添えたものを言い捨てたまま、足早に改札をくぐり、ホームに向かう階段を上り始めた。この階段を上り始めれば、少なくとも翌日までは、彼女と話すことはなくなる。それは、これまでの経験から何よりも分かっている。この状態になることを少しでも遅らせるためにした、数々の涙ぐましい努力は、僕の愚かさの象徴のようなものだ。忘れるはずもない。
彼女は、わざとらしく足音を立てて階段を上っていく僕の背中に、二言、三言と言葉を投げかけていたが、僕がその言葉に足を止めることはなかった。階段を上り切った所にタイミングよく滑り込んできた準急に飛び乗り、いつもと同じように駅を後にした。
そんなことを思い出しながら、僕はいつのまにか眠ってしまっていた。換気のために少しだけ空かしてある窓からの冷たい風で、僕の思考は再び二月十四日の教室に戻ってきた。時計の針は、もう五時を回ろうとしている。
あの日から、明日でちょうど一ヶ月。あの三日後のセンター試験、僕の英語の点数は、どうしても越えられなかった百五十点の壁を軽く越え、百六十五点に達した。奇跡か、皮肉か、そのどちらかは分からないが、とにかく僕はそれで、念願の国公立を受験する段階に至った。
あの日、足早に階段を上る僕の背に彼女が放った言葉。聞いていないようなふりをしていながら、僕は全てを聞いていた。内容から声の感じまで、目を閉じるだけではっきりと浮かんでくる。
「一ヶ月後、二月十五日の夕方、また教室に来て。話したいことがあるから」
彼女が、何故一ヶ月も間を空けようと思ったのか。そして、そこで何が言いたかったのか。今となっては知る術もない。登校日を外し、受験まではまだ少し日があるから、その日を選んだのだろうか。それとも、そんな計算はなく、ただあの日の日付に一月を足してそう思っただけなのか。
僕は明日、学校に来る予定はない。指導を頼んでいる英語や国語の教師にも、その旨は伝えてある。次に来るのは明後日。その時までに、少し溜まってしまった過去問をやって来なければならない。幸い、明日は家に家族がいないので、部屋にこもってやってしまおうと思っている。
僕はもう、彼女に会いたくはない。会えば絶対に、一生忘れられなくなってしまう。そうなってしまえば僕は、彼女と共有する時間の獲得と喪失を繰り返したこの何ヶ月かを、一生なぞり続けることになる。それは、僕自身のためにはもちろんのこと、彼女のためにも、絶対に許されることではない。
そう決めたのに、僕の胸には、まだ未練がましく彼女の残影がある。明日会えば、もしかすると、昔かけた大きな期待がいとも簡単に叶えられるのかもしれない。そんな幻想が頭をもたげる。しかし、それではいけない。僕のエゴなのだろうが、僕はもう、彼女に会うべきではないのだ。
僕は席を立ち、教室後ろの黒板に向かった。白く粉が巻いた黒板消しで「26」の文字を丁寧に消し、黄色のチョークで「16」に書き換えた。卒業まで、あと十六日。その日を過ぎれば、僕も彼女を卒業できるのだろうか。この胸を締め付けるような思いは消えてくれるのだろうか。夕日に浮かび上がった教室で、僕は静かに泣いた。声はなく、嗚咽もない。ただ涙だけが一筋、二筋と、頬を伝って流れていった。
最終更新:2009年06月25日 00:39