溶けない雪が、少しずつ地面を白く染め上げて行く朝。もう何度、こんな光景を見たか分からない。
僕は、雨除けにしていたガレキの下を這い出し、その上に立って大きく深呼吸をする。多分、降ってくる灰も、そこら中に飛散している放射能も、全部体内に吸い込んでいるはずだけど、もう気にすることはなくなった。
僕のすぐ後に、彩も起き出してきた。苗字は、大崎。三ヶ月くらい前までは、苗字で呼ぶどころか、ほとんど話したこともなかった。付き合いだしてからは、それが一気に、名前で呼び捨てに変わった。
「おはよう」
「ん……おはよ。朝? 薄暗いから分かんないんやけど」
そんなことは、僕にも分からない。時間の感覚なんて、とっくに失われている。時計もラジオもテレビも、ちょっと前まで当たり前のように存在していたものは、何一つ無い。太陽の光も、もう地表に届くことはなくなっている。
全部、本当の話だ。
世界では、ある日突然核戦争が始まった。独裁国家がこの国に核兵器を撃ち込み、それに対して、世界一巨大な国と協力して報復。その報復攻撃に、また世界一人口の多い国が再報復。そんなことが、何年か続いているうちに、僕たちの住んでいた街も、生まれ育った家も、全部原型を失った。この国ばかりではない。何処の国でも、概ね似たような状況になった。
もう一つ、嘘のような本当の話がある。
戦争が始まって少し経ったころ、直径二十キロくらいの隕石が、地球にぶつかるというニュースが流れた。戦争に夢中な人たちは一笑に付したが、それから何年かが経ったある日、爆音が突然止んだ。前日までは、BGMのようにのべつ幕なしに鳴っていた音が。それで、隕石が衝突するという話は、一気に真実味を帯びた。この星が終わる時、人類は不思議なほど落ち着きを取り戻した。
それからの日々は、緩く、静かに流れた。核が残した灰と放射能だけを眺めて、皆がその日を待っていた。
彩とは三ヶ月前、大学のキャンパスが吹っ飛んだ日に、付き合い始めた。戦争が始まっても、別に大昔のような徴兵がある訳でもなく、「今日はどこそこの市が消滅しました」とか「明日はどこそこの国が攻撃される模様です」なんてニュースの横で、それまで通りの生活を続けていた。長い長い時間が、多くの人から「戦争」というものの現実性を奪っていた。
僕と彩は、さすがに目の前でキャンパスが消えてなくなったので、そこで現実性を持てた。でもそれは、驚くほど遅かった。
多分隕石の話でも、そうなのだと思う。衝突してから初めて、多くの人がそれを現実と認識することになるのだろう。
「皮肉やね、でも」
白くかすんだ景色を見つめながら、彩が呟いた。この話も、もう何度しただろう。続きは、僕が宙で言えてしまう。
「こんだけおっきな戦争やったのに、結局は隕石で滅びるなんて、やろ」
「うん」
爆弾が結構至近距離に落ちたのに、何故僕と彩だけが助かったのかは、よく分からない。気が付いたらガレキの下に埋もれるように倒れていて、すぐ横に彩もいた。
他のガレキの下を探ると、人ではなく、食べ物や水が見つかった。布団なんかも、何組か残っていた。
僕たちには、何の疑問もなかった。目の前にある物を食べ、その横の布団にもぐりこんで、顔だけは知っていたような二人でセックスをする。お互いに、「何で生きてるんやろ?」も、「これ、食べて大丈夫かな?」もなかった。
それでも、僕たちは健全に付き合っていた。二人で初めて寝た次の朝、一応告白し合い、それで大体合意が取れたので、恋人関係になった。戦争が現実性を持って迫ってきてもなお、僕たちはどこかで大学生を続けようとしていた。
ガレキを積み直し、落ちていた食べ物や飲み物、焼け残った本や服を集められるだけ集めて、小さな部屋を作った。「これからどうしよう?」さえ、なかった。死ぬのも何だし、まあ、とりあえずこうしようか、という合意が自然にできていた。
自分たちが異常なのかも知れない、と思ったこともある。でも、爆弾の雨がピタリと止まった時、自分はどこまでも正常だったと確信した。人は多分、自分の力ではどうしようもない何かが目の前に出てきたら、こういうことになるのだろう。
彩と二人で、昨日見つけてきたパンを食べた。表面はカサカサだったけど、寒さのせいか、カビは生えていなかった。
「いつ衝突するんかな」
「分からんなー、そればっかりは。情報とか、もう全然入って来なくなったもんな」
このままの日々が続くなら、それはそれでいいのかも知れない、と思い始めている自分がいる。
僕たちは大学が消し飛んでから、お互い以外の人間に会っていない。人を探そうという気も起こらなかった。だからかどうかは知らないが、まだ、彩とは一度も喧嘩したことがない。その日々に、何の不満もない。
食べる物も飲む物も適当にある。話し相手もいる。大学の図書館も、奇跡的に外壁が崩れただけで助かっていて、そこに行けば読む本も無数にある。僕たちは多分、真面目に授業を受けていたころよりも、遙かに豊富な知識を身に着けてしまっている。僕だけが吸う煙草も、壊れた自販機を漁ればすぐに見つかる。満足さえ知れば、充分に満ち足りた生活を送れる環境は、残念ながら健在だ。
素っ裸で水浴びすることも、民家の跡地から見つかるダサい服を着ることも、何も恥ずかしくない。ほとんど話したこともなかった人と、それだけ気の置けない関係になっているのも、不思議と言えば不思議だった。
「今日はどこ行く?」
普通にデートに誘うように、呼びかけてみた。僕より食べるのが遅い彩は、まだ残ったパンを、口の中に水を含んでふやかしながら食べていた。
「どうしよっかな。本読みに行くか、ゆっくりしてるかがいいんやけど」
僕もちょうどそうしたいと思っていた。こういう時、二人の気持ちはまだずれたことがない。
結局、間を取って、拾ってきた本を読みながら、家代わりの場所でゆっくりすることにした。
「退屈してる割には、読んでない本も結構溜まってきたな」
「だって、武ちゃん同じの何回も読んだりするんやもん。ジャンルも偏ってるしさ」
「そんなん言うたら、お前やって一緒やんけ」
「私はそんなに偏ってないし。理系でも文系でも読むよ。武ちゃんは文学か歴史か医学だけやもん。あと新書」
言われてしまうと否定はできないが、そんなに偏ってるとも思えない。最も彩は、本当に何でも読む。僕もそこそこ乱読のつもりだったけど、彩には負ける。
「でも、その分武ちゃん知識深いからいいけど。話聞いてて退屈せえへんし」
それは僕も同じことで、彩から聞ける浅くて広い話は面白い。
「何か、こんな話してたら、卒論の続きが書きたくなってきた。学校残ってたら、そろそろ提出日やもんなー」
毎日毎日、手に取ることさえ苦痛だった資料の束も、名前を見るだけでげんなりしたパソコンのファイルも、恋しくてたまらない。失ったもの、過ぎていったものへの後悔を抱えて、僕たちは日々を生きている。
「あー、分かるー、それ。嫌いやったものほど、懐かしいのは何でなんやろね」
会いたくなかった教授がいた。以前に付き合っていた恋人と、たまに学内ですれ違うのが堪らなく嫌だった。親の小言も、夜のバイトも、みんなそうだ。そういうものばかりが思い出されてしまう。
しばらくすると会話はなくなって、僕たちは別々に本を読み始めた。僕は、以前に読んだことがある近代文学の論文集を再び開いていた、漱石、一葉、芥川、鴎外。胸が締め付けられるほど懐かしい名前が並んでいる。
狂気、という言葉がふと目に付いた。近代文学を考える上では、どうも欠かせない言葉らしい。どの文豪も、何かしらこのテーマにふれ、時には自分自身もとりつかれて死んでいった。
どうしてそうも狂うことができたのだろう。僕たちは、もう本当に明日には死んでいるのかも知れないのに、こんなに落ち着いている。インテリや偉人にだけ許される特権なのかとも思うけど、どうも違うみたいだ。時々心理学の本なんかを読むと、やっぱり何かしら狂気にとりつかれる人はいる。
最近僕は、何となく一つの仮説を立てている。もしかしたらそれは、ある種の心の余裕が生み出してしまっているのではないだろうか、と。
一見すると矛盾している。心に余裕がなくなり、追いつめられたから狂うという図式が一般的だ。
それでもやっぱり、狂うというのは、そこまで事態が逼迫していないからこそ、できるんじゃないかな、と思う。すぐそこの、目に見える所に命の危機があれば、人は何かを声高に叫ぶこともなくなり、あえてそれに抗おうとする気力も失われてしまうということを、今、身を以て体験している。
多分狂気は、そういう余裕と隣り合わせにある。あることを考え、それに悩み苦しむ時間があり、それができるだけの頭の良さもあって、初めて生まれてくるものなのだ。
「また難しいこと考えてるやろ」
彩に論文集を取り上げられて、僕の思考は停止した。こういう飽きっぽい所は、あまり僕とは似ていない。ただそれも含めて、僕と彩は気が合う。
「そんなことないって。フツーのこと、フツー」
「武ちゃんのフツーは、ちょっと高度やもん。そう言えば、大学行ってた時からそうやった。時間があればいつも小難しい本読んでたし、卒論のテーマも、何かみんなとは違う感じやったし」
僕はそうは思わない。卒論のテーマなんてのは、みんながみんな、ちょっと分かりにくくて、それっぽい感じだ。それで中身は空っぽ、というのがお定まりのパターン。僕も例外なくそうだった。
することがなくなって、僕は仕方なく、がれきの上に広がる白い空を見上げた。明日も明後日も続いていくようで、一秒後には終わっているような、よく分からない色だった。
中学生くらいのころ、人並みに「世界の終わり」を友だちと話したことがある。もちろん人並みなので、「誰々とセックスしたい」だの「マンガとかゲームとか盗みまくって、遊び倒す」だの、下世話な話ばっかりだった。
中に一人だけ、ちょっと真面目なことを言ったヤツがいた。
「俺は多分、結局何もできひんと思うけどな。普通に朝が始まって、夜が来て、そんで終わると思う」
確か吉原という名前だった。吉原は今、何処で何をしているのだろう。あの時言ったように、僕たちのように朝を迎えて、何もせずに夜が来るのを待っているのだろうか。
彩と二人で、少し出かけることにした。僕は黒いTシャツにウエストが少しきついダメージジーンズ。彩は白い花柄のワンピースだけ。珍しくヒール付きの靴を履いていた。
「オシャレしたい気分やの。お互い様やん」
こういう時、男のオシャレは楽だなと思う。
歩いてみると、改めて、誰もいない世界になっていることを思い知らされた。途中に燃え残った雑誌が落ちていたけど、一度読んだことのあるヤツだった。
三十分ほど歩くと、隣の大学があった跡地に行き着いた。僕たちの通っていた大学はとても小規模だったので、跡地の大きさも桁違いに大きい。それでもこっちの大学は図書館の当たり所が悪かったらしく、蔵書は一冊も残っていない。そこだけが、少し誇らしかった。
「見事に吹っ飛んでるな」
「多分、こっちの方が爆弾に近かったか、別の爆弾が落ちたか、そんなんじゃない?」
本当は、こっちの学生が少し憎らしかった。偏差値も良くて大規模で、ニュースとかでもしょっちゅう取り上げられる。コイツらは偏差値ばっかりのアホやで。恥ずかしげもなくそう吹いていた時期もあった。
「武ちゃん」
彩に呼ばれて、僕は駆け寄った。足下には、鉄でできた古くさい「法学部」の看板が転がっていた。
「ちょっと、昔の話してもいい?」
「うん」
「私ね、爆弾のあの日まで、ここに通ってる人と付き合ってた。同じ学年やけど年上で、バイト先で知り合ったの。仕事がすっごいできる人で、私の知らないこととかも何でも知ってた。色んな所連れてってくれたし、全然不満とかなかったんよ」
嫉妬の感情が湧いてこない自分が不思議だった。
初めての彼女の時も、二人目の彼女の時も、僕は昔の男の話をされると、途端に不機嫌になった。暴力は一度も振るわなかったけど、途中で帰ってしまったこともある。でも今は、全然そんな気分じゃない。もっと彩の話を聞きたいとさえ思う。
「卒業したら同棲して、お金貯めたら結婚しよう、なんてことも言ってた。ごめん、変な話で」
僕は無表情で首を振った。別に怒っている訳じゃなかったが、どうしても笑顔が作れなかった。
特に散歩の目的もなかったので、二人で来た道を引き返した。
「ねえ、武ちゃん。何かさ、今日で終わるような気がする。全然根拠とかないけど」
僕もそう思っていた。ここまで気が合うのに、どうして出会うのがこんなに遅かったんだろう、と哀しくなった。
寝床に帰り着いたころには、もう、空は白と黒が混じった色になり始めていた。僕は拾ってきたライターで、これまたどこかから拾ってきた理科室にあるようなアルコールランプに火を点けた。ぼやっとした赤い炎が、少しだけ周りを明るくしてくれた。
「メシ、食おか」
拾い溜めていたカップラーメンから、僕はどんぶり型のしょうゆ味を、彩はうどんを選んだ。ペットボトルの水を鍋に空けて、アルコールランプにかけていると、涙がこぼれそうになった。
「ご飯、後にして、しよ?」
彩の問いかけに、僕は迷うことなくアルコールランプを吹き消して、そのまま布団にもぐりこんだ。
無限にあるかも知れない時間を惜しむように、僕たちは二回した。終わったら、食欲はなくなっていた。僕は布団から這い出して、ガレキの上で煙草に火を点けた。パッケージの文字はかすれてしまって何が何だか分からなかったけど、珍しく好みの味だった。
「一本ちょうだい」
後から起き出してきた彩は、僕の答えを待たずに勝手に箱から一本取り出した。
「毒は吸わんのじゃなかったっけ?」
そう言ったときにはもう火を点けていて、すぐに、初心者特有の咳き込みが始まった。
「慣れんことするからや」
涙目になっている彩の背中をさすった。裸では何回も触ったけど、服越しに撫でてみると、本当に華奢なことがよく分かる。思い切り抱きしめれば、簡単にへし折れそうだ。
「よく……こんなん……吸えるね……」
「あーもう、喋らんでええがな」
僕が吸っている分が刺激になってはいけないと思い、慌てて消した。妙な気遣いだけは長けている自分が、いつも嫌になる。
一通りむせ終わった所で、僕は手を放した。そのまま空を見上げるように、ガレキの上に寝そべってみた。空は、もうほとんど黒色がちにはなっていたけど、それでも、まだ白さが分かる。多分この星にはずっと、真っ暗な空は来ない。
「ごめん。でも、一回吸ってみたかったの。どんなんかなあって」
彩のこれまでの恋人は、多分吸わないタイプだったのだろう。最近では吸う方が珍しくなっていて、僕は変わり者の方に入っていた。
「終わるかなって思ったら、色々してみたくなって。でも、全然足りひん。行きたい所も、してみたいことも、まだまだいっぱいある」
僕は違う。確かに僕も人生経験は浅くて、したことのないことは沢山あったが、してみたいとは別段思わない。したいと思ったことだけは、ここまででそこそこやってきたつもりで、その点に悔いはなかった。
「私ね、結婚が一番してみたかった。だから、武ちゃんとの所帯じみた感じがすごく楽しいんやと思う。こんな風に、二人でぼーっとしてみたり、アテもなくぶらぶらしたりして。今まではあんまりそういうこと、なかったから」
平穏無事な世界なら、僕は多分、彩の恋人に比べてずっと平凡で、くそつまらない男だったのだろうと、つくづく感じる。
「ホンマに結婚するか?」
僕がそう言うと、彩は少し逡巡してから、ゆっくりとかぶりを振った。
「ううん。私、白いウェディングドレス着て、バージンロード歩いて、誓いのキスして、両親が泣いてっていうような、俗っぽいけどそういう結婚が憧れやの。だから、武ちゃんとは結婚できひん。ごめんね」
それ以上、何も言うことはなかった。僕は視線を再び空に泳がせて、ゆっくりと目を閉じた。まぶたの裏の色も、空とそう変わらなかった。
子どものころ、眠るのが怖い夜が何度かあった。今寝てしまったら、もう二度と朝が来ない。お父さんもお母さんもいなくなる。そんな風に考えて、布団の端を握りしめて、深夜まで起きていた。いつからかそれも無くなった。どんなに明日が嫌でも、明日は必ず来る。どんなに暗い未来でも、残念ながらそれはある、と悟ってしまった。
先に気付いたのは彩だった。僕はいつの間にか眠ってしまっていて、揺さぶられて目が覚めた。
「武ちゃん、星」
目を開けると、何十年ぶりかに見たような気がする星空が、一面に広がっていた。今までに見たどの星空よりも、くっきり澄んで、一つ一つの瞬きまでよく見えた。
「うわ……すげえ。こんなん、富士山の上とかじゃないと見られへんと思ってた」
「私も初めて。また一つ、良い経験できた」
二人とも、何となく分かっていた。これは多分、隕石が地球の周回軌道に入ったか何かで、空を覆っていた白い物が晴れたのだろう、と。彩と僕の予感は、また大当たりした。
「終わるんやね」
遠くの空に、赤っぽい大きな星が見えた。肉眼でははっきりとは分からないが、どんどん大きくなっているような気がした。
「……ごめん、武ちゃん。やっぱり私、武ちゃんの所では死ねないや」
その答えも、とっくに分かっていたような気がする。僕は寝転がったまま、顔だけを彩の方に向けて、あごをくっとしゃくった。
「武ちゃんのこと愛してるし、この三ヶ月はすっごく楽しかった。でも、やっぱり腕の中で死にたいって思えなかった」
今日オシャレをしていた理由が、ようやく理解できた。彩は今日、僕とデートしたんじゃなくて、壊れてしまったものを見つけに行っただけだ。僕は単なる同行者だった。
「だから、行くね。ごめん、本当にごめんね」
彩が流している涙は、本当に僕のことを気遣ってくれているのだ、と納得しておいた。そうしないと今度は、僕の方が泣き出してしまいそうだった。
長い長いキスの後で、彩の姿が見えなくなるまで、目をつぶって耳を塞いだ。しばらくして、耳を塞いでいた手だけをそっと外してみた。地鳴りのような音が、はっきり聞こえる。
このまま死ねるならそれもいいか。なんてニヒルなことは一つも思わなかった。ただ、地鳴りに揺られながら、僕は目をつぶり続けた。悔いがあるのかないのか。そんなことさえもう、どうでも良くなっていた。
最終更新:2009年06月25日 00:51